釣りキチと龍と魚たち
例によって久々に『北夢瑣言』を読んでいたら変な記事を見つけたので、以下に紹介する。
『北夢瑣言』逸文巻第四 釣魚見龍
李宣宰陽縣、縣左有潭、傳有龍居、而鱗物尤美。李之子惰學、愛釣術、日住潭上。一旦龍見、滿潭火發、如舒錦被。李子褫魄、委竿而走。蓋釣術多以煎燕為餌、果發龍之嗜慾也。
李宣が陽県の県令であったとき、県の東側の淵には龍が棲み、鱗ある物のなかでも最たる美しさだと言い伝えられていた。李の子は学問をおこたり釣りを好んで、日々その淵へ通っていたが、ある日、龍があらわれ、淵に錦のふとんをひろげるようにぎらぎらとした炎をまきおこした。李の子は魂消て、釣竿を放って逃げだした。一般に釣りでは焼いたツバメの肉を餌とすることが多いが、案の定、龍の食欲を刺激してしまったのだろう。
李宣の子が釣り餌としていたと思しき「煎燕」は、字のごとくツバメを焼いたり煮たりしたものらしいが、いやいやいや、おかしくない?
焼いたツバメの肉が釣り餌として一般的だったと、孫光憲はあたりまえのように記すが、これを素直に受け取るのは現代日本人には抵抗がある。虫に比べて採取に手間がかかりすぎるし、コスパも悪いだろう。
しかし唐五代に一般的に普及していた釣り餌というニッチな事物を当時の史料から探し出すのは困難を極めるが、孫光憲と同時代の五代に成立した『玉堂閑話』には、渭水の釣り人が焼いたツバメの肉で釣りをする説話が見える(テキストは『太平広記』から拾っています)。
『太平廣記』巻第一百一 釋證三 渭濱釣者
清渭之濱、民家之子、有好垂釣者。不農不商、以香餌為業、自壯及中年、所取不知其紀極。仍得任公子之術、多以油煎燕肉置於纖鉤。其取鮮鱗如寄之於潭瀨。其家數口衣食、綸竿是賴。…(後略)
渭水の岸辺の家の子で、釣りを好む者がいた。野良仕事も商いもせずに、かぐわしい餌での魚釣りを生業としていた。壮年から中年にかけては、釣りに出れば魚をとること終わりが見えぬほどであった。そこで伝説上の釣り人である任公子のわざを会得し、ツバメの肉の油焼きを餌として細い釣り針にしかけるようになった。鮮魚を釣りあげることは、水際に魚を集めるかのようであり、その家族数人の衣食は彼の釣り竿でまかなわれていた。…(後略)
任公子は『荘子』外物編に見える釣り人で、五十頭の牛を餌に巨大な釣り竿で大魚を釣ったといわれる伝説の釣りキチである。「任公子之術」というのは五十頭の牛で大魚を釣るような奇天烈な技術、一種の方術のようなものとも聞こえるが、孫光憲が生き、『玉堂閑話』が成立した五代には、釣りキチの間では「焼いたツバメの肉で爆釣するらしいぜ」という迷信が流れていたのではないか。孫光憲が釣りキチだったかはわからないが、通ぶって「蓋し釣術は多く煎燕を以て餌と為す」などと調子のいいことを書いたに違いない。
唐代の釣り餌については、中村治兵衛氏が上掲の説話や詩から「香餌」「芳餌」と称される餌を釣り針につけていたことを論じているが、具体的な餌の事例は上掲の焼いたツバメ肉のみである。*1「香餌」「芳餌」というのは単なる餌の美称の可能性もあるが、当時の釣りキチたちの観念上では、上等な釣り餌はかぐわしい匂いで魚をひきつけることが期待されていたのだろう。それは単なる虫ではありえない。油でこんがり焼かれた香ばしいツバメ肉。それこそ当時の釣りキチたちが考えていた至高の釣り餌であり、任公子の爆釣伝説と結びついて、「任公子之術」などと称する方術どころか与太話じみた釣りの秘訣が生まれたのではないだろうか。現代風にいえば「加藤鷹直伝のスローセックス術」みたいなものか。
「鱗物」という語が魚や龍などウロコをもつ生き物の総称であることからわかるように、伝統中国では龍は魚に近い生き物と見られていたようだ。『北夢瑣言』には数多くの龍にまつわる説話が収録されているが、その舞台はだいたい川や淵、はては井戸など水辺である。鯉が滝を登って龍になる「登龍門」の伝説や、龍が世を忍ぶ仮の姿として魚に化ける説話もあるし、李宣の説話もそういった意識のうえで成り立ったのだろう。
しかし、いくら上等な「香餌」であったとしても、魚の餌ごときに釣られてしまう龍は可愛らしくも情けない。それでいいのか、龍。もっと龍としてのプライドを持て、プライドを。
*1:中村治兵衛『中国漁業史の研究』刀水書房、1995
3日間でゴールデンカムイスタンプラリーを駆け抜けてみる~3日目
~3日目~
さて、いよいよ最終日となる3日目である。
本日は旭川市博物館からスタートし、網走監獄、釧路市立博物館を経て、阿寒湖温泉にあるアイヌコタンのアイヌシアターイコロまで、道北・道東をぐるっと巡ることになる。
予定ルートは次のとおり。
延べ431kmということで、今回の旅で最長距離を走ることになる。
アイヌシアターイコロは夜間も営業しているためゴール地点に設定。問題は最終入場が16時半の釧路市立博物館である。ここまででも旭川からの距離は350kmを超える。チェックインスポットの見学や食事に時間をとりすぎると樺戸博物館の二の舞になるだろう。もちろん寝坊は許されない。
幸か不幸か緊張のせいで眠りが浅かった僕は、今回だけは寝過ごすことなく、開館間もない朝9時に第8チェックインスポット旭川市博物館に到着した。やればできるじゃないか。
ARは鶴見中尉。
旭川博物館は小樽市総合博物館や北海道博物館同様、旭川の歴史と自然、アイヌ文化に関わる展示で構成されており、特色としては、旭川の「軍都」としての性格を垣間見れることか。
鶴見中尉たちも闊歩したであろう、師団通りの街並み。
おなじみマキリ。
多彩なトゥキパスイ(捧酒箸)。
原作ではアシリパのフチが穀物を刈り取るシーンに登場した貝包丁。内陸の上川でも使われていたらしい。
昭和レトロな横丁には旭川ラーメンの人気店蜂屋もあるが、さすがに朝は営業していないので別の店へ。
旭川のご当地グルメ、ゲソ丼発祥の店といわれる立ち食いそば屋天勇にて、月見そばとゲソ丼のセット。
飾り気のない質実剛健な朝食に「軍都」の面影を見るようだ、というのは言いすぎか。
10時頃に旭川を発ち、東のかた網走へ向かう。最終日で気合いが入っているのか、かなりいいペースだ。
第9チェックインスポット網走監獄に到着したのは13時頃のこと。
ARはやはりこの人、脱獄王・白石だ。
庁舎にはAR取得ポスターやお土産屋のほかにもこんなものもあった。
ッピュウ☆
野田サトル先生のサイン色紙とは、やっぱり網走監獄は優遇されてるんだな…!
