壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

ソグド系ウィグル武人の肖像―五代人物伝(1)何重建

 唐末五代の代北に勢力を伸長し、のちに後唐を建国した李克用父子率いる沙陀集団には多数のソグド系武人が存在したことが夙に指摘されているが、森部豊氏の一連の論著で取り上げられるように、彼らの淵源としては唐代にオルドスに設置された突厥遺民の羈縻州である六胡州の突厥化したソグド人(いわゆる六州胡)が有力視されている。

 沙陀集団に六州胡由来のソグド系武人が多数存在したことは確かであろうが、後晋高祖石敬瑭の祖先である石璟のように、沙陀が代北へ東遷する以前から従っていたソグド人も存在しており(沙陀系王朝が華北を支配していた五代では、『旧五代史』康福伝に見えるように、古くから沙陀と関わりがあるほど門族が高いとみられていた形跡があり、石敬瑭の太原石氏についても家門に箔をつけるために古くから沙陀に従属していたと詐称していた可能性もある)、実際には彼らソグド系武人の出自は多様である。

 その一例として、何重建(彼が仕えた後晋の少帝石重貴の諱を避け、のちに何建と改名)を取り上げよう。

『旧五代史』巻九十四・晋書二十・何建伝

 何建、其先迴鶻人也。代居雲・朔間。祖慶、父懷福、俱事後唐武皇為小校。建少以謹厚隸於高祖帳下、以掌廐為役、及即位、累典禁軍。遙領驩・睦二郡。天福中、自曹州刺史遷延州兵馬留後、尋正授旄鉞。數年之間、歷涇・鄧・貝・澶・孟五鎮節度使、累官至檢校太傅。開運三年、移鎮秦州。是冬、契丹入汴、戎王遣人齎詔以賜建、建憤然謂將吏曰「吾事石氏二主、累擁戎旃、人臣之榮、亦已極矣。今日不能率兵赴難、豈可受制於契丹乎!」即遣使齎表與其地送款於蜀、孟昶待之甚厚、偽加同平章事、依前秦節度使。歲餘、移閬州保寧軍節度使、加偽官至中書令、後卒於蜀。

 何姓はクシャーニャ(何国)出身のソグド人が中国において称した姓(ソグド姓)であり、ウィグル人(迴鶻人)でありながらソグド姓を冠する何重建の家系についてもソグド系であると考えられる。先祖はウィグル人で代々雲州・朔州に居住していたとあるが、おそらくこれはウィグル内部にコロニーを形成していたソグド人が唐朝の北辺に内附したものであろう。

 突厥、ウィグル、吐谷渾など、当時の遊牧勢力にはブレーンとしてソグド人が存在しており、ソグド語が国際共通語として機能していた東ユーラシアでは外交官としても活躍していた。彼らはソグド人特有のネットワークや折衝能力から外交・交易に従事するだけでなく、遊牧民のなかで生活することで騎射技術を習得し、遊牧武人化する傾向があった。森部氏が六州胡のように突厥内部にコロニーを形成して遊牧武人化したソグド人を「ソグド系突厥」と称したように、当時の遊牧勢力にはソグド系ウィグル、ソグド系吐谷渾ともいうべき遊牧武人化したソグド人が多数存在したと考えられる。

 何重建の祖先もおそらくはそういった遊牧武人化したソグド系ウィグルであったのだろう。祖父の何慶、父の何清福がともに武人(「小校」)として李克用に仕えており、何重建自身も石敬瑭の旗下で厩の管理をしていることから、彼の代まで遊牧武人的性格を維持し、馬の扱いに習熟していたと考えられる。『九国志』には「重建初事晉祖為奉德馬軍都指揮使。」とあり、後晋の禁軍のひとつである奉徳軍で馬軍を率いていたようだ。

 その後、何重建は禁軍軍将として中央にありながら驩州・睦州の刺史を遥領し(驩州は南漢、睦州は呉越の版図のため名目的なものであった。五代の禁軍軍将や藩鎮牙将には、彼らの地位が州長に相当することを示す名誉職として州刺史を遥領する事例が多い)、曹州防御使として地方へ転任したのち、天福7年(942)、彰武軍留後となるが、その経緯は以下のとおりである。

資治通鑑後晋紀四・高祖・天福七年の条

 彰武節度使丁審琪、養部曲千人、縱之為暴於境內、軍校賀行政與諸胡相結為亂、攻延州、帝遣曹州防禦使何重建將兵救之、同・鄜援兵繼至、乃得免。二月、癸巳、以重建為彰武留後、召審琪歸朝。重建、雲・朔間胡人也。

 当時の彰武軍節度使の丁審琪の横暴から、部将の賀行政が彰武軍管内の「諸胡」と結託して叛旗を翻すが、曹州防御使であった何重建がこれを鎮圧し、丁審琪更迭後に留後として彰武軍を預かることになる。何重建は「謹厚」と評されたその性格のせいもあろうが、善政を敷いて民衆を安んじたため(『九国志』には「下車諭以威福、邊民安堵、就加彰武軍節度使。」とある)、のちに正式に彰武軍節度使を拝命するのだが、オルドスに設置された延州の反乱鎮圧と丁審琪の後任に、遠く河南の曹州にいた彼がわざわざ選ばれた理由として、ソグド系ウィグルの血を引くことが挙げられないだろうか。

 唐代では「胡」はソグドを意味する用例が多く、彰武軍管内の「諸胡」とはソグド人を指す可能性がある。また、彰武軍の治所である延州には唐朝に内附したウィグルの白霫部などが安置されており、「諸胡」にウィグルを含む場合、何重建のソグド系ウィグルという血統が、彼らの統治に資すると期待されたのではないだろうか。

 『新唐書』巻二百一十七上・回鶻伝上

 帝更詔時健俟斤它部為祁連州、隸靈州都督、 白霫它部為居延州。

 また、唐代の延州には種族は不明ながら「安塞軍」という軍鎮に組織された非漢族部落があり、「諸胡」がこの末裔である可能性も考えられよう。無論、この「蕃落」がウィグルであった可能性も否定できない。

旧唐書』巻十三・徳宗本紀下・貞元十年三月の条

 辛丑、以延州刺史李如暹所部蕃落賜名曰安塞軍、以如暹為軍使。

 

 以上のように何重建の半生から遊牧武人的・ウィグル的特質を垣間見てきたが、彼ら何氏を輩出した雲州・朔州のウィグルは、そもそもどういった経緯でこの地へ移住してきたのだろうか。

『旧五代史』巻五十三・唐書二十九・李存信伝

 李存信、本姓張、父君政、迴鶻部人也。大中初、隨懷化郡王李思忠內附、因家雲中之合羅川。存信通黠多數、會四夷語、別六蕃書、善戰、識兵勢。

 李克用の有力仮子のひとりである李存信(もとの姓名は張汚落)の父・張君政もウィグル部の人であり、大中年間(847~859)の初めに懐化郡王李思忠に従って唐に帰順、雲中郡(雲州)の合羅川に居住したという。李思忠はもとの名を嗢沒斯といい、ウィグルのテギン(王子)であったが、ウィグル可汗国の崩壊により開成5年(840)に唐へ帰順し、その一族を雲州・朔州の間に安置されており、張君政や何氏のルーツはこのウィグル遺民と考えられよう。

