壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

越後製菓は不正解

西晋武帝が人の乳で育てた豚肉を食べた話は有名だが、貴族の生活が奢侈に流れた晋代では贅沢三昧のエピソードに事欠かない。

西晋の丞相となった何曾も食にこだわりが強かったようで、衣食住の豪奢は「王者を過ぐる」といわれ、一日の食費に一万銭を費やしても「箸を下ろすところがない(食べるものがない)」などとうそぶいていたそうである。

『晋書』巻33 何曾傳

然性奢豪、務在華侈。帷帳車服、窮極綺麗、廚膳滋味、過於王者。每燕見、不食太官所設、帝輒命取其食。蒸餅上不坼作十字不食。食日萬錢、猶曰無下箸處。

そんな彼の美食ぶりを象徴するのが「蒸し餅の表面が十字に割れないと食べなかった」という何とも貧相なエピソードなのは、いかがなものか。それでいいのか、何曾。

何曾は確実に、切り餅については越後製菓よりサトウ派だろう。

 

切り餅 パリッとスリット 1kg

切り餅 パリッとスリット 1kg

 

 

小さいねって言われませんか

先日ツイッターでもつぶやいたが、最近、標記のタイトルで「ペ●ス増大注射」を勧める迷惑メールが頻繁に届く。

僕は決して「ペ●ス増大注射」のバナーなど踏んだことはないし、なんとかビデオやなんとかハムスターといったいかがわしい動画サイトを巡回するようなことも月2~3回以上はないはずだ。そもそもペ●スの大きさで悩んでなどいないのだが、とにかくそういったメールが届いてしまっている。大変遺憾である。

しかし、あくまでも僕は関係ないのだが、世の男性諸氏がペ●スの大きさや強度を気にする風潮が一般にあるため、このような迷惑メールがはびこってしまうのだろう。

これは現代の日本男児に特有の自信のなさの表れかというとそうでもなく、お隣の中国でも千年以上前から、男たちはペ●スの鍛錬を気にかけていたようだ。

 

『北夢瑣言逸文』巻第3「大輪呪術」

 

 釋教五部持念中、有大輪呪術、以之救病、亦不甚效。然其攝人精魂、率皆狂走、或登屋梁、或齧瓷碗。閭閻敬奉、殆似神聖。此輩由是廣獲金帛。陵州貴平縣牛鞞村民有周達者、販鬻此術、一旦沸油煎其陰、以充供養、觀者如堵、或驚或笑。初自忘痛、尋以致殂也。中間僧昭浦說、朗州有僧號周大悲者。行此呪術、一旦鍊陰而斃。與愚所見、何姓氏恰同、而其事無殊也。蓋小人用道欺天、殘形自罰、以其事同、因而錄之。

 

『北夢瑣言』に記されているということだから、この話は唐の後半期から五代にかけてのことだろうが、具体的な時代はよく判らない。

仏教の五部持念に「大輪呪術」というまじないがあり、これは病気を癒すといわれているが、実際には効かないこと甚だしい。それでも人の精魂を操ることはできるようで、術をかけられた者はみなやたらめったら走り回り、ある者は屋根に上り、またある者はお椀を齧りだすというから、庶民はみな神様のようにこの術を敬ったという。それゆえ術者は大輪呪術を利用して金もうけをしていたそうだ。

さて、この術者のうちに陵州貴平県は牛鞞村の周達という者がいた。唐代の陵州貴平県は現在の四川省仁寿県の東北に位置している。この田舎の山奥で、周達は大輪呪術を鬻いで暮らしていたのだが、ある日、おのれのペ●スを煮えたぎった油で煮て、仏の供養をしたいと言い出した。どこの仏が喜ぶのかは知らぬが、まわりの野次馬は興味津々、たちまち人垣ができ、みな驚いたり笑ったり。おのれのペ●スを煮えたぎる油に突っ込んだ周達は、はじめこそ痛みを忘れていたが、すぐに死んでしまった。

中間僧の昭浦がいうには、朗州(現在の湖南省常徳市周辺)にも周大悲という僧があって、大輪呪術を事としていたが、ある日ペ●スを鍛えたところ、やはり同様に死んでしまったということだ。

周大悲の「鍊陰」方法がどのようなものであったかは判らないが、おそらくは周達と同様に大輪呪術を施しながらペ●スをハードにいじめていたのだろう。

  

