壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

「仮子」雑考

 唐・五代を中心に、中国史上には「仮子」と呼ばれる人々が散見します。史料上では「義児」「義子」「義男」など、または単に「養子」とも書かれ、広く異姓養子を指すのですが、この「仮子」概念を多くの研究者は、宗族の祭祀を絶やさぬための純粋な後継者としての養子ではなく、節度使などの武人が軍事基盤を固めるために擬制的父子関係を結んだ配下の有力部将や精鋭部隊に限定しています。要するにヤクザの子分を仮子と呼んでいるわけです。ちなみに研究史上では親分は「仮父」と呼ぶのが一般的です(実際の史料上では「仮父」という表現は少ないのですが)。この仮父子結合に注目する研究者(日本では矢野主税、栗原益男の両氏が代表格です)はたいてい藩鎮や宦官などの権力構造の一環として捉えているので、どうしてもこのような狭い定義になってしまいます。

 仮父子結合流行の要因としては北朝以来の遊牧民族の風習があげられます。遊牧民的な尚武の気風の影響だとか、遊牧民が他部落を吸収したときに有能な者を部落の一員として取り立てる慣習から来ているとか、色々議論されていますが、男系血族による宗族祭祀継承への軽視、という点も非漢民族的かもしれません。一般的に鮮卑などの遊牧民族は母系社会的な性格が濃厚といわれていますし。また、北朝以前の仮父子結合の例としては、『三国志』でおなじみの董卓呂布も「誓いて父子と為」っていますが、ともに遊牧世界と農耕世界の交雑地域から台頭した武人であり、後漢末社会をかき乱したマージナル・マンでした。

 

 さて、そんな仮父子結合が盛んな唐五代において、仮父として有名な人物といえば、奚・契丹などの遊牧部族の仮子軍団「曳落河」を率いた安禄山と、これまた雑多な部族からなる仮子軍団「義児軍」を率いた李克用です。前者はソグド系突厥、後者は沙陀の出身で、両者とも遊牧系武人ですね。

 李克用についていえば彼だけでなく、その後継者たち(実子である後唐の荘宗や仮子の明宗など)も多くの仮子を擁していたことで知られ、前述の栗原氏や宇野春夫氏がそれぞれの論文で網羅しています。両氏は荘宗の仮子として李継麟、李継陶、李継鸞、李継璟、散刺阿撥の5人をあげていますが、実はこの他に李継宣なる6人目の仮子が存在します。

『北夢瑣言』巻18「明宗誅諸兇」

 明宗即位之初、誅租庸使孔謙・歸德軍節度使元行欽・鄧州節度温韜・太子少保段凝・汴州麴務辛廷蔚・李繼宣等。…李繼宣、汴将孟審澄之子、亡命歸莊宗、劉皇后蓄為子、時宮掖之間、穢聲流聞。此四兇、帝在藩邸時、惡其為人、故皆誅之。

  明宗はクーデターにより荘宗を打倒し帝位を簒奪した際、人心収攬をはかり、荘宗朝で悪名を轟かしていた権臣を数名誅殺していますが、そのなかに苛斂誅求により民衆を苦しめた租庸使孔謙や、荘宗の仮子となっていた明宗の実子李継璟を殺した帰徳軍節度使元行欽*1らとともに李継宣の名があげられています。

 李継宣は後梁の濮州刺史であった孟審澄の子ということですが、もとの名は不明です。父の孟審澄は、後唐建国前の沙陀政権(晋)と後梁の雌雄を決することとなった胡柳の役(918年)の直前に、後梁軍の内訌に巻き込まれて殺されています。 

『旧五代史』梁書巻24末帝紀 貞明4年の条

 十二月庚子朔、晉王領軍迫行臺寨、距寨十里結營而止。北面招討使賀瓌殺許州節度使謝彥章・濮州刺史孟審澄・別將侯溫裕等於軍、以謀叛聞、為行營馬步都虞候朱珪搆之也。

 おそらく李継宣はこの後に沙陀政権へ亡命したものと思われますが、注目すべきは荘宗の劉皇后が彼を仮子としたという点です。「時に宮掖の間、穢聲流聞す」というから、要するに劉皇后の不倫相手として可愛がられたのでしょう。宮中では有名な醜聞だったようです。この劉皇后は魏州の貧乏医者の家の出で、自身の出自にコンプレックスを抱いていたため、娘に会いに来た父親を別人だと鞭打って追い返したり、クーデターで荘宗が崩じるとその弟の李存渥と出奔して深い仲になったりと、なにかと醜聞の多い、礼教的規範からはすこぶる自由な女性でした。もっとも唐代は、よく遊牧社会の影響として論じられるように女性の社会的地位が比較的高く、また男女関係もルーズだったため、不倫自体は珍しくもありません。