新唐書』巻二百一十七下・回鶻伝下

 嗢沒斯請留族太原、率昆弟為天子扞邊、帝命劉沔為列舍雲・朔間處其家。

 沙陀集団はこのように嗢沒斯率いるウィグル遺民にルーツを持つウィグル系遊牧武人も内包しており、多様な種族から構成されていたことがわかる。李存信が「四夷語」を理解し、「六蕃書」を使い分けられたというマルチリンガルだったことからも、彼の育った代北が多種族混淆の地であったことがうかがい知れるが、想像をたくましくすれば、出自を同じくする上にソグドの血を引く何重建にも同様の能力が期待され、「諸胡」が跋扈する延州の反乱鎮圧と統帥を任されたのではないだろうか。

 

 さて、後晋は少帝(出帝)が即位し、対契丹強硬路線を貫いたため、度重なる契丹の侵攻を招くこととなった。何重建は彰武軍節度使から涇州・鄧州・貝州・澶州・孟州の節度使を歴任しつつ、対契丹の防衛戦にも従事していたが、開運3年(946)には対契丹前線からは遠い陝西の秦州節度使に転任する。この年の冬にみやこ開封契丹により陥落、少帝も北方へ連れ去られ、後晋は滅亡するのだが、各地の節度使契丹の招撫に続々と応じるなか、「私は石氏二主に仕え、節度使として人臣の位を極めた。今日の難を救えず、どうして契丹の制を受けられようか」と憤り、秦州をあげて後蜀に帰順してしまう。石敬瑭の子飼いとして立身したためか、裏切りの横行する五代では珍しく忠節を貫いた何重建だったが、亡命先の後蜀で重用されつつも当地で没しており、ソグド系ウィグル武人というその個性をつくりあげた故地へ帰ることは二度となかったのである。

【虫注意】あの娘ぼくがゴキブリ食べたらどんな顔するだろう

 先日、学生時代の後輩の結婚式に招かれ、横浜へ行ってきた。

 十数年の付き合いになる後輩とは、学生時代はよく一緒にバカをして遊んだものだが、そんな彼女も明日は花嫁。彼女の幸せを祝う気持ちの裏に、娘を送り出す父親のような一抹の寂しさも覚える。僕がもう少し若ければ、式の前夜にバチェラー・パーティーのようにバカ騒ぎをして、この寂しさを紛らわしたのかもしれない。

 しかし、僕もすでに三十を超えたいい大人だ。昔のようにバカはできない。落ち着いた雰囲気の店で学生時代の思い出を肴にしっぽりと飲み、彼女の未来を祝福しよう。挙式前夜、僕は式に参列する他の後輩を引き連れ、野毛にある一軒のバー居酒屋の扉を叩いた。

 

 店の名は、

 

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 珍 獣 屋

 

 コンセプトは、店名とメニューからだいたい察しがつくだろう。

 

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 そう、大人がしっぽり飲むのにふさわしい、落ち着いた雰囲気のお洒落バー居酒屋だ。

 一緒に来た後輩にも「好きなもの頼みな」とメニューを渡す。

 

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 後輩「いや、ほとんど食べたことないものなんですが…」

 

  遠慮しなくていいのに、と思いながら、僕は適当に見繕って注文する。

 

 まず一品目はラニアの刺身

 

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 旨味の濃い白身魚で、普通に美味しい。もっと生臭いものかと思っていたが、臭みはほとんど感じられず、食べやすい。言われなければヒラメと勘違いしそうだ。

 

 続いて蛾の幼虫の唐揚げ

 

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 白っぽいミルワームのようなビジュアルを想像していたが、カラッと真っ黒に揚げられた姿はどんぐりのようで愛らしい。これなら虫が苦手な僕でも食べられそうだ。

 カリカリの外皮(殻?)を歯で破ると、ブチュンクリーミーな身肉が弾け、口腔にまったりとした淡白な味が広がる。

 

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 外はカリカリ、中はとろふわ。食感は美味しいたこ焼きと一緒である。味については後輩が「白和えみたい」と冷静に評していたが、たしかにそのとおりだと思った。

 

 そして想像以上に大きいワニの一本揚げ

 

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 僕がいままで食べてきたワニ肉はカットされたステーキだったので、皮付きの肢一本丸ごとははじめて。とにかくデカい。そして歯ごたえのある鶏肉のような味わいで、なかなか美味い。店員さんによればイリエワニらしいが、どこから輸入されたものかは教えてくれなかった。

 

 ウサギの肉焼き

 

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 こちらも鶏肉に似ており、まったく抵抗を覚えずに食べられるお味。逆にいえばこれまで食べてきたメニューに比べるとパンチが弱い。

 

 こちらは猪のキ〇タマ炙り焼き

 

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 もう名前だけで男子はタマヒュンな戦慄メニュー。4等分に切って炙られてるんだぜ。

 しかしビジュアルも味もレバーに近く、その部位から想像するような生臭みもない。ビールによく合う、非常に食べやすい一品だった。

 

 そしてラストはこちら、ゴキブリの唐揚げ

 

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 ゴキブリといってもチャバネなどの日本の品種ではなく、デュビアという南米産ゴキブリとのこと(和名はアルゼンチンモリゴキブリ)。ゴキブリの唐揚げですらハイカラとは、まったく横浜には恐れ入る。

 頭からバリバリかじりつくが、香ばしくて意外と食べやすい。カブトムシのような腐葉土臭もなく、何より中身を感じさせない煎餅のようなクリスピー食感に救われた。うん、これはイケる。

 

  僕らはゴキブリをかじりながら、ワニ肉に舌鼓を打ちながら、学生時代の思い出話や明日花嫁となる後輩の話に打ち興じた。

 僕らはもういい大人だ。学生時代のようにバカばかりはできない。それでも、こうして思い出話に花を咲かせている束の間、あの頃に戻ったかのように錯覚する。いまより金はなくとも、ずっと自由で、輝いていた日々。おなじ時代を呼吸した大切な仲間たち。明日花嫁となる後輩の顔を脳裏に思い描く。

――幸せになれよ。

 前歯にはさまったゴキブリの肢をせせりながら、僕は彼女の幸せを祈った。

 

弐師将軍、神になる

 東洋陶磁美術館の唐代胡人俑展で出会った数々の魅力的な胡人俑、それらが出土した墓の主は穆泰という唐代中期の武人だった。穆泰の素性についての個人的な見解は前回の記事に書いたが、今回は彼の墓誌で気になった箇所を深掘りしていきたい。

ano-hacienda.hatenablog.com

  

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穆泰墓誌

 霊州という西北辺防衛の中心地で活動していた穆泰だが、墓誌中では、中宗の神龍3年(707)に定遠城大使に任ぜられたくだりに続き、辺境での活躍を後漢の耿恭と前漢の李広利になぞらえられている。

  『唐故游撃将軍上柱国前霊州河潤府左果毅穆君墓誌銘』

 耿恭設拝之地、久戍忘歸。廣利刺山之境、一從征戦。下葱山而入蒲海、出鴻門而歴鶏田。赤心事君、忠誠報國。

 このうち李広利に関する文言について、唐代胡人俑展の図録掲載のテキストでは「廣利郟山之境」としているが、墓誌の実物を見る限り「郟」ではなく「刺」である。後述する李広利にまつわる伝承からも「廣利刺山之境」とするのが自然。「下葱山而入蒲海」についても、図録では「葱山」を「窓山」としているが、実物を見る限りでは「窓」とは判読しがたく、続く「蒲海(バルクル湖)」と対になっていることも勘案すれば「葱山(葱嶺と呼ぶ方が一般的。パミール高原を指す)」と解釈すべきだと思う。

