壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

バッタを倒しに山東へ

 森福都に「黄飛蝗」という小説がある。唐の開元7年(719)、洛陽近郊の芒山で発生した大規模な蝗害に治蝗将軍・魏有裕が立ち向かうさまを描いた短編だが、魏有裕は治蝗軍と呼ばれる軍隊を率い、飼育していた病毒持ちの蝗「黄蝗」を飛蝗の大群に放つことで疫病を感染させ、殲滅をはかるという、いわば生物兵器を駆使して蝗害を鎮めようとする異色の歴史小説である。

 この魏有裕という人物も治蝗将軍という官職もすべて創作なのだが、おそらく森福がモデルにしたと思しき官職は実在していた。

 

 『新唐書』巻一百二十四 姚崇伝

 開元四年、山東大蝗、民祭且拜、坐視食苗不敢捕。崇奏「詩云『秉彼蟊賊、付畀炎火。』漢光武詔曰『勉順時政、勸督農桑。去彼螟蜮、以及蟊賊。』此除蝗誼也。且蝗畏人易驅、又田皆有主、使自救其地、必不憚勤。請夜設火、坎其旁、且焚且瘞、蝗乃可盡。古有討除不勝者、特人不用命耳。」乃出御史為捕蝗使、分道殺蝗。

 「黄飛蝗」の舞台とは異なり、ときは開元4年(716)、場所も河南や河北と幅広い(ここでいう「山東」は山東半島ではなく太行山脈より東の地)。ここに大蝗害が発生したが、当時、蝗害は天が人々を譴責するために下した災異の一種と認識されており、民衆は蝗を捕らえるのではなく、具体的に何を祭っていたかは不明だが、祭祀によってこの災害を解決しようとしていた。

 ときの宰相は「開元の治」を支えた名相として名高い姚崇。彼は具体的な対策として、農地に穴を掘り、夜間その近くで火を熾して蝗を集め、穴に追い落として埋めてしまおうと考えた。「黄蝗」よりずっと地味で現実的な方法である。そこで「捕蝗使」という使職(いわゆる令外の官)を設け、各地を巡る監察官である御史を臨時的にこれに任じて被災地へ派遣したという。

  汴州刺史倪若水上言「除天災者當以德、昔劉聰除蝗不克而害愈甚。」拒御史不應命。崇移書誚之曰「聰偽主、德不勝祅、今祅不勝德。古者良守、蝗避其境、謂脩德可免、彼將無德致然乎。今坐視食苗、忍而不救、因以無年、刺史其謂何?」若水懼、乃縱捕、得蝗十四萬石。

 しかし、捕蝗使による蝗の駆除には、中央・地方を問わず官僚からも反対意見が多く、被災地の一つである汴州の刺史・倪若水は捕蝗使の受け入れを拒み、前趙の劉聰も蝗の駆除をはかったが失敗し、かえって被害が拡大したことをあげて、蝗害は天災なので君主が徳を修めるしか対処方法はないと反対した。これに対して姚崇は「劉聰は正統な天子じゃないから災異に勝てるほど徳がなかったけど、いまは正統な天子の御代だろ? それに徳を修めりゃ蝗が来ないなら、お前んとこに蝗が来るのは何でなんですかねぇ…?」と、あくまでも当時の天人相関説的価値観の文脈に沿いつつ、強烈なブーメランで相手を黙らせる。倪若水もやむなく従うことになり、結果14万石(約1万t)もの蝗を捕らえることができたという。

 

 『旧唐書』巻三十七 五行志 蝗旱の条

 開元四年五月、山東螟蝗害稼、分遣御史捕而埋之。汴州刺史倪若水拒御史、執奏曰「蝗是天災、自宜修德。劉聰時、除既不得、為害滋深。」宰相姚崇牒報之曰「劉聰偽主、德不勝妖。今日聖朝、妖不勝德。古之良守、蝗蟲避境、若言修德可免、彼豈無德致然。今坐看食苗、忍而不救、因此饑饉、將何以安?」卒行埋瘞之法、獲蝗一十四萬、乃投之汴河、流者不可勝數。朝議喧然、上復以問崇、崇對曰「凡事有違經而合道、反道而適權者、彼庸儒不足以知之。縱除之不盡、猶勝養之以成災。」帝曰「殺蟲太多、有傷和氣、公其思之。」崇曰「若救人殺蟲致禍、臣所甘心。」

 また、『旧唐書』五行志によれば、このときの蝗の死骸はただ農地に埋めて終わりではなく、汴河に流して処理したという。「流者不可勝數」という表現からその惨状が察せられる。

