壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

パリピ淵明

 先日、朝の情報番組で「米のとぎ汁でシャンプーするのが流行っていて~」という話が出ており驚いたのだが、TikTokでは #ricewater というハッシュタグで世界的に投稿されているそうだ。

www.womenshealthmag.com

 僕が驚いたのは、不衛生だからではなく、それが古代中国における洗髪方法だからである。

 

 漢の文帝の皇后である竇皇后は宮中に入る前、弟の竇広国との別れ際、米のとぎ汁で髪を洗ってあげたエピソードがある。

史記』巻49 外戚世家第19 竇太后の条

「姊去我西時、與我決於傳舍中、丐沐沐我、請食飯我、乃去。」

 

「姉がわたしを残して西へ去ったとき、わたしと駅舎で別れました。「沐」を借り受け、私の髪を洗ってくれ、また食べ物を請うて、わたしに食べさせたうえ、去ってゆきました。」

 ここでいう「沐」は穀物(竇氏の郷里は河北のため、コメではなくアワではないか)のとぎ汁(潘)を指し (『史記索隠』沐 、米潘也。謂后乞潘為弟沐。)、漢代では「米」のとぎ汁(=沐または潘)での洗髪が一般的だったことが見てとれる。

 

 時代は下って、東晋末から劉宋にかけて活躍した詩人・陶淵明には、「閑情の賦」という非常にフェティッシュな作品があるが、そのなかで美女の身の回りのものに変化したいという妄想をうたっている。

願在衣而為領  なれるものなら、上衣では襟になり、

承華首之余芳  うなじのにおいにむせびたい。

悲羅襟之宵離  でも寝るときには脱ぎすてられ、

怨秋夜之未央  秋の夜長がうらめしい。

 

願在裳而為帯  なれるものなら、スカートでは帯になり、

束窈窕之繊身  たおやかな腰をしめてあげたい。

嗟温涼之異気  でも季節がうつりかわれば、

或脱故而服新  新しいものととりかえられる。

 

願在髪而為沢  なれるものなら、髪では髪油となり、

刷玄鬢於頽肩  黒髪をなで肩のうえでとかしてあげたい。

悲佳人之屡沐  でも美しいあなたはしばしば髪を洗うから、

従白水以枯煎  米のとぎ汁で流されかわいてしまう。

 ここでは米のとぎ汁を「白水」と表現しているが(陶淵明は江南の人なので、コメのとぎ汁と思われる)、洗髪の際はとぎ汁を煮沸して利用するため、ヘアオイルに変じた妄想上の陶淵明は、ただ流されるのではなく、熱で「枯煎」するのである。陶淵明、どMかよ。

 孔明ではなく陶淵明が現代に転生した場合、TikTokの #ricewater 動画を「いいね」しまくるんだろうなあ…(それはパリピでなくむっつりスケベでは?)。

トラとパンダと文帝と

 Twitterで話題になっているが、漢の文帝の陵墓・覇陵の西側にある動物殉葬坑からジャイアントパンダの骨が出土したとのこと。

news.yahoo.co.jp

 

 僕も現時点での自分の考えをまとめるために、このブログにメモとして記録しておく(今後の進捗によって補訂する可能性あり)。

 

 

 管見のかぎり伝世文献上で文帝にパンダが献上された、またはパンダを狩猟した、という記事は見えないので、「このパンダって史記に出てきたあいつじゃね…?」という同定は不可能である。そもそも現代中国語では「大熊猫」と表記されるパンダの前近代中国における呼称すら未詳である。実は史書や詩文に出てきているが、別名なのでそれがパンダだと現代の我々には認知できていない可能性はあるが。

 現代のパンダ人気のルーツとして、家永真幸氏は、19世紀に四川省へ動物収集に訪れていたフランス人宣教師がパンダを「発見」したことを挙げており*1、四川や陝西等の棲息地において、パンダは当地の民衆には認知されていただろうが、現代のように広く世間一般に珍重されていたわけではなかった、というのが、家永書を読んだときの僕のパンダ理解だったのだが(僕が読んだのは底本となる『パンダ外交』(メディアファクトリー新書、2011)だが)、皇帝陵に陪葬されていたとなると、この理解を改めなければならない。

 パンダは前漢代においても、皇帝の陵墓に陪葬する価値のある珍獣として扱われていたのだろう。ちなみに、文帝の母の薄太后の陵墓からも、パンダの骨が出土しており、こちらはほかにもサイやキンシコウ、タンチョウヅル、カメなど、多彩な動物も一緒に埋められていたそうで、まさに「地下動物園」である。

m.cnwest.com

 

 さて、では文帝母子は、一緒にお墓に埋めてもらうほどの無類のパンダ好きだったのかといえば、個人的には、(少なくとも文帝は)パンダに限らず動物全般が好きだったのだろうと考えている。

 以下は、文帝が謁者僕射の張釈之をともない、みやこ長安の南方に広がる皇室の大庭園である上林苑へ行幸した際のエピソードである(『漢書』張釈之伝もほぼ同じ内容である)。

史記』巻102 張釋之馮唐列傳第42 張釋之の条 

 

 釋之從行、登虎圈。上問上林尉諸禽獸簿十餘問、尉左右視、盡不能對。虎圈嗇夫從旁代尉對上所問禽獸簿甚悉、欲以觀其能口對響應無窮者。文帝曰「吏不當若是邪。尉無賴!」乃詔釋之拜嗇夫為上林令。

 

