壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

中国史におけるブタトイレの風景

漢代を中心に、地方の豪族の墓などから当時のブタ小屋の明器が出土することがある。「猪圏」と呼ばれる柵に囲まれたブタ小屋である。

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 これら「猪圏」の明器には、柵に囲まれたブタ小屋の上階にトイレとなる小屋がついていることが多い。上階のトイレから垂らした便をブタが餌として処理してくれる、エコでロハスなトイレとブタ小屋の複合建築である。

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ブタの代わりにヒツジを飼っているトイレもある。

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博物館や美術館で中国関係の展示を見るとき、僕が最も期待するのはこの「猪圏」明器の有無だ。 

中国では死後の世界は現実世界の延長として捉えられており、副葬される明器も現実世界で墓主が愛用していた品や生活必需品のミニチュアであることが多い。つまり実生活でもブタ小屋を併設したトイレを使用していたわけだ。

 昔の中国のトイレがすべてがそうだったとは思わないが、僕らが親しんでいる『史記』や『三国志』の英雄豪傑美女たちも、みんなブタ小屋の上でうんこをしていたのかもしれない。たとえば予譲が趙襄子を暗殺するために刑徒に身をやつした「廁」、衛子夫が漢の武帝に抱かれた「軒中」でも、その階下ではブタがうんこを貪っていたかもしれないのだ。

国史の名場面のなかにブタトイレの存在を意識するだけで、風景が変わって見える。「猪圏」明器を見るたびに僕がわくわくするのはそんな理由からだ。 

 このエントリーでは、中国の伝世文献上、ブタトイレはいかなる形で描かれてきたのかをざっくりと探っていきたい。

 

文献の上でブタトイレは多く「圂」または「溷」と表記される。豕(ブタ)を囲った字形のとおり、もとはブタ小屋を意味する漢字だったようだが、人間がブタに排泄物を処理させるようになってからはトイレとしての意味も持つようになったものらしい。

「圂」にブタがいたことを如実に物語る史料として、唐代のできごとではあるが、民家の「圂」からブタが出てきて踊りだした、という災異が記録されている。

 『新唐書』巻36 五行志3 豕禍の条

咸通七年、徐州蕭縣民家豕出圂舞、又牡豕多將隣里羣豕而行、復自相噬齧。

同条の上段にはトイレの存在こそ明示しないが、官署でもブタを飼っていたと思しき記述がある。

貞觀十七年六月、司農寺豕生子、一首八足、自頸分為二。

おそらく司農寺が貯蔵していた食料としてのブタではなく、官舎のトイレで飼っていたブタ がシャム双生児的な異形の仔を生んだのだろう。唐代では地方の民家から都の官署にいたるまで、幅広くトイレでブタを飼っていたのかもしれない。

 

漢代における「圂」を描いた記事としては、武帝の子である燕王旦をめぐる災異がある。

 『漢書』巻27中之下 五行志第7中之下 豕禍の条

昭帝元鳳元年、燕王宮永巷中豕出圂 、壞都竈、銜其鬴六七枚置殿前。

燕王の後宮の「圂」からブタが逃げ出し、カマドを壊してカマをくわえて殿前にならべたという。これは謀叛をくわだてていた燕王を天が譴責する災異「豕禍」として捉えられており、彼の伝にも同内容が記されている。

 『漢書』巻63 武五子伝 燕刺王旦の条

是時天雨、虹下屬宮中、飲井水竭。廁中豕羣出、壞大官竈。烏鵲鬬死、鼠舞殿端門中。

諸侯の後宮にブタトイレが存在していたとなると、武帝が衛子夫に手をつけた平陽公主邸の「軒中」(これもトイレを指す)にもブタが飼われていたと想像したくなる。ムードもクソもありはしないが(クソはあるか)、「雄材大略」を謳われた武帝ほどの傑物には些細なことなのだろう。英雄、色を好むである。

さて、漢代のブタとトイレの話といえば、史上に悪名高い「人彘」がある。

 『史記』巻9 呂太后本紀

太后遂斷戚夫人手足、去眼、煇耳、飲瘖藥、使居廁中、命曰「人彘 」。居數日、迺召孝惠帝觀人彘 。

 趙王如意の母であり、呂后のライバルとなりうる戚夫人がダルマ状態にされてトイレにおかれたという過酷な拷問だが、「彘」とは手足の短いブタを指し、戚夫人が手足を切られた状態を表しており、また「廁」におかれていることからも、呂后がブタトイレを意識して処置したのは間違いない。