 姚崇の剛腕は現代人の目から見れば多少乱暴ながらも合理的だが、当時は中央でも問題視されたらしく、朝議では非難続出、玄宗(『新唐書』姚崇伝では黄門監の虞懐慎)からも「虫を殺しすぎると陰陽の気の調和が乱れるだろ!」と、陰陽の気の調和が乱れることでさらなる災害の発生が危惧されるという、あくまでも天人相関説的文脈の上で叱られるが、これによって禍が下るなら自分が甘受しようと豪胆な返答。当時の人としては相当開明的だったのではないか。

 さて、魏有裕は架空の人物だが、彼のモデルともいうべき、実際に捕蝗使を拝命したのはどのような人物だったのだろうか。

  八月四日、敕河南・河北檢校捕蝗使狄光嗣・康瓘・敬昭道・高昌・賈彥璿等、宜令待蟲盡而刈禾將畢、即入京奏事。

旧唐書』五行志に記されているのは、狄光嗣、康瓘、敬昭道、高昌、賈彥璿ら。彼らの他の活動は管見の限り史料上には見えないが、おそらく当時は御史として捕蝗使を兼任していたのだろう。康瓘はその姓からも判るようにソグド系である。ソグド人の多い河北を巡察するにはソグド系の御史もいた方が都合が良かったのだろうか。

 彼らは蝗の駆除と穀物の刈り入れが終われば長安に戻って報告するよう命じられており、この職掌からも臨時的な任命であることがうかがえる。

 捕蝗使による駆除にどれだけの効果があったかについては、『旧唐書』韓思復伝に詳しい。

 『旧唐書』巻一百一 韓思復伝

 開元初、為諫議大夫。時山東蝗蟲大起、姚崇為中書令、奏遣使分往河南・河北諸道殺蝗蟲而埋之。思復以為蝗蟲是天災、當修德以禳之、恐非人力所能翦滅。上疏曰「臣聞河南・河北蝗蟲、頃日更益繁熾、經歷之處、苗稼都損。今漸翾飛向西、游食至洛、使命來往、不敢昌言、山東數州、甚為惶懼。且天災流行、埋瘞難盡。望陛下悔過責躬、發使宣慰、損不急之務、召至公之人、上下同心,君臣一德、持此誠實、以答休咎。前後驅蝗使等、伏望總停。書云『皇天無親、惟德是輔。人心無親、惟惠是懷。』不可不收攬人心也。」上深然之、出思復疏以付崇。崇乃請遣思復往山東檢蝗蟲所損之處、及還、具以實奏。崇又請令監察御史劉沼重加詳覆、沼希崇旨意、遂箠撻百姓、迴改舊狀以奏之。由是河南數州、竟不得免。思復遂為崇所擠、出為德州刺史、轉絳州刺史。

 捕蝗使を派遣しても河北・河南における被害は一向減らず、穴埋め方法でも駆除しきれなかったようだ。韓思復の上奏も当時の常識人らしく、被災地を見舞い、不要不急の政務をやめて公正な人事を行い、君臣心を一つにして徳を修め、捕蝗使(ここでは「駆蝗使」とされている)をすべて廃止することで民心を安定させようと提案している。捕蝗使の廃止については、穴埋め方法を続ける限り農地を掘り返すことになるので、作物に影響が出ることを民衆は嫌ったのだろう。先の倪若水が彼らの受け入れ拒否をしていたのも、単純に天人相関説に基づいた対策をすべきと考えていただけでなく、汴州の農民を思ってのことと考えるべきだろうか。

 韓思復の献言は容れられ、望みどおり彼自身が被災地に赴き、被災状況を朝廷に報告するが、この後に姚崇の意向を受け、捕蝗使を兼任した御史たちの上司である監察御史の劉沼が重ねて巡察することになる。巡察先ではおそらく穴埋め方法の成果を得られなかったのだろう、姚崇に都合の悪い現状を握りつぶすべく、民衆を鞭打ってまでして成果があったかのような偽りの上奏をしている。このため、河南の数州では蝗害を受けたうえに農地を掘り返され、しかも朝廷に被害が甚大ではないと誤認されて租税の減免対象からも外されるという散々な目に遭っている。この件で姚崇ににらまれた韓思復も徳州刺史へ左遷されており、これらの捕蝗使にまつわる一連のエピソードは、名宰相・姚崇と開元の治という輝かしい光の陰を浮き彫りにしているようだ。

 

「黄飛蝗」の登場人物たちはあくまでも僕たちにも受け入れやすい現代的・科学的な価値観で描かれている。しかし、史実は小説ほど表面的な「奇」はないが、現代人の目からは小説よりよほど「奇」な価値観にあふれていて面白い。魏有裕にとっての蝗害との戦いは、姚崇にとっては旧弊との戦いだったと評したくなるのは、きっと僕が現代的な価値観に縛られているからだろう。