 張釈之は行幸に従って、虎圏へ登った。文帝が上林尉へ禽獣簿について十あまりの質問をしたところ、尉は狼狽して左右を顧みるが、誰ひとり答えられなかった。するとかたわらにいた虎圏の下役人が尉に代わって下問に詳細に答えたが、自分の能力を示そうと響きに応じるように即答し返事に窮することがなかった。文帝は「役人はこのようでなければならない。尉は頼みにならぬ!」といい、釈之に詔してこの下役人を上林令に任じようとした。

 上林苑は広大な敷地内に複数の宮殿や山川・池沼・森林を擁し、皇帝が軍事訓練を兼ねた狩猟をするなど、幅広い用途をもつ大庭園だったが、苑内では皇帝に献上された珍獣なども飼育されていた。文帝が関心を抱いていた「禽獣簿」も、おそらくは苑内で飼われている禽獣のリストのようなものだろう。

 上林苑の機構については、のちの武帝の時代においては、トップの上林令の下に八丞と十二尉で構成されており、文帝の治世でも大きく変わらなければ、この12人の上林尉のうちの数名が、このとき文帝の応接をしたのだろう。

 禽獣簿を見ながらウキウキで矢継ぎ早に質問する文帝と、狼狽してまったく答えられない上林尉たちの構図は、はたから見ればどこか滑稽で微笑ましいが、彼らの立場になれば冷や汗ものである。このとき文帝の下問に対してよどみなく応答したのが、「虎圏」の下級吏員たる嗇夫である。では「虎圏」とは何か?

 「圏」とは、家畜を飼育するために柵などで囲った場所を指し、ブタを飼育する「猪圏」、ヒツジの「羊圏」などがポピュラーである。

晋代の墓から出土した明器の猪圏

トイレと融合した猪圏

ヒツジを飼育する「羊圏」

 猪圏は一般的に、多階層の建築物となっており、1階がブタ小屋、2階がトイレで構成されている。2階で用を足した人間の糞便を1階のブタが餌にする、という循環型のトイレ兼ブタ小屋である(詳しくは過去のブタトイレの記事を参照)。

ano-hacienda.hatenablog.com

 上林苑内にあった「虎圏」が、ブタトイレならぬトラトイレだったとは考えがたいが(僕なら確実に緊張して出るものも出ないと思う)、猪圏や羊圏のように、柵で囲ったなかでトラを飼育していた施設だったのだろう。「登虎圏」という表記からも、多階層の建築物だったことが読みとれる。

 おそらく文帝は「虎圏」の2階に上り、1階の柵のなかをうろつくトラを見下ろしながら、上林苑の役人たちをあれこれ質問攻めにしていたのだろう。その質問に対して尉ではなく、実際にトラの飼育にたずさわっていただろう下っ端の嗇夫が回答していることから、質問内容はトラの具体的な生態に関することだったのかもしれない。上役では回答に窮するほど細かい質問をしてくる文帝の、動物に対する並々ならぬ関心の高さがうかがえる。

 嗇夫の打てば響くような回答と、しどろもどろでろくに答えられない上林尉を比較して、前者を上林苑のトップたる令へ抜擢しようとした文帝だが、随行していた張釈之に口が巧いものばかり取り立てるようになる弊害を説かれて諫められたため、この人事は断念している。

 諸方から献上された珍獣などは、このように上林苑内で無造作に放し飼いされていたのではなく、「圏」のなかで飼育されていたと考えられるので、おそらくトラ以外の禽獣についても同様の「犀圏」や「象圏」などが存在しており、文帝や薄太后の陵墓に陪葬されたパンダも、秦嶺山脈の北側にいた野良パンダを狩ってきたわけではなく、上林苑の「パンダ圏」にいた個体だったのではないだろうか。

 文帝の下問に対して上林尉が回答できなかったのも、おそらくは苑内には複数の動物の「圏」がもうけられており、ひとりの尉が数圏を統括していたので、一つひとつの動物の生態までは把握しきれていなかったためではないか。

 文帝は即位してからの23年間、宮室・苑🈶・車騎・服御を何も増さなかったと節倹を称えられた名君であり、自身の葬儀についても薄葬にするよう言い残しているが、動物に関しては「別腹」だったのかもしれない。そんなふうに想像すると、奔放な武帝などと比べて、生真面目で倹約家的なお堅いイメージの文帝にも人間臭さを感じられる。

 もっとも文帝や薄太后にパンダを陪葬させたのは、彼らの嗜好を慮った景帝のとりはからいかもしれないが…。

 

*1:家永真幸『中国パンダ外交史』(講談社選書メチエ、2022)

スキンケア男子・安禄山~安史の乱点描(5)

 天宝十載(751年)正月一日、この日は安禄山の誕生日ということで(この年で数え四十九歳)、玄宗及び楊貴妃から各種の誕生日プレゼントが下賜されている。

安禄山事迹』巻上 天宝十載正月の条

玄宗賜金花大銀盆二、金花銀雙絲平二、金鍍銀蓋椀二、金平脱酒海一並蓋、金平脱杓一、小馬腦盤二、金平脱大盞四、次盞四、金平脱瑪腦盤一、…(中略)…、太真賜金平脱装一具、内漆半花鏡一、玉合子二、玳瑁刮舌箆・耳箆各一、銅鑷子各一、犀角梳箆刷子一、…(以下略)。

 両者のプレゼントを比較すると、玄宗からはさかずきなど酒器が多いのに対して、原田淑人氏は楊貴妃からの下賜品を「金平脱の化粧箱に化粧道具一揃を納めているもの。漆半花鏡は半花の図紋をあらわした平脱の小銅鏡か。玳瑁(鼈甲)の舌こき・耳かき、銅製の毛抜き。犀角の梳(くし)、舌こき、刷子(ブラシ)等いかにも婦人の持物らしい」*1と分析している。