網走監獄では膨大な量のマネキンで監獄として機能していた当時の様子を再現しており、今回のチェックインスポットのなかでは一、二を争う充実っぷり。
水門。
道路開削に駆り出された囚徒たちの休泊所。
いまにも脱獄しそうな連行場面。
食堂。
トイレ。
風呂場。
炊事場。
独房。
白石、ジャマ!!!
並んでると、どっちがどっちだか…。
五翼放射状平屋舎房。
全体像はとてもじゃないがiPhoneでは撮れなかった。
そして内部。
こうして凶悪犯たちが収監されていたわけだ。
白石も脱獄中。
網走監獄に来るのは今回で3度目だが、ARでの写真撮影をとおして、いままでとは違った楽しみ方ができた。インスタ蝿などと呼ばれて批判されがちだが、SNS映え写真を撮ることを目的とした旅というのも、目的意識を持って景色を見つめることになるので、漫然と見ていては気づかなかった土地の魅力の再発見に繋がるような気がする。
昼食は監獄食堂で臭い飯。
プラスチック皿の見た目も味も給食みたいだが、栄養バランスに配慮されているし、サンマは旬なので普通に美味い。あれ、もしかして僕より健康的な食生活では…?
昼食を済ませ、14時半頃に網走を後にして、釧路へ南下。
しかし2時間強で釧路までというのはさすがに無理があり、第10チェックインスポット釧路市立博物館到着は閉館後の17時であった。
ARは谷垣ニシパ。
入口付近の掲示板にARポスターが貼ってあったので閉館後でも取得できた。もしかしたらすべての施設でこういった救済措置が取られているのかもしれない。
しかし樺戸の轍を踏んでしまったのは悔しい。網走で長居しすぎたかな…。
せっかく釧路まで来たので、中途半端な時間ではあるが、気を取りなおして釧路グルメを食べに行く。釧路といえば魚介。店はこの港町を代表するグルメ回転寿司まつりやだ。
谷垣ニシパの好きな勃起……じゃない、ホッキ。瑞々しくてコリコリ歯応えがある。こいつぁヒンナだぜ。
道東産のサンマをチタタプしてオソマをのせた軍艦。これもとぉってもヒンナ。
個人的にまつりやは函館の函太郎と並んで、北海道のグルメ回転寿司の双璧だと思う。東京に進出したトリトンや花まるばかり注目されがちだが、博多ラーメン同様、本当に美味いものは現地にあるものだ。
寿司を軽くつまんでから、ゴールの阿寒湖アイヌコタンを目指し、北上する。
阿寒湖温泉街のアイヌコタンに到着したのは日も暮れた19時のこと。第11チェックインスポットのアイヌシアターイコロである。
最後のARはお食事アシリパさん。
やった、ついにコンプリートだ!
見学できなかった施設もあるけど、なんとか完走できた…!
イコロはアイヌ古式舞踊やイオマンテの火祭りを見ることができる劇場だ。20時開演の部まで時間があるため、観光に特化した現代のアイヌ集落であるアイヌコタンを散策する。
飲食店や土産屋が軒を連ねる夜のアイヌコタン。
実はここに、今回の旅で一番行きたかった店がある。
アイヌ料理が食べられる民芸喫茶ポロンノだ。
店内は木彫りなどアイヌ風の調度が並ぶカフェといった雰囲気。ゴールデンカムイ読者ならば一度はアイヌ料理を食べてみたいと思うだろうが、ポロンノへ行けばそれが叶うのである。
ユク(鹿)のオハウの定食を注文。チタタプはなかったが、やはりオハウはアイヌ料理の基本なのだろう。定食のメインを張っている。
セットのドリンクはシケレベ茶。身体に良さそう。
サイドメニューとしてポッチェイモも注文する。
こちらがユクセット。
オハウは鹿肉のほかにギョウジャニンニク、人参、ワラビ、キノコなど、山の幸がどっさり。シンプルな塩味のスープに鹿と野菜の旨味が溶け込み、滋味深い味わい。バターにも似た鹿肉や、独特なギョウジャニンニクの香りは苦手な人もいるかもしれないが、自然を直に味わっているような野趣を感じる。しかし複雑で濃厚な出汁文化にどっぷり浸かった濃い味好みな僕の舌には、出汁が薄いせいもあるのか、味に奥行きがないというか、どこか物足りなさも感じた。率直な感想が「これ、味噌を入れたらもっと美味くなるんじゃない?」ということ。
野田サトル先生も実際に食べて同じことを感じ、ああいうキャラ造形になったのかはわからないが、味噌の濃厚で複雑、刺激的な味を知った若いアシリパさんがオソマ狂いになるのも納得した。いまなら彼女の気持ちが舌で理解できる。
定食のご飯はアマムという素朴な豆入り炊き込みご飯。これに鮭の血合いの塩辛であるメフンをのせて食べる。以前食べたメフンは生臭くて苦手だったが、この店のものは塩辛さが突き抜けていて臭みを感じず、アマムが進む。ヒンナヒンナ。
シケレベ茶。シケレベがどんな木の実なのかまったくわからないが、ほのかに柑橘系の香りがして飲みやすい。胃もたれに良いということなので、今回の旅でだいぶ酷使した胃を休ませてあげよう。
ポッチェイモ。作り方はメニュー写真参照。表面がカリカリで香ばしく、じゃがいもを発酵させているせいか、わずかに酸味も感じるいも団子(いももち)という印象。素朴だが、バターをのせて食べるとなかなかヒンナ。
このほかにもアマムのカレーやポッチェイモのピザなど、伝統的なアイヌ料理だけでなく、現代的にアップデートしたメニューもあるようで面白い。全メニューを食べてみたいし、また来よう。
さて、20時からはイコロでアイヌの古式舞踊を見学する(イコロでは上演中の写真や動画の撮影を禁じられているので画像はなし)。
十数種類ある演目のなかからランダムでいくつか上演するらしく、僕が今回見たのは踊り手の女性たちがシントコを囲んで歌う座り歌、お爺さんがトゥキパスイを指揮棒のように振って酒を神に捧げるカムイノミと剣舞、ムックリ(口琴)とトンコリ(竪琴)の演奏、ゴールデンカムイでも登場した鶴の舞、女性二人がお盆を奪い合う踊りへクリサラリ(どんな踊りだ)など。
個人的に一番印象に残ったのが、6人の女性が長い黒髪を振り乱しながらヘドバンする黒髪の踊りフッタレチュイである。長い髪が上下し乱れる様子には、僕らの心を高ぶらせる効果があるようで、ヘドバンが激しくなるほどに見ているこちらも昂揚していく。メタラーがロン毛なのも理に適っているのだろう。まさかアイヌコタンでメタルの神髄に触れることになるとは。ヘヴィメタル・イン・ザ・コタンである。
演目が進むにつれフロアも温まっていき、最終的にエッサーホーホーという大勢が輪になって回る踊りではオーディエンスも巻き込んで盛り上がった。
続いて21時からはイオマンテの火祭りである。梟のカムイを送るという設定が加わっているが、演目は先ほどの古式舞踊とほぼ一緒。ただし、ステージで火を熾し、BGMも流れるせいか、あるいは古式舞踊でフロアが温まっていたせいか、常に拍手喝采、かなりの盛況である。ラストのエッサーホーホーの輪もステージからフロアにかけて広がり、盛り上がりは最高潮だ。
正直にいえば、僕のアイヌ文化への関心は飲食や衣装に集中しており、歌や踊りにはあまり興味がなかったのだが、実際に生で見ると想像以上に楽しかった。帰りの車中でOki dub Ainu Bandを流すくらいハマってしまった。
Oki dub Ainu Band - Live @ Trans Musicales 2017
アイヌコタンはいままでお土産屋しかのぞいたことがなかったのだが、アイヌ料理もアイヌ舞踊も充実していて、この旅のゴールに相応しい感動と発見があった。本当に良い場所だ。また来たい。
こうして3日間に及ぶスタンプラリーの旅は慌ただしくも終わりを迎えた。
走行距離は1285.2km!お疲れ様でした!