さて、肝心の大輪呪術については、仏教の知識も素養もない僕には皆目見当もつかない。

ただ、「五部持念」については、岩崎日出男氏が「明らかに金剛頂経系の教法を指す」と指摘しており(具体的な考究はしていない)*1、周達と周大悲は密教を修めていたのだろう。これも会昌の廃仏による迫害をのがれ、野に潜んで呪術的性格を強めた唐末の密教の一形態とは考えられないだろうか(想像をたくましくすれば、周達は弾圧を逃れるために還俗した密教僧とも考えられる)。

また、遼代に成書した『顕密円通成仏心要集』では、一蔵経には仏部5部、蓮華部5部、金剛部5部、宝部5部、羯磨部5部のあわせて25部の神呪があるとされているが、「五部持念」とは仏~羯磨の5部あるいは金剛部の5部を指し、そのなかにある(のではないかと僕がかってに想像している)大輪金剛陀羅尼を大輪呪術に比定できないだろうか。

要するに、周達たちが大輪金剛陀羅尼をペ●スを「金剛」のようにカッチカチにする神呪と勘違いして唱えていたりはしないかと、仏教に無知な僕は空想するのである。

まあ、僕は大輪金剛陀羅尼のご利益を知らないのだが、罪障の消滅とかそのへんなんでしょ?

 

ともあれ大輪呪術の正体は不明だが、もし周達たちがペニスを金剛のように鍛え上げることを期待してこの行法をおこなっていたのならば、千数百年前から男たちの悩みは変わらないのだなと、親近感を覚える男性も多いのではないだろうか。

もちろん僕には関係のない話なのだが。

*1:岩崎日出男「法門寺の埋納物に記された僧の出自その経歴について」『高野山大学密教文化研究所紀要』16

沙陀の貌

久しぶりの更新になります。
うちのPCがWindows8.1にバージョンアップした関係かネットに接続できなくなってしまったので、iPhoneからの更新です。

前回のエントリで突厥のビジュアルに触れましたが、コーカソイドの血を引くソグド系突厥などを除けば、阿史那氏などのテュルク系は形質的にはモンゴロイドであったというのが通説のようです。
西突厥の支族と称する沙陀についても、中核氏族の朱邪氏は無批判にテュルク系であると見なされているようですが、実際にはどうだったのでしょうか。


史料上に沙陀であることが明記されている人物の風貌については、管見のかぎり、「一目微眇」のため「独眼龍」とあだ名された李克用の他には、沙陀としての矜恃を抱くソグド系の康福が、その恰幅の良さを「體貌豐厚」と評されているケースのみで、具体的な人種の推定にはつながりません。

一方、沙陀一般に対する当時の人びとの認識は、朱全忠率いる河南軍閥(のちの後梁)の部将氏叔琮が沙陀(晋)軍をスパイで撹乱したエピソードから伺えます。


『旧五代史』巻19 梁書19 氏叔琮伝

晋軍恃勝攻臨汾、叔琮厳設備御。乃於軍中選壮士二人、深目虬鬚、貌如沙陀者、令就襄陵県牧馬於道間。蕃冦見之不疑、二人因雑其行間、俄而伺隙各擒一人而来、晋軍大驚、且疑有伏兵、遂退據蒲県。

氏叔琮は、眼窩がくぼみ頬ヒゲがもじゃもじゃ、という「沙陀のような顔」の兵士二人をスパイにしたてあげます。二人は沙陀の進軍ルートにあたる襄陵県で馬を放牧しますが、それを近在の牧民と見たのか怪しまない沙陀軍にまんまと潜入し、撹乱工作を成功させました。
この記事から、当時、一般的には沙陀の風貌にコーカソイド的特徴を認めていた、少なくとも李克用率いる沙陀集団にはコーカソイド的風貌の兵士が多かったことが伺えます。
そして当時の河東道では、沙陀やソグド系突厥の部落が安置された代北からはるか南方においても(襄陵県は現在の山西省臨汾市周辺)、コーカソイド的風貌の牧民が馬を追う光景が日常的に見られたことも特記すべきでしょう。