上述したように燕王の後宮にはブタトイレが存在したが、諸侯に関わる諸制度は基本的に中央の模倣と考えるのが自然だろう。ならば漢朝の後宮にもブタトイレが存在したと考えられ、ことによると戚夫人はクソまみれのブタ小屋にダルマ状態で転がされていたのかもしれない。

史記』に現れるブタの話としては轅固生の逸話も有名である。老子を奴隷の学問と切り捨てるスノッブな発言のせいで、老子推しの竇太后の逆鱗に触れた儒者の轅固生は、ブタ小屋に行ってブタを刺してこいと無茶ぶりを振られる。

 『史記』巻121 儒林列伝 轅固生の条

乃使固入圈刺豕 。景帝知太后怒而固直言無罪、乃假固利兵、下圈刺豕 、正中其心、一刺、 豕應手而倒。

彼を惜しんだ景帝がこっそり刃物を渡したため、轅固生はブタを一突きに刺し殺してことなきを得たという儒者らしからぬ武闘派エピソードだが、このブタ小屋、「圏」とだけあるためトイレとは関係ない柵で囲まれただけの豚舎のように思えるが、「下圏」という表現からすると上階から降りた先にあるブタ小屋だったようで、やはりこれもトイレのなかでクソまみれになってブタと戦ったものではないだろうか。高慢ちきな腐れ儒者を汚辱にまみれさせたいという竇太后のドSっぷりがうかがえる。

 おなじく漢代のエピソードとして、景帝のとき上林苑のトイレに「野彘」が闖入した話もあるが、これはそのトイレ併設のブタ小屋で飼われていたブタではなく、苑中で放牧されていたイノシシであろう。

 『漢書』巻90 酷吏伝 致都の条

嘗從入上林、賈姬在廁、野彘入廁、上目都、都不行。上欲自持兵救賈姬、都伏上前曰「亡一姬復一姬進、天下所少寧姬等邪。陛下縱自輕、奈宗廟太后何」上還、 彘亦不傷賈姬。

イノシシは賈姫を襲わなかったそうなので、目的は彼女のうんこだったのではないか。

 

視線を中国の周縁に転ずると、中国東北部にいた夫余の始祖である東明(高句麗の始祖である朱蒙と同一人物か?)の感生帝説にもブタトイレが登場する。

 『三国志』魏書巻30 烏丸鮮卑東夷伝 扶余の条 裴松之注所引『魏略』

舊志又言、昔北方有高離之國者、其王者侍婢有身、王欲殺之、婢云「有氣如雞子來下、我故有身。」後生子、王捐之於溷中、豬以喙噓之、徙至馬閑、馬以氣噓之、不死。

高離の王のもとに生まれた東明は父王にブタトイレへ捨てられたが、ブタが息を吹きかけて温め、死を免れたという。中国東北部にもブタトイレが根付いていたことがわかる。

なお、後漢書では「溷」ではなく「豕牢」という露骨な表現になっている。

 『後漢書』巻85 東夷列伝 夫余の条

王令置於豕牢、豕以口氣噓之、不死。

この「豕牢」という表現でトイレが描かれるケースも多く、『宋書』が伝えるところによれば、周の文王はブタトイレで産み落とされたという伝承もあるようだ。

 『宋書』巻27 符瑞志上

季歷之妃曰太任、夢長人感己、溲于豕牢而生昌、是為周文王。

「溲」は小便をするという意味のため、この「豕牢」はまずトイレと見て間違いない。季歴の妃はブタトイレに小便をしに行き、うっかり文王を産み落としてしまったというのだろう。文王、よくグレなかったな。