見学できなかったスポットもあるが、ARはコンプリート。スケジュール管理さえできれば、3日間でスタンプラリーを完走するのは充分可能である。
今回の旅をとおして僕なりに北海道の魅力を再発見できたが(このブログを読んでいる人に伝えられるかどうかはわからないけど)、率直な感想は「北海道をたった3日で回ろうとするな」ということである。あたりまえだが。
距離の問題以上に、広大な大地に魅力的な場所やグルメが数多くあるのだ。駆け足で回るのはもったいない。じっくり腰を据えて、寝過ごしても笑って済ませられるくらい余裕のある旅を心がけたい。
~番外編~
ちなみに網走監獄ではこんなお土産を買った。
ずるいなあ、こんなの絶対買うだろ…!
ピリ辛山椒味噌で、ご飯に合うし酒肴にもなる。
3日間でゴールデンカムイスタンプラリーを駆け抜けてみる~2日目
~2日目~
2日目は札幌すすきのからスタート。
まずは小樽市総合博物館運河館へ向かった後、札幌へ戻り、残された北海道博物館と開拓の村を回り、月形町の樺戸博物館を経て旭川へ北上、可能であれば旭川市博物館まで消化したいところ。
予定ルートは次のとおり。
距離的には1日目より短いが、本日のチェックインスポットはすべて公営博物館のため、16時半までに回る必要がある。旭川市博物館まで消化するなら厳しいタイムアタックを強いられるだろう。
…にも関わらず、わたくし、また寝過ごしましてね。
小樽市総合博物館運河館の開館時間9時半に到着できるよう動くべきところ、すすきののホテルを出たのが9時過ぎ。結果、到着時刻は10時半過ぎと、1時間以上のオーバー。昨日に引き続き自分で自分の首を絞める体たらく。もういい加減にしろよ俺。
ともあれ第4チェックインスポットの小樽市総合博物館運河館である。
ARはついに出ました、不死身の杉元!
杉元のARは小樽市総合博物館の本館と運河館のどちらでも取得可能だが、せっかくなので小樽市らしい景色を見るため運河館を選択。
館内は小樽の歴史と自然にまつわる展示が盛りだくさんで、この街の歩みを総合的に知ることができる。
辺見和雄が潜伏してそうな鰊番屋の盛況。
商業都市・小樽の商家の様子。
アシリパさんに食べられたのか、骨だけになったトド。
キャラメルが好物だという消防犬「文公」。しかしジンギスカンキャラメルがお供えされてない時点でモグリだとわかる。
運河館は目の前に小樽運河が流れており、ロケーション抜群。
こんなイカした横丁もある。半身揚げの人気店なるとも入っているが、ブランチは別の店でとることにする。
本日の一食目となる小樽グルメは、秘密のケンミンショーの小樽あんかけ焼きそば回にも登場した有名店龍鳳。
…て、こんなにあんかけ焼きそばの種類多かったっけ?大将、ロック好きなんだろうな。
今回注文したのはMAVERICK焼きそば。
黒ごま餡にマヨネーズが絡むこってこてのビジュアルだ。
ちなみにこの量でハーフサイズ(麺一玉)である。レギュラーサイズは麺二玉だそうで、つくづく頭がおかしい。
見た目ほどしょっぱくないのでするする食べられるが、やはり朝からこれはヘヴィーだった。
さて、小樽を堪能したので札幌へとって返し、第5チェックインスポット北海道博物館に向かう。
ARはアシリパさん(Ver.1)だ。
博物館のコンセプトは北海道の自然と歴史、アイヌ文化関連の展示に集約されており、小樽市総合博物館と同じ系統である。
アイヌ以前の続縄文文化のクマが彫刻された鹿角製スプーン。何だこれ、かわいい!
オットセイのナニ。徳川家斉ご愛飲の強壮剤も、こうして蝦夷地で作られて江戸へ送られたのか。
はじめて見るタイプのアイヌの鎧。
アシリパさんといえば弓矢!
オハゥやチタタプなど、原作でおなじみのアイヌ料理の情報も。いつかは食べてみたい。
北海道博物館を堪能し、すぐ隣(といっても広大だが)の敷地にある第6チェックインスポット北海道開拓の村へ。
ARは鬼の副長・土方歳三!
開拓の村は、広大な敷地に再現された開拓時の街並みが見応え充分!
もちろん建物のなかにも入れる。
村内では馬車にも乗れる。
土方が顔剃りをしてもらっていた茨戸の山本理髪店のモデルはここだろうか。佇まいが一致している。
和風ウェスタンな開拓時の街並みは、原作で描かれた茨戸に迷い込んだかのよう。
ゴールデンカムイファンにはたまらない聖地じゃないだろうか。
開拓の村を発ったのは15時頃。少し堪能しすぎたかもしれないが、月形を目指して北上する前に、最後の札幌グルメとしてラーメンを食べることに。
札幌らしい二郎系味噌ラーメンの名店ブタキングである。
杉元…この二郎系ラーメンにまた…オソマ入れなきゃいいけど…。
オソマおいしかった!