 『安禄山事迹』ではこの記事に続いて、禄山の母や祖母が国夫人を賜り、子の慶宗らも玄宗直々に賜名されるという一門の栄華を描いており、楊貴妃の化粧箱やスキンケア・オーラルケアに関わるプレゼントも、あるいは安禄山の妻妾に向けたものかもしれないが、唐代では男性も冬場の乾燥対策にリップクリームやスキンクリームを使用していたため、やはりすなおに安禄山自身が使うためのプレゼントと解釈するのが妥当だろう。

杜甫「臘日」

口脂面藥、隨恩澤

翠管銀罌、下九霄

リップクリームとスキンクリームは天子の恩沢によって、

緑の筒や銀のかめにて宮中から賜ってきたのだ

 杜甫が詠ったように、唐代では陰暦十二月の年送りのまつりに宮中で宴をもよおし、百官に対してリップクリームやスキンクリームを下賜する風習があった*2楊貴妃安禄山に贈った化粧箱も、「翠管銀罌」のようにスキンケア用品を入れるためのものだったのかもしれない。

 臘日の下賜品のほか、安禄山への誕生日プレゼントからも、冬場には乾燥対策としてリップやスキンクリームを塗り、毛抜きで眉を整え、最近日本でも流行りつつある舌ブラシで舌苔の掃除をする、現代のスキンケア男子に通じる唐代の男性のスキンケア事情が垣間見えておもしろい。

 安禄山におしゃれイメージはまったくなかったけど、宮中にあがって楊貴妃に可愛がられていたわけだし、辺境の汗臭い荒くれ外人部隊長などではなく、ソグドネットワークで外国の交易品をもたらし、ダンスとトークが巧くていじられキャラに徹することができ、さらに女子の好きな「清潔感」もそなわっていたのならば、けっこうなモテ男だったのでは、と思えてくるなあ。

 

 

 

*1:原田「天宝の風雲児安禄山を描く」同『東亜古文化説苑』(座右宝刊行会、1973)所収

*2:李芽『脂粉春秋 中国歴代粧飾』「第六章 隋唐五代時期的粧飾文化」中国紡織出版社、2015

『入唐求法巡礼行記』に見える酢

 最近、すきま時間に『入唐求法巡礼行記』(中公文庫版)を読んでいるが、気になるのが、山東を旅する円仁一行が食を施される際、「使君手書施兩碩米・兩碩麵・一斛油・一斗醋 ・一斗鹽・柴三十根・以充旅糧。(使君は直筆で米二石・麺二石・油一斗・酢一斗・塩一斗・柴三十束を旅行中の食糧に充てるようにと施してくれた)」(開成五年三月三日の条)とあるように、塩と同量の酢を給されており、また、「就主人乞菜醬醋鹽、惣不得。遂出茶一斤、買得醬菜、不堪喫。(主人に野菜・ひしお・酢・塩を出してほしいと頼んだが、どれもこれも出してもらえない。仕方なくとうとう持参の茶一斤を出して、ひしおと野菜を買うことができたが、とても食べられるようなものではなかった)」(同月十七日の条)、「主人慳極、一撮鹽・一匙醬醋、非錢不與。(主人は極度にけちな人で、一つまみの塩、一さじのひしおや酢さえ、銭を支払わない限り出してくれない。)」(同月二十一日の条)とあるように、塩やひしお(中公文庫版では「醤油」と訳されているが、当時、現代の醤油に類する「清醤」が一般的に普及していたのか未詳なため、伝統的に普及していたジャン、つまりひしおとして訳しておく)とおなじ調味料として酢が併記されることである。

 調味料として必須であろう塩やひしおと同量の酢が給されており、現代日本人の感覚では異常なくらい酢の消費量が多かったことがうかがえる。え、何なの円仁、途中で味変とかするの?

 そこで唐代の飲食に関する本で酢の用途について調べるが、食材や料理法、変わった料理などは記していても、調味料について解説しているものは意外と少ない。そんななか、高啓安『敦煌の飲食文化』(東方書店、2013)では、円仁が旅した山東からはるか西方・敦煌のことではあるが、おなじ唐代の酢について、「寺院では毎年六月に一回、あるいは春と秋の二回に分けて酢の醸造を行い、集まってみなで食事をする場合には必ず酢を使っていた。…(中略)…文献中では、酢は粥を煮るときに加える以外に用途は見えない」と記載している。『齊民要術』でも粟米を炊くときに酢を入れるレシピを掲載しており、味変どころか、当時は粥に酢を入れる食べ方が一般的だったのだろう。そういえば現代でも中華粥には黒酢を入れるな。

 行記では、円仁は粟などの穀物の「飯」または「粥」を食べていることが多く、その味付けとして酢は必須の調味料だったのだろう。行記を読む際の参考までに、読書メモとしてここに記録しておく。

 

 

哥舒翰のブラッドソーセージ~安史の乱点描(4)

 近年、安史の乱については、ソグドと突厥の混血児である安禄山をはじめ、ソグドや突厥、奚、契丹などの安史軍の民族構成だけでなく、これと対峙した唐朝側についても、契丹出身の李光弼や鉄勒の僕固懐恩をはじめとする非漢族の将領や、その旗下にいた遊牧民や西域出身の将兵など、構成民族の多様性が指摘されてきている。