 胡人俑展は多彩な胡人俑も魅力だが、ふだん活字化されたテキストや拓本でしか見る機会のない墓誌の実物を見て、間近で写真を撮り、自宅や研究室で内容を検証するという、日本にいては得難い経験もできるので、石刻史料に興味のある大学生や東洋史クラスタはどんどん行くべき。

 さて、当該箇所の大意としては「後漢の耿恭が籠城中に地を拝礼した故事のように、穆泰が任地に長く駐屯し続けたことは帰心を忘れるほどであり、李広利が遠征中に山を刺した伝承のように、ずっと遠征に従っていた。葱山(パミール高原)や蒲海(バルクル湖)などの西域方面へわたり、鴻門県や(テュルク系阿跌部の羈縻州である)鷄田州などの関内道各地にも転戦した。まごころをもって君に仕えて忠誠を国に捧げた。」くらいの意味だろう。個人的には「葱山」や「蒲海」は漠然と西域を象徴する地名で、実際にそれらまで出征していたかは疑問だが、「鴻門」や「鷄田」という卑近な地名には具体性が感じられる。ともあれ穆泰は関内道における辺防だけでなく、行営軍に組み込まれて西域まで転戦していたのかもしれない。

 

 しかし今回の記事で僕が深掘りしたかったのは穆泰の経歴ではなく、墓誌中の李広利の評価である。この時代、墓誌に限らず詩でも上奏文でもおよそ文章というものは何らかの典拠に基づいて綴られることが常識で、要するに元ネタありきの会話ばかりするオタクみたいなものだが、墓誌は墓主の生涯を顕彰する内容のため、基本的には経書に記された美辞麗句や歴史上の偉人のポジティブエピソードを典拠に、墓主を褒めたたえる傾向がある。穆泰の場合は匈奴を相手に西域で熾烈な籠城戦を繰り広げた後漢の耿恭と、汗血馬を求めて大宛へ遠征した前漢の李広利が元ネタとして引用されている(実は後段におなじく塞外で活躍した将軍である班超や李広の名も出てきているのだが、今回のネタとは関係がないので割愛)。耿恭はわかるけど、李広利…?

 李広利といえば、漢の武帝の寵姫である李夫人の兄というコネで出世して、大宛遠征の総大将に抜擢されたはいいが、補給が続かず一度は撤退、膨大な兵員と物資を供給された二度目の遠征で多大な犠牲を払ってようやく大宛を征服し、名馬を持ち帰ったという、劣化版衛青のような外戚出身将軍である。自身の愛する女の兄弟を起用してみたら想像以上に有能だったという衛青、そしてその甥の霍去病という成功体験に引きずられた武帝が三匹目のどじょうを狙ってつかまえた雑魚、というイメージが一般には強いのではないか。何よりも後に彼が匈奴に敗れて降伏したことで、奮戦むなしく匈奴に降った李陵は漢への復帰の望みが絶たれ、李陵を弁護した司馬遷宮刑に処せられるという悲劇の連鎖を生み出したことは、中島敦の『李陵』で周知のとおり。

 現代日本ではそんな悪評嘖々たる李広利だが、彼の同時代や穆泰の生きた唐代では、はたして評価が高かったのだろうか?

   『史記』巻123 大宛列伝

 貳師後行、軍非乏食、戰死不能多、而將吏貪、多不愛士卒、侵牟之、以此物故眾。天子為萬里而伐宛、不錄過、封廣利為海西侯。

  大宛遠征における漢軍は将吏が貪婪で士卒を愛さず食い物にしていたというから、軍紀の紊乱がひどかったのだろう。武帝もわざわざ万里を越えて遠征したのだからと過失については目をつむって李広利を褒賞している。つまり同時代人から見ても手放しで褒められるような功績ではなかったのだ。

 そして穆泰の生きた唐代でも李広利の悪評は健在だ。

 高昌国を滅ぼした唐初の将軍侯君集は素行不良で、占領地で財物の私物化など不正を犯して罪を得たが、中書侍郎の岑文本が彼を弁護した際に、李広利を引き合いに出している。

  『旧唐書』巻69 侯君集伝

 昔漢貳師將軍李廣利捐五萬之師、糜億萬之費、經四年之勞、唯獲駿馬三十匹。雖斬宛王之首、而貪不愛卒、罪惡甚多。武帝為萬里征伐、不錄其過、遂封廣利海西侯、食邑八千戶。

 李広利は5万の兵を損ない億万の費用を費やし4年もかけて得たものがたったの駿馬30頭、大宛王の首こそ得たものの兵を愛さず罪が多かった。それにも関わらず過ちは記録されず封侯されたとボロクソに評している。部下に功罪ふたつにあれば、主君たるもの罪過は忘れて功績を記録してやるべきであり、漢の武帝も李広利の功績を評価して罪を不問にしてるのだから、さらに賢明な太宗が侯君集を処罰することはないでしょう?というロジックである。ちなみに前漢の将軍で匈奴の郅支単于を滅ぼした陳湯も、同様に財物の私物化など素行不良のため罪を得たが、同じ文言で宗正の劉向に弁護されている。

  『漢書』巻70 陳湯伝

 貳師將軍李廣利捐五萬之師、靡億萬之費、經四年之勞、而厪獲駿馬三十匹、雖斬宛王毌鼓之首、猶不足以復費、其私罪惡甚多。孝武以為萬里征伐、不錄其過、遂封拜兩侯・三卿・二千石百有餘人。

 つまり岑文本の侯君集弁護は劉向の陳湯弁護を典拠としていたのだろう。

 また、時代は下って9世紀初頭の徳宗朝。ときの宰相賈耽は地理学好きが高じて『海内華夷図』と『古今郡国道県四夷述』という地理書を徳宗に献上する際、上表中で唐の諸帝の版図拡大における功績について言及しているが、そこにも李広利が登場する。

  『旧唐書』巻138 賈耽伝

 玄宗以大孝清內、以無為理外、大宛驥騄、歲充內廐、與貳師之窮兵黷武、豈同年哉。

 玄宗の御代にはいにしえの大宛の名馬のような駿馬が溢れており、李広利がわずかな名馬を得るために無益な血を流したことと同日に論ずることができないと、玄宗をアゲるためのダシに使われている。

 唐では官僚が「効率の悪い仕事をした先例」として李広利をあげるのがパターン化しているようにも見える。そしてそのパターンはすでに李広利と同時代の漢代に形成されており、唐代そして現代まで連綿と続いていたのである。

 

 ここまで悪評ばかり取り上げてきた李広利だが、それでは墓誌で引き合いに出されるほどの彼への好意的な評価とはどのようなものだったのか。まずは李広利と並んで穆泰墓誌であげられた後漢の耿恭の伝から見ていこう。