さて、オソマで英気を養ったところで月形へ向かう。
が、第7チェックインスポットの樺戸博物館に着いたときは17時をまわっており、今回の旅ではじめて見学ができなかった。
ARは同じ敷地内の農業研修館の入り口のポスターから取得できたが、樺戸博物館本館はかつての樺戸集治監である。つまり、史実でも永倉新八が剣術師範として赴任した監獄である。ゴールデンカムイ云々の前に、一介の歴史好きとして、ここを見れなかったのが、ただただ残念。
かつての樺戸集治監と、永倉のジイさん。いつかまた来よう。
しかし、せっかく月形まで来たのでご当地グルメは買っておく。
溝口菓子舗という、和菓子屋というよりは昭和の雑貨屋のような佇まいの菓子店でお土産を購入。
看板商品と思しき月形まんじゅうは、こし餡を薄皮で包んだ、見た目どおりの味の饅頭。
しかしそれ以上に衝撃的だったのが、名産品にちなんだ月形メロン羊羹。
包装を破いた瞬間から漂う強烈なメロン臭。毒々しい緑色のフォルム。そしてこのワザとらしいメロン味!僕のなかの井之頭五郎もニンマリだ。
しかし冷蔵庫で冷やして食べるとチープなメロン風味が爽快感に変わり、若干食が進むようになるので、好奇心旺盛な諸兄諸姉はぜひ試してみてほしい。
月形を後にして高速で旭川へ向かう。19時過ぎに旭川市内のホテルにチェックインするが、ブタキングがまだ胃に居座っているため、夕食はとらずに月形の菓子をつまむだけと、わびしい夜になった。
最終日は旭川から網走、釧路、阿寒湖と、道北から道東を一気にまわるので、今回の旅で最長の移動距離となる。これ以上寝過ごすことは許されない。
完走できる気がしないなあ、と不安を抱えて2日目は終了となった。
3日間でゴールデンカムイスタンプラリーを駆け抜けてみる~1日目
連日、胆振東部地震の影響で北海道を訪れる観光客が激減、観光収入も低迷していると報道が続く。厚真など震源地周辺を除けば概ね避難は解除され、インフラも復旧し、店舗も通常営業しているところが多いようだが、それでも客足は遠のいているそうだ。
じゃあもう道外からの観光客に頼らず、道民自ら道内でお金を回すしかないんじゃない?
道内各地にお金を落としに行けばいいんじゃない?
…ということで、行ってまいりました。
ゴールデンカムイスタンプラリー
北海道はゴールデンカムイを応援しています?
バカ野郎、今度はこっちが北海道を応援する番なんだよ!!!
スタンプラリーの詳細については、北海道観光振興機構のHPを見ていただくとして、
ざっくり説明すると、道内11ヶ所の博物館等のチェックインスポットを巡り、舞台めぐりアプリで現地のポスターに掲示されているQRコードを読み取り、キャラクターのARを取得するというスタンプラリー。ARをコンプリートすると壁紙がもらえるらしい。
各スポットとそこで取得できるキャラは次のとおり。網走監獄以外ははじめて行くので新鮮な気持ちでまわれそうだ。
アシリパさんだけ優遇されて2パターンあり。インカラマッとか入れないんですかね…。アニメ見てないからわからないけど、登場しないのかな。
しかし原作では名前しか出てこない十勝在住の僕としては、近くにチェックインスポットがないのが厳しい。一番近い谷垣ニシパのいる釧路市立博物館でも100kmくらい離れてるし。
そこで今回の旅は帯広から出発し、平取の二風谷アイヌ文化博物館から時計回りに11ヶ所のスポットを攻めていくことにする。タイムリミットは3日間。
グーグルマップでルートを検索すると次のようになる。
…まあ、北海道一周とまではいかないけど、なかなかのものじゃないですかね。
ちなみに高速使って815kmらしいけど、実際にはスタート地点の帯広からの移動も含み、途中、飲食店やホテルに寄ったり、下道を通ったりもするので、1,000kmを超える目算。
3日あれば1,000kmくらい余裕じゃない?と思うなかれ。ほとんどのチェックインスポットは公営の博物館なので17時閉館、最終入場16時半という縛りがあるため、いかに日中に効率よく移動するかが鍵となるのだ。
さて、1日目の行程は次のとおり。
スタート地点の帯広から第1チェックインスポットの二風谷アイヌ文化博物館まで2時間以上かかるはずなので、初日も朝7時には出発し、開館の9時には現地入りする必要がある。そこから夕張の石炭博物館へ北上し、高速を使って16時半までに小樽市総合博物館運河館へ入り、夜は札幌へ取って返してホテルを取り、サッポロビール博物館で搾りたてのビールを試飲するという予定である。
ゴールデンカムイといえば、アイヌ料理をはじめとする北海道の美味を紹介するグルメ漫画的性格を併せ持っている。今回の旅もただチェックインスポットを巡るだけでなく、ビールをはじめ、その土地のグルメも積極的に堪能していきたい。
~1日目~
で、1日目なんですが…
早速寝過ごして朝9時に出発しました。
前夜に気持ちを高めるため、原作を読み返していたせいだな…。
まあ、旅にトラブルは付き物だからね。仕方ないね。
そんなわけで帯広から下道を2時間半ほどかけて到着したのが、
平取町の第1チェックインポイント、二風谷アイヌ文化博物館(建物の写真は撮り忘れた)。
はじめてのマイARはキロランケさんでした!
アイヌの家にたたずむキロランケ。
キロランケといえば煙草。
二風谷アイヌ文化博物館はその名のとおり、さまざまなアイヌの文物が展示されていて見応えたっぷり。
アイヌの衣装も省スペースで大量に格納。
ゔぇろろろろごうろろろあああああッッ!!
マキリより豪華な宝刀らしく、拵えが立派。
トゥキパスイ(捧酒箸)という、祭りの際に酒をつけて神に捧げる箸。原作でも祭りのシーンでチラッと出てくるけど、今回の旅で一番気になったアイヌの文物。デザインが多彩で見ていて面白いし、アイヌの飲酒文化にも興味が湧いてきた。
アイヌのチセに、谷垣ニシパが幽閉されていた子グマの檻。自販機までアイヌ仕様。博物館の外もアイヌ風で楽しい。
さて、すっかりお昼どきなので、ブランチに平取のグルメを堪能したい。
平取といえば和牛。ステーキである。
平取和牛のステーキとハンバーグの名店くろべこにて、和牛くろべこスペシャルステーキ。柔らかくて旨みたっぷりでヒンナヒンナ。
しかしステーキも美味いけど、それ以上に感動したのがトマト。平取では「ニシパの恋人」というブランドで桃太郎トマトを売り出していて、僕の地元を含め道内のスーパーでも買えるのだが、くろべこで食べたニシパの恋人は、サラダもステーキの付け合わせの焼きトマトも香り豊かで異常に甘い!