 本稿では、安史の乱に登場する当事者たちの国際性・多民族性を「食」という切り口からうかがってみたい。

 リアル異世界転生おじさん哥舒翰

 玄宗期に活躍した蕃将の代表としては、タラスの戦いで有名な高仙芝のほか、安禄山のライバルとして潼関の戦いで唐軍をひきいた哥舒翰があげられる。

 その家系は、西突厥の一派であるテュルク系遊牧民のトゥルギッシュ(突騎施)のうち、哥舒部とよばれる部族の首領の家柄であり、いつごろから唐朝に帰順したのかは定かでないが*1安西都護府(治所はクチャ)の管内に代々居住していたという。その関係か父の哥舒道元安西都護府の将軍*2として出仕し、母は玉の産地・交易地として著名なオアシス国家コータンの王女という、西域においては相当の貴種であった*3

 このような生い立ちの哥舒翰だが、若いときは効轂府*4の果毅都尉という折衝府武官として出仕したものの、40歳までは長安の市場に出入りして酒と博打にあけくれ、実家の富にたよって散財を好む遊侠きどりの暮らしぶりという、完全に世間をなめたボンボンであった。そんなどら息子も父の死を機に発憤し、安西には帰らず、当時、唐朝の版図を西から蚕食しつつあった吐蕃への防衛の最前線である河西節度使の軍隊に身を投ずることとなる。

 そんな向こう見ずにみえる哥舒翰だったが、遊侠で鳴らしていただけあって、気前のよさから士卒には人気があり、戦場でもみずから槍をふるって敵を突き殺し、左車という従者に首を切らせる連係プレーで次々と武勲を立てていく。一手の将としても伏兵を用いて五千の吐蕃軍を殲滅するなど用兵が巧みであったため、節度使の王忠嗣の覚えもめでたく、軍中でトントン拍子に出世していった。

 元遊侠という経歴と豪放で礼儀にしばられない性格、そして戦場における武名から、武辺一辺倒の荒々しい武人像を思い描きそうになるが、『春秋左氏伝』や『漢書』を愛読するほどの教養もあったようで、やはり育ちがよかったのだろう。

 のちに河西と隴右の節度使を兼任し、対吐蕃前線のトップに昇りつめてからは、漢人だけでなく自身とおなじテュルク系やソグド系など雑多な民族構成の軍団をまとめることになるのだが、このとき密教僧の不空を招いて旗下の諸将とともに灌頂を授かっており、皆で仏縁を結ぶことで精神的統合をはかるという、仏教を軍団統制に利用した形跡がうかがえる*5

 哥舒氏と関わりの深いクチャは、キジル千仏洞を擁し、かつては鳩摩羅什ら幾人もの僧侶を輩出した、タリム盆地における仏教の布教センターのようなオアシス都市であり、また、母の母国であるコータンも仏教国として著名である。仏教を利用して多民族混成軍をまとめるという発想には、彼が生まれ育った環境も影響していたのではないだろうか。

 しかし、40過ぎまでろくに働きもせず遊び暮らしていたのに、一念発起して戦場にとびこんだら無双するという、都合のよすぎる中年デビューっぷりは、最近はやりの中年おじさんが異世界でチート能力を手にする転生物のようである。ちなみに節度使として異例の出世をとげた哥舒翰はこの後、安史の乱が勃発する前には酒色や詩歌管弦におぼれて中風で倒れるほどの贅沢三昧をしていたので、ハーレムもつくっていること請け合いである。哥舒翰、やっぱおまえ異世界転生おじさんじゃねーか!

 

 謎の料理「熱洛河」

 哥舒翰が河西・隴右節度使として唐朝の西辺防衛を担っていたとき、東北辺・北辺の軍事力を掌握していたのは、范陽・平盧・河東の三節度使を兼ねた安禄山と、そのいとこで朔方節度使の安思順であった。いわば安禄山が東の横綱、哥舒翰が西の横綱という形勢だったわけだが、哥舒翰はこの安氏の二人を非常にきらっていた。

 哥舒翰をひきたてた上司である王忠嗣は、中央で専権をふるう宰相・李林甫と反目しており、一時は四つの節度使を兼任して地方で強大な軍事力を誇った彼の勢力を削るため、李林甫が各地の節度使として抜擢したのが、安禄山と安思順だったのである。また、王・李の対立の背景には、玄宗の後継者問題が潜在していた。李林甫は玄宗の最初の太子の死後、後継に玄宗お気に入りの寿王を推していたが、結果的には当時忠王だったのちの粛宗が立太子され、その幼なじみとして禁中で養育された王忠嗣も、粛宗ともども李林甫と対立することになったのだ*6。つまり、当時の朝野には、李林甫-安禄山・安思順と、(粛宗-)王忠嗣-哥舒翰のラインによる派閥争いがあり、ここに敵の敵は味方とばかりに李林甫・安禄山と反目していた楊国忠が哥舒翰へ接近し、事態は複雑化していく。

 哥舒翰は安思順の副将となったときも互いにへりくだらなかったというから、この派閥争いは長く尾をひいていたのだろう。王忠嗣の父・王海賓も対吐蕃戦で活躍した武人であり、戦功を同僚たちに嫉まれ援軍を送られなかったため戦死しているが、その同僚のなかに安思順がいたことから、あるいは王忠嗣は派閥を抜きにしても彼を恨み、恩人である上司の怨敵を、哥舒翰も己の敵としてとらえていたのかもしれない。哥舒翰同様、王忠嗣の配下から立身し、のちに安思順旗下へ移った李光弼も安には心を許さず、目をかけられてその娘との縁組を提案されてもにべもなく断っており、王忠嗣閥の将領の安思順に対する反感は根強いものだった。