 それよりも僕が注目したいのは「亡命して荘宗に歸し、劉皇后蓄えて子と為し」という記述です。李継宣はその姓名が示すとおり後唐宗室の李姓と、荘宗の実子及び仮子の共通の輩字である「継」字を含む諱を下賜されており、まぎれもなく荘宗の仮子となっています。つまり劉皇后という女性(妻)の仮子となることは、劉姓を冠して彼女の個人的な仮子となることではなく、あくまでもその夫の仮子となることを意味するといえるでしょう。このように形式的には夫の仮子であっても、妻の意志で仮子を迎えるという事例は、矢野・栗原両氏が説くような武人の権力基盤としてではない、もっと自由な仮子の在り方を示してくれます(李継宣の場合は不倫相手ですが…)。なお、李継宣の名は管見の限りこの記事のほかには見えません。

 

 さて、この劉皇后と李継宣の関係の類例として、唐建国の功臣のひとりである張亮の妾の李氏と仮子慎幾の例があります。

旧唐書』巻69 張亮伝

 初、亮之在州也、棄其本妻、更娶李氏。李素有淫行、驕妬特甚、亮寵憚之。 後至相州、有鄴縣小兒、以賣筆為業、善歌舞、李見而悅之、遂與私通、假言亮先與其母野合所生、收為亮子、名曰慎幾。亮前婦子慎微每以養慎幾致諫、亮不從。

 張亮が本妻を離縁した後に迎えた妾の李氏は、淫乱で驕慢かつ嫉妬深い、いわゆる「妬婦」という唐代の女性像の一典型のような女性でした。そんな彼女が隣県の芸達者な少年にほれ込み私通したあげく、「亮に先に其の母と野合して生む所と假言し」*2、力技で張亮の仮子にしてしまったようです。というより張亮が李氏の嘘を信じているならば、彼にとって慎幾は仮子などではなく、自身の落とし胤という認識だったのかもしれません。その場合、この記事を仮父子結合の事例と見なすのは問題がありますが。あるいは張亮には500人の仮子集団がいたため、いまさら胡散臭い少年が一人くらい増えても気にしない、ということなのでしょうか。張亮の慎幾に対する感情については、のちに張亮が方術者におだてられ自立割拠の野望をあらわにした際の言辞から読み取ることができます。

 『新唐書』巻94 張亮伝                                   …為相州、假子公孫節以讖有「弓長之主當別都」、亮自以相舊都、「弓長」其姓、陰有怪謀。術家程公穎者、亮素與厚、陰謂曰「君前言陛下真天下主、何其神邪!」公穎內曉、即稱亮臥若龍、當大貴。亮曰「國家殆必亂、吾臂龍鱗奮矣、慎幾且大貴。」

 唐朝の天下が乱れ己が立ち上がったときに慎幾は尊貴となるだろう、と豪語しており、彼にとって慎幾は500人の仮子集団に埋もれる存在でも、妾の尻にしかれながら渋々認めた仮子でもなく、まぎれもない自身の後継者であったようで、どうも僕にはこの人物のメンタリティが理解できません。野心家で叩き上げの勇将も、妻にはあっさりと騙される、という可愛げのある話なのでしょうか。また、張亮には「公孫節」という仮子もおり、仮父の姓を冠していない点が注目されます。慎幾は後継者と目されており、また実子と同じく「慎」の輩字を諱に含んでいるため張姓であったと思われます。あるいはこの点(姓・輩行)で張亮の実子と仮子は差別化されており、慎幾は実子として認知されていたのかもしれませんが、この謎の多い(単に僕が史料をきちんと読み込んでいないだけですが)張亮の仮父子集団については別の機会にじっくり調べる必要がありそうです。