え、こんなに美味かったっけ? 産直だから? しかも旬も過ぎてるはずだよね?
釈然としないくらい美味かったのだが、夏場はもっと美味いんだろうなあ。
トマトアイス。これもニシパの恋人を使っているのか、トマトの風味がしっかりしていてヒンナ。
トマトジュースも青臭さが抑えられていて飲みやすい。キロランケニシパには恋人どころか奥さんがいたよな…。
道中にあった巨大な藁人形のような像。アイヌの呪物か何かと聞いたことがあるが、ウィッカーマンみたいだ。
腹ごしらえを済ませてから、日高自動車道を北上する。厚真のあたりは高速でも余震を警戒してか、50km/hに制限されていた。路面も起伏が多い印象。
今回の地震の最大の被災地のひとつである安平町で高速を降りる。街中では重機で取り壊されている建物が散見し、飲食店も再開していない店が多く、想像していたより街は平静とはいえ、やはり他の地域と比べて深く爪痕が残っているようだ。
そんな中でも店頭に行列ができていたのが、夢民舎という地元のチーズ工房直営のレストランみやもと。名物のカマンベールソフト一本にメニューを絞って営業を再開しており、部活の遠征帰りと思しき中学生の集団や地元の方など、客足が途切れない。被災地に落とすお金としては微々たるものだが、僕もカマンベールソフトを注文する。
濃すぎない、さっぱりとしたカマンベールチーズの風味がヒンナ。北海道で評判の良いソフトクリームはミルク感が濃厚なものが多いけれど、これはやりすぎない、控えめで上品な佇まいのソフトだった。
被災していても、こうして美味いグルメを提供し、活気づいた店があることは救いになるんじゃないかと思いながら、安平町を後にする。
第2チェックインポイントのある夕張に着いたときは、すでに15時半だった。
うん、これはもう16時半までに小樽は無理だな…。敗因は寝坊。
当初の計画が頓挫したことを悟り、小樽は明日にまわし、1日目のゴールをサッポロビール博物館に切り替えることにした。
さて、第2チェックインスポット石炭博物館である(また外観を撮り忘れた)。
ARは尾形百之助だ。
博物館本館は夕張と炭鉱の歴史をパネルや炭鉱関連文物の展示で解説しているが、ここの目玉は地下の炭鉱跡である。
地下にはエレベーターで降りる。
1分程度で坑道に到着。埃っぽいにおいと、実際に炭鉱で使われていた機械や、マネキンによる当時の再現シーンが臨場感たっぷり。ちなみに地下ではネットに接続できないので、基本的にアプリを使ったAR撮影はできないようだ。
マネキンがみんなリアル。これみんな江渡貝くんが作ったのかい?江渡貝くぅん!
神社もあった。
坑道内はバイオハザードに出てきそうで、雰囲気たっぷり。
石炭採掘現場では、男子のハートをくすぐるメカの数々が!
出口は本館とは別にある坑道の出入口。いやあ、楽しかった!
夕張グルメは道の駅で買った「たんどら」という石炭モチーフの真っ黒などら焼き。
生地に竹炭を練りこんでいるらしく、夕張らしいオレンジ色のメロン餡とのコントラストがあざやか。メロンもかぼちゃもしっかり素材の風味が出ていてヒンナ。
夕張は駆け足だったけど、街並みを見てもかなり面白そうだったので、また今度腰を据えてじっくり周りたい。
さて、夕張を後にして高速で一路、札幌へ。サッポロビール博物館は20時まで開いているが、テイスティングは18時半ラストオーダーとのことなので、急がねばならない。
…が、夕張を発ったときにすでに17時をまわっていたため、到着は18時半過ぎ。あと一歩のところで試飲はできず。きちんと早起きしてれば搾りたてのビールを飲めたのに…。
第3チェックインスポット、サッポロビール博物館。ARはチンポ先生こと牛山辰馬。
博物館はサッポロビールの歴史を醸造器具やパネル、歴代のラベルやポスターなど、豊富な展示で解説している。
やっぱり昔の方がデザインがお洒落。
チンポ先生はどの娘が一番好みなんですかね…?
昔はリボンシトロンやナポリンだけでなくラズベリーもあったのか! 飲みたい…。
全然世代じゃないけど、やっぱこれですよね! 男は黙ってサッポロビール!
ビールのテイスティングはできなかったが、お土産用に買った開拓使ビールはヒンナ。
ビールゼリーチョコもたしかにビールの風味があって、笑ってしまった。
夜はすすきので札幌グルメに舌鼓を打つ。
ザンギ専門店のゆず塩ザンギに、
麺にがごめ昆布が練りこまれているがごめ昆布ラーメン(塩)。別皿の追いがごめ昆布でさらにとろとろになる珍品!
すすきのへ来たのにジンギスカンや味噌ラーメンじゃないのかよ!?という声が聞こえてきそうだが、こっちはそんなの地元でもしょっちゅう食ってんだよ!あと昼にステーキ食べたから重たい肉料理は年齢的にキツいんだよ!
…ということで、スタンプラリー1日目は札幌はすすきのにて終了。取得したARは11人中3人だが、はたしてこのペースで完走できるのか…?