 さて、この対立を危惧した玄宗三者を和解させるため、天宝11載(752)、彼らが入朝した際に宴席を設けたが、ここで騒動が起きてしまう。

旧唐書』巻104 哥舒翰伝

  翰素與祿山・思順不協、上每和解之為兄弟。其冬、祿山・思順・翰並來朝、上使內侍高力士及中貴人於京城東駙馬崔惠童池亭宴會。翰母尉遲氏、于闐之族也。祿山以思順惡翰、嘗銜之、至是忽謂翰曰「我父是胡、母是突厥。公父是突厥、母是胡。與公族類同、何不相親乎?」翰應之曰「古人云、野狐向窟嘷、不祥。以其忘本也。敢不盡心焉!」祿山以為譏其胡也、大怒、罵翰曰「突厥敢如此耶!」翰欲應之、高力士目翰、翰遂止。

 

 哥舒翰と安禄山・安思順は不仲であり、玄宗はつねづね和解して義兄弟にしたいと望んでいた。その冬、禄山・思順・翰がともに来朝したので、玄宗は内侍の高力士ら宦官たちに、長安の東郊にある駙馬都尉・崔恵童の池亭で宴会をひらかせた。哥舒翰の母は尉遅氏であり、コータン人である。禄山は思順がつねに翰を憎んでいることから、仲をとりもとうと翰へ言った。「わしの父は『胡』であり、母はテュルクである。そなたの父はテュルクであり、母は『胡』である。わしらは似た者同士、どうして親しくできないものか」翰はこれに応えて「昔の人はよく言ったものだ。狐が穴ぐらに向かってほえるのは不祥だと。その本を忘れるからだ。わしにそなたの本質を見破れぬと思うたか」禄山は「胡」であることをそしられたと思い、激怒して翰を罵った。「テュルクとはこのようなものか!」翰は応酬しようとしたが、高力士に目配せされたので、ついに止めてしまった。

 この哥舒翰の返答は、『安禄山事迹』では「野狐向窟嘷拝、以其不忘本也」とあり、こちらの方が「狐が穴ぐらに向かってほえるのは、その本質を忘れないからだ」、つまり人間にまつろわぬ狐の野生を失わない、という批判として筋がとおっている。伝奇小説では狐が人間に化けたときに「胡」姓を称するように、「狐」と「胡」は同音である。安禄山の父方のソグドと哥舒翰の母方のコータンはともにイラン系と考えられるが、「胡」といっても別物で、唐代ではソグドを指して「胡」と称すことが通例だったことから、これにひっかけた哥舒翰のせりふは、ひとり安禄山への批判だけでなく、たしかに唐代社会に浸透し、その経済を牛耳るソグド人に対する不信感がにじみでているようだ。これは現代の欧米社会におけるユダヤ人に対する感情に似ているだろう。

 ちなみに安禄山の罵倒は「それがお前ら(テュルク)のやり方かー!」くらいのニュアンスである。安禄山、体型もゆいPと似てるし。

 さて、この騒動、『新唐書』の哥舒翰伝ではまた異なった描かれ方をしている。

新唐書』巻135 哥舒翰伝

 翰素與安祿山・安思順不平、帝每欲和解之。會三人俱來朝、帝使驃騎大將軍高力士宴城東、翰等皆集。詔尚食生擊鹿、取血瀹腸為熱洛何以賜之。

 

 哥舒翰はもともと安禄山・安思順と不和だったが、玄宗はつねづね和解させたいと思っていた。おりよく三人そろって来朝したので、帝は驃騎大将軍の高力士に東郊で宴会を設けさせ、翰たちをみな集めた。詔を下して尚食に生きたまま鹿を刺し、血を抜き腸を煮て「熱洛何」をつくらせて、これを賜った。

 鹿の血を抜いて腸を煮る、という鉄鍋のジャンに出てきそうなハードコアな料理だが、どうもこれは哥舒翰の好物だったらしい。

安禄山事迹』巻上 天宝十一歳三月の条

 使射生官供解鹿、取血煮其腸、謂之熱洛河以賜之。爲翰好之故也。

 

 射生官に鹿を解体させ、血を抜いてその腸を煮こみ、これを「熱洛河」といって、下賜した。哥舒翰がこれを好んでいたからである。

 ほかの史料にも同様の記述がある。

『太平廣記』所引『盧氏雑説』「熱洛河」

 玄宗命射生官射鮮鹿、取血煎鹿腸、食之。謂之熱洛河、賜安禄山及哥舒翰。

 

 玄宗は射生官に命じて生きている鹿を射て、血を抜いて鹿の腸を煮て、これを食べさせた。これを「熱洛河」といい、安禄山と哥舒翰に賜った。

 およそ聞きなれない「熱洛河(何)」だが、史料によって表記に異同があるため、テュルク語など非漢語からの音転写だろう。哥舒翰が好んだというから、トゥルギッシュではよく食べられた料理なのかもしれない。

 それではこの「熱洛河(何)」とはいったい、どのような料理だったのだろうか?