ちなみに、西晋の恵帝の長子であった司馬遹は、幼時に祖父の武帝と「豕牢」を見学している。

 『晋書』巻53 愍懷太子伝

嘗從帝觀豕牢、言於帝曰「 豕甚肥、何不殺以享士、而使久費五穀。」帝嘉其意、即使烹之。

わざわざ皇帝が見に来るくらいなのでこの「豕牢」はトイレを併設しない純然たるブタ小屋だと思いたい。が、武帝といえば王済の屋敷にて人の乳で育てられたブタ肉をごちそうになってドン引きしたエピソードがあるので、案外もりもりうんこを食ってるブタを見て「やっぱこれだよ」と安心していたかもしれない。

 

この他、「溷」や「豕牢」に死体を棄てたり埋めたりするエピソードが史料上に散見するが、ブタの存在は明示されない。あるいは雑食のブタに死体を食わせて処理するハンニバル的な目的もあるのかもしれないが、今回はそこまで触れずに筆を擱きたい。

ざっくりと唐代までのブタトイレのある風景を点描してみたが、まだまだ判らないことは多い。五代以降について、正史からはブタトイレの存在をにおわせる記事に乏しく、実態をつかめないのも残念だ。

ブタトイレについては今後も史料や論著を読み、明器を見て、その実態について考えていきたい。このクソみたいなエントリーはその第一歩なのだ。

石君立、ソグド人やめるってよ

ツイッターで呟いていた石君立ネタのまとめ。

中華書局の「点校本二十四史修訂本」シリーズの『新・旧五代史』が届いたのでパラパラめくっていたのだが、文献史料以外に墓誌も活用してテキストを修訂していて、なかなか面白い。

そのなかでも目に付いたのが、『旧五代史』巻65唐書41列伝第17の石君立伝。従来のテキストでは「石家財」と記されていた彼の異名が次のように修訂されているのだ。

石君立 、趙州昭慶人也、亦謂之石家才。初事代州刺史李克柔、後隸李嗣昭為牙校,歷典諸軍。

石君立は沙陀政権の部将として後梁との戦いに従事していた武人だが、ソグド研究者の一部では、石というソグド姓と、沙陀政権にはソグド系武人(いわゆるソグド系突厥)が多数参加していること、さらには「石家財」という異名が交易に巧みなソグド人をイメージすることから彼をソグド系と見なす向きがあった。

今回の修訂は、校勘記によると次のような校勘の結果らしい。

石家才 原作「石家財」、據本書巻九梁帝末紀中・冊府巻二一七・巻三六九改。

冊府元亀は手元にないので確認のしようがないが、なるほど『旧五代史』巻9梁書9末帝紀中・貞明5年の条では「石家才」と記している。

十二月戊戌、晉王領軍迫河南寨、王瓚率師禦之、獲晉將石家才案:通鑑石家才作石君立。考薛史列傳、君立一名家才

その他、『旧五代史』の石君立登場記事を見ても、「石君立」の他は「石家才」あるいは「石嘉才」の表記であり、「石家財」は本人の伝にしか見えないのだ。

 『旧五代史』巻22梁書22列伝第12王檀伝

二年二月、師至晉陽、晝夜急攻其壘、并州幾陷。既而蕃將石家才自潞州以援兵至、檀引軍大掠而還。

 『旧五代史』巻28唐書4荘宗紀第2

是月、梁主遣別將王檀率兵五萬、自陰地關趨晉陽、急攻其城、昭義李嗣昭遣將石嘉才案:梁紀作家才、唐列傳作家財。(舊五代史考異)率騎三百赴援。

 『旧五代史』巻61唐書37列伝第13安金全伝

俄而石君立自潞州至、汴軍退走。

財は才に通じるので、まったくの誤字ともいえないが、おそらくは「石家才」が正しいのだろう。

石君立の異名が「石家才」だとすると、彼をソグド系と見なす根拠(というほど確実なものではないが)がひとつ消えることとなるが、石君立ソグド説を完全に否定することもできない。

彼の出自である趙州は成徳軍節度使の管内だが、周知のとおり安史軍の残党の創建になる成徳軍には、康日知をはじめ多数のソグド系軍将が存在したことが明らかになっている*1。石君立自身は一貫して沙陀政権に仕えており、成徳軍に出仕した形跡はないものの、彼がこれら安史軍残党の流れを汲むソグド系武人であった可能性も捨てきれないのだ。

 

