壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。

五人の伍子胥

 呉王夫差から死を賜り、亡骸を馬の革袋に入れて長江に流されるという無念の最期をとげた伍子胥は、死後、胥山に祀られたが、長江のたたり神として後年も恐れられていたらしい。

 

後漢書』巻44 鄧張徐張胡列伝第34 張禹の条

 建初中、拜楊州刺史。當過江行部、中土人皆以江有伍子胥之神、難於濟涉。禹將度、吏固請不聽。禹厲言曰「子胥如有靈、知吾志在理察枉訟、豈危我哉?」遂鼓楫而過。

 後漢の張禹は揚州刺史として赴任する際、中原の人びとに伍子胥の神がいるから長江は渡れないと止められ、

 

『隋書』巻55 高勱伝

 後拜楚州刺史、民安之。先是、城北有伍子胥廟、其俗敬鬼、祈禱者必以牛酒、至破產業。勱歎曰「子胥賢者,豈宜損百姓乎?」乃告諭所部、自此遂止、百姓賴之。

 隋の高勱は任地の楚州で、牛酒をもって鬼神を祀る伍子胥廟の祭祀をやめさせている。

 

旧唐書』巻89 狄仁傑伝

 吳・楚之俗多淫祠、仁傑奏毀一千七百所、唯留夏禹・吳太伯・季札・伍員四祠。

旧唐書』巻156 于頔伝

 吳俗事鬼、頔疾其淫祀廢生業、神宇皆撤去、唯吳太伯・伍員等三數廟存焉。

 しかし唐代に至っても伍子胥信仰の熱は冷めやらず、中原から見ると淫祀邪教の巣窟のように見られていた江南では、狄仁傑や于頔による弾圧を免れ、呉太伯信仰などと並んで存続を許される部類ではあったようだ。

 

『宋史』巻298 馬亮伝

 歷知虔洪二州・江陵府、再遷尚書工部侍郎、復知昇州、徙杭州、加集賢院學士。先是、江濤大溢、調兵築堤而工未就、詔問所以捍江之策。亮褏詔禱伍員祠下、明日、潮為之却、出橫沙數里、隄遂成。

 伍子胥信仰は宋代にも続いており、杭州での築堤工事の際に、知杭州の馬亮は伍員祠に祈ることで銭塘江の氾濫を鎮めている。

 

 そんな中原にも広く知られる長江の(さらに宋代には銭塘江にも波及していた)たたり神として、長きにわたり影響力をふるっていた伍子胥だが、唐五代時期の江陵のとある村では、信仰の形態が変容していたらしい。

 

『北夢瑣言』逸文補遺「五髭鬚」

 江陵有村民事伍子胥神、誤呼「五髭鬚」。乃畫五丈夫、皆鬍腮、祝呼之祭云「一髭鬚」、「二髭鬚」、「五髭鬚」。

 伍子胥神を誤って「五髭鬚」と呼び、5人のアゴヒゲ男を描いて祀り、「一ヒゲ」「二ヒゲ」「五ヒゲ」などとカウントしていたとのこと。

 当時の発音は解らないが、現代中国語では伍子胥(wu zi xu)と五髭鬚(wu zi xu)であり、おそらく「伍子胥」の名が「五髭鬚(五人のヒゲおやじ)」として訛伝したものだろう。いかにも田舎らしい素朴な信仰だが、怒んないんですかね伍子胥…。

 

 


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龍の敗者

『北夢瑣言逸文』巻4「闘龍」

 石晋時、常山帥安重栄将謀干紀、其管界与刑台連接、闘殺一龍。郷豪有曹寛者見之、取其双角、前有一物如簾、文如乱錦、人莫知之。曹寛経年為寇所殺。壬寅年、討鎮州、誅安重栄也。葆光子読北史、見陸法和在梁時、将兵拒侯景将任約於江上、曰「彼龍睡不動、吾軍之龍甚自踴躍。」遂撃之大敗、而擒任約。是則軍陣之上、龍必先闘。常山龍死、得非王師大捷、重栄授首乎。黄巣敗於陳州、李克用脱梁王之難、皆大雨震雷之助。