 ともあれ、ここでも仮子を迎えるのに妻の意志が働いていることがうかがえました。しかし、妻が若いツバメを抱え込むにも彼女自身のではなく、あくまでも夫の仮子として迎えなくてはならないあたり、女性ゆえの社会的な限界も読み取れます。

 

 では、次に仮子から望んで成立した女性との仮父子(仮母子と呼ぶべきでしょうか?)結合の例をあげましょう。

新唐書』巻85 王世充伝

 初、殺文都、欲詭眾取信、乃請事侗母劉太后為假子、至是加號聖感太后。散騎常侍崔德本曰「此王莽文母何異乎。」

 隋末の群雄のひとりである王世充は煬帝が弑逆されてのち、その孫である皇泰主楊侗を奉ずる洛陽政権で対立者を粛清して実権を握りますが、群臣を抑えるために楊侗の母である劉太后の仮子となっています。崔徳本が批判したとおり、これは王莽がおばであり太皇太后として前漢末期の宮中に君臨した王政君の権威を借りて簒奪を果たしたように、王世充も楊侗から禅譲を受ける準備としてその母后の仮子となり、自らの権威付けをはかったと考えられます。

 

 最後に劉太后と王世充の関係の類例として、安禄山の有名なエピソードをあげたいと思います。

旧唐書』巻200上 安禄山

 後請為貴妃養兒、入對皆先拜太真、玄宗怪而問之、對曰「臣是蕃人、蕃人先母而後父。」玄宗大悅、遂命楊銛已下並約為兄弟姊妹。

 玄宗に気に入られ宮中に出入りするようになった安禄山は、天子の寵愛を一身に受けていた楊貴妃の養子になりたいと申し出ます。それからは常にレディーファーストで行動し、自分より先に楊貴妃へ挨拶することを怪訝に思った玄宗への申し開きが「蕃人(のしきたりで)は母を先にし父を後にします」と、突厥の遊牧文化のなかで育った者らしい母系を重んずる言辞でした。

 このエピソードをはじめ、楊貴妃安禄山を赤子に見立てて産湯をつかい、モテキさながらの女御輿に担いで「禄児」と呼んで可愛がったりと、安禄山をめぐる諧謔に満ちた言動は通常、玄宗楊貴妃の前で道化を演じ、おもねることで地位を固めようとした、あるいは危険視されないよう油断を誘った芝居としてとらえられています。道化芝居には違いないでしょうが、楊貴妃ひいてはその夫たる玄宗と、正式なものではなく感情的な戯れであっても仮父子関係を結ぶことで己の地位を固めようとした、と考えるのはうがった見方でしょうか。結果的には楊貴妃の仮子ではなく義兄弟となっているのですが、安禄山楊国忠に嫉視されていることを度々玄宗に訴えていた事実を鑑みれば、当時権勢を誇っていた楊氏一門との対立を避けるための一種の官界遊泳術であったことは確かでしょう。

 

 以上、長々と隋唐五代の史料上に見える女性と仮子の関係を瞥見しましたが、仮子を迎えるにあたって妻の意志が積極的に働いていたり、自身の地位を固めるために皇太后や皇帝の寵姫の仮子になるという政治利用のケースもあり、従来説かれてきたような軍事基盤として以外の性格をもった仮子の存在形態が見えてきたかと思います。また、これらの記事からは当時の女性の地位の高さとその限界も垣間見れます。歴代王朝において、禅譲を行う前に自身の娘を傀儡皇帝に娶せて皇帝の岳父となる簒奪者は多いですが、王世充のように皇帝の母后の仮子となるウルトラCをやってのけた者は他にいないのではないでしょうか。これらの記事でとりあげた女性は特権的な地位にいる者が多いため、社会全般にも同様の傾向があったとは一概にはいいがたいのですが、少なくともこういった行動が許容される時代ではあったのでしょう。