石君立について、またひとつ気になる点は、彼の諱である。

「君立」という諱を持つ者は管見の限り、『旧五代史』では石君立の他には、李克用を擁立した代北のソグド系の「邊豪」康君立と、荘宗の仮子となっていた経歴不詳のソグド系武人米君立(仮子としては「李紹能」の姓名を賜っていた)の2人のみである。

漢籍電子文献でざっくり検索をかけても五代以前には「君立」という諱あるいは字を持つ者は彼ら3名のほか、北魏の皇族である元樹しか見つからない。

 『北史』巻19列伝第7咸陽王禧伝

翼弟樹、字秀和、一字君立 。美姿貌、善吐納、兼有將略。位宗正卿。後亦奔梁。

元樹の兄弟は一部を除き、「曇和」「仲和」など、みな字に輩行字と思しき「和」の字を含んでおり、こういった儒教的性格を帯びた字とは別に有する「君立」という字は、彼の鮮卑での本名の音転写という可能性は考えられないだろうか。

北斉のテュルク系武人斛律金の字は「阿六敦(アルトゥン)」(テュルク語で「金」を意味する)であり、彼の場合は漢地における諱と字が一致しているわけだが、おそらく敕勒における彼の本名の音転写なのだろう。

元樹の字が斛律金と同様のケースだとすれば、これは完全に僕の妄想だが、漠北のテュルク・モンゴル語世界では漢字に音転写すると「君立」と表記される言葉が存在し、鮮卑の皇族である元樹や、突厥や沙陀と交雑していたソグド系突厥である康君立らがそれを名乗った可能性も微粒子レベルで存在しているんじゃないだろうか(石君立の場合は先祖が安史軍に参加したソグド系突厥か)。

 

とまあ、ぐだぐだ書き連ねてきたが、いまのところ石君立がソグド系であることを立証する証拠はないわけで、やはり彼には一旦ソグド人の看板を下ろしてもらうしかないだろう。

そういうわけで、石君立、ソグド人やめるってよ。

 

 

【9月10日補記】

石君立をソグド系と見なす根拠が薄いと書いたが、改めて彼の登場する史料を見返すと、『旧五代史』王檀伝では「蕃將」と明記されている。

当初、彼は当時「晋」と呼ばれていた沙陀政権の部将であるから梁書においては「晋將」のほかに「蕃將」と記されたのかと思い、看過していた。『旧五代史』では「蕃將」と冠される者は、梁書では石君立の他、史冠府(ソグド?)、何懐宝(ソグド?)、張汚落(李存信の旧名。ウィグル系沙陀)、賁金鉄(出自不明)、慕容騰(鮮卑?)、李存建(沙陀?)、安休休(ソグド)、石君和(ソグド?)ら沙陀政権の部将であり、唐書以降では惕隠、大相温、諧里相公、高牟翰、禿餒、偉王、耿崇美、楊袞、耶律忠と、すべて契丹の部将に限定されている。

しかし、『旧五代史』巻38唐書14明宗紀第4の天成2年10月の条に、「本非蕃將」と記された漢人節度使の霍彥威が「番家之符信」に倣い、明宗に矢を献じた例があるように、一般的に「蕃將」といえば非漢人の将領を指し、非漢人集団の部将だから出自に関係なく「蕃將」と呼ぶのは無理がある。

青州節度使霍彥威差人走馬進箭一對、賀誅朱守殷、帝卻賜彥威箭一對。傳箭、番家之符信也、起軍令眾則使之、彥威本非蕃將、以臣傳箭於君、非禮也。

おなじ沙陀政権(晋)の部将であっても李嗣昭や周徳威ら漢人が「晋將」と記されることはあっても「蕃將」を冠する例はない(ただし李克用墓誌に表れる「嗣昭」は李克用の「元子」つまり長子とされており、編纂史料中の李嗣昭と同一人物ならば、彼は沙陀ということになる)。

よって石君立については非漢人であることは疑いなく、「石」がソグド姓であることを鑑みれば、彼もまたソグド系であったと見なすのが妥当だろう。

結局タイトルと真逆の結果じゃないか…。

*1:森部豊『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史的展開』「第4章 ソグド系突厥の東遷と河朔三鎮の動静」関西大学出版部、2010