トリックでもないトリートでもない旅立たない

 週末、札幌はcube gardenにてイースタンユースのライブを観た。

 新ベーシストの村岡ゆかを迎えての札幌初ライブ。泥臭い、いぶし銀のカッコよさはそのままに、村岡さんのコーラスにより彩りが加わった新生イースタン。相変わらず身体中の血液が沸騰するくらいエモーショナルなパフォーマンスと吉野さんの絶唱に痺れっぱなしの2時間だった。

 カッコいいライブの後の酒がまずいわけがない。連れとすすきので飲み、さあ2軒目はどうしよう? ポールダンスが見れるバー、バニーガールのいるバーもいいけど、いまはハロウィン時期ということで、前から気になっていた店へ行くことにした。

 

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怪談ライブBARスリラーナイト

 

 1時間に一度、専属の語り手がオリジナル怪談を披露してくれるという怪談バーだ。

 僕たちが着いたときはちょうど前の怪談ライブの真っ最中で入場規制されていたが、待っているあいだに店内からは絶叫が。何が起きてるんだよ…。

 怪談が終わり、店内へ通される。入口からしてアレだったが、内装もしっかり雰囲気づくりがされている。

 

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怪談ライブバーで僕と握手!

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 この手の珍スポはよく行くけど、バーははじめてかも。似た業態でいえば東広島のお化け屋敷カフェ伴天連をマイルドにした感じだろうか。

 

 さて、基本メニューは飲み放題だが、僕が気になったのは別途料金が発生するゲテモノ系。

 

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ショットグラスの底に何か沈んでる…!

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ウジ虫ショット

 

 いやーきついっすといいたくなる見た目だが、ウジ虫は当然ニセモノ。ベイリーズでつくっているらしい。

 店員さんからは「罰ゲーム用だからマズいですよ」と脅かされたが、一息に飲み干す。ニセモノウジ虫はたしかに甘ったるいが、見た目が強烈なだけで普通のテキーラのようだった。このときすでにだいぶ酔っていたので、味覚には自信ないけど。

「全然大丈夫ですよ!」と余裕を見せると、「ゲテモノいけるんですか? じゃあ、お客さんからもらったお土産があるんで…」と店員さんが奥から何かを持ってくる。

 

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いやいや、本物持ってくるんじゃないよ!

 

 いきなりハードル上がりすぎだろ…。

 

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写真ブレまくり

 

 長野のお土産らしいけど、そもそもこれ何のさなぎなんだよ…。

 
  しかし据え膳食わぬは男の恥、せっかく出されたので一匹食べてみる。

 うーん。独特の臭みがあるけど、佃煮っぽい醤油味で意外とイケる。ご飯にのせてもいいかもしれない…。

 

 ほかにも目玉が沈んだテキーラショット「目キーラ」も飲んだけど、こちらも罰ゲーム用といわれるほど酷い味ではない。目玉は何でできているか訊かなかったけど、寒天のような食感だった。まあ、さなぎの後なら大抵のものはインパクトうすいよね…。

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痛そう。

 

 今回は 頼まなかったけど、脳みそを象った「脳ミソ杏仁豆腐」なるメニューもあるようで、次回はぜひ試してみたい。

 

 また、この日はハロウィン期間だったので、特殊メイクの体験イベントを開催しており、せっかくなので僕もゾンビメイクをしてもらうことに。

 メイクさんから「骨格がしっかりしているからゾンビ映えするね」「今日一ハデ!」とお褒め(?)のことばをいただきながらの施術。

 

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インスタ映えよりゾンビ映え!

  USJのハロウィン期間にも簡易ゾンビメイクをしてもらったことがあるけど、こちらの方がダメージの盛り上がり方めくれ方がリアル…!

 メイクさんがいうにはダメージはシリコン製だから肌に優しいそうで、みんな安心してゾンビになれるね。

 

 さて、怪談ライブバーのメインともいうべき怪談ライブ、僕たちが聴いた回は小林エレキさんという若い方が語り手。内容には触れないけれど、語りに臨場感があってしっかり怖い。しかも店内に仕掛けがあったせいで、僕と連れの一人は思わず声をあげてしまった…。

 このお店、リピーター客からは入店時に以前何の話を聞いたかアンケートをとって、かぶらない話をライブにかけるらしい。それだけ語り手の皆さんの引き出しが多いということだろうけど、東京ならいざ知らず、札幌という一地方都市にそういう才能が集結し、ライブバーとして6年も続いているという事実がすごい。ぜひライブハウスのようにひとつのカルチャーの発信地として末永く続いてほしいし、ここから音楽シーンのように怪談シーンが形成されたら面白いと思う。僕もまた遊びに行こう。

  

 店を出てラーメン横丁で締めのラーメンを食べていると、おしゃべりな店のおばちゃんに「あんた、いい顔してるよ。なかなかいないよ、こんな顔」と褒められた。

 そりゃいっぱいいたら困るよ! 