 後晋の鎮州節度使であった安重栄が謀叛をたくらんでいたとき、領内で一匹の龍を殺した。曹寛という土地の有力者がその角を拾ったところ、簾のようなものが垂れ下がり、錦のような文様があったが誰もこれが何か知らなかったという。曹寛は翌年、賊に殺され、安重栄も壬寅の年(天福7〔西暦942〕年)に後晋軍に討たれてしまった。『北史』の陸法和伝には、陸法和が梁に仕えていたとき、侯景の部将任約と長江で対峙し、「かの龍は眠って動かず、わが軍の龍は自ずから勇躍す」と語り、ついに敵を大いに破り、任約を捕らえたとある。つまり軍陣の上では、龍同士が先に闘い、決着がつくということで、鎮州の龍が死んだいま、王師が大勝し、安重栄の首がもたらされるのは当然のことであろう。黄巣が陳州で敗れたときや、李克用が上源駅で朱全忠の暗殺から逃れたときも、豪雨と落雷の助け―つまり龍の助けがあったのだ。

 

 孫光憲(葆光子)が引くところの『北史』陸法和伝の該当箇所は次のとおり。

『北史』巻89「芸術伝上・陸法和条」

 至赤沙湖、与約相対、法和乗軽船、不介冑、沿流而下、去約軍一里乃還。謂将士曰「聊観彼龍睡不動、吾軍之龍、甚自踊躍、即攻之。若得待明日、当不損客主一人而破賊、然有悪処。」遂縱火船、而逆風不便、法和執白羽扇麾風、風即返。約衆皆見梁兵步於水上、於是大潰、皆投水。

 陸法和とは梁から北斉に仕えた人物で、「諸蛮弟子八百人」を率いる宗教的軍事集団の長であったようだ。自らを「居士」「求仏之人」と称し、沙門の体裁だったというから仏僧のようだが、死後は尸解し、予知能力や風向きを変えるなど「奇術」を得意とする、道仏混合の妖人である。僕はこの「闘龍」の記事ではじめて知ったのだけれど、かなり面白そうな人物なので、改めて彼の伝も読んでみたい。

 さて、そんな妖人陸法和は彼我の龍を観ることで勝敗を読んだようだが、これが彼の「奇術」なのか、自らの弟子たる将士への叱咤激励なのかは解らない。ただ、劉邦の蛇退治の説話もあるように、龍は個人や集団の興廃を象徴するシンボルとして、少なくとも孫光憲の生きた五代宋初までは認識されていたらしい。自ら龍を手にかけた安重栄は自滅の道を進んだということか。

『北夢瑣言』では安重栄のような豪傑から子どもまで、色々な人の龍殺しエピソードがあるが、武将にはみな龍の相棒がおり、その強弱や生死によって武将本人の勝敗も左右されるという、少年マンガのような「闘龍」の世界観が個人的には一番面白い。

唐五代のラクダ部隊とソグド系武人

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高校時代、中国へ旅行に行ったとき、万里の長城で観光客向けの記念撮影用のラクダを見かけて度肝を抜かれた憶えがある。動物園のような柵のなかではなく、飼い主と思しき人間の傍らにしれっとたたずんでいたこともさりながら、当時の僕は、ラクダという生き物は砂漠に住んでいるものだとばかり思っていたのだ。

しかし史書を繙いていると、「駱駝」「駞」「槖陀」などと表記されるラクダは、漠北や西域のみならず、いわゆる中原と呼ばれるような中華世界の中心部まで幅広く顔をのぞかせていることに気づく。

とくに漠北西域へ勢力を伸長し、シルクロード交易も隆盛を極めた唐代では、遊牧民や西域諸国からの朝貢品、あるいは戦争による鹵獲物としてのラクダが史料上に散見するだけでなく、宮中で乗馬等を管理する閑廄使には馬のほかにラクダや象までいたというし、オルドスに設置された監牧でもラクダを飼養していたことがうかがえる。

何よりラクダは唐三彩など陶器のモチーフとして代表的であり、博物館では彼らを牽くソグド人とのセットで、現代日本人にもおなじみだ。ソグド人は唐代にはシルクロードや国際都市・長安から、揚州など江淮までネットワークを広げていたと考えられており、おそらく「ラクダを牽くソグド商人」の姿は、唐代では日常にすっかり溶け込んでいたのではないだろうか。

 

さて、運搬力に優れるラクダは、軍事の場面では輜重隊としての利用が見込まれる。

ソグド商人にとってラクダが良き相棒だったように、唐五代に活躍したソグド系武人にも、ラクダと密接な関わりを持つ者が存在する。

旧唐書』巻200上 史思明伝

自祿山陷兩京、常以駱駝運兩京御府珍寶於范陽、不知紀極。

洛陽・長安を陥した安禄山は宮中の財宝をラクダに載せて、本拠地である范陽まで運んだという。ソグド系突厥である安禄山はソグドネットワークを利用していたことがつとに指摘されているが、彼のロジスティクスを支えていたのも、こうしたネットワークとキャラバン隊だったのだろう。