カミナリ兄さん

久々に『北夢瑣言』を読んでいたら厨二心をくすぐる法籙の話が出てきたので、以下に記す。

『北夢瑣言逸文』巻第四「雷公籙」

巴蜀間、於高山頂或潔地、建天公壇、祈水旱。葢開元中上帝所降儀法、以示人也。其壇或羊牛所犯、及預齋者飲酒食肉、多為震死。新繁人王蕘、因往別業、村民烹豚待之。有一自天公齋廻、乃即席食肉。王謂曰「爾不懼雷霆耶。」曰「我與雷為兄弟,何懼之有。」王異之、乃詰其所謂。曰「我受雷公籙。與雷同職。」因取其籙驗之、果如其說。仍有數卷、或畫壯夫以拳扠地為井、號「拳扠井」。或畫一士負薪枿、號「一谷柴」。或以七手撮山簸之、號「七山簸」。江陵東村李道士舍亦有此籙。或云「三洞法籙外、有一百二法、為天師子嗣師所禁、唯許救物。苟邪用、必上帝考責陰誅也」

唐代、巴蜀では高山の頂や清浄の地に天公壇を建て、雨乞いや日照り乞いをする習慣があったが、牛羊がこの壇に上ったり、ここで斎戒する者が飲酒肉食をすると雷に打たれて死ぬといわれていた。

新繁県(当時の益州北部にあった県)の王蕘(おうじょう)という者が別荘に赴いたおり、そこの村民は豚を煮て歓待してくれたが、天公壇から斎戒帰りの者がやってきて、席につくや肉を食べはじめた。王が「お前さんは雷が恐ろしくないのかい?」と尋ねると、「俺は雷とは兄弟だ。何を恐れることがあろう」と答える。訝しんだ王がさらに尋ねると、「俺は雷公籙を授かっている。雷さまとは同僚ってことさ」と、法籙を取り出す。王が確認すると、はたして男のいうとおりで、その他にも数巻の法籙があった。

壮士が拳で地を穿ち井戸を掘り抜くさまを描いたものは「拳扠井」、薪や切り株を背負った姿を描いたものは「一谷柴」、七本の手で山をつかんで箕にかけるように揺さぶるものは「七山簸」と号したという…。

 

うーん、マンガかよ、とツッコみたくなる異能の数々。「一谷柴」だけしょぼく見えるが、谷一つ分くらい大量の薪を背負えるということなんでしょうね…。

これらは人助けのためにだけ使うことが許された術らしく、悪用すると上帝に誅殺されるといわれていたそうで、たしかに雨を降らせたり、井戸を掘ったり、薪を運んだりと生活に役立つものばかりだ(「七山簸」は木の実を採るための術かもしれないが、単に僕の読み方が誤っているだけかもしれない)。いかにも当時の人々の「こんな術があればいいのに」という需要から生まれていそうな術たちで、生活感があって面白い。

僕は道教の知識がないので法籙がどのような形態だったのか知らないが、こういった説話が生まれるということは、当時は絵入りのものもあったのだろう。

しかし三洞の法籙のほかに102の亜流(?)の法があったという話には厨二心をくすぐられる。遍歴の道士が各地で法術を修めた者を破って102の法を習得していく、という『百人の半蔵』みたいなマンガがあってもいいと思うの(「謫仙」李白が102の法を修めると天に帰れるとか)。

節分らしい話

陳舜臣は「鬼を驚かせ」というエッセイで遼代の正月の習俗「驚鬼居」に触れている。

 鬼の住居を驚かす、というのだから、魔除けの行事にちがいない。記事によれば、モチゴメの飯と白羊の髄で拳大の団子をつくり、夜にそれを家から外にむかって投げたという。そのとき十二人の巫が鈴を鳴らし、歌をうたいながら、住居の周囲をまわったのである。

…(中略)…

この驚鬼居の行事の説明はさらに、

――帳內爆鹽、壚中燒地拍鼠

とつづいている。…(中略)…右の文章によれば、部屋のなかで、はじけるように塩を焼き、いろりのなかで地を焼き、そしてネズミをたたくということになる。

要するに追儺のような儀式で、節分の豆まきとも関係がありそうで興味深い。しかし『遼史』の当該記事を読むと、この習俗を「驚鬼居」と呼ぶことには疑問が生じる。

『遼史』巻五十三 禮志六

正旦、國俗以糯飯和白羊髓為餅、丸之若拳、每帳賜四十九枚。戊夜、各於帳內窗中擲丸於外。數偶、動樂、飲宴。數奇、令巫十有二人鳴鈴、執箭、繞帳歌呼、帳內爆鹽壚中、燒地拍鼠、謂之驚鬼、居七日乃出