沙陀にコーカソイド色が濃厚であったことは、黄巣が李克用へ送った和睦の使者が米重威というソグド系の者である点からも伺えます。

『旧五代史』巻50 唐書26 宗室列伝第2 李克譲の条
中和二年冬、武皇入関討賊、屯沙苑。黄巣遣使米重威齎賂修好、因送渾進通至、兼擒送害克譲僧十人。

唐代前後のユーラシア東部では、ソグド人の進出によりソグド語が半ば公用語化していたのか、あるいはマルチリンガルが多かったせいか、各民族間の外交もソグド系の使者が担っていた気配があり、吐谷渾などの遊牧民族が沙陀系諸王朝へ遣わす使者にもソグド系が目立ちます。黄巣もソグドを含む多民族混成の沙陀集団への使者はソグド系が適任と見たのでしょう。塩商あがりの黄巣ならば、その流通ネットワークに絡むソグド商人の協力があっても不思議ではありません。
また、本筋からは逸れますが、上掲史料に見える「渾進通」は、もとは李克用の弟克譲の下僕です。姓からして渾の出身と考えられ、沙陀集団には渾も参加していたことを証する稀少な事例です。


沙陀との折衝にソグド系の人物を起用するのは黄巣だけではありません。
唐朝から軍監として派遣され、李克用・存勗二代に仕え、名宦官として名高い張承業も、元の姓は「康」のため、ソグド系といえます。

『旧五代史』巻72 唐書48 張承業伝
張承業、字継元、本姓康、同州人。咸通中、内常侍張泰畜為仮子。光啓中、主郃陽軍事、賜紫、入為内供奉。武皇之討王行瑜、承業累奉使渭水、因留監武皇軍事、賊平、改酒坊使。三年、昭宗将幸太原、以承業与武皇善、乃除為河東監軍、密令迎駕。

同州には薩宝がおかれ、ソグド人コロニーが存在していたといわれていますが、張承業の出自もおなじコロニーなのかもしれません。

ともあれ、唐朝も沙陀集団の目付け役を果たし、意思疎通もはかれる人物はソグド系が適任と考えていたのではないでしょうか。


以上、見てきましたように、唐末において沙陀は、内部に多くのソグド系を含んでいたためか、外部からはコーカソイド的外貌で認識されており、折衝にもソグド人が起用されることが多かったといえます。

ただし、李克用ら朱邪氏がテュルク系か否か、モンゴロイドコーカソイドかについては何れも未詳です。

また、ソグドを中心とした沙陀集団内部の民族構成は樊文礼、森部豊、西村陽子の各氏の研究に詳しいため、このエントリでは追究しません(iPhoneなので文章書くのがめんどくさい)。あしからず。

映画のなかのソグド人―『ヘブン・アンド・アース』

 久しぶりに『ヘブン・アンド・アース』を観ました。

 時代考証や設定の面では色々とツッコみどころの多い作品ですが、シルクロードを舞台としたエキゾチックな『七人の侍』といった趣があり、僕の好きな映画のひとつです。

 ときは西暦700年。遣唐使として唐にわたり、皇帝直属の刺客として罪人の処断をしてきた来栖旅人(中井貴一)は、軍令違反により西域の駐屯地から逃亡した李校尉(姜文)の殺害を命じられる。一方、李はかつての部下たちとともに、天竺より仏典を運ぶキャラバンの護衛をして長安へ向かうが、西突厥と結んだ西域の有力者安大人(王学新)がその荷を狙っていた。来栖と李はいったん剣を収め、ともにキャラバンを護衛することになるが、はたして彼らは無事に長安へたどり着けるのか…というストーリー。 

 

 遣唐留学生がなぜか皇帝の密命を帯びて罪人を討ちに西域へ行くという設定もむちゃくちゃですし、物語の舞台となる西暦700年は、そもそも唐ではなく則天武后の周の久視元年ですし(来栖が西域へ派遣されたのはその10年前ということなので、冒頭で彼に勅命を下した男の皇帝は、母に帝位を譲る直前の睿宗だったとむりやり解釈できそうです)、西域の制覇をめざしてキャラバンを狙う西突厥も、阿史那賀魯の反乱が鎮圧されてからは唐朝の羈縻下に服していたはずです。また、西域最前線のまち「拓厥関」も実在しません(拓跋と突厥から名前を付けて辺境感を出したのでしょうか)。

 無粋は承知で、その他諸々ツッコみどころがあるのですが、僕がこの作品を気に入っているのは、純粋にアクション映画としての面白さもさりながら、ソグド人をソグド人として意識して描いた稀有な映画であるからです。