ソグド系ウィグル武人の肖像―五代人物伝(1)何重建
唐末五代の代北に勢力を伸長し、のちに後唐を建国した李克用父子率いる沙陀集団には多数のソグド系武人が存在したことが夙に指摘されているが、森部豊氏の一連の論著で取り上げられるように、彼らの淵源としては唐代にオルドスに設置された突厥遺民の羈縻州である六胡州の突厥化したソグド人(いわゆる六州胡)が有力視されている。
沙陀集団に六州胡由来のソグド系武人が多数存在したことは確かであろうが、後晋高祖石敬瑭の祖先である石璟のように、沙陀が代北へ東遷する以前から従っていたソグド人も存在しており(沙陀系王朝が華北を支配していた五代では、『旧五代史』康福伝に見えるように、古くから沙陀と関わりがあるほど門族が高いとみられていた形跡があり、石敬瑭の太原石氏についても家門に箔をつけるために古くから沙陀に従属していたと詐称していた可能性もある)、実際には彼らソグド系武人の出自は多様である。
その一例として、何重建(彼が仕えた後晋の少帝石重貴の諱を避け、のちに何建と改名)を取り上げよう。
『旧五代史』巻九十四・晋書二十・何建伝
何建、其先迴鶻人也。代居雲・朔間。祖慶、父懷福、俱事後唐武皇為小校。建少以謹厚隸於高祖帳下、以掌廐為役、及即位、累典禁軍。遙領驩・睦二郡。天福中、自曹州刺史遷延州兵馬留後、尋正授旄鉞。數年之間、歷涇・鄧・貝・澶・孟五鎮節度使、累官至檢校太傅。開運三年、移鎮秦州。是冬、契丹入汴、戎王遣人齎詔以賜建、建憤然謂將吏曰「吾事石氏二主、累擁戎旃、人臣之榮、亦已極矣。今日不能率兵赴難、豈可受制於契丹乎!」即遣使齎表與其地送款於蜀、孟昶待之甚厚、偽加同平章事、依前秦州節度使。歲餘、移閬州保寧軍節度使、加偽官至中書令、後卒於蜀。
何姓はクシャーニャ(何国)出身のソグド人が中国において称した姓(ソグド姓)であり、ウィグル人(迴鶻人)でありながらソグド姓を冠する何重建の家系についてもソグド系であると考えられる。先祖はウィグル人で代々雲州・朔州に居住していたとあるが、おそらくこれはウィグル内部にコロニーを形成していたソグド人が唐朝の北辺に内附したものであろう。
突厥、ウィグル、吐谷渾など、当時の遊牧勢力にはブレーンとしてソグド人が存在しており、ソグド語が国際共通語として機能していた東ユーラシアでは外交官としても活躍していた。彼らはソグド人特有のネットワークや折衝能力から外交・交易に従事するだけでなく、遊牧民のなかで生活することで騎射技術を習得し、遊牧武人化する傾向があった。森部氏が六州胡のように突厥内部にコロニーを形成して遊牧武人化したソグド人を「ソグド系突厥」と称したように、当時の遊牧勢力にはソグド系ウィグル、ソグド系吐谷渾ともいうべき遊牧武人化したソグド人が多数存在したと考えられる。
何重建の祖先もおそらくはそういった遊牧武人化したソグド系ウィグルであったのだろう。祖父の何慶、父の何清福がともに武人(「小校」)として李克用に仕えており、何重建自身も石敬瑭の旗下で厩の管理をしていることから、彼の代まで遊牧武人的性格を維持し、馬の扱いに習熟していたと考えられる。『九国志』には「重建初事晉祖為奉德馬軍都指揮使。」とあり、後晋の禁軍のひとつである奉徳軍で馬軍を率いていたようだ。
その後、何重建は禁軍軍将として中央にありながら驩州・睦州の刺史を遥領し(驩州は南漢、睦州は呉越の版図のため名目的なものであった。五代の禁軍軍将や藩鎮牙将には、彼らの地位が州長に相当することを示す名誉職として州刺史を遥領する事例が多い)、曹州防御使として地方へ転任したのち、天福7年(942)、彰武軍留後となるが、その経緯は以下のとおりである。
彰武節度使丁審琪、養部曲千人、縱之為暴於境內、軍校賀行政與諸胡相結為亂、攻延州、帝遣曹州防禦使何重建將兵救之、同・鄜援兵繼至、乃得免。二月、癸巳、以重建為彰武留後、召審琪歸朝。重建、雲・朔間胡人也。
当時の彰武軍節度使の丁審琪の横暴から、部将の賀行政が彰武軍管内の「諸胡」と結託して叛旗を翻すが、曹州防御使であった何重建がこれを鎮圧し、丁審琪更迭後に留後として彰武軍を預かることになる。何重建は「謹厚」と評されたその性格のせいもあろうが、善政を敷いて民衆を安んじたため(『九国志』には「下車諭以威福、邊民安堵、就加彰武軍節度使。」とある)、のちに正式に彰武軍節度使を拝命するのだが、オルドスに設置された延州の反乱鎮圧と丁審琪の後任に、遠く河南の曹州にいた彼がわざわざ選ばれた理由として、ソグド系ウィグルの血を引くことが挙げられないだろうか。
唐代では「胡」はソグドを意味する用例が多く、彰武軍管内の「諸胡」とはソグド人を指す可能性がある。また、彰武軍の治所である延州には唐朝に内附したウィグルの白霫部などが安置されており、「諸胡」にウィグルを含む場合、何重建のソグド系ウィグルという血統が、彼らの統治に資すると期待されたのではないだろうか。
『新唐書』巻二百一十七上・回鶻伝上
帝更詔時健俟斤它部為祁連州、隸靈州都督、 白霫它部為居延州。
また、唐代の延州には種族は不明ながら「安塞軍」という軍鎮に組織された非漢族部落があり、「諸胡」がこの末裔である可能性も考えられよう。無論、この「蕃落」がウィグルであった可能性も否定できない。
『旧唐書』巻十三・徳宗本紀下・貞元十年三月の条
辛丑、以延州刺史李如暹所部蕃落賜名曰安塞軍、以如暹為軍使。
以上のように何重建の半生から遊牧武人的・ウィグル的特質を垣間見てきたが、彼ら何氏を輩出した雲州・朔州のウィグルは、そもそもどういった経緯でこの地へ移住してきたのだろうか。
『旧五代史』巻五十三・唐書二十九・李存信伝
李存信、本姓張、父君政、迴鶻部人也。大中初、隨懷化郡王李思忠內附、因家雲中之合羅川。存信通黠多數、會四夷語、別六蕃書、善戰、識兵勢。
李克用の有力仮子のひとりである李存信(もとの姓名は張汚落)の父・張君政もウィグル部の人であり、大中年間(847~859)の初めに懐化郡王李思忠に従って唐に帰順、雲中郡(雲州)の合羅川に居住したという。李思忠はもとの名を嗢沒斯といい、ウィグルのテギン(王子)であったが、ウィグル可汗国の崩壊により開成5年(840)に唐へ帰順し、その一族を雲州・朔州の間に安置されており、張君政や何氏のルーツはこのウィグル遺民と考えられよう。
『新唐書』巻二百一十七下・回鶻伝下
嗢沒斯請留族太原、率昆弟為天子扞邊、帝命劉沔為列舍雲・朔間處其家。
沙陀集団はこのように嗢沒斯率いるウィグル遺民にルーツを持つウィグル系遊牧武人も内包しており、多様な種族から構成されていたことがわかる。李存信が「四夷語」を理解し、「六蕃書」を使い分けられたというマルチリンガルだったことからも、彼の育った代北が多種族混淆の地であったことがうかがい知れるが、想像をたくましくすれば、出自を同じくする上にソグドの血を引く何重建にも同様の能力が期待され、「諸胡」が跋扈する延州の反乱鎮圧と統帥を任されたのではないだろうか。