 

 遊牧民とブラッドソーセージ

 熱洛河調理の過程は史料によって多少の異同はあるが、おおよそ次のようなものだろう。

 舞台は長安東郊にある駙馬都尉・崔恵童(玄宗の娘の晋国公主の夫)の荘園内の池亭。ここに生きた鹿を放し、禁軍の射生官がこれを射止め、血を抜いて腸を煮こむ。史料によって熱洛河の調理者が異なるが、後述するように『安禄山事迹』や『盧氏雑説』が記す射生官が担当したものと考えられる。

「取血煎鹿腸」というレシピの解釈だが、単純に鹿の体内から抜いた血でその腸を煮こんだとも読めるが、遊牧民が動物の血を摂取するときは腸に詰める、つまりソーセージにすることが多いことから、個人的には熱洛河も一種のブラッドソーセージだったのではないかと思う。

 梅棹忠夫が記録したモンゴルのブラッドソーセージのつくり方は次のとおりである。

「ヒツジを屠畜するときには、あおむけにしておいて腹をさいて手をつっこみ、大動脈を人さし指と中指と薬指の三本ではさんできる。血はすべて体腔内にたまり、地面にこぼれることはない。血を地面にこぼしてはいけないのである。小腸をとりだして、内容物をきれいにあらいだす。そのあとに、体腔内にたまった血をあらった小腸にいれて、ゆでる。」*7

 小長谷有紀氏によれば、この腹腔のたまった血をすくい出すことをモンゴル語で「ツォス・アバハ(血を取る)」とよぶとのことだが*8、史料上に見える「取血」とは、この作業を指していたのではないだろうか。ちなみにこのモンゴルにおける血液の腸詰は「ゲデス」*9とよばれており、言語はちがえど、熱洛河の正体は、このような遊牧民特有のブラッドソーセージだったのではないか。

 そして血を地面にこぼさずに抜くという特殊技術は、純然たる文官で構成されていたであろう尚食ではなく、やはり遊牧系武人を内包していた射生官だからこそ可能だったと考えられる。

旧唐書』巻142 李宝臣伝

 李寶臣、范陽城旁奚族也。故范陽將張鎖高之假子、故姓張、名忠志。幼善騎射、節度使安祿山選為射生官。天寶中、隨祿山入朝、玄宗留為射生子弟、出入禁中。

 

 李宝臣は范陽近郊の奚族である。范陽節度使の将であった張鎖高の仮子となったため、もとの姓を張、名を忠志といった。幼いころから騎射を得意としたため、節度使安禄山に射生官として抜擢された。天宝年間、禄山に従って入朝したところ、玄宗は彼を留めて射生子弟とし、禁中に出入りすることとなった。

 射生官には奚出身の李宝臣のような事例があり、この宴席で鹿を射て熱洛河を調理したのも、彼のような遊牧系武人だったのだろう。

 ともあれ、ともに遊牧系武人である哥舒翰・安禄山・安思順らを接待するために、彼らになじみのある狩猟をもよおし、獲った獲物をその場で調理してふるまうという、遊牧民的雰囲気の濃厚な宴の場であったからこそ、先に見たように、似通った文化を共有する哥舒翰と安禄山は自身の出自の話になったのではないか。

 なお、北魏で成立した『斉民要術』には「羊盤腸雌斛(ヒツジ大腸のくろあつもの)」という、羊の大腸に血や香辛料を詰めて煮こむ料理のレシピ*10があり、すでに当時の中国にはブラッドソーセージのレシピは伝わっていたようだ。

 乱の初期に激突した二大巨頭が一堂に会した宴席がこのような遊牧的気風にみちていたように、安史の乱ひいては玄宗の治世とは、いわゆる「蕃将」が軍事的イニシアティブをにぎり、多様性と差別が併存する、現代にも似て渾沌とした時代だったのである。

 

*1:章群氏は系譜上に明記されている哥舒翰の祖父・沮の代に帰順したのであれば、1世代30年と計算して、690年代頃の武后の時代に帰順したものと推測している(章『唐代蕃将研究』「第二章 蕃将総論」聯経出版事業公司、1986)。哥舒沮の帯びた「左清道率」は東宮十率府の一つとして府兵を率いる太子付きの親衛武官であり、あるいは哥舒部が帰順した際に、沮は質子として宿衛入朝し授官したのかもしれない。ただし、東宮十率府のうち左右衛率府以外はすべて外府(禁中ではなく地方に所在する折衝府)のみを管掌していたという張国剛氏の指摘(張『唐代官制』「第五章 事務機関-卿監百司与諸衛諸軍」三秦出版社、1987)、さらには同じ東宮十率府のひとつである左衛率府の外府がクチャに存在していたこと(劉統『唐代羈縻府州研究』上篇「第七章 羈縻府州与唐朝疆域的関係」西北大学出版社、1998)を鑑みれば、哥舒沮の左清道率府とは、クチャで府兵制体系に組み込まれ折衝府となった、自身の部落だった可能性も考えられないだろうか。

*2:旧唐書』哥舒翰伝は「安西副都護」、『新唐書』哥舒翰伝では「安西都護将軍、赤水軍使」とする。赤水軍は河西節度使治所の涼州城内にある軍鎮であり、ウイグルをはじめ雑多な遊牧部落を統率していた(王永興『唐代前期西北軍事研究』「論唐代前期河西節度」中国社会科学出版社、1994)。安西節度使管下の安西都護府で活動しながら哥舒道元がこの軍使をつとめていたとは考えがたく、安西都護府管内にも同名の赤水軍という軍鎮が存在していたのか、または安西都護での活動時期とは別の時期に河西節度使に仕えていたのかもしれない。