   『後漢書』巻19 耿恭伝

 恭以疏勒城傍有澗水可固、五月、乃引兵據之。七月、匈奴復來攻恭、恭募先登數千人直馳之、胡騎散走、匈奴遂於城下擁絕澗水。恭於城中穿井十五丈不得水、吏士渴乏、笮馬糞汁而飲之。恭仰歎曰「聞昔貳師將軍拔佩刀刺山、飛泉涌出。今漢德神明、豈有窮哉。」乃整衣服向井再拜、為吏士禱。有頃、水泉奔出、眾皆稱萬歲。乃令吏士揚水以示虜。虜出不意、以為神明、遂引去。

 後漢明帝の永平18年(75)、西域に駐屯していた耿恭は、澗水という川が側を流れている利点からカシュガル(疏勒)に拠点をおいたが、攻め寄せた匈奴が城下において澗水を堰き止めてしまった。城中では井戸を十五丈まで掘っても水が出ず、士卒は渇きに苦しみ、馬の糞汁を絞って飲むありさまだった。耿恭は天を仰ぎ「昔、弐師将軍李広利が佩刀を抜いて山に刺すと、噴泉が湧き出てきたと聞く。漢の徳が明らかないま、何を窮することがあろうか」と気を吐いた。そこで衣服を整え井戸に向かって再拝し、部下のために祈ったところ、水が勢いよく湧き出し、兵はみな万歳を唱えたという。

 耿恭の生きた後漢代には、大宛遠征時の西域においてか匈奴遠征時の漠北においてかはわからないが、李広利が進軍中に湧き水を探り当てたという伝承があったようだ。刀を刺した地から泉が湧き出るなんて、空海かよ。いや、こっちの方が先だけど。

 穆泰墓誌に見える「耿恭設拝之地」、「廣利刺山之境」という字句の典拠は、彼らが渇きに苦しんでいたときに地を拝礼あるいは佩刀を刺すことで泉水が湧き出た故事に因んでいるのだろう。つまり、李広利に対する好意的な評価というのは、大宛遠征の多大な損耗や匈奴遠征の失敗というような大局から見たネガティブな評価とは切り離した、窮地にあって湧き水を見つけたという、あくまでも現場レベルでの局地的功績によるものなのだろう。上述してきたように漢唐では中央の官僚が功罪半ばする将の事例として李広利をあげるのに対し、後述するように西域の砂漠地帯という現場で活動する将士の間では、李広利は神秘的なイメージを帯びて語られている。

 穆泰の生きた唐代においても李広利の湧水発見伝説が生きていたことは正史からも見受けられる。

 穆泰と同時代である唐の高宗の調露元年(679)、西域通の裴行倹は滅亡したササン朝ペルシャの亡命王子ナルサス(泥涅師)というどこかで聞いたような設定のキャラを復帰させる名目で西域へ出兵しているが、砂漠で遭難してオアシスを発見した際に、李広利に例えられている。
  『旧唐書』巻84 裴行倹伝

 因命行儉冊送波斯王、仍為安撫大食使。途經莫賀延磧、屬風沙晦暝、導者益迷。行儉命下營、虔誠致祭、令告將吏、泉井非遙。俄而雲收風靜、行數百步、水草甚豐、後來之人、莫知其處。眾皆悅服、比之貳師將軍

 風砂に視界を遮られ、案内人すらも道がわからなくなったときに、裴行倹は祭祀をおこない、士卒に「近くに泉があるぞ」と告げる。たちまち雲は消え風は静まり、歩くこと数百歩で豊かなオアシスにつきあたった。しかも後から来た者には探しあてられなかったというから桃源郷のような神怪な話である。この奇蹟によって部下がみな裴行倹をリスペクトして李広利になぞらえたというから、李広利の湧水発見伝説は7世紀半ばにも知られていたのだろう。

 ここまで李広利の湧水発見伝説にならって自身も湧き水を発見した人物の事例をあげてきたが、異なるパターンも存在する。

  『晋書』巻122 呂光載記

 光乃進及流沙、三百餘里無水、將士失色。光曰「吾聞李廣利精誠玄感,飛泉涌出,吾等豈獨無感致乎。皇天必將有濟、諸君不足憂也。」俄而大雨、平地三尺。

 後涼の太祖である呂光が前秦の部将として西域へ出兵した際、やはり砂漠で水不足に陥り軍が恐慌をきたしたが、「李広利のまごころに感応して泉が噴きあがったと聞くが、我らにも験がないわけがない。諸君は心配するな」と励ましたところ、湧き水の噴出ではなく大雨が降ったという。もう「とにかく砂漠で水に困ったら李広利に頼ればいい」みたいになってるな。

 しかし補給が続かなくて遠征に失敗した李広利に湧き水を発見したという伝承があるのは実に皮肉な話だ。 李広利の第2回遠征軍は人数が多すぎるため個々のオアシス都市国家では全軍の補給が賄えないことをおそれて数軍に分かれたとのことなので、あるいは分遣隊が湧き水を発見したという事実はあったのかもしれない。

 李広利の湧水発見伝説が西北方面で知れ渡っていた証のひとつとして、彼を讃える詩も存在する。ペリオが将来した敦煌文書にある「沙州燉煌二十詠」という、唐末の敦煌の風物を詠んだ一連の詩篇中に、李広利が発見したとされるオアシスの由来をうたった一篇がある。山田勝久「唐代の西域文学―敦煌二十詠の世界―」(同『唐代文学の研究』笠間書院 1984 所収)より以下に引用する。

弐師泉詠

賢哉李広利  賢なる哉 李広利、

為将討兇奴  将と為りて兇奴を討つ。

路指三危逈  路は三危を指して逈(とお)く、

山連万里枯  山は万里に連なりて枯る。

抽刀刺石壁  刀を抽(ぬ)いて石壁を刺し、

発矢落金鳥  矢を発して金鳥を落とす。

志感飛泉湧  志感じて飛泉湧き、

能令士馬甦  能く士馬をして甦ら令(し)む。

  訳も山田訳で引用する。

 賢人であることよ李広利は、将軍となって匈奴を討伐した。その路は三危山を指標として遠くつづき、山は果てしなく連なり、見わたすかぎり荒涼としている。伝説によれば、李広利の軍に水が渇乏した時、将軍は佩剣を以て山の石壁を刺し、太陽を弓矢で射落としたという。その志に感じて飛泉が湧き出で、兵卒や馬を蘇生させることができた。

 内容を端的にまとめれば、「広利の心は母心、刺せば命の泉湧く」ということだが、山の石壁を刀剣で刺して泉水を湧出させただけでなく、太陽を射落としたという尾ひれまでついている。山田氏によれば、「前漢の李広利将軍の志に感じて、泉が湧き出てきたという伝説は、『沙州都督府図経』に詳しく、また『敦煌録』には、『弐師泉は沙州城の東、三程ほど離れたところにある。漢の時代に李広利の軍は、進軍中に水が欠乏してきた。そこで将軍は山の神を祭り、腰の剣を抜いて山を刺したところ、そこより水が流れ出てきた』とある。昔からこの弐師泉には、こうした伝説が地域の人々に語り継がれていたことが分かる。」とのことで、弐師泉という地元のオアシスに、李広利の湧水発見伝説が結びついたものと考えられる。砂漠を旅する者にとって重要な水を見つけ出した李広利は、中央での低評価とは別に、敦煌を中心とした西北方面では、半ば神格化されたローカルな英雄となっていたのだ。