「之を驚鬼居と謂い、七日にして乃ち出づ」ではなく、「之を驚鬼と謂い、居ること七日にして乃ち出づ」と読む方が自然ではないか。鬼そのものではなく住居を驚かすという捉え方は不自然だし、餅を投げ、塩を焼いてネズミをたたき、七日間の物忌みを過ごしてようやくテントの外に出れた、というわけだろう(あるいは鬼の方が七日間もこんな儀式を続けられて這う這うの体で出て行ったのかもしれないが)。

 

2月7日追記

横田文良『中国の食文化研究〈北京編〉』によると、契丹人は「黄鼠」というハタリス(黄色の地鼠類)を好んで食べたそうで、その肉を炙った料理の名を「焼地拍鼠」というらしい。地鼠類の巣であるトンネルの片側の入り口で火を焚き、煙でもう一方の入口へと燻り出す狩猟法が料理の名になっているとのこと。

それでは驚鬼の儀式のうちテント内部における、いろりで塩を焼くという行為は、ハタリス狩りを模して悪霊を燻り出す儀式なのか、あるいは正月料理として本当にハタリスの肉を炙っていたのだろうか。

 

 

蘭におもう (徳間文庫)

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越後製菓は不正解

西晋武帝が人の乳で育てた豚肉を食べた話は有名だが、貴族の生活が奢侈に流れた晋代では贅沢三昧のエピソードに事欠かない。

西晋の丞相となった何曾も食にこだわりが強かったようで、衣食住の豪奢は「王者を過ぐる」といわれ、一日の食費に一万銭を費やしても「箸を下ろすところがない(食べるものがない)」などとうそぶいていたそうである。

『晋書』巻33 何曾傳

然性奢豪、務在華侈。帷帳車服、窮極綺麗、廚膳滋味、過於王者。每燕見、不食太官所設、帝輒命取其食。蒸餅上不坼作十字不食。食日萬錢、猶曰無下箸處。

そんな彼の美食ぶりを象徴するのが「蒸し餅の表面が十字に割れないと食べなかった」という何とも貧相なエピソードなのは、いかがなものか。それでいいのか、何曾。

何曾は確実に、切り餅については越後製菓よりサトウ派だろう。

 

切り餅 パリッとスリット 1kg

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小さいねって言われませんか

先日ツイッターでもつぶやいたが、最近、標記のタイトルで「ペ●ス増大注射」を勧める迷惑メールが頻繁に届く。

僕は決して「ペ●ス増大注射」のバナーなど踏んだことはないし、なんとかビデオやなんとかハムスターといったいかがわしい動画サイトを巡回するようなことも月2~3回以上はないはずだ。そもそもペ●スの大きさで悩んでなどいないのだが、とにかくそういったメールが届いてしまっている。大変遺憾である。

しかし、あくまでも僕は関係ないのだが、世の男性諸氏がペ●スの大きさや強度を気にする風潮が一般にあるため、このような迷惑メールがはびこってしまうのだろう。

これは現代の日本男児に特有の自信のなさの表れかというとそうでもなく、お隣の中国でも千年以上前から、男たちはペ●スの鍛錬を気にかけていたようだ。

 

『北夢瑣言逸文』巻第3「大輪呪術」

 

 釋教五部持念中、有大輪呪術、以之救病、亦不甚效。然其攝人精魂、率皆狂走、或登屋梁、或齧瓷碗。閭閻敬奉、殆似神聖。此輩由是廣獲金帛。陵州貴平縣牛鞞村民有周達者、販鬻此術、一旦沸油煎其陰、以充供養、觀者如堵、或驚或笑。初自忘痛、尋以致殂也。中間僧昭浦說、朗州有僧號周大悲者。行此呪術、一旦鍊陰而斃。與愚所見、何姓氏恰同、而其事無殊也。蓋小人用道欺天、殘形自罰、以其事同、因而錄之。