 唐朝の西域における版図の最前線といわれる拓厥関で、宿と盛り場を経営する安大人。演じるのは漢人(ですよね?)俳優の王学新ですが、高い鼻、カラコンを入れてそうな目、浅黒い肌、幾重もの三つ編みを垂らした編髪…と、ビジュアルは西域風。

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 個人的にはソグド人は編髪より巻髪で、ヒゲももっと濃いイメージですが、「安」というソグド姓もふくめて、明らかに漢人ではなく西域風のソグド人として描かれています。

 安大人は馬賊をひきいてキャラバンを襲撃する敵役ですが、表の顔は邸店の経営者のようです。彼の店(店先に「安」字の行燈がかけられているので彼の店でしょう)には来栖が泊まったり、うすぎぬの衣装で踊る胡姫がいたりと、宿と酒場の機能を兼ねているようなので、ここを邸店と見なしてよいかと思いますが、このようなソグド人が経営する邸店が、中国内地ではソグドネットワークの中継点として機能していたともいわれます。

 

 また、安のひきいる馬賊については覆面白装束でアラブ風に見えますが、この映画のなかではその装いは突厥人のものとされています(李校尉が覆面白装束をしていて突厥と見まちがえられるシーンがあります)。

 ソグド人の擁する兵士といわれて想起するのは、いわゆる「チャカル(柘羯)」とよばれる傭兵集団です。これまで発掘されてきた壁画やソグド人墓のレリーフ等に、ソグド人と一緒に編髪の武人が描かれていることから、チャカルはトルコ系遊牧民だったのでは、とする説が一部にあります。個人的にはチャカルがすべてトルコ系であったとは思えませんが、本作ではチャカル=トルコ系説を採用したのでは、と考えたくなります。あるいは逆に編髪武人像から、ソグド人は帽子をとると突厥とおなじく編髪なのだろう、と解釈して安大人の髪型を編髪にしているのかもしれません。まあ、このチャカルに関しては僕の考えすぎでしょう。

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 突厥ついでに、本作で描かれる突厥についても言及すると、安にキャラバン襲撃の協力を求める西突厥の将軍はイエアルチアンというカザフ人の俳優が演じているのですが、多少コーカソイドよりのモンゴロイドといったその風貌は、むしろ彼の方が安大人より僕のイメージしているソグド人に近いです。ソグド人はコーカソイド突厥モンゴロイドといわれていますし。

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 ただし、現実的には突厥は多様な種族の寄り合い所帯であり、ソグド人も内包しているので当然混血も起こり、「胡人」のような顔のため「阿史那種」ではないと差別された阿史那思摩のような突厥人も存在していました。

 ちなみに上掲の画像では解りにくいですが、イエアルチアン扮する西突厥の将軍はしっかり編髪です。常に兜か帽子をかぶっているので前頭部を剃りあげているのかどうかは解りません。索頭の遊牧民といわれると、兜をフィットさせるために前頭部を剃りあげて、後は三つ編みというイメージを抱きがちですが、突厥を模したと思しき石人にも後頭部は編髪で、前頭部はオールバックのものもあるようなので、実際には前髪を残した突厥人もいたのではないでしょうか。

 

 キャラバン襲撃のために共闘する安大人と西突厥の関係は、ソグディアナ都市国家を庇護して経済的利益を得ようとする突厥、ひいてはその縮図たるソグド人隊商を護衛する突厥チャカルのような、ソグドと突厥共生関係を端的に描いているようで面白いです。厳密にいえば安大人は西突厥に対し、経済的利益ではなく武力を提供しているわけですが。

 DVD特典のメイキング映像によれば、西突厥軍には多くのカザフ人がエキストラとして参加したそうですが、自分たちの祖先として突厥を誇りに思っているようでした。砂漠の孤城の包囲戦で突厥兵がうたっていた歌も中国語ではないので、カザフ語だったのでしょう。『ヘブン・アンド・アース』の良いところは漢民族中心の視点にとらわれず、多様な民族をいきいきと描いた点にあると思います。

 その西突厥軍のビジュアルはちょっとアレなのですが…。

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 ローマの重装歩兵かな?