 史実の李広利は匈奴への遠征中に、一族が巫蠱に連座して処刑されたことを聞き、帰る場所を失い匈奴に降伏したが、彼を妬む同じ投降漢人である衛律の讒訴によって単于に殺される。

  『漢書』巻94上 匈奴伝上

 貳師在匈奴歲餘、衞律害其寵、會母閼氏病、律飭胡巫言先單于怒、曰「胡攻時祠兵、常言得貳師以社、今何故不用。」於是收貳師、貳師怒罵曰「我死必滅匈奴。」遂屠貳師以祠。會連雨雪數月、畜產死、人民疫病、穀稼不孰、單于恐、為貳師立祠室。

 李広利は死の間際に「俺は死んでも必ず匈奴を滅ぼしてやる」と罵ったが、その死後数ヶ月にわたって雪が降り続き、家畜が死に、人びとは疫病にかかり、穀物も実らないという天災に見舞われたため、単于がたたりと恐れて彼のために祠堂を立てたとのこと。漢と匈奴、どちらにおいても居場所を失った李広利は、皮肉にも匈奴ではたたり神として、漢では砂漠に泉水を湧き出させた英雄として半ば神格化され、畏敬を集めることになった。

 穆泰が西域へ遠征していたならば、おそらく李広利の湧水発見伝説を耳にしたことだろうし、彼の終焉の地である慶州においても知れ渡っていたからこそ、墓誌に典拠として編み込まれたのだろう。穆泰墓の発見は、胡人俑によってシルクロードを行き交う「胡人」たちの姿態を蘇らせただけでなく、墓誌によってシルクロードの流砂に埋もれた不遇の英雄の伝承をも掘り起こしたのかもしれない。

唐代胡人俑展雑感

 先日、館長が出川哲朗であることでネット上で有名な大阪市立東洋陶磁美術館へ胡人俑を観に行った。2001年に中国は甘粛省慶城県で発掘された、唐の武人・穆泰の墓の出土遺物のうち胡人俑など60点を将来した特別展、しかもその大量の展示品はすべて写真撮り放題という太っ腹な展示である。ヤバいよヤバいよ。

 まず出迎えてくれたのは、凛々しい顔立ちに幞頭をかぶり、緑地に朱色の半円を描いた鮮やかな縁取りの胡服をまとった胡人俑である。

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 右腕を上げたポーズから、馬を牽く牽馬俑と見られているようだ。開いた襟の先端に円い留め飾りがあり、ボタンダウンのように見える。

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 続いて深目高鼻のいかにも中央アジアイラン系民族といったビジュアルに宝相華文の縁取りが鮮烈な褐色の胡服の胡人俑。これも馬かラクダを牽いていたのかもしれない。

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 やたらと尖った胡帽の裏地や胡服の縁取りにおしゃれ心が垣間見える、ウィンクして腕まくりのいきいきとしたビジュアルのソグド・ガイ。「俺のラクダに乗ってきなよ」とかいいそう。

 

 そして今回の展示で一番強烈だった胡人俑がこちら。 f:id:ano_hacienda:20180114151921j:image

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 スキンヘッド、2,3人殺してそうないかつい顔面、シャベル状のバリっと固まったあごひげ、胡服を大きくはだけて魅せる、垂れた乳首と太鼓腹、そしてみっしりと描かれたギャランドゥー。くやしいけれどお前に夢中な圧倒的インパクト。両手を背後に回しているので手もとが見えないが、小指とか欠けてそう。

 腹を出した胡人俑は幻術を披露しているとも、滑稽戯の役者ともいわれているようだが、個人的にはどうしても「腹の垂ること膝を過ぐ」と形容されるほどの肥満体にも関わらず胡旋舞を得意とした安禄山のイメージが重なってしまう。ちなみにあごひげの付け根に円い突起があることから、付けひげの可能性もあるらしい。キャラ設定が複雑すぎる。

 

f:id:ano_hacienda:20180114152044j:image  そしてツイッターでも話題になっていた、どこかで見たようなヒョウ柄パンツとポーズが印象的なピ胡太郎。宙に浮いた両手はアップルとペンではなく、これも馬かラクダの手綱をつかんでいたものらしい。ちなみに胡人俑でもソグドではなくインド系と目されているようだ。

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 ラクダと胡人の欲張りセット。どうでもいいけどみんな胡服の縁取りが派手だな。大学生かよ。 f:id:ano_hacienda:20180114152851j:image

 

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 こちらはふっくらとした柔和な顔立ちに花柄の胡服が優男感を醸し出している。HAREとか好きそう。

 しかしこれを含めて展示品には胡服こそ着ているものの彫りの浅い顔立ちの俑も混在しており、胡服を着て馬やラクダを牽いてそうなポーズをとってはいるが、彼らは当時の流行ファッションの胡服を着ただけの漢人(でなくともモンゴロイド)のように素人目には見える。「史」や「曹」などの漢人にも多いソグド姓を冠しているだけで、対象をソグド系認定する研究者のような杜撰さを感じる。

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 こちらは参軍戯という漫才の俑と目されているが、立ち姿がぬらりひょんっぽい。しかし深目高鼻のソグド人が漫才をする姿は当時の漢人にはどのように映っていたのか。現代日本人が厚切りジェイソンを見るような感じだったのか。

 

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 古代日本なら「みずら髪」の男子と見なされるところだが、「双垂髻」という女性の髪形らしく、この俑も女性の可能性が高いとのこと。けっこう彫りの深い美形じゃないでしょうか。

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f:id:ano_hacienda:20180114153518j:image  こちらも男装の麗人像とのこと。たしかに柔らかいフォルムとチークのようなうっすらとした紅が女性的。口の両側の頬の黒い点は「靨鈿」という化粧法らしいが、どういう効果があるのだろうか。額に朱く花文などをあしらう花鈿がポイントメイクとして華やかで可愛いのは現代日本人の感性でも理解できるが、これは口もとにほくろがあるとエロいとかそういう類のものなのだろうか。

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 髪型もファッションも多彩な女俑。二人とも顔はふくよかな典型的盛唐美人。ハイウエストできちんと感を演出。

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  またしても男装の麗人とのこと。額の花鈿、なで肩、柔らかいフォルムから女性と判断されているようだが、ファッションが婆裟羅すぎる。まず一番外側の胡服をだぼっと着崩しており、騎乗しやすいタイトさが身上のはずの胡服なのに、このオーバーサイズ。これもうボーイフレンド胡服ですよ。そしてその左肩を脱ぎ、黒地に大きめドットの服をのぞかせ、さらにその下に着た服のものなのか朱色のドレープが効いた袖を垂らし、左脚も胡服をたくしあげてベルトに挟み、朱色の地に白い小花柄のスカート(?)をのぞかせるという、レイヤードしまくりだがちゃんと色を拾って統一感を出す超上級者コーデ。慶城県は唐代の慶州で、みやこ長安からもそう遠くはないので、こういう尖ったファッションも流入してきたのだろうか。あるいは東漸してきた西域由来の最先端ファッションなのか。

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 こちらも「双垂髻」のようなので女俑と見られているが、ちょっとお顔がいかつすぎませんかね…。彫りの深さからすると胡人の女性と見られるが、もしかして、国際都市・長安を彩ったエキゾチックな「胡姫」たちもこんなビジュアルだったの…?「笑って入る胡姫の酒肆の中」じゃねーよ!少年も笑顔ひきつるよ!