 そして仮父子結合という慣習そのものと、仮子に対する女性の影響力の大きさは、ともに当時の社会の基層に内在する遊牧民族的慣習の名残りだったのではないでしょうか。

*1:ややこしい話ですが元行欽はもと明宗の仮子だったところを荘宗によって召し上げられ、李紹栄なる姓名を下賜され寵遇されていました。荘宗の下には彼を含め後梁遊牧民族などからの降臣で「紹」の輩字を下賜された人々がおり、栗原氏や宇野氏は仮子とは似て非なるもの(あるいは準ずるもの)と見なしていますが、個人的には唐が帰附した異民族の首領に姓名を授けて手なずけていた手法に近いものを感じます。そして遊牧民が他部落出身者を自身の部落の一員として取り立てることでその忠誠心を引き出すという、仮子の原点を振り返れば、この賜姓も仮子と同質の扱いであったように思います。つまり仮父子結合を拡大した形が、唐王朝の異民族への国姓下賜や突厥による隋末河北の群雄への小可汗位下賜なのではないでしょうか。李克用や荘宗は唐朝からの国姓下賜と宗室への編籍を名誉に思い、自らのアイデンティティーとしていた節がありますが、自分たちが唐室へ抱いたのと同様の忠誠心を降臣から引き出そうと、姓名の下賜を模倣したのだと思います。ただ、荘宗から「紹」字を賜名された人々は実子と同じ「継」字を賜った仮子に比べれば親近の度合いが低いように見え、あるいは荘宗は賜姓・賜名という恩寵を視覚的にグラデーション化することで臣下の序列をつくっていたのでは、とも考えられます。

*2:ここの解釈は難しく、李氏が「張亮と誰の母の私生児ですよ」と嘘をついたのか、慎幾の実母か李氏の母つまり義母かは未詳です。張亮が相州にいたのは貞観7~14年の8年間のため、どちらで解釈してもこの嘘で彼をだますのは無理があると思います。あるいは「亮の先」つまり父親あたりが慎幾の実母との間に設けた私生児、つまり腹違いの弟を仮子とした、とも読めそうですが、こちらも無理がありますね。

煬帝の動くフィギュア

 隋の煬帝がまだ晋王であったときからの寵臣に柳䛒という人物がいます。

 若いころから文才に恵まれていた柳䛒は、文雅好みの晋王楊広(煬帝)の帷幄に招かれ、師友としての待遇を受け、文章の起草にその達意の筆をふるっていましたが、煬帝の彼への寵愛ぶりについては、『隋書』巻58柳䛒伝に次のような記事があります。

…甚見親待、每召入臥內、與之宴謔。䛒尤俊辯、多在侍從、有所顧問、應答如響。性又嗜酒、言雜誹諧、由是彌為太子之所親狎。

 寝室にまで招かれ飲んだくれていたというから、よほどのお気に入りだったのでしょう。弁舌巧みで機智に富み、打てば響くような受け答え、さらには酒好きとくるので、文才だけではなく、人柄も含めて煬帝の好みだったのかもしれません。

…帝退朝之後、便命入閤、言宴諷讀、終日而罷。帝每與嬪后對酒、時逢興會、輒遣命之至、與同榻共席、恩若友朋。帝猶恨不能夜召、於是命匠刻木偶人、施機關、能坐起拜伏、以像於䛒。帝每在月下對酒、輒令宮人置之於座、與相酬酢、而為歡笑。

  煬帝の柳䛒への寵愛は即位後も変わらず、退朝後は寝室に招いて一日中詩文を読んだり、后妃と飲んでいるときに呼び出して、一緒のソファーやむしろに座らせたというから、ほんとに友達感覚ですね。「あいつも呼ぼうぜ!」とか言ってたんでしょうか、煬帝。そんな礼教の枠に縛られない自由人皇帝煬帝でも、夜中に彼を呼び出すことはしなかったようで、工匠に木彫りの柳䛒フィギュアをつくらせて我慢していたというから、何だかいじらしくも思えます。柳䛒フィギュアはからくり仕掛けで、立ったり座ったり動かせたそうで、関節が可動式だったのでしょうか。月夜には宮女がおいてくれた柳䛒フィギュアを前に酒を酌み交わし談笑していたというから、だいぶ危ない人です。

 