さて、後晋は少帝(出帝)が即位し、対契丹強硬路線を貫いたため、度重なる契丹の侵攻を招くこととなった。何重建は彰武軍節度使から涇州・鄧州・貝州・澶州・孟州の節度使を歴任しつつ、対契丹の防衛戦にも従事していたが、開運3年(946)には対契丹前線からは遠い陝西の秦州節度使に転任する。この年の冬にみやこ開封は契丹により陥落、少帝も北方へ連れ去られ、後晋は滅亡するのだが、各地の節度使が契丹の招撫に続々と応じるなか、「私は石氏二主に仕え、節度使として人臣の位を極めた。今日の難を救えず、どうして契丹の制を受けられようか」と憤り、秦州をあげて後蜀に帰順してしまう。石敬瑭の子飼いとして立身したためか、裏切りの横行する五代では珍しく忠節を貫いた何重建だったが、亡命先の後蜀で重用されつつも当地で没しており、ソグド系ウィグル武人というその個性をつくりあげた故地へ帰ることは二度となかったのである。
【虫注意】あの娘ぼくがゴキブリ食べたらどんな顔するだろう
先日、学生時代の後輩の結婚式に招かれ、横浜へ行ってきた。
十数年の付き合いになる後輩とは、学生時代はよく一緒にバカをして遊んだものだが、そんな彼女も明日は花嫁。彼女の幸せを祝う気持ちの裏に、娘を送り出す父親のような一抹の寂しさも覚える。僕がもう少し若ければ、式の前夜にバチェラー・パーティーのようにバカ騒ぎをして、この寂しさを紛らわしたのかもしれない。
しかし、僕もすでに三十を超えたいい大人だ。昔のようにバカはできない。落ち着いた雰囲気の店で学生時代の思い出を肴にしっぽりと飲み、彼女の未来を祝福しよう。挙式前夜、僕は式に参列する他の後輩を引き連れ、野毛にある一軒のバー居酒屋の扉を叩いた。
店の名は、
珍 獣 屋
コンセプトは、店名とメニューからだいたい察しがつくだろう。
そう、大人がしっぽり飲むのにふさわしい、落ち着いた雰囲気のお洒落バー居酒屋だ。
一緒に来た後輩にも「好きなもの頼みな」とメニューを渡す。
後輩「いや、ほとんど食べたことないものなんですが…」
遠慮しなくていいのに、と思いながら、僕は適当に見繕って注文する。
まず一品目はピラニアの刺身。
旨味の濃い白身魚で、普通に美味しい。もっと生臭いものかと思っていたが、臭みはほとんど感じられず、食べやすい。言われなければヒラメと勘違いしそうだ。
続いて蛾の幼虫の唐揚げ。
白っぽいミルワームのようなビジュアルを想像していたが、カラッと真っ黒に揚げられた姿はどんぐりのようで愛らしい。これなら虫が苦手な僕でも食べられそうだ。
カリカリの外皮(殻?)を歯で破ると、ブチュンとクリーミーな身肉が弾け、口腔にまったりとした淡白な味が広がる。
外はカリカリ、中はとろふわ。食感は美味しいたこ焼きと一緒である。味については後輩が「白和えみたい」と冷静に評していたが、たしかにそのとおりだと思った。
そして想像以上に大きいワニの一本揚げ。
僕がいままで食べてきたワニ肉はカットされたステーキだったので、皮付きの肢一本丸ごとははじめて。とにかくデカい。そして歯ごたえのある鶏肉のような味わいで、なかなか美味い。店員さんによればイリエワニらしいが、どこから輸入されたものかは教えてくれなかった。
ウサギの肉焼き。
こちらも鶏肉に似ており、まったく抵抗を覚えずに食べられるお味。逆にいえばこれまで食べてきたメニューに比べるとパンチが弱い。
こちらは猪のキ〇タマ炙り焼き。
もう名前だけで男子はタマヒュンな戦慄メニュー。4等分に切って炙られてるんだぜ。
しかしビジュアルも味もレバーに近く、その部位から想像するような生臭みもない。ビールによく合う、非常に食べやすい一品だった。
そしてラストはこちら、ゴキブリの唐揚げ。
ゴキブリといってもチャバネなどの日本の品種ではなく、デュビアという南米産ゴキブリとのこと(和名はアルゼンチンモリゴキブリ)。ゴキブリの唐揚げですらハイカラとは、まったく横浜には恐れ入る。
頭からバリバリかじりつくが、香ばしくて意外と食べやすい。カブトムシのような腐葉土臭もなく、何より中身を感じさせない煎餅のようなクリスピー食感に救われた。うん、これはイケる。
僕らはゴキブリをかじりながら、ワニ肉に舌鼓を打ちながら、学生時代の思い出話や明日花嫁となる後輩の話に打ち興じた。
僕らはもういい大人だ。学生時代のようにバカばかりはできない。それでも、こうして思い出話に花を咲かせている束の間、あの頃に戻ったかのように錯覚する。いまより金はなくとも、ずっと自由で、輝いていた日々。おなじ時代を呼吸した大切な仲間たち。明日花嫁となる後輩の顔を脳裏に思い描く。
――幸せになれよ。
前歯にはさまったゴキブリの肢をせせりながら、僕は彼女の幸せを祈った。
弐師将軍、神になる
東洋陶磁美術館の唐代胡人俑展で出会った数々の魅力的な胡人俑、それらが出土した墓の主は穆泰という唐代中期の武人だった。穆泰の素性についての個人的な見解は前回の記事に書いたが、今回は彼の墓誌で気になった箇所を深掘りしていきたい。
霊州という西北辺防衛の中心地で活動していた穆泰だが、墓誌中では、中宗の神龍3年(707)に定遠城大使に任ぜられたくだりに続き、辺境での活躍を後漢の耿恭と前漢の李広利になぞらえられている。
『唐故游撃将軍上柱国前霊州河潤府左果毅穆君墓誌銘』
耿恭設拝之地、久戍忘歸。廣利刺山之境、一從征戦。下葱山而入蒲海、出鴻門而歴鶏田。赤心事君、忠誠報國。
このうち李広利に関する文言について、唐代胡人俑展の図録掲載のテキストでは「廣利郟山之境」としているが、墓誌の実物を見る限り「郟」ではなく「刺」である。後述する李広利にまつわる伝承からも「廣利刺山之境」とするのが自然。「下葱山而入蒲海」についても、図録では「葱山」を「窓山」としているが、実物を見る限りでは「窓」とは判読しがたく、続く「蒲海(バルクル湖)」と対になっていることも勘案すれば「葱山(葱嶺と呼ぶ方が一般的。パミール高原を指す)」と解釈すべきだと思う。
胡人俑展は多彩な胡人俑も魅力だが、ふだん活字化されたテキストや拓本でしか見る機会のない墓誌の実物を見て、間近で写真を撮り、自宅や研究室で内容を検証するという、日本にいては得難い経験もできるので、石刻史料に興味のある大学生や東洋史クラスタはどんどん行くべき。
さて、当該箇所の大意としては「後漢の耿恭が籠城中に地を拝礼した故事のように、穆泰が任地に長く駐屯し続けたことは帰心を忘れるほどであり、李広利が遠征中に山を刺した伝承のように、ずっと遠征に従っていた。葱山(パミール高原)や蒲海(バルクル湖)などの西域方面へわたり、鴻門県や(テュルク系阿跌部の羈縻州である)鷄田州などの関内道各地にも転戦した。まごころをもって君に仕えて忠誠を国に捧げた。」くらいの意味だろう。個人的には「葱山」や「蒲海」は漠然と西域を象徴する地名で、実際にそれらまで出征していたかは疑問だが、「鴻門」や「鷄田」という卑近な地名には具体性が感じられる。ともあれ穆泰は関内道における辺防だけでなく、行営軍に組み込まれて西域まで転戦していたのかもしれない。
しかし今回の記事で僕が深掘りしたかったのは穆泰の経歴ではなく、墓誌中の李広利の評価である。この時代、墓誌に限らず詩でも上奏文でもおよそ文章というものは何らかの典拠に基づいて綴られることが常識で、要するに元ネタありきの会話ばかりするオタクみたいなものだが、墓誌は墓主の生涯を顕彰する内容のため、基本的には経書に記された美辞麗句や歴史上の偉人のポジティブエピソードを典拠に、墓主を褒めたたえる傾向がある。穆泰の場合は匈奴を相手に西域で熾烈な籠城戦を繰り広げた後漢の耿恭と、汗血馬を求めて大宛へ遠征した前漢の李広利が元ネタとして引用されている(実は後段におなじく塞外で活躍した将軍である班超や李広の名も出てきているのだが、今回のネタとは関係がないので割愛)。耿恭はわかるけど、李広利…?