 しかし、にらみをきかせた独特の表情や、どうも髪が不自然なことから「假髪(かつら)」を被って女装した男性の役者じゃないかという説もあるらしい。ここまで見てきた個性的な面々からして、穆泰墓の俑は大量生産された画一的な工業品ではなく、具体的なモデルがいたものと思われるが、この俑のモデルが本当に女性だったらめちゃくちゃ失礼な学説だな。

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 GANTZにいませんでしたっけ…? f:id:ano_hacienda:20180114154544j:image

 

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 はじめて見た跪拝俑。墓主の死を悲しむさまを象ったのかと思いきや、鎮墓獣(今回は出品されてないが穆泰墓からも出土しているとのこと)や武人俑と同じく墓室の入口付近において墓を守る役目があるらしい。

 

最後に穆泰墓誌。 f:id:ano_hacienda:20180114154752j:image

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 穆泰について、今回の展示の資料映像では、馬の俑を紹介してから、彼が授かった「游撃将軍」の職務に馬が資したのではないかという趣旨のナレーションが流れていたが、これはただの武散官(従五品下)なので職務とは関係がない

 墓誌にあらわれる彼の職について、勲官である「上柱国」(正二品)を除き、「行慶州洪徳鎮副将」、「霊州河潤府左果毅都尉」、「豊安軍副使」、「定遠城大使」を歴任したことがうかがえるが、豊安軍や定遠城は霊州の域内、屈曲部へ達する前、北流する黄河の外側(西側)に設置された軍鎮である。慶州の「洪徳鎮」については未詳だが、宋代の陝西路の環州に「洪徳砦」という対西夏の最前線の砦があったらしく、まあ、あれだ、きっとその辺だ。

 また、穆泰には霊州の折衝府に属していたと思しき肩書(霊州河潤府左果毅都尉)もあるが、彼が没したのは開元17年(729)のことであり、府兵制が崩壊していく時期に活動していたと考えられることから、実際には豊安軍や定遠城といった軍鎮の将校として辺防にあたっていたのではないか。

 さて、資料映像で示唆されていた馬との関わりについていえば、穆泰は鮮卑の血を引くものと考えられているらしく、おそらく漢化はしていただろうが、関内道中部に位置する慶州という土地に生まれ、周辺に監牧が設置され、西北辺防衛の要衝であった霊州で活動していることから、実際に馬とは縁が深かったのかもしれない。また、誌文中で後漢の耿恭や前漢の李広利ら対匈奴戦線で活躍した将軍に擬せられていることからも、突厥などの遊牧民族に対する辺防に従事した生涯であったことが読み取れる(わかったようなことを書いているけど工具書がないので墓誌は精読できません)。

 ちなみに穆泰の家系については「隴西天水」を本貫とし、曾祖父の「安」は「豪州司馬」、父の「表」は「任州録事参軍」とのことで、「豪州」は新旧唐書にも見えるがどこに設置されたかは未詳の州で、「任州」という地名は管見の限り他に例を見ないが、「州録事参軍に任」ぜられたと読めば、穆氏が居住していたと思しき慶州、または本貫の天水郡つまり秦州、はたまた穆安の任官後に豪州に住み続けていたならば当地の録事参軍に任ぜられたのかもしれない(穆安の肩書が「曽祖諱安、上(護)(軍)、任豪州司馬」と表記されているので、穆表の「任州録事参軍」も「任州」の録事参軍ではなく、「州録事参軍」に冠する州名が抜けたものと考えられる)。

 ただ、素人考えだが、穆安と穆表の官職はどちらも穆泰の功績による後の贈官ではないだろうか。二人の事績については、墓誌にありがちなことだが空疎な美辞麗句で治績を讃えるだけで具体性に乏しい。また、穆泰自身がゴリゴリの武人であり(彼の子も朔方軍に出仕している形跡がうかがえる)、遊牧系武人の家系では代を経るごとに漢化して文官を輩出するようになる傾向があるが、穆氏が鮮卑系である確証はないものの、ここではその流れが逆転している点が不自然に見える。そもそも穆泰の出自について、鮮卑説を提唱した李鴻賓論文を読んでいないため当否の判断ができないが、ソグド姓のひとつに数えられる穆姓を冠し、これだけ大量の胡人俑が埋葬されていたことから、個人的には穆泰自身がソグド系である可能性も考えたくなるのだが、今回の展示ではその点については一切指摘がなかったため、考えすぎかもしれない。そもそも穆姓を冠するソグド人の例が極端に少ないので(少なくとも石刻史料では未確認のはず)、判断は慎重にすべきだろう。いずれにせよ穆氏は非漢族的雰囲気を濃厚にまとった一族で、穆泰も辺防に非漢人将領を起用する唐朝の政策によって歴史の表舞台へ躍り出た、いわゆる「蕃将」だったのかもしれない。

 しかし決して高位とはいえない(従五品下)、いわば「いなか侍」のような武人であった穆泰の墓から出土した胡人俑たちがこれほど精彩に富み、紋切り型の大量生産品とは一線を画する豊かな個性に溢れていることは驚異的だ。河西回廊・漠北・山西・長安を結ぶ交通の要衝であり、多くのソグド人が通交・居住する霊州で活動し、そこから長安へ南下するルート上に位置する慶州に起居していたことからも、穆泰は日常的に、胡人俑で描かれたような多種多様な「胡人」たちと接していたのだろう。そして場合によっては彼自身も「胡人」だったのかもしれない。

  唐代胡人俑展は、個性豊かな胡人俑の写実性に驚き、オルドス周辺で活動していた武人の生活に思いを馳せられる、とても充実した内容だった。3月まで開催しているらしいので、唐代やソグド人に興味のある人はぜひ行くべき。

大阪関帝廟巡り

 関帝廟といえば、日本では中華街のある横浜と神戸が有名だが、中国人こそ多いが中華街があるわけでもない大阪にも存在するらしい。しかも2ヶ所も。

 そんな情報を得た僕は、初詣もまだ済ませていないことだしと、2ヶ所の関帝廟を訪れることにした。

 

  1軒目は天王寺にある黄檗宗の白駒山清寿院。

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 残念ながら、うかがったのが日曜日だったからか、普段は一般公開していないのか、中には入れなかった。しかし住宅街にオレンジ色の塀を巡らせた中国風寺院が忽然と現れるさまはインパクトが強い。

 参詣できなかったのは残念だが、関帝廟のブログがあるようで、けっこう頻繁に更新されている(僕のブログより更新頻度が高い)。

ameblo.jp

 ネットにも強いサイバー関帝。そのうちツイッターとか始めそう。

 

 2軒目は日本橋のチャイナモール上海新天地という中国人向けデパート内部にあるらしい。

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 この上海新天地、1階から3階まではラオックスの免税店が入っており、電化製品や服を買いに来る中国人観光客でにぎわっている。客も店員もほぼ中国人のようで、このときいた日本人は僕だけだったんじゃないか。

 4階には中華レストラン、6階には中国の食品や雑貨、本などを取り扱う総合スーパーが入っており、どちらかといえば地元に住む中国人向けのようだったが、ここが面白かった。