奥さん、アリジゴクですよ。

『北夢瑣言』逸文巻第四「砂俘」

 陳藏器本草云「砂俘、又云倒行拘子、蜀人號曰俘鬱。旋乾土為孔、常睡不動。取致枕中、令夫妻相悦。」愚有親表曽曽得此物、未嘗試験。愚始游成都、止於逆旅、與賣草藥李山人相熟、見蜀城少年往往欣然而訪李生、仍以善價酬。因詰之、曰「媚薬。」徴其所用、乃砂俘。與陳氏所説、信不虚語。李生亦祕其所傳之法、人不可得也。

 陳藏器の『本草』がいうところには「砂俘(アリジゴク)は又の名を倒行拘子といい、蜀の人は俘鬱と呼ぶ。乾いた土に潜って巣穴をつくり、常に眠って動かない。これを取って枕に入れれば、夫婦の悦びいや増すばかり」という。孫光憲の親戚にもこれを手に入れた者がいたが、試したことはないという。孫光憲がはじめて成都へ遊んだとき、宿屋で薬草売りの李山人という者と親しくなったが、いつもまちの若者たちがうきうきと彼を訪っては高値で何かを買っていく。何を売っているのか尋ねてみれば「媚薬」とのこと。どんな媚薬かといえばアリジゴクを用いているそうだ。陳藏器の説くところもまんざら嘘ではないらしく、李山人も媚薬の製法を秘密にしているため、余人はうかがい知れぬのだ。

 

 この説話を読んではじめて知ったけど、アリジゴクのことを孫光憲が生きた五代(「愚始游成都」は孫光憲の仕官前のことと考えられるので、おそらく唐末の話だろう)の人々は「砂俘」、すなわちスナのトリコと呼んでいたんですね。すごく的確なネーミング。

 唐末の成都にはアリジゴクの媚薬を売るうさんくさい行商がおり、それを喜んで買う若者も大勢いたという一幕ですね。

 しかしアリジゴクを枕のなかに入れるだけで催淫効果があるって、どんなメカニズムなんだ…。

老婆忍法帖

 岡山駅前の繁華街、嬌声あふれる夜の街に、ひときわ異彩を放つ一角があった。

 どぎついネオン輝くそこは、

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「サロン・ド・くの一 忍者屋敷」

 

 もっと忍べよ!

  はじめて見たときから異常に惹かれるものがあったこの店、グーグル先生に確認したところ、どうやらピンサロらしい。

 

 ―最初の30分は2千円で飲み放題。追加料金8千円を支払うと奥でピンサロ利用ができる。

 ―最初は老婆が飲みの相手をして、ピンサロ利用時はそれよりは比較的若い嬢に交代するため、客は相手が若い子と錯覚してしまう。これを名付けて「忍法若返りの術」という。

 ―キャストは全員服部姓である。

 

 等々、まことしやかな情報から明らかなガセネタまで飛び交っており、数年前の風俗レビューはあるものの、現在は噂が噂を呼ぶだけで、誰もその実態を知らない魔境のようである。珍スポのにおいがぷんぷんする。

 まあ店の外観からして地雷臭も芬々たるものだが、餓狼伝説』の不知火舞が性の芽生えのひとつである僕は、くノ一というシチュエーション自体は嫌いでない。というかむしろ好きだ。2千円のガチャでSSRを引く可能性だってあるじゃないかと、不安9割期待1割の僕は足を踏み出した。 2千円をドブに捨てるつもりで。

 入り口では腰の低いお父さんが呼び込みをしており、目があった僕をどうぞどうぞと2階まで案内してくれた。

「みんなくノ一なんですか?」と訊くと「いやあ、まあ、一応…」と歯切れの悪い回答。

 通された店内は薄暗く、複数のボックス席に分かれており、先客はいないようだ。

 内装は破れ傘や提灯が壁にかけられた和風テイストだが、仕切り用なのか所々でレースのカーテンがボックスにかけられている。天井にはミラーボールが鈍く輝き、流れるBGMは演歌というアンバランス感。北海道民にしか伝わらないかもしれないが、カラオケチェーンの歌屋の内装に近い。