 

『北夢瑣言』に記されているということだから、この話は唐の後半期から五代にかけてのことだろうが、具体的な時代はよく判らない。

仏教の五部持念に「大輪呪術」というまじないがあり、これは病気を癒すといわれているが、実際には効かないこと甚だしい。それでも人の精魂を操ることはできるようで、術をかけられた者はみなやたらめったら走り回り、ある者は屋根に上り、またある者はお椀を齧りだすというから、庶民はみな神様のようにこの術を敬ったという。それゆえ術者は大輪呪術を利用して金もうけをしていたそうだ。

さて、この術者のうちに陵州貴平県は牛鞞村の周達という者がいた。唐代の陵州貴平県は現在の四川省仁寿県の東北に位置している。この田舎の山奥で、周達は大輪呪術を鬻いで暮らしていたのだが、ある日、おのれのペ●スを煮えたぎった油で煮て、仏の供養をしたいと言い出した。どこの仏が喜ぶのかは知らぬが、まわりの野次馬は興味津々、たちまち人垣ができ、みな驚いたり笑ったり。おのれのペ●スを煮えたぎる油に突っ込んだ周達は、はじめこそ痛みを忘れていたが、すぐに死んでしまった。

中間僧の昭浦がいうには、朗州(現在の湖南省常徳市周辺)にも周大悲という僧があって、大輪呪術を事としていたが、ある日ペ●スを鍛えたところ、やはり同様に死んでしまったということだ。

周大悲の「鍊陰」方法がどのようなものであったかは判らないが、おそらくは周達と同様に大輪呪術を施しながらペ●スをハードにいじめていたのだろう。

  

さて、肝心の大輪呪術については、仏教の知識も素養もない僕には皆目見当もつかない。

ただ、「五部持念」については、岩崎日出男氏が「明らかに金剛頂経系の教法を指す」と指摘しており(具体的な考究はしていない)*1、周達と周大悲は密教を修めていたのだろう。これも会昌の廃仏による迫害をのがれ、野に潜んで呪術的性格を強めた唐末の密教の一形態とは考えられないだろうか(想像をたくましくすれば、周達は弾圧を逃れるために還俗した密教僧とも考えられる)。

また、遼代に成書した『顕密円通成仏心要集』では、一蔵経には仏部5部、蓮華部5部、金剛部5部、宝部5部、羯磨部5部のあわせて25部の神呪があるとされているが、「五部持念」とは仏~羯磨の5部あるいは金剛部の5部を指し、そのなかにある(のではないかと僕がかってに想像している)大輪金剛陀羅尼を大輪呪術に比定できないだろうか。

要するに、周達たちが大輪金剛陀羅尼をペ●スを「金剛」のようにカッチカチにする神呪と勘違いして唱えていたりはしないかと、仏教に無知な僕は空想するのである。

まあ、僕は大輪金剛陀羅尼のご利益を知らないのだが、罪障の消滅とかそのへんなんでしょ?

 

ともあれ大輪呪術の正体は不明だが、もし周達たちがペニスを金剛のように鍛え上げることを期待してこの行法をおこなっていたのならば、千数百年前から男たちの悩みは変わらないのだなと、親近感を覚える男性も多いのではないだろうか。

もちろん僕には関係のない話なのだが。

*1:岩崎日出男「法門寺の埋納物に記された僧の出自その経歴について」『高野山大学密教文化研究所紀要』16

沙陀の貌

久しぶりの更新になります。
うちのPCがWindows8.1にバージョンアップした関係かネットに接続できなくなってしまったので、iPhoneからの更新です。

前回のエントリで突厥のビジュアルに触れましたが、コーカソイドの血を引くソグド系突厥などを除けば、阿史那氏などのテュルク系は形質的にはモンゴロイドであったというのが通説のようです。
西突厥の支族と称する沙陀についても、中核氏族の朱邪氏は無批判にテュルク系であると見なされているようですが、実際にはどうだったのでしょうか。


史料上に沙陀であることが明記されている人物の風貌については、管見のかぎり、「一目微眇」のため「独眼龍」とあだ名された李克用の他には、沙陀としての矜恃を抱くソグド系の康福が、その恰幅の良さを「體貌豐厚」と評されているケースのみで、具体的な人種の推定にはつながりません。