 様々な輸入物の冷凍精肉のなかに、前日に食べた犬肉もあった。

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 けっこうなお値段。前回の記事で、前近代中国では羊より低級な食肉だったのではと推測したけど、ポピュラーな肉ではないせいか、こちらの方が高いくらいだ。

ano-hacienda.hatenablog.com

 そのほか、豚の耳やら皮やら沖縄の市場でも見たような部位がごろごろしていたが、個人的にはじめて見たのがこちら。

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 豚のしっぽ。 どうやって食べるんだと思っていたが、クックパッドに「豚テール」のレシピが載っていた。

cookpad.com

 テールスープが多いらしい。ありがとうクックパッド

 そのほか酸梅湯や冰糖雪梨などのジュース、油条などの点心や総菜、香辛料なども売られており目移りしてしまう。

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孔明鎖」という知育玩具も。お前は何でも発明するな孔明

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 酒類コーナーには三国志紹興酒が並んでいた。魏は陳3年、呉は陳5年、なぜか蜀はなし。それぞれパッケージに曹操孫権が描かれている。やはりこと紹興酒に関しては呉の方が扱いが良いようだ。

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 これ、逆に並んでいるけど(黄色い方が陳5年の呉、赤が陳3年の魏)、細かいことは気にしない大陸的おおらかさが感じられる。

 両方とも買ってきて、家で飲み比べるが、魏は「攻撃的な吞み口が、全てを支配する」という惹句のとおり香りが強くて角の立った味わい。

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 呉の惹句は「睡大虎を呼び醒ます、洗練された吞み口」。僕のなかの中学2年生も呼び醒ますカッコいい惹句だ。味も香りもまろやかで飲みやすく、個人的には魏より呉の方が好き。

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 さて、肝心の関帝廟である。

 ラオックスに入ってすぐの階段を昇っていくと、中二階にまるで従業員入り口のように忽然と関帝廟が現れる

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 開けたらラオックスの従業員が制服に着替えてそうな雑さ。

 しかし「関帝廟の由来」に「中国本土の職人が手彫りで丁寧に作り上げたもの」とあるので、なかでは関帝が大事に祀られているのだろう。ありがたく参拝しようではないか。

 では、お邪魔しま~す。

 

 

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 関羽近っ!

 というか、内部がやたらと狭い。参拝スペースは2畳もないくらいの狭さで、もしかしてここ、以前は倉庫か何か?

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 いや、でもこんなに間近で関帝を拝めるなんて、なかなかないことだよ? 狭いライブハウスの方がアーティストとの距離が近くて臨場感もあって盛り上がる、あれと一緒じゃない?と自分に言い聞かせながら賽銭を入れ、香をたてる。お供え物は6階で買った冰糖雪梨。お供え物は持ち帰れと注意書きがあるが、皆さん置きっぱなしだ(僕は持ち帰りました)。

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 いざ参拝。

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 うーん、ご利益があるのかないのかわからないが、かくして僕の2018年の初詣は、必要最小限のスペースで祀り、お供え物も各自持ち帰らせることで処分の手間を省くという、中国的合理主義を具現化したような省エネ関帝廟となったのであった。

年頭狗肉

 戌年だから犬を食べよう。

 そんな短絡的な発想で僕が足を延ばしたのは、大阪のコリアンタウンとして名高い鶴橋のおとなり今里新地。鶴橋に比べると新興のコリアンタウンらしいが、近年はベトナム人も増えているらしい。そして飛田・松島・信太山・滝井と並ぶ「大阪5大新地」の一つ、つまり花街でもある。胡散臭いにおいがプンプンするぜ。

 夜に訪れた方が面白いのかもしれないが、数年前の生野区連続通り魔事件(韓国籍の男が、日本人であることを確認した相手を次々とめった刺しにしていった通り魔事件)の発生現場でもあるので治安面が不安ということと、単純に夜は予定があったので、午前中からランチがてら新地を散策することにした。

 今里駅から続く商店街を抜け、今里新地と思しき界隈を歩く。道行く人も韓国語を話していたり、東南アジア系の浅黒い顔立ちだったりと、国際色豊か。多く見かけるのは韓国料理屋、中華料理屋、カラオケスナック、一般の住宅か。そして、それらの合間にぽつりぽつりと点在する「料亭」。

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 まだ午前中で営業時間前のためか、人はいない。飛田のように店が一角に固まっているわけではなく、営業形態も軒先に嬢とやり手婆が座っているスタイルではなさそうだ。この写真ではわかりづらいが「今里花街組合」の赤ちょうちんがなければ、ただの料亭のように見える(真正面から撮影する度胸はなかった)。

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 ベトナム人も進出してきているとのことだが、僕が見かけたベトナム系の店は営業していないコーヒーショップのみ。

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 謎の新興宗教も。神道系らしいが詳細はググっても不明(真正面から撮影する度胸はなかった)。

 このほかに中華料理屋が多く、地域の避難所(近所の学校)の案内看板に日本語、英語、中国語、ハングルの4種類の表記があったので、今里には中国人も相当数住んでいるのだろう。花街、韓国人コミュニティ、ベトナム人コミュニティ、中国人コミュニティ、新興宗教というラインナップに、目当ての店に行く前にだいぶお腹いっぱいになるマッドシティぶりだった。

 

 さて、お目当ての韓国料理屋「開城食堂」である。開城なので韓国ではなく朝鮮系かもしれない。

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 ※外観の写真は撮り忘れたのでネット上の拾い画です。

 韓国料理で犬肉といえばポシンタン補身湯)である。人生初の犬肉。猫派の僕は犬に特別思い入れがないので、犬を食べるなんてかわいそうという情緒面での抵抗感はない。まあ猫が食べられる店があると聞けば躊躇せずに食べに行くけど。

 店に入ると一般の住宅のリビングのような部屋で老夫婦(?)が韓国のテレビを見ながら食事をしている。店員を探すと、夫婦のうちのオモニが韓国語と片言日本語のちゃんぽんで話しかけてきた。部屋の奥の電気をつけて別のテーブルに案内してくれる。あんたが店員かよ!?

 ポシンタンを注文すると老夫婦は2人とも厨房へ行くが、食べかけの食事はテーブル上に残したまま。食事中だっただろうに、なんかごめん…。

 テレビからは韓国のニュース、僕の隣のテーブルには食べかけのオモニたちの昼食。壁に牛カルビのメニュー写真がなければ一般の住宅のリビングと勘違いしそうな部屋に、韓国の実家に帰ってきたような錯覚すら覚える。

 そしてポシンタンが登場。

 オモニは終始笑顔で「カンコクジン?」「ポシンタン、ハジメテ?」と僕に話を振りながら卓上の荏胡麻、ヤンニョム、唐辛子を手際よくポシンタンに投入していく。愛想のよい人なんだけど「コレ、ダイジョブ?」と訊きながらノータイムでぽんぽん唐辛子を入れるのはやめてくれよ。入れる前に訊いてくれ…。

 そしてスプーンでよくかき混ぜてできあがり。

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 犬肉は赤身肉と、たっぷりコラーゲンが含まれていそうなぷるぷるの脂身がきれいに分離している。後の具材は小松菜のような謎の葉野菜。熱々のスープからいただくが、犬肉のくさみが出ているのか独特のクセを感じる。そして犬肉。ああ、うん、これはくさいねえ…。