 

李密の愛妾

『北夢瑣言』逸文「韓定辭詩中僻典」に、唐の鎮州節度使の書記韓定辞と幽州節度使の幕客馬彧との詩の応酬のエピソードが記されているが、韓定辞の詩中に「盛德は銀筆の述を將ってするに好く、麗詞は雪兒の歌を與ってするに堪う」という句がある。

 馬彧が典拠を問うたところ、「銀筆」は梁の元帝が徳行のある人物を記録する際、銀で装飾した筆を用いた故事を指し、「雪兒」については李密の愛妾にまつわる故事をあげている。

 雪兒者、李密之愛姫、能歌舞、毎見賓僚文章有奇麗入意者、即付雪兒叶音律以歌之。

 隋末唐初の梟雄李密には、歌舞に堪能な雪児という愛妾がおり、幕僚から上がってきた文書に達意の章句があれば、彼女に節をつけて歌わせていたという。風雅というか、いかにも才子らしいナルシスティックなエピソードである。

 韓定辞が生きた唐末には「銀筆」も「雪兒」もマイナーすぎて誰も解らない故事となっていたようだが、馬彧とはマイナー志向が一致して大いに盛り上がったというから、類は友を呼ぶというべきか。

 マイナーな音楽を聴いているほどえらい、という自意識過剰な典型的サブカルクソ野郎だった僕には耳が痛い話だが、自意識過剰は韓馬両人だけでなく、李密もきっと部下のヒップなリリックに曲つけて彼女に歌わせて、プロデューサー気取りだったんだろうね。

花の張巡~雲のかなたに~

 唐代の忠臣をあげるとき、張巡の名は外せません。彼は安史の乱に際し、安史軍が河北・河南を席巻するなか、睢陽に拠って孤立無援の籠城戦をくりひろげた名将として知られています。

 また、睢陽の攻防戦は、城内の女性を飢餓に苦しむ兵士の食糧に供したことで、中国史上における極限状況下のカニバリズムの事例としても有名でしょう。

 そんな張巡の最期について、韓愈は次のように描いています。

『張中丞伝後叙』3の3

  及城陥、賊縛巡等數十人坐、且將戮。巡起旋。其衆見巡起、或起或泣。巡曰「汝勿怖死、命也。」衆泣不能仰視。巡就戮時、顔色不亂、陽陽如平常。

 「旋」はここでは放尿することを指します。つまり、張巡は安史軍に捕われ、まさに殺されようとするときに、立ちあがって小便をしてのけたのです。部下たちは張巡が立ったのを見て、ある者は立ち、ある者は泣きました。それを見た張巡は「汝ら、死を怖れることはない。これも運命である」と諭し、殺されるまで顔色も乱さず平素のようにふるまっていたという、名将の死に臨んでの豪胆さを示すエピソードです。

 死を前にしても委縮することなく放尿できる豪胆さ。

 これはもう時代や国が違えども受け継がれていく、花の慶次的な”漢”の美学ですね。

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 花の慶次を見ると、「巡、起ちて旋す」の「起」も違うものが立っていたんじゃないかと勘ぐりたくなります。

 そうりゃあ~!!

唐代のソグド系医官

『北夢瑣言』巻6「同昌公主事」に、唐の懿宗の愛娘である同昌公主が病死した際、その責任を負わされた医官が族滅されたという記事が見えます。

『北夢瑣言』巻6「同昌公主事」

 因有疾、湯藥不效而殞、醫官韓宗昭・康守商等數家皆族誅。

 同じ事件について、『旧唐書』では次のように記されています。

旧唐書』巻177 劉瞻伝

 十一年八月、同昌公主薨、懿宗尤嗟惜之。以翰林醫官韓宗召・康仲殷等用藥無効、收之下獄。兩家宗族、枝蔓盡捕三百餘人、狴牢皆滿。

 薬が効かなかったという理由で韓宗昭とともに族滅された医官として、康守商または康仲殷の名が見えます。同一人物であることは間違いないでしょうが、いずれにせよソグド姓を冠していることに変わりはなく、当時、唐の宮中にソグド系の医官がいたことになります。

 この康守商は中国に移住して数世代を重ね漢化したソグド人で、伝統的な中国の医術をもって宮仕えしていた可能性もありますが、唐代の多くの皇帝がインドや西域の医者を招聘したことを鑑みれば、彼もまた西域伝来の医術をもって懿宗に召し抱えられたのではないかと思います。

 近年のソグド研究では、従来の商人として以外に、武人や牧馬官、宦官等として活躍する多様なソグド人の姿があきらかになってきていますが、彼らの中国における存在形態のひとつとして、医者も数える必要があるのかもしれません。