一方、沙陀一般に対する当時の人びとの認識は、朱全忠率いる河南軍閥(のちの後梁)の部将氏叔琮が沙陀(晋)軍をスパイで撹乱したエピソードから伺えます。


『旧五代史』巻19 梁書19 氏叔琮伝

晋軍恃勝攻臨汾、叔琮厳設備御。乃於軍中選壮士二人、深目虬鬚、貌如沙陀者、令就襄陵県牧馬於道間。蕃冦見之不疑、二人因雑其行間、俄而伺隙各擒一人而来、晋軍大驚、且疑有伏兵、遂退據蒲県。

氏叔琮は、眼窩がくぼみ頬ヒゲがもじゃもじゃ、という「沙陀のような顔」の兵士二人をスパイにしたてあげます。二人は沙陀の進軍ルートにあたる襄陵県で馬を放牧しますが、それを近在の牧民と見たのか怪しまない沙陀軍にまんまと潜入し、撹乱工作を成功させました。
この記事から、当時、一般的には沙陀の風貌にコーカソイド的特徴を認めていた、少なくとも李克用率いる沙陀集団にはコーカソイド的風貌の兵士が多かったことが伺えます。
そして当時の河東道では、沙陀やソグド系突厥の部落が安置された代北からはるか南方においても(襄陵県は現在の山西省臨汾市周辺)、コーカソイド的風貌の牧民が馬を追う光景が日常的に見られたことも特記すべきでしょう。

沙陀にコーカソイド色が濃厚であったことは、黄巣が李克用へ送った和睦の使者が米重威というソグド系の者である点からも伺えます。

『旧五代史』巻50 唐書26 宗室列伝第2 李克譲の条
中和二年冬、武皇入関討賊、屯沙苑。黄巣遣使米重威齎賂修好、因送渾進通至、兼擒送害克譲僧十人。

唐代前後のユーラシア東部では、ソグド人の進出によりソグド語が半ば公用語化していたのか、あるいはマルチリンガルが多かったせいか、各民族間の外交もソグド系の使者が担っていた気配があり、吐谷渾などの遊牧民族が沙陀系諸王朝へ遣わす使者にもソグド系が目立ちます。黄巣もソグドを含む多民族混成の沙陀集団への使者はソグド系が適任と見たのでしょう。塩商あがりの黄巣ならば、その流通ネットワークに絡むソグド商人の協力があっても不思議ではありません。
また、本筋からは逸れますが、上掲史料に見える「渾進通」は、もとは李克用の弟克譲の下僕です。姓からして渾の出身と考えられ、沙陀集団には渾も参加していたことを証する稀少な事例です。


沙陀との折衝にソグド系の人物を起用するのは黄巣だけではありません。
唐朝から軍監として派遣され、李克用・存勗二代に仕え、名宦官として名高い張承業も、元の姓は「康」のため、ソグド系といえます。

『旧五代史』巻72 唐書48 張承業伝
張承業、字継元、本姓康、同州人。咸通中、内常侍張泰畜為仮子。光啓中、主郃陽軍事、賜紫、入為内供奉。武皇之討王行瑜、承業累奉使渭水、因留監武皇軍事、賊平、改酒坊使。三年、昭宗将幸太原、以承業与武皇善、乃除為河東監軍、密令迎駕。

同州には薩宝がおかれ、ソグド人コロニーが存在していたといわれていますが、張承業の出自もおなじコロニーなのかもしれません。

ともあれ、唐朝も沙陀集団の目付け役を果たし、意思疎通もはかれる人物はソグド系が適任と考えていたのではないでしょうか。


以上、見てきましたように、唐末において沙陀は、内部に多くのソグド系を含んでいたためか、外部からはコーカソイド的外貌で認識されており、折衝にもソグド人が起用されることが多かったといえます。

ただし、李克用ら朱邪氏がテュルク系か否か、モンゴロイドコーカソイドかについては何れも未詳です。

また、ソグドを中心とした沙陀集団内部の民族構成は樊文礼、森部豊、西村陽子の各氏の研究に詳しいため、このエントリでは追究しません(iPhoneなので文章書くのがめんどくさい)。あしからず。