 ネット上では「羊肉に似ている」「くさみが強い」という意見の多い犬肉だが、羊に似ているかどうかはともかく、たしかににおいが強烈だった。僕の乏しい人生経験ではちょっと他に例えようのない独特の獣臭で、なかなかスプーンが進まない。赤身肉はパサついた硬めの肉で、噛んでも特別旨みを感じられない。どういう犬種なんだろう。そして赤身肉ですら厳しいのに、もともと牛や豚でも得意ではない脂身は口に入れた瞬間戻しそうになったので、噛まずに呑み込む。よく噛まなかったせいかスープの味しかしなかった。

  日本人は唾液量が少ないからジューシーな肉を好むというが、同じモンゴロイドの中国人や韓国人は違うのだろうか。僕は朝鮮半島や中国の犬食文化について無知だが、個人的には、においばかり強くてパサつき、旨みの少ない犬肉は珍重されるような食材ではないだろうなと感じた(現代日本人並みの感想)。前近代の中国の犬食文化についても、「羊頭を懸けて狗肉を売る」というくらいだから、犬肉は羊肉の下位互換、大牢に数えられる牛・豚・羊よりは低級な食肉だったのではないか。犬の屠畜を生業としていた漢の樊噲もきっと古代中国のワーキング・クラス・ヒーローだったのだろう。

 そんなことを考えながらどうにかポシンタンを完食すると、オモニが残ったごはんをスープに入れて火にかけ、雑炊をつくりはじめた。「ゴハン、オカワリ?」と訊くので、「じゃあ、ちょっとだけ」というと、自分たちの茶碗から食べかけのご飯をスープに入れはじめた。え、なに、俺たち家族か何かだっけ?

 締めの雑炊である。

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 やはりまだ犬のくさみは残っているものの、圧倒的に食べやすい。別添えの甘味噌のようなものを投入するとさらにくさみが中和され、味噌のコクが加わり、まったりとした味わいになる。ああ、これならいける。

 雑炊も完食するとオモニが満面の笑みで「オイシカタ?」と訊く。「美味しかったです」と僕も笑顔をつくると、途中からやってきたオモニの娘さんと思しきおばちゃんに嬉しそうに「ニホンジン、ポシンタン、ハジメテ」と話しかけていた。やはりポシンタンを初体験で美味しく完食する日本人は少ないから嬉しかったのかな。僕は口のなかが犬臭いけど。

 食後のお茶を飲んでいると、2階からベトナム人と思しき父子が下りてきて、オモニと話をしていた。近所に住む常連客だろうか。店にいる日本人はどうやら僕一人らしい。なにここ租界?

 しかし韓国人街にベトナム人が進出していると聞くと、馳星周を読んで育った身としては「抗争とかあるのか」と心配してしまうが、オモニと父子は親し気に見えた。あのオモニの人柄のせいだろうか。

 マッドシティとばかり思っていた今里新地のあたたかな一面を見て頬がゆるんだ僕だったが、口のなかの犬臭さは結局この日の夜まで消えないのであった。

大東怪食記

 大阪は大東市に珍しい動物が食べられる居酒屋があると聞いて伺った。

 店の名は宝雪酒坊。ウーパールーパーが食べられる居酒屋として珍スポ界に名を馳せる(局地的)有名店である。

  ウーパーは入荷していないときもあるらしいので、事前に電話で確認をとっていたせいか、店に入って席につくなり「ウーパールーパーにします?」と笑顔のおねえさんに訊かれる。さすがに心の準備ができていないので、最初は軽くジャブからということで、無難なメニューでスタートを切った。

「いえ、それは後で…。じゃあまず、どてやきと、ダチョウの刺身お願いします」

 そう、 この店には一般的な居酒屋メニューの他に挑戦メニューなるものが存在するのだ。

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 ※メニューの写真は撮り忘れたのでネット上の拾い画になります。

 このうちワニ、トド、カンガルー、シカ、カエル、トド、馬は食べたことがあるので未知の食材であるダチョウを注文。ラクダも食べたかったが、この日は入荷していなかった。後で常連さんと「どんな動物の肉を食べたことがあるか」という話をしていて気付いたが、自分がいままで食べてきたシカはエゾシカなので、この店のシカとは品種が違うのかもしれない。注文しておけばよかった。

 

 さて、ダチョウの刺身である。

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 冷凍ものらしく貼り付いている生肉を箸ではがして口に運ぶ。クセはないので食べやすいが、冷凍のためか若干水っぽく、旨みもあまり感じられなかった。本場(どこだよ)で食べればもっと美味いのかもしれない。

 ちなみにどてやきはクリーミーで、このとき食べた料理のなかで一番美味かった。

 

 続いて今回のお目当てウーパールーパーとグソクムシを注文。料理方法は唐揚げだ。グソクムシはなぜか上掲の挑戦メニューではなく通常メニューに載っていたが、おそらくここでは日常的にグソクムシを食べているのだろう。

「ウーパールーパーとグソクムシは一緒に揚げるけど、揚げる前の写真撮らせてあげるよ」とおねえさん。

 是非にとお願いしたら出てきたのがこちら。f:id:ano_hacienda:20180108121324j:image

 ……自分で注文しといてなんだけど、いまからこれ食べるの?

 

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 もう慣れてるのだろう、客がインスタ映え写真を撮れるようにグソクムシを持ち上げていろんな角度から見せてくれるおねえさん。

 

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  あ、腹はちょっと、見たくなかったかも…。

 

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 ご尊顔。

 「サングラスかけてイケメンやろ」との仰せだが、これはもうあれだ、完全にプレデター

 そしてカラッと揚がったのがこちら。f:id:ano_hacienda:20180108121622j:image

 「頭からいきな」というので意を決してかぶりつく。バリバリと甲殻を噛み破るが、味は完全にえびせん。エビやカニのようなプリッとした身肉は感じられなかったが、味噌のようなクリーミーな食感はあった。味噌らしいクセを感じられなかったので身肉だろうか。量が少ないうえに、僕もこの時点で酔っていたのでわからず仕舞いだった。

 

 そしてウーパーさんはこちら。

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  こちらも頭からバリバリ食べる。骨の主張が強いが、身肉は白身魚に近くて淡白。内臓の食感はわからなかったけど、やはり抜いているのかな。

 ちなみにグソクムシもウーパーもスパイスの効いた唐揚げに仕上がっていて、味付け自体はけっこう好みだったので、鶏の唐揚げは普通に美味いのだろう(じゃあそっち頼めよ)。

 

 隣の席に座っていた常連さんが僕の注文したウーパーとグソクムシの写真を撮っていたので、「やっぱりこういうのたまにしか出ないんですか?」と店のおねえさんに訊くと、「いや、毎日出るよ」とのこと。毎日出るんだ…。

 昔からのなじみの業者が優先的に挑戦メニューにあるような動物の肉を流してくれるらしく、「関西でウーパールーパーを食べられるのはうちだけ」と誇らしげなおねえさん。そもそもウーパールーパーを食肉として流通させている業者って何なんですかねえ…。

 そして挑戦メニューだけでなく、店の常連さんたちもキャラが濃くて面白いうえに、店のおねえさんたちも含めて皆さん異様にカラオケが上手い。常連さんだらけでいちげんが入りづらい飲食店は本来苦手なのだけど、ここはついつい長居してしまった。関西珍スポ界の有名店は、大衆的な雰囲気のわりには居酒屋としてのコスパは低い(ビールが600円くらい)が、居心地の良い優良店だった。