 

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 30分飲み放題ということで、前金で2千円を支払い、ウーロンハイを注文。

 しばらく待つと「こんばんはぁ」とウーロンハイを手に嬢がやってきた。

 くノ一のお出ましである。

 歳のころは40代前半だろうか、茶髪セミロングでぽっちゃり体形。優秀なくノ一の条件のひとつなのだろう、可もなく不可もない平凡な顔立ちで、人ごみに紛れたら判別できないかもしれない。

  しかし、年増だとかぽっちゃりだとかは想定の範囲内なので意に介さないが、衣装がごくごく普通の薄手のドレスであることに、僕はひどく落胆した。

「あ、くノ一じゃないんですね…」

「やっぱりそういうの期待してました?こんな名前の店だけど、普通なんですよ。皆さんそうやって期待するみたいで…。昔はコスプレしてたみたいですけどね」

 ごめんなさいねぇ、ともはや顔も思い出せないくノ一は苦笑した。

「この店、けっこう長いんですか?」

「長いですよ。40年くらい続いてるみたいです」

 40年!老舗だ。

 平日とはいえ夜の9時、客は僕ひとり。こんな客入りで40年も続いているのか…。

 もう少し店のことが知りたくて、内装や昔の忍者コスプレの話を振ったり、店内の写真を撮らせてもらったりしていたが、話を盛り上げようとする気はないらしく、尻切れトンボ気味。やがて、しびれを切らしたようにくノ一が「お兄さん、ここ何のお店かわかります?」と訊いてきた。

「ピンサロですか?」

「そう、とりあえず30分2千円で飲み放題だけど、気に入った女の子がいたら数千円の追加で、奥でプレイできますよ」と、腕をしこしこ上下させながらシステムを説明するくノ一。

 うーん、どうしようかなあと口先だけで迷ったふりをする僕に、その気がないのを看破したのか、「ほかにも女の子いるから見てみますか?」と気を利かせてくれた。

 正直、嬢がくノ一コスプレをしていない時点でだいぶ興味が失せており、もう帰ってもよかったのだが、ヘタに里を抜けると追手がかかるかもしれない。それに噂どおりならば、次は若い子が出てくる忍法若返りの術のはず。ならば選択肢はひとつ、というわけでチェンジすることに。

 若くて可愛いくノ一ならば、その忍術に身を委ねるのも悪くない、と思いながら薄いウーロンハイをちびちび舐めていると、第2の刺客がやってきた。

 最初のくノ一とおなじく薄手のドレスを身にまとった彼女は、

 

 

 あきらかに還暦を過ぎていた。

 

 

「こんばんはぁ、お兄さん、あたしビール飲んでもいい?」

「うん、どうぞ…」

 

 いやいやいやいや、おかしくない?

 ここから忍法若返りの術じゃなかったの?

 薄い髪、小学生が勢い任せに彫刻刀で刻んだような口もとの深い皴、鋭角的な鼻梁、そこだけは40年前はなかなか可愛かったであろうと思わせる、切れ長の大きな目。

 バジリスクでいうとお幻である(ただし、髪は白髪染めと思われる)。

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 早速運ばれてきたビールグラスをウーロンハイのグラスにカチリと合わせ、お幻は僕の股間に手を伸ばす。さわさわさわさわとズボンの上から股間をまさぐりながら、「お兄さん初めてみたいだから、追加料金4千円でいいよ」と切り出す。なんて仕事の早さだ。

「うーん、ここ来る前にけっこう飲んじゃったから、役に立たないかもしれませんねえ」

 のらりくらりと返事をしながら、僕はどうやってこの場からドロンしようかと思い巡らせる。

「大丈夫、飲んでも勃つ人いっぱいいるよ」

「いやあ僕はどうもダメなんですよねえ」

「でも4千円だよ。4千円でサービス受けられるところなんてほかにないよ」

 身体を密着させ、股間をまさぐりながら「4千円」とお幻がささやくたびに歯磨き粉のミントが鼻をくすぐる。

「お兄さん、あたし呑み助だから延長してほしいなぁ。そしたらビールいっぱい飲めるし。ビール飲みたいなぁ」

 お刺身食べたいなァみたいに言うなよ、と思いながらも、このいかにもベテランの上忍のような貫禄あるお幻さんなら、昔のコスプレの話などもしてくれるのではと話を振ってみるが、反応は捗々しくない。

 

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 一人目のくノ一もそうだったが、彼女たちは おそらく何本抜くか(実際に抜けなくても指名が入るか)でギャラが決まるのだろう、とにかくムダに会話を盛り上げようとはせず、即座にプレイに移行しようとする、そのムダのないストイックな仕事ぶりはまさに忍者である。これ以上僕が店の過去や成り立ちについて訊こうとすれば舌を噛んで死ぬのではないかとさえ思える。

(お幻さん、あんた、あんた本物のくノ一や…!)