 

また、ラクダが輜重隊以外の活躍を見せた例として、後周世宗による南唐攻略があげられる。 

『旧五代史』巻117 周書8 世宗本紀4 顕徳4年11月条

丙戌、車駕至濠州城下。戊子、親破十八里灘。砦在濠州東北淮水之中、四面阻水、上令甲士數百人跨以濟。今上以騎軍浮水而渡、遂破其砦、擄其戰艦而迴。

濠州城攻略の際、後周軍は重装兵をラクダに載せて淮水を渡らせていたが、そのラクダ部隊を率いていたのが「康保裔」という世宗の側近の武人である。

資治通鑑』巻293 後周紀4 顕徳4年11月条 

戊子、帝自攻之、命內殿直康保裔帥甲士數百、乘橐駝涉水、太祖皇帝帥騎兵繼之、遂拔之。

「康」というソグド姓を冠していることから、彼がソグド系であることは間違いなく、やはりラクダの扱いに長けていたのだろうか。康保裔率いる重装ラクダ騎兵は趙匡胤率いる騎兵部隊の前衛として先陣を切っている。主力騎兵の渡河をサポートするために重装備の兵士を先行させたものと考えられるが、彼らを渡河させるには馬より運搬力に優れるラクダが望ましく、ラクダの扱いに長けていたソグド系の康保裔が指揮官として抜擢されたのだろう。

 

上記のほかにラクダと関わりを持っていたソグド系武人としては、唐代の魏博節度使に仕えていた米文辯もあげられる。

『唐・魏博節度歩軍左廂都知兵馬使米文辯墓誌銘』*1

署左親事・馬歩廂虞候・兼節度押衙、又管在府西坊征馬及駞坊騾坊事。

「米」というソグド姓を冠する米文辯は、安史軍残党が創設し、複数のソグド系節度使が君臨した魏博に仕えており、一時期魏博の中核に存在したと思しきソグド系武人集団の一員と考えられる。おそらく「馬歩廂虞候」の職責かと思われるが、会府である魏州の西坊において馬軍の戦馬と、駞坊のラクダ、騾坊のラバを管理していたのだろう。

米文辯が管理していたラクダが戦闘用として利用されたのか、または輜重隊として利用されたのかは不明だが、唐末の魏博節度使は河南の後梁と山西の沙陀集団の間に挟まれ、当初、後梁に従属していた。

資治通鑑』巻265 唐紀81 天祐3年条

全忠留魏半歲、羅紹威供億、所殺牛羊豕近七十萬、資糧稱是、所賂遣又近百萬、此去、蓄積為之一空。

九月、辛亥朔、朱全忠自白馬渡河、丁卯、至滄州、軍於長蘆、滄人不出。羅紹威饋運、自魏至長蘆五百里、不絕於路。又建元帥府舍於魏、所過驛亭供酒饌・幄幕・什器、上下數十萬人、無一不備。

当時の節度使羅紹威は河朔に展開していた後梁軍の輜重を担っており、数十万の将兵に不足を感じさせなかったといわれるほど大量の食料物資を供給している。

この羅紹威の驚異的なロジスティクスを支えていたのが、「駞坊」のラクダであり、米文辯のようなラクダの扱いに長けたソグド系武人だったのではないだろうか。

後年、魏博節度使は沙陀集団に寝返り、その精鋭部隊である銀槍効節都を取り込んだことが後梁打倒に大きく資したといわれているが、河朔における沙陀の活動を輜重面から支えたことも、勝因のひとつとなったのかもしれない。

ラクダとソグドが歴史を転回させたのではと想像すると、月の沙漠を闊歩するのとはまた別のロマンが感じられる。

*1:釈文は森部豊『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史的展開』資料5より引用。

中国史におけるブタトイレの風景

漢代を中心に、地方の豪族の墓などから当時のブタ小屋の明器が出土することがある。「猪圏」と呼ばれる柵に囲まれたブタ小屋である。

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 これら「猪圏」の明器には、柵に囲まれたブタ小屋の上階にトイレとなる小屋がついていることが多い。上階のトイレから垂らした便をブタが餌として処理してくれる、エコでロハスなトイレとブタ小屋の複合建築である。