*3:コータンは安西四鎮のひとつで安西都護府の統制下にあったので、唐朝にとってこれと婚姻関係を結ぶ哥舒氏は西域経営に有用だったと考えられる。実際に、景雲元年(710)、華厳経の訳経者として知られるシクシャーナンダ(実叉難陀)が入滅した際、哥舒道元は勅使として門人の悲智とともに、その遺灰と焼け残った舌を故国のコータンへ送っており、唐朝とコータンのパイプとして哥舒氏が機能していたことがわかる。また、後述するように哥舒氏が裕福だったことについて、森部豊氏はコータンが東西交易で栄えたことに関連づけて、哥舒氏がクチャで商業活動に従事していた可能性を指摘している(森部「蕃将たちの活躍-高仙芝・哥舒翰・安禄山・安思順・李光弼」松原朗編『杜甫玄宗皇帝の時代』(勉誠出版、2018)所収)。

*4:効轂府の所在は不明だが、『新唐書』地理志によれば、沙州には「効穀」府という折衝府が存在したとのこと。両者の関係は未詳。

*5:中田美絵「不空の長安仏教界台頭とソグド人」『東洋学報』89、2007

*6:章群『唐代蕃将研究』「第六章 安禄山之叛」

*7:梅棹『回想のモンゴル』「モンゴル遊牧図譜」中公文庫、1991

*8:小長谷有紀『モンゴル草原の生活世界』朝日選書、1996

*9:野沢延行『モンゴルの馬と遊牧民 大草原の生活誌』「第二章-遊牧民の食事」原書房、1991

*10:田中静一ほか編『斉民要術-現存する最古の料理書-』(雄山閣、2017)によるレシピの訳は次のとおり。「ヒツジの血五升を取り、中脈麻跡を取り去って、これを裂く。細切りしたヒツジ脇腹の脂肪二升、切ったショウガ一斤、「ちんぴ」三枚、サンショウの粉末一合、たまり醤油一升、豆鼓汁五合、コムギ粉一升五合、コメ一升をまぜて、あじめしをつくる。これら全部を混ぜて、さらに水三升をこれにそそぐ。ヒツジの大腸をほぐしてもみあらいをし、濁酒で腸の中を洗う。折り曲げて、よくなじませてから、材料を腸詰めにする。これを長さ五寸に切りつめ、煮る。血がにじみださなくなったところで、寸切りにし、食酢とたまり醤油をつけて食べる。」

その男ヴァンダク

 中国に移住したソグド人の諱・字として「盤陀」「槃陁」という名を見かけることが多い。

 これはソグド人に多いと見られている「〇〇(神の名)ヴァンダク」という名の漢字音転写といわれており、概ね頭に神の名を冠している。

 たとえば「ナナイヴァンダク(Nanai-Vandak)」であれば、「ナナ女神のしもべ」という意味で、ゾロアスター教における豊穣の女神であるナナ女神にあやかった命名である。

 中国側の史料では「安盤陀」「安射勿盤陀」「安諾盤陀」「石槃陀」「翟槃陀」などと、神の名は省略され、安・康・史・石・何・曹・米・翟といった、いわゆるソグド姓を冠している場合が多いので、「ソグド姓+ヴァンダク」の姓名を持つものはソグド系であると一般的には認識されている。

 

 しかし史料をひもといていると、ソグド姓を冠しない「ヴァンダク」(らしき名の人)に出会うことがある。彼らは一体何者なのだろうか?

 

①劉盤陀(東魏山東

北斉書』巻21 高季式伝

  天平中、出為濟州刺史。山東舊賊劉盤陀・史明曜等攻劫道路、剽掠村邑、齊・兗・青・徐四州患之、歷政不能討。季式至、皆破滅之。

 

 天平年間に済州刺史となった。ときに山東の旧賊の劉盤陀と史明曜らは道路に跋扈し村々を略奪し、斉・兗・青・徐の四州は害を被っていたが、歴代の刺史は討伐できなかった。季式が赴任してこれらを皆滅ぼした。

 劉姓なので一見ソグド人には見えないが、仲間の史明曜は思いっきりソグド姓ですね…。また東魏という、一般社会にはソグド商人が、官界にもソグド人官僚が大量に進出していた北斉の前身王朝での事件というのが気になるところ。

 

②敬盤陀(隋・絳郡)

『隋書』巻4 煬帝紀下 大業十一年十二月の条

 庚辰、詔民部尚書樊子蓋發關中兵、討絳郡賊敬盤陀・柴保昌等、經年不能剋。

 

 庚辰の日、民部尚書の樊子蓋に詔して関中の兵を発して、絳郡の賊の敬盤陀・柴保昌らを討たせたが、年を越しても平定できなかった。

 敬姓であり、仲間にもソグド要素がないので、ソグド人の可能性は低そうだが、隋代の山西は各地にソグド人コロニーが存在し、武装勢力としてのソグド人郷団の存在も指摘されている。*1

 また、樊子蓋はこの反乱の平定戦中に汾水の北にある「村塢」を見境なく焼き払っており、当時のソグド人コロニーがどのような形態で存在していたのかは不明だが、敬盤陀がソグドと何らかの関係がある人物の場合、隋軍側がその出身あるいは支持母体として「村塢」として認識されていたソグド人コロニーを攻撃していた、という憶測も可能ではないだろうか。

 

 このように非ソグド姓のヴァンダクは、ソグド人との関連性がありそうななさそうなポジションの人物だらけである。

 なお、西域には于闐の西に「渴盤陁(陀)」(または「喝盤陁」、「訶盤陁」、「漢盤陁」などとも記される)という于闐と風俗の似た国があるそうで、あるいはこの「渴盤陁」人とも考えられなくはないが、そもそも史料上ではソグド諸国に比べて中国との交渉が少ないマイナーなオアシス国家なので、可能性は低いだろう。

 

 非ソグド姓のヴァンダクについては、養子などにより漢姓を冒したソグド人、ソグドとの関係性が深く(ゾロアスター教への改宗も含めて)文化的影響を受けた非ソグド人等といったケースが想定されるかな、と考えながら検索していたら、『新唐書』宗室世系表にすごいのが出てきました。

 漢王洪(高祖李淵の三兄)の後として「巴陵郡王盤陁」。

 宗室にもいるの!?