 目頭に熱いものを感じながら、僕は彼女に訊いた。

「じゃあ、この辺で呑み助なお姉さんのおすすめの店ありますか?」

「え?隣のビルの店なんかいいんじゃない?九州の魚食べられるよ」

「いいですね!じゃあちょっとそこ行ってみます!ごちそうさまでした!」

「え?」

 ウーロンハイを飲みほした僕はわき目も降らずに店を出た。

 結局一度も抜かなかった僕が抜け忍になるとは。忍の世界は皮肉なものだな、と独り言ちて、僕はホテルへの帰路をたどったのであった。

五人の伍子胥

 呉王夫差から死を賜り、亡骸を馬の革袋に入れて長江に流されるという無念の最期をとげた伍子胥は、死後、胥山に祀られたが、長江のたたり神として後年も恐れられていたらしい。

 

後漢書』巻44 鄧張徐張胡列伝第34 張禹の条

 建初中、拜楊州刺史。當過江行部、中土人皆以江有伍子胥之神、難於濟涉。禹將度、吏固請不聽。禹厲言曰「子胥如有靈、知吾志在理察枉訟、豈危我哉?」遂鼓楫而過。

 後漢の張禹は揚州刺史として赴任する際、中原の人びとに伍子胥の神がいるから長江は渡れないと止められ、

 

『隋書』巻55 高勱伝

 後拜楚州刺史、民安之。先是、城北有伍子胥廟、其俗敬鬼、祈禱者必以牛酒、至破產業。勱歎曰「子胥賢者,豈宜損百姓乎?」乃告諭所部、自此遂止、百姓賴之。

 隋の高勱は任地の楚州で、牛酒をもって鬼神を祀る伍子胥廟の祭祀をやめさせている。

 

旧唐書』巻89 狄仁傑伝

 吳・楚之俗多淫祠、仁傑奏毀一千七百所、唯留夏禹・吳太伯・季札・伍員四祠。

旧唐書』巻156 于頔伝

 吳俗事鬼、頔疾其淫祀廢生業、神宇皆撤去、唯吳太伯・伍員等三數廟存焉。

 しかし唐代に至っても伍子胥信仰の熱は冷めやらず、中原から見ると淫祀邪教の巣窟のように見られていた江南では、狄仁傑や于頔による弾圧を免れ、呉太伯信仰などと並んで存続を許される部類ではあったようだ。

 

『宋史』巻298 馬亮伝

 歷知虔洪二州・江陵府、再遷尚書工部侍郎、復知昇州、徙杭州、加集賢院學士。先是、江濤大溢、調兵築堤而工未就、詔問所以捍江之策。亮褏詔禱伍員祠下、明日、潮為之却、出橫沙數里、隄遂成。

 伍子胥信仰は宋代にも続いており、杭州での築堤工事の際に、知杭州の馬亮は伍員祠に祈ることで銭塘江の氾濫を鎮めている。

 

 そんな中原にも広く知られる長江の(さらに宋代には銭塘江にも波及していた)たたり神として、長きにわたり影響力をふるっていた伍子胥だが、唐五代時期の江陵のとある村では、信仰の形態が変容していたらしい。

 

『北夢瑣言』逸文補遺「五髭鬚」

 江陵有村民事伍子胥神、誤呼「五髭鬚」。乃畫五丈夫、皆鬍腮、祝呼之祭云「一髭鬚」、「二髭鬚」、「五髭鬚」。

 伍子胥神を誤って「五髭鬚」と呼び、5人のアゴヒゲ男を描いて祀り、「一ヒゲ」「二ヒゲ」「五ヒゲ」などとカウントしていたとのこと。

 当時の発音は解らないが、現代中国語では伍子胥(wu zi xu)と五髭鬚(wu zi xu)であり、おそらく「伍子胥」の名が「五髭鬚(五人のヒゲおやじ)」として訛伝したものだろう。いかにも田舎らしい素朴な信仰だが、怒んないんですかね伍子胥…。

 

 


髭 - ロックンロールと5人の囚人【MUSIC VIDEO(Short Ver)】

 