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ブタの代わりにヒツジを飼っているトイレもある。

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博物館や美術館で中国関係の展示を見るとき、僕が最も期待するのはこの「猪圏」明器の有無だ。 

中国では死後の世界は現実世界の延長として捉えられており、副葬される明器も現実世界で墓主が愛用していた品や生活必需品のミニチュアであることが多い。つまり実生活でもブタ小屋を併設したトイレを使用していたわけだ。

 昔の中国のトイレがすべてがそうだったとは思わないが、僕らが親しんでいる『史記』や『三国志』の英雄豪傑美女たちも、みんなブタ小屋の上でうんこをしていたのかもしれない。たとえば予譲が趙襄子を暗殺するために刑徒に身をやつした「廁」、衛子夫が漢の武帝に抱かれた「軒中」でも、その階下ではブタがうんこを貪っていたかもしれないのだ。

国史の名場面のなかにブタトイレの存在を意識するだけで、風景が変わって見える。「猪圏」明器を見るたびに僕がわくわくするのはそんな理由からだ。 

 このエントリーでは、中国の伝世文献上、ブタトイレはいかなる形で描かれてきたのかをざっくりと探っていきたい。

 

文献の上でブタトイレは多く「圂」または「溷」と表記される。豕(ブタ)を囲った字形のとおり、もとはブタ小屋を意味する漢字だったようだが、人間がブタに排泄物を処理させるようになってからはトイレとしての意味も持つようになったものらしい。

「圂」にブタがいたことを如実に物語る史料として、唐代のできごとではあるが、民家の「圂」からブタが出てきて踊りだした、という災異が記録されている。

 『新唐書』巻36 五行志3 豕禍の条

咸通七年、徐州蕭縣民家豕出圂舞、又牡豕多將隣里羣豕而行、復自相噬齧。

同条の上段にはトイレの存在こそ明示しないが、官署でもブタを飼っていたと思しき記述がある。

貞觀十七年六月、司農寺豕生子、一首八足、自頸分為二。

おそらく司農寺が貯蔵していた食料としてのブタではなく、官舎のトイレで飼っていたブタ がシャム双生児的な異形の仔を生んだのだろう。唐代では地方の民家から都の官署にいたるまで、幅広くトイレでブタを飼っていたのかもしれない。

 

漢代における「圂」を描いた記事としては、武帝の子である燕王旦をめぐる災異がある。

 『漢書』巻27中之下 五行志第7中之下 豕禍の条

昭帝元鳳元年、燕王宮永巷中豕出圂 、壞都竈、銜其鬴六七枚置殿前。

燕王の後宮の「圂」からブタが逃げ出し、カマドを壊してカマをくわえて殿前にならべたという。これは謀叛をくわだてていた燕王を天が譴責する災異「豕禍」として捉えられており、彼の伝にも同内容が記されている。

 『漢書』巻63 武五子伝 燕刺王旦の条

是時天雨、虹下屬宮中、飲井水竭。廁中豕羣出、壞大官竈。烏鵲鬬死、鼠舞殿端門中。

諸侯の後宮にブタトイレが存在していたとなると、武帝が衛子夫に手をつけた平陽公主邸の「軒中」(これもトイレを指す)にもブタが飼われていたと想像したくなる。ムードもクソもありはしないが(クソはあるか)、「雄材大略」を謳われた武帝ほどの傑物には些細なことなのだろう。英雄、色を好むである。

さて、漢代のブタとトイレの話といえば、史上に悪名高い「人彘」がある。

 『史記』巻9 呂太后本紀

太后遂斷戚夫人手足、去眼、煇耳、飲瘖藥、使居廁中、命曰「人彘 」。居數日、迺召孝惠帝觀人彘 。

 趙王如意の母であり、呂后のライバルとなりうる戚夫人がダルマ状態にされてトイレにおかれたという過酷な拷問だが、「彘」とは手足の短いブタを指し、戚夫人が手足を切られた状態を表しており、また「廁」におかれていることからも、呂后がブタトイレを意識して処置したのは間違いない。

上述したように燕王の後宮にはブタトイレが存在したが、諸侯に関わる諸制度は基本的に中央の模倣と考えるのが自然だろう。ならば漢朝の後宮にもブタトイレが存在したと考えられ、ことによると戚夫人はクソまみれのブタ小屋にダルマ状態で転がされていたのかもしれない。