 管見の限り、『新唐書』宗室世系表以外で李盤陁は出てこないので、どのような人物だったのかは不明だが、さすがに生粋のソグド人ではないでしょうね…。母親(漢王の夫人)がソグド系という可能性はありそうだけど。

(と、書いていたが、『旧唐書』巻60宗室列伝では、李洪は鄭王に封ぜられており「無後」とのことなので、後裔がいなかったようだ。李盤陁については実在したのかも不明としか言いようがない)

 

 しかし、こうして見ると「ヴァンダク」を名乗っていた人々はそもそもソグド系でもなんでもなくて、ソグド人の社会進出が進み、西域風のファッションが盛行していた当時の流行の一環として命名されたのでは?とも思う。

 ディーン・フジオカとかファーストサマーウィカみたいに、それっぽい名前がカッコいい!という理由だったら、なんだかものすごく親近感が湧くんですけどね…。

 非ソグド姓ヴァンダクについては、もっと資料が出てきたら改めて考えてみよう。

*1:石見清裕『ソグド人墓誌研究』第五章「太原出土「虞弘墓誌」」(汲古書院、2016)

宋代の巫覡と疫病対策

 先日読んだ中村治兵衛『中国シャーマニズムの研究』(刀水書房、1992)は、唐宋時代の正史から小説、士大夫層による詩文に見える巫覡に係る記事を網羅して、彼らの存在形態と活動の実態を分析しており、面白いエピソードにも事欠かない好著だった。

 そのなかでも個人的に興味深かったのが、宋代では江南などの郷村には、医者や僧侶・道士がおらず、巫覡がそれらの機能を果たし、医療・信仰の中心となっている地があったという指摘。儒教的価値観を有する士大夫はそのような土地に赴任した際に、巫覡を禁圧して彼らを帰農させたり、医薬を任地に持ち込み広めたりと、公衆衛生の向上にも努めていたそうだ。

 医者のいない郷村にはそもそも医薬がなく、巫覡がまじないによって治病をしていたという、未開社会のような状態が、ルネッサンスにも比せられた中国文化の発展期たる宋代でも存在していたことが、個人的には衝撃的だった。

 以前読んだ鈴木継美『パプアニューギニアの食生活ー「塩なし文化」の変容』(中公新書、1991)では、パプアニューギニアのギデラ族が、著者が持ち込んだ医薬品を「マジック」と呼び、「お前のマジックは俺たちのマジックよりも強い」旨の発言をしており、彼らには「医薬」という概念がなく、治病は「マジック」の領分であり、近代社会から持ち込まれた医薬品も、彼らの世界におけるシャーマンのまじないと同類であるという認識に衝撃を受けたのだが、おそらくそれと近い世界観が、宋代の郷村社会にも広がっていたのだろう。

 現代日本に生きる僕たちの感覚では、まじない頼みの巫覡信仰より、地方官が持ち込んだ医薬の方が (それがどの程度のものであれ)治病に対して有効であろうと思うし、彼らが残した文献史料についても、基本的には同じ目線で読むことができるのだが、気になる点もある。

『西山真文忠公文集』巻44「葉安仁墓誌銘」から、墓主の葉安仁が泉州の恵安県丞だったときの事績を次のように訳している(原文は未載)。

番俗は呉楚の旧をまじえ、春・夏に疫がおこると、おおむねただ巫にこれ聴くのみであり、骨肉と雖も絶ってあい往来させなかった。葉は文をつくってこれを石に刻んでさとし、医をえらんで病人をみさせ、そのみたてに随って療治し、あるいは病を扶けた。来って告げるものがあると、自ら問うてこれに薬をあたえ、貧しくて自給できないものには、銭もしくは粟をおくったので、全活したものは甚だ多かった

 洪州の知事であった夏竦の上奏「洪州請妖巫奏」においても、巫覡の治病の一環として、病人を完全に隔離して家族にも会わせないという方法があげられている。

民病、則門施符咒、禁絶往還、斥遠至親、屏去便物。家人營藥、則曰神不許服。

巫は神への祈祷咒いによってのみ病気がなおるといい、家の入り口の門に符咒(日本でいうお札)をはったあと、人の出入りを一切禁じ、家人が病人に薬を吞ませようとしてもこれを許さない。

 完全に人との接触を断ち、薬も食事も与えないということなので、もちろん治るものも治らないのだが、医薬がなく、祈祷にたよるしかない未開社会では、病人を隔離して、他者への感染を防ぐというのは、これまで当地を襲った数々の疫病への対策で蓄積されてきた経験知による判断なのかもしれない。疾病に有効な医薬がないので、せめて患者を隔離してそれ以上の感染拡大を防ぐという、江戸の火消しが延焼を防ぐために家屋を壊すような消極的対処法だったのではないか。

 家族に新型コロナ感染者が出た場合の家庭内隔離に関わるニュースを見ながら、巫覡の治病にも相応の合理性があったのでは、とふと思ったので、メモとしてブログに記しておく。

  漢籍上にあらわれる儒仏道以外の民間信仰を淫祠邪教と見なして排斥する士大夫たちの価値観は、あくまでも当時の社会の一面でしかないことは、よく認識しなくてはならないだろう。