龍の敗者

『北夢瑣言逸文』巻4「闘龍」

 石晋時、常山帥安重栄将謀干紀、其管界与刑台連接、闘殺一龍。郷豪有曹寛者見之、取其双角、前有一物如簾、文如乱錦、人莫知之。曹寛経年為寇所殺。壬寅年、討鎮州、誅安重栄也。葆光子読北史、見陸法和在梁時、将兵拒侯景将任約於江上、曰「彼龍睡不動、吾軍之龍甚自踴躍。」遂撃之大敗、而擒任約。是則軍陣之上、龍必先闘。常山龍死、得非王師大捷、重栄授首乎。黄巣敗於陳州、李克用脱梁王之難、皆大雨震雷之助。

 後晋の鎮州節度使であった安重栄が謀叛をたくらんでいたとき、領内で一匹の龍を殺した。曹寛という土地の有力者がその角を拾ったところ、簾のようなものが垂れ下がり、錦のような文様があったが誰もこれが何か知らなかったという。曹寛は翌年、賊に殺され、安重栄も壬寅の年(天福7〔西暦942〕年)に後晋軍に討たれてしまった。『北史』の陸法和伝には、陸法和が梁に仕えていたとき、侯景の部将任約と長江で対峙し、「かの龍は眠って動かず、わが軍の龍は自ずから勇躍す」と語り、ついに敵を大いに破り、任約を捕らえたとある。つまり軍陣の上では、龍同士が先に闘い、決着がつくということで、鎮州の龍が死んだいま、王師が大勝し、安重栄の首がもたらされるのは当然のことであろう。黄巣が陳州で敗れたときや、李克用が上源駅で朱全忠の暗殺から逃れたときも、豪雨と落雷の助け―つまり龍の助けがあったのだ。

 

 孫光憲(葆光子)が引くところの『北史』陸法和伝の該当箇所は次のとおり。

『北史』巻89「芸術伝上・陸法和条」

 至赤沙湖、与約相対、法和乗軽船、不介冑、沿流而下、去約軍一里乃還。謂将士曰「聊観彼龍睡不動、吾軍之龍、甚自踊躍、即攻之。若得待明日、当不損客主一人而破賊、然有悪処。」遂縱火船、而逆風不便、法和執白羽扇麾風、風即返。約衆皆見梁兵步於水上、於是大潰、皆投水。

 陸法和とは梁から北斉に仕えた人物で、「諸蛮弟子八百人」を率いる宗教的軍事集団の長であったようだ。自らを「居士」「求仏之人」と称し、沙門の体裁だったというから仏僧のようだが、死後は尸解し、予知能力や風向きを変えるなど「奇術」を得意とする、道仏混合の妖人である。僕はこの「闘龍」の記事ではじめて知ったのだけれど、かなり面白そうな人物なので、改めて彼の伝も読んでみたい。

 さて、そんな妖人陸法和は彼我の龍を観ることで勝敗を読んだようだが、これが彼の「奇術」なのか、自らの弟子たる将士への叱咤激励なのかは解らない。ただ、劉邦の蛇退治の説話もあるように、龍は個人や集団の興廃を象徴するシンボルとして、少なくとも孫光憲の生きた五代宋初までは認識されていたらしい。自ら龍を手にかけた安重栄は自滅の道を進んだということか。

『北夢瑣言』では安重栄のような豪傑から子どもまで、色々な人の龍殺しエピソードがあるが、武将にはみな龍の相棒がおり、その強弱や生死によって武将本人の勝敗も左右されるという、少年マンガのような「闘龍」の世界観が個人的には一番面白い。

唐五代のラクダ部隊とソグド系武人

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高校時代、中国へ旅行に行ったとき、万里の長城で観光客向けの記念撮影用のラクダを見かけて度肝を抜かれた憶えがある。動物園のような柵のなかではなく、飼い主と思しき人間の傍らにしれっとたたずんでいたこともさりながら、当時の僕は、ラクダという生き物は砂漠に住んでいるものだとばかり思っていたのだ。

しかし史書を繙いていると、「駱駝」「駞」「槖陀」などと表記されるラクダは、漠北や西域のみならず、いわゆる中原と呼ばれるような中華世界の中心部まで幅広く顔をのぞかせていることに気づく。

とくに漠北西域へ勢力を伸長し、シルクロード交易も隆盛を極めた唐代では、遊牧民や西域諸国からの朝貢品、あるいは戦争による鹵獲物としてのラクダが史料上に散見するだけでなく、宮中で乗馬等を管理する閑廄使には馬のほかにラクダや象までいたというし、オルドスに設置された監牧でもラクダを飼養していたことがうかがえる。

何よりラクダは唐三彩など陶器のモチーフとして代表的であり、博物館では彼らを牽くソグド人とのセットで、現代日本人にもおなじみだ。ソグド人は唐代にはシルクロードや国際都市・長安から、揚州など江淮までネットワークを広げていたと考えられており、おそらく「ラクダを牽くソグド商人」の姿は、唐代では日常にすっかり溶け込んでいたのではないだろうか。