史記』に現れるブタの話としては轅固生の逸話も有名である。老子を奴隷の学問と切り捨てるスノッブな発言のせいで、老子推しの竇太后の逆鱗に触れた儒者の轅固生は、ブタ小屋に行ってブタを刺してこいと無茶ぶりを振られる。

 『史記』巻121 儒林列伝 轅固生の条

乃使固入圈刺豕 。景帝知太后怒而固直言無罪、乃假固利兵、下圈刺豕 、正中其心、一刺、 豕應手而倒。

彼を惜しんだ景帝がこっそり刃物を渡したため、轅固生はブタを一突きに刺し殺してことなきを得たという儒者らしからぬ武闘派エピソードだが、このブタ小屋、「圏」とだけあるためトイレとは関係ない柵で囲まれただけの豚舎のように思えるが、「下圏」という表現からすると上階から降りた先にあるブタ小屋だったようで、やはりこれもトイレのなかでクソまみれになってブタと戦ったものではないだろうか。高慢ちきな腐れ儒者を汚辱にまみれさせたいという竇太后のドSっぷりがうかがえる。

 おなじく漢代のエピソードとして、景帝のとき上林苑のトイレに「野彘」が闖入した話もあるが、これはそのトイレ併設のブタ小屋で飼われていたブタではなく、苑中で放牧されていたイノシシであろう。

 『漢書』巻90 酷吏伝 致都の条

嘗從入上林、賈姬在廁、野彘入廁、上目都、都不行。上欲自持兵救賈姬、都伏上前曰「亡一姬復一姬進、天下所少寧姬等邪。陛下縱自輕、奈宗廟太后何」上還、 彘亦不傷賈姬。

イノシシは賈姫を襲わなかったそうなので、目的は彼女のうんこだったのではないか。

 

視線を中国の周縁に転ずると、中国東北部にいた夫余の始祖である東明(高句麗の始祖である朱蒙と同一人物か?)の感生帝説にもブタトイレが登場する。

 『三国志』魏書巻30 烏丸鮮卑東夷伝 扶余の条 裴松之注所引『魏略』

舊志又言、昔北方有高離之國者、其王者侍婢有身、王欲殺之、婢云「有氣如雞子來下、我故有身。」後生子、王捐之於溷中、豬以喙噓之、徙至馬閑、馬以氣噓之、不死。

高離の王のもとに生まれた東明は父王にブタトイレへ捨てられたが、ブタが息を吹きかけて温め、死を免れたという。中国東北部にもブタトイレが根付いていたことがわかる。

なお、後漢書では「溷」ではなく「豕牢」という露骨な表現になっている。

 『後漢書』巻85 東夷列伝 夫余の条

王令置於豕牢、豕以口氣噓之、不死。

この「豕牢」という表現でトイレが描かれるケースも多く、『宋書』が伝えるところによれば、周の文王はブタトイレで産み落とされたという伝承もあるようだ。

 『宋書』巻27 符瑞志上

季歷之妃曰太任、夢長人感己、溲于豕牢而生昌、是為周文王。

「溲」は小便をするという意味のため、この「豕牢」はまずトイレと見て間違いない。季歴の妃はブタトイレに小便をしに行き、うっかり文王を産み落としてしまったというのだろう。文王、よくグレなかったな。

ちなみに、西晋の恵帝の長子であった司馬遹は、幼時に祖父の武帝と「豕牢」を見学している。

 『晋書』巻53 愍懷太子伝

嘗從帝觀豕牢、言於帝曰「 豕甚肥、何不殺以享士、而使久費五穀。」帝嘉其意、即使烹之。

わざわざ皇帝が見に来るくらいなのでこの「豕牢」はトイレを併設しない純然たるブタ小屋だと思いたい。が、武帝といえば王済の屋敷にて人の乳で育てられたブタ肉をごちそうになってドン引きしたエピソードがあるので、案外もりもりうんこを食ってるブタを見て「やっぱこれだよ」と安心していたかもしれない。

 

この他、「溷」や「豕牢」に死体を棄てたり埋めたりするエピソードが史料上に散見するが、ブタの存在は明示されない。あるいは雑食のブタに死体を食わせて処理するハンニバル的な目的もあるのかもしれないが、今回はそこまで触れずに筆を擱きたい。

ざっくりと唐代までのブタトイレのある風景を点描してみたが、まだまだ判らないことは多い。五代以降について、正史からはブタトイレの存在をにおわせる記事に乏しく、実態をつかめないのも残念だ。