 煬帝の寵臣への扱いについては、『隋書』巻49牛弘伝に次のような記事があります。

…還下太行、 煬帝嘗引入內帳、對皇后賜以同席飲食。其禮遇親重如此。弘謂其諸子曰「吾受非常之遇、荷恩深重。汝等子孫、宜以誠敬自立、以答恩遇之隆也。」

 牛弘についてはこのとき一度きりのようですが、柳䛒同様寝室に招かれ皇后も交えて飲食していたというから、あるいは煬帝にとって寝室に寵臣を招くことは寵愛を示す一つのパフォーマンスだったのかもしれません。鮮卑の血を引く煬帝は礼教的倫理観が希薄だったのかもしれませんが(現に彼自身が父親の愛妾の寝室に出入りしていますね)、あるいは母系を重んじる遊牧民的な気風の名残を彼一流のパフォーマンスから読み取るというのは、少しうがちすぎでしょうか。

 

 さて、話をフィギュアに戻しますと、柳䛒フィギュアのような可動式フィギュアには先行例があります。

『陳書』巻28高宗二十九王伝、長沙王叔堅の条

叔堅少傑黠、凶虐使酒、尤好數術・卜筮・祝禁、鎔金琢玉、竝究其妙。…至德元年、乃詔令即本號用三司之儀、出為江州刺史。未發、尋有詔又以為驃騎將軍、重為司空、實欲去其權勢。叔堅不自安、稍怨望、乃為左道厭魅以求福助刻木為偶人、衣以道士之服、施機關、能拜跪、晝夜於日月下醮之、祝詛於上。

 陳の長沙王叔堅は自身から実権を奪おうとする後主を怨み、これを呪わんとして木製の人形をつくり、道士の服を着せ、からくりを施して拝跪できるようにさせて、昼夜を問わずこれをまつったそうで、寵愛の対象であった柳䛒フィギュアとは真逆の用途です。しかし木製の人形を形代にする呪詛は漢代以降多く見られますが、藁人形よろしく呪詛の対象の形代ではなく、呪詛を行う道士の代わりとして人形をつくるケースは珍しいのではないでしょうか。長沙王は自身が左道や工作に通じていたため、足がつくおそれのある他人を雇わず、一から呪詛の用意をしていたのかと思うと、皇族のくせにやたら豊かなDIY精神に感心してしまいます。

 ともあれ、可動式フィギュアの先行例が煬帝の滅ぼした陳にあることは、柳䛒フィギュアのルーツもここにあるのでは、と考えたくなります。僕は魏晋南北朝や隋代に疎いのでよく判りませんが、可動式フィギュアの事例を他で見たことがありません(知ってる人、教えてください)。

 江南の女に江南の文芸、江南の景観。そして江南の工芸技術。可動式フィギュアも煬帝の好んだ江南の文化の一つだと想像すると、暴君としてのイメージがつきまとう彼にも人間くさい可愛げを感じられるような気がします。

ブログはじめました。

前々からやろうと思っていた東洋史ブログをはじめました。

いままでツイッターで呟いていた東洋史ネタをここでまとめておこうかと。

主に漢籍や本・論文を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きになるかと思います。

 

ブログタイトルの「壁魚」は「紙魚」のことです。

『北夢瑣言』巻12に「張子斅壁魚」(張子、紙魚を教える)という話があります。

 唐張裼尚書有五子、文蔚・彝憲・濟美・仁龜、皆有名第、至宰輔丞郎。內一子、忘其名、少年聞説壁魚入道經函中、因螙食「神仙」字、身有五色、人能取壁魚呑之、以致神仙而上昇。張子惑之、乃書「神仙」字、碎翦實於瓶中、捉壁魚以投之、冀其螙蝕、亦欲呑之、遂成心疾。

唐の張裼の息子の某は、道教の経典中の「神仙」の字を蚕食した紙魚を食べると、その人も「神仙」になれるという話を聞き、さっそく自分で書いた「神仙」の字を細かく切って、紙魚と一緒に瓶のなかに入れて試そうとしたそうです。そんなことをしているうちに気が狂ってしまったわけですが、周囲から見れば彼の行動はすでに充分狂っていますね。

食べた文字を具現化する紙魚ではありませんが、僕も漢籍や本を読んで考えたことをどうにか形に残しておきたい、ということで、こういったブログタイトルになりました。