 

さて、運搬力に優れるラクダは、軍事の場面では輜重隊としての利用が見込まれる。

ソグド商人にとってラクダが良き相棒だったように、唐五代に活躍したソグド系武人にも、ラクダと密接な関わりを持つ者が存在する。

旧唐書』巻200上 史思明伝

自祿山陷兩京、常以駱駝運兩京御府珍寶於范陽、不知紀極。

洛陽・長安を陥した安禄山は宮中の財宝をラクダに載せて、本拠地である范陽まで運んだという。ソグド系突厥である安禄山はソグドネットワークを利用していたことがつとに指摘されているが、彼のロジスティクスを支えていたのも、こうしたネットワークとキャラバン隊だったのだろう。

 

また、ラクダが輜重隊以外の活躍を見せた例として、後周世宗による南唐攻略があげられる。 

『旧五代史』巻117 周書8 世宗本紀4 顕徳4年11月条

丙戌、車駕至濠州城下。戊子、親破十八里灘。砦在濠州東北淮水之中、四面阻水、上令甲士數百人跨以濟。今上以騎軍浮水而渡、遂破其砦、擄其戰艦而迴。

濠州城攻略の際、後周軍は重装兵をラクダに載せて淮水を渡らせていたが、そのラクダ部隊を率いていたのが「康保裔」という世宗の側近の武人である。

資治通鑑』巻293 後周紀4 顕徳4年11月条 

戊子、帝自攻之、命內殿直康保裔帥甲士數百、乘橐駝涉水、太祖皇帝帥騎兵繼之、遂拔之。

「康」というソグド姓を冠していることから、彼がソグド系であることは間違いなく、やはりラクダの扱いに長けていたのだろうか。康保裔率いる重装ラクダ騎兵は趙匡胤率いる騎兵部隊の前衛として先陣を切っている。主力騎兵の渡河をサポートするために重装備の兵士を先行させたものと考えられるが、彼らを渡河させるには馬より運搬力に優れるラクダが望ましく、ラクダの扱いに長けていたソグド系の康保裔が指揮官として抜擢されたのだろう。

 

上記のほかにラクダと関わりを持っていたソグド系武人としては、唐代の魏博節度使に仕えていた米文辯もあげられる。

『唐・魏博節度歩軍左廂都知兵馬使米文辯墓誌銘』*1

署左親事・馬歩廂虞候・兼節度押衙、又管在府西坊征馬及駞坊騾坊事。

「米」というソグド姓を冠する米文辯は、安史軍残党が創設し、複数のソグド系節度使が君臨した魏博に仕えており、一時期魏博の中核に存在したと思しきソグド系武人集団の一員と考えられる。おそらく「馬歩廂虞候」の職責かと思われるが、会府である魏州の西坊において馬軍の戦馬と、駞坊のラクダ、騾坊のラバを管理していたのだろう。

米文辯が管理していたラクダが戦闘用として利用されたのか、または輜重隊として利用されたのかは不明だが、唐末の魏博節度使は河南の後梁と山西の沙陀集団の間に挟まれ、当初、後梁に従属していた。

資治通鑑』巻265 唐紀81 天祐3年条

全忠留魏半歲、羅紹威供億、所殺牛羊豕近七十萬、資糧稱是、所賂遣又近百萬、此去、蓄積為之一空。

九月、辛亥朔、朱全忠自白馬渡河、丁卯、至滄州、軍於長蘆、滄人不出。羅紹威饋運、自魏至長蘆五百里、不絕於路。又建元帥府舍於魏、所過驛亭供酒饌・幄幕・什器、上下數十萬人、無一不備。

当時の節度使羅紹威は河朔に展開していた後梁軍の輜重を担っており、数十万の将兵に不足を感じさせなかったといわれるほど大量の食料物資を供給している。

この羅紹威の驚異的なロジスティクスを支えていたのが、「駞坊」のラクダであり、米文辯のようなラクダの扱いに長けたソグド系武人だったのではないだろうか。

後年、魏博節度使は沙陀集団に寝返り、その精鋭部隊である銀槍効節都を取り込んだことが後梁打倒に大きく資したといわれているが、河朔における沙陀の活動を輜重面から支えたことも、勝因のひとつとなったのかもしれない。

ラクダとソグドが歴史を転回させたのではと想像すると、月の沙漠を闊歩するのとはまた別のロマンが感じられる。

*1:釈文は森部豊『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史的展開』資料5より引用。