ブタトイレについては今後も史料や論著を読み、明器を見て、その実態について考えていきたい。このクソみたいなエントリーはその第一歩なのだ。

石君立、ソグド人やめるってよ

ツイッターで呟いていた石君立ネタのまとめ。

中華書局の「点校本二十四史修訂本」シリーズの『新・旧五代史』が届いたのでパラパラめくっていたのだが、文献史料以外に墓誌も活用してテキストを修訂していて、なかなか面白い。

そのなかでも目に付いたのが、『旧五代史』巻65唐書41列伝第17の石君立伝。従来のテキストでは「石家財」と記されていた彼の異名が次のように修訂されているのだ。

石君立 、趙州昭慶人也、亦謂之石家才。初事代州刺史李克柔、後隸李嗣昭為牙校,歷典諸軍。

石君立は沙陀政権の部将として後梁との戦いに従事していた武人だが、ソグド研究者の一部では、石というソグド姓と、沙陀政権にはソグド系武人(いわゆるソグド系突厥)が多数参加していること、さらには「石家財」という異名が交易に巧みなソグド人をイメージすることから彼をソグド系と見なす向きがあった。

今回の修訂は、校勘記によると次のような校勘の結果らしい。

石家才 原作「石家財」、據本書巻九梁帝末紀中・冊府巻二一七・巻三六九改。

冊府元亀は手元にないので確認のしようがないが、なるほど『旧五代史』巻9梁書9末帝紀中・貞明5年の条では「石家才」と記している。

十二月戊戌、晉王領軍迫河南寨、王瓚率師禦之、獲晉將石家才案:通鑑石家才作石君立。考薛史列傳、君立一名家才

その他、『旧五代史』の石君立登場記事を見ても、「石君立」の他は「石家才」あるいは「石嘉才」の表記であり、「石家財」は本人の伝にしか見えないのだ。

 『旧五代史』巻22梁書22列伝第12王檀伝

二年二月、師至晉陽、晝夜急攻其壘、并州幾陷。既而蕃將石家才自潞州以援兵至、檀引軍大掠而還。

 『旧五代史』巻28唐書4荘宗紀第2

是月、梁主遣別將王檀率兵五萬、自陰地關趨晉陽、急攻其城、昭義李嗣昭遣將石嘉才案:梁紀作家才、唐列傳作家財。(舊五代史考異)率騎三百赴援。

 『旧五代史』巻61唐書37列伝第13安金全伝

俄而石君立自潞州至、汴軍退走。

財は才に通じるので、まったくの誤字ともいえないが、おそらくは「石家才」が正しいのだろう。

石君立の異名が「石家才」だとすると、彼をソグド系と見なす根拠(というほど確実なものではないが)がひとつ消えることとなるが、石君立ソグド説を完全に否定することもできない。

彼の出自である趙州は成徳軍節度使の管内だが、周知のとおり安史軍の残党の創建になる成徳軍には、康日知をはじめ多数のソグド系軍将が存在したことが明らかになっている*1。石君立自身は一貫して沙陀政権に仕えており、成徳軍に出仕した形跡はないものの、彼がこれら安史軍残党の流れを汲むソグド系武人であった可能性も捨てきれないのだ。

 

石君立について、またひとつ気になる点は、彼の諱である。

「君立」という諱を持つ者は管見の限り、『旧五代史』では石君立の他には、李克用を擁立した代北のソグド系の「邊豪」康君立と、荘宗の仮子となっていた経歴不詳のソグド系武人米君立(仮子としては「李紹能」の姓名を賜っていた)の2人のみである。

漢籍電子文献でざっくり検索をかけても五代以前には「君立」という諱あるいは字を持つ者は彼ら3名のほか、北魏の皇族である元樹しか見つからない。

 『北史』巻19列伝第7咸陽王禧伝

翼弟樹、字秀和、一字君立 。美姿貌、善吐納、兼有將略。位宗正卿。後亦奔梁。

元樹の兄弟は一部を除き、「曇和」「仲和」など、みな字に輩行字と思しき「和」の字を含んでおり、こういった儒教的性格を帯びた字とは別に有する「君立」という字は、彼の鮮卑での本名の音転写という可能性は考えられないだろうか。

北斉のテュルク系武人斛律金の字は「阿六敦(アルトゥン)」(テュルク語で「金」を意味する)であり、彼の場合は漢地における諱と字が一致しているわけだが、おそらく敕勒における彼の本名の音転写なのだろう。

元樹の字が斛律金と同様のケースだとすれば、これは完全に僕の妄想だが、漠北のテュルク・モンゴル語世界では漢字に音転写すると「君立」と表記される言葉が存在し、鮮卑の皇族である元樹や、突厥や沙陀と交雑していたソグド系突厥である康君立らがそれを名乗った可能性も微粒子レベルで存在しているんじゃないだろうか(石君立の場合は先祖が安史軍に参加したソグド系突厥か)。

 

とまあ、ぐだぐだ書き連ねてきたが、いまのところ石君立がソグド系であることを立証する証拠はないわけで、やはり彼には一旦ソグド人の看板を下ろしてもらうしかないだろう。

そういうわけで、石君立、ソグド人やめるってよ。

 

 

【9月10日補記】

石君立をソグド系と見なす根拠が薄いと書いたが、改めて彼の登場する史料を見返すと、『旧五代史』王檀伝では「蕃將」と明記されている。

当初、彼は当時「晋」と呼ばれていた沙陀政権の部将であるから梁書においては「晋將」のほかに「蕃將」と記されたのかと思い、看過していた。『旧五代史』では「蕃將」と冠される者は、梁書では石君立の他、史冠府(ソグド?)、何懐宝(ソグド?)、張汚落(李存信の旧名。ウィグル系沙陀)、賁金鉄(出自不明)、慕容騰(鮮卑?)、李存建(沙陀?)、安休休(ソグド)、石君和(ソグド?)ら沙陀政権の部将であり、唐書以降では惕隠、大相温、諧里相公、高牟翰、禿餒、偉王、耿崇美、楊袞、耶律忠と、すべて契丹の部将に限定されている。

しかし、『旧五代史』巻38唐書14明宗紀第4の天成2年10月の条に、「本非蕃將」と記された漢人節度使の霍彥威が「番家之符信」に倣い、明宗に矢を献じた例があるように、一般的に「蕃將」といえば非漢人の将領を指し、非漢人集団の部将だから出自に関係なく「蕃將」と呼ぶのは無理がある。

青州節度使霍彥威差人走馬進箭一對、賀誅朱守殷、帝卻賜彥威箭一對。傳箭、番家之符信也、起軍令眾則使之、彥威本非蕃將、以臣傳箭於君、非禮也。

おなじ沙陀政権(晋)の部将であっても李嗣昭や周徳威ら漢人が「晋將」と記されることはあっても「蕃將」を冠する例はない(ただし李克用墓誌に表れる「嗣昭」は李克用の「元子」つまり長子とされており、編纂史料中の李嗣昭と同一人物ならば、彼は沙陀ということになる)。

よって石君立については非漢人であることは疑いなく、「石」がソグド姓であることを鑑みれば、彼もまたソグド系であったと見なすのが妥当だろう。

結局タイトルと真逆の結果じゃないか…。

*1:森部豊『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史的展開』「第4章 ソグド系突厥の東遷と河朔三鎮の動静」関西大学出版部、2010

カミナリ兄さん

久々に『北夢瑣言』を読んでいたら厨二心をくすぐる法籙の話が出てきたので、以下に記す。

『北夢瑣言逸文』巻第四「雷公籙」

巴蜀間、於高山頂或潔地、建天公壇、祈水旱。葢開元中上帝所降儀法、以示人也。其壇或羊牛所犯、及預齋者飲酒食肉、多為震死。新繁人王蕘、因往別業、村民烹豚待之。有一自天公齋廻、乃即席食肉。王謂曰「爾不懼雷霆耶。」曰「我與雷為兄弟,何懼之有。」王異之、乃詰其所謂。曰「我受雷公籙。與雷同職。」因取其籙驗之、果如其說。仍有數卷、或畫壯夫以拳扠地為井、號「拳扠井」。或畫一士負薪枿、號「一谷柴」。或以七手撮山簸之、號「七山簸」。江陵東村李道士舍亦有此籙。或云「三洞法籙外、有一百二法、為天師子嗣師所禁、唯許救物。苟邪用、必上帝考責陰誅也」

唐代、巴蜀では高山の頂や清浄の地に天公壇を建て、雨乞いや日照り乞いをする習慣があったが、牛羊がこの壇に上ったり、ここで斎戒する者が飲酒肉食をすると雷に打たれて死ぬといわれていた。

新繁県(当時の益州北部にあった県)の王蕘(おうじょう)という者が別荘に赴いたおり、そこの村民は豚を煮て歓待してくれたが、天公壇から斎戒帰りの者がやってきて、席につくや肉を食べはじめた。王が「お前さんは雷が恐ろしくないのかい?」と尋ねると、「俺は雷とは兄弟だ。何を恐れることがあろう」と答える。訝しんだ王がさらに尋ねると、「俺は雷公籙を授かっている。雷さまとは同僚ってことさ」と、法籙を取り出す。王が確認すると、はたして男のいうとおりで、その他にも数巻の法籙があった。

壮士が拳で地を穿ち井戸を掘り抜くさまを描いたものは「拳扠井」、薪や切り株を背負った姿を描いたものは「一谷柴」、七本の手で山をつかんで箕にかけるように揺さぶるものは「七山簸」と号したという…。

 

うーん、マンガかよ、とツッコみたくなる異能の数々。「一谷柴」だけしょぼく見えるが、谷一つ分くらい大量の薪を背負えるということなんでしょうね…。

これらは人助けのためにだけ使うことが許された術らしく、悪用すると上帝に誅殺されるといわれていたそうで、たしかに雨を降らせたり、井戸を掘ったり、薪を運んだりと生活に役立つものばかりだ(「七山簸」は木の実を採るための術かもしれないが、単に僕の読み方が誤っているだけかもしれない)。いかにも当時の人々の「こんな術があればいいのに」という需要から生まれていそうな術たちで、生活感があって面白い。

僕は道教の知識がないので法籙がどのような形態だったのか知らないが、こういった説話が生まれるということは、当時は絵入りのものもあったのだろう。

しかし三洞の法籙のほかに102の亜流(?)の法があったという話には厨二心をくすぐられる。遍歴の道士が各地で法術を修めた者を破って102の法を習得していく、という『百人の半蔵』みたいなマンガがあってもいいと思うの(「謫仙」李白が102の法を修めると天に帰れるとか)。

節分らしい話

陳舜臣は「鬼を驚かせ」というエッセイで遼代の正月の習俗「驚鬼居」に触れている。

 鬼の住居を驚かす、というのだから、魔除けの行事にちがいない。記事によれば、モチゴメの飯と白羊の髄で拳大の団子をつくり、夜にそれを家から外にむかって投げたという。そのとき十二人の巫が鈴を鳴らし、歌をうたいながら、住居の周囲をまわったのである。

…(中略)…

この驚鬼居の行事の説明はさらに、

――帳內爆鹽、壚中燒地拍鼠

とつづいている。…(中略)…右の文章によれば、部屋のなかで、はじけるように塩を焼き、いろりのなかで地を焼き、そしてネズミをたたくということになる。

要するに追儺のような儀式で、節分の豆まきとも関係がありそうで興味深い。しかし『遼史』の当該記事を読むと、この習俗を「驚鬼居」と呼ぶことには疑問が生じる。

『遼史』巻五十三 禮志六

正旦、國俗以糯飯和白羊髓為餅、丸之若拳、每帳賜四十九枚。戊夜、各於帳內窗中擲丸於外。數偶、動樂、飲宴。數奇、令巫十有二人鳴鈴、執箭、繞帳歌呼、帳內爆鹽壚中、燒地拍鼠、謂之驚鬼、居七日乃出

「之を驚鬼居と謂い、七日にして乃ち出づ」ではなく、「之を驚鬼と謂い、居ること七日にして乃ち出づ」と読む方が自然ではないか。鬼そのものではなく住居を驚かすという捉え方は不自然だし、餅を投げ、塩を焼いてネズミをたたき、七日間の物忌みを過ごしてようやくテントの外に出れた、というわけだろう(あるいは鬼の方が七日間もこんな儀式を続けられて這う這うの体で出て行ったのかもしれないが)。

 

2月7日追記

横田文良『中国の食文化研究〈北京編〉』によると、契丹人は「黄鼠」というハタリス(黄色の地鼠類)を好んで食べたそうで、その肉を炙った料理の名を「焼地拍鼠」というらしい。地鼠類の巣であるトンネルの片側の入り口で火を焚き、煙でもう一方の入口へと燻り出す狩猟法が料理の名になっているとのこと。

それでは驚鬼の儀式のうちテント内部における、いろりで塩を焼くという行為は、ハタリス狩りを模して悪霊を燻り出す儀式なのか、あるいは正月料理として本当にハタリスの肉を炙っていたのだろうか。

 

 

蘭におもう (徳間文庫)

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