李広利といえば、漢の武帝の寵姫である李夫人の兄というコネで出世して、大宛遠征の総大将に抜擢されたはいいが、補給が続かず一度は撤退、膨大な兵員と物資を供給された二度目の遠征で多大な犠牲を払ってようやく大宛を征服し、名馬を持ち帰ったという、劣化版衛青のような外戚出身将軍である。自身の愛する女の兄弟を起用してみたら想像以上に有能だったという衛青、そしてその甥の霍去病という成功体験に引きずられた武帝が三匹目のどじょうを狙ってつかまえた雑魚、というイメージが一般には強いのではないか。何よりも後に彼が匈奴に敗れて降伏したことで、奮戦むなしく匈奴に降った李陵は漢への復帰の望みが絶たれ、李陵を弁護した司馬遷は宮刑に処せられるという悲劇の連鎖を生み出したことは、中島敦の『李陵』で周知のとおり。
現代日本ではそんな悪評嘖々たる李広利だが、彼の同時代や穆泰の生きた唐代では、はたして評価が高かったのだろうか?
『史記』巻123 大宛列伝
貳師後行、軍非乏食、戰死不能多、而將吏貪、多不愛士卒、侵牟之、以此物故眾。天子為萬里而伐宛、不錄過、封廣利為海西侯。
大宛遠征における漢軍は将吏が貪婪で士卒を愛さず食い物にしていたというから、軍紀の紊乱がひどかったのだろう。武帝もわざわざ万里を越えて遠征したのだからと過失については目をつむって李広利を褒賞している。つまり同時代人から見ても手放しで褒められるような功績ではなかったのだ。
そして穆泰の生きた唐代でも李広利の悪評は健在だ。
高昌国を滅ぼした唐初の将軍侯君集は素行不良で、占領地で財物の私物化など不正を犯して罪を得たが、中書侍郎の岑文本が彼を弁護した際に、李広利を引き合いに出している。
『旧唐書』巻69 侯君集伝
昔漢貳師將軍李廣利捐五萬之師、糜億萬之費、經四年之勞、唯獲駿馬三十匹。雖斬宛王之首、而貪不愛卒、罪惡甚多。武帝為萬里征伐、不錄其過、遂封廣利海西侯、食邑八千戶。
李広利は5万の兵を損ない億万の費用を費やし4年もかけて得たものがたったの駿馬30頭、大宛王の首こそ得たものの兵を愛さず罪が多かった。それにも関わらず過ちは記録されず封侯されたとボロクソに評している。部下に功罪ふたつにあれば、主君たるもの罪過は忘れて功績を記録してやるべきであり、漢の武帝も李広利の功績を評価して罪を不問にしてるのだから、さらに賢明な太宗が侯君集を処罰することはないでしょう?というロジックである。ちなみに前漢の将軍で匈奴の郅支単于を滅ぼした陳湯も、同様に財物の私物化など素行不良のため罪を得たが、同じ文言で宗正の劉向に弁護されている。
『漢書』巻70 陳湯伝
貳師將軍李廣利捐五萬之師、靡億萬之費、經四年之勞、而厪獲駿馬三十匹、雖斬宛王毌鼓之首、猶不足以復費、其私罪惡甚多。孝武以為萬里征伐、不錄其過、遂封拜兩侯・三卿・二千石百有餘人。
つまり岑文本の侯君集弁護は劉向の陳湯弁護を典拠としていたのだろう。
また、時代は下って9世紀初頭の徳宗朝。ときの宰相賈耽は地理学好きが高じて『海内華夷図』と『古今郡国道県四夷述』という地理書を徳宗に献上する際、上表中で唐の諸帝の版図拡大における功績について言及しているが、そこにも李広利が登場する。
『旧唐書』巻138 賈耽伝
玄宗以大孝清內、以無為理外、大宛驥騄、歲充內廐、與貳師之窮兵黷武、豈同年哉。
玄宗の御代にはいにしえの大宛の名馬のような駿馬が溢れており、李広利がわずかな名馬を得るために無益な血を流したことと同日に論ずることができないと、玄宗をアゲるためのダシに使われている。
唐では官僚が「効率の悪い仕事をした先例」として李広利をあげるのがパターン化しているようにも見える。そしてそのパターンはすでに李広利と同時代の漢代に形成されており、唐代そして現代まで連綿と続いていたのである。
ここまで悪評ばかり取り上げてきた李広利だが、それでは墓誌で引き合いに出されるほどの彼への好意的な評価とはどのようなものだったのか。まずは李広利と並んで穆泰墓誌であげられた後漢の耿恭の伝から見ていこう。
『後漢書』巻19 耿恭伝
恭以疏勒城傍有澗水可固、五月、乃引兵據之。七月、匈奴復來攻恭、恭募先登數千人直馳之、胡騎散走、匈奴遂於城下擁絕澗水。恭於城中穿井十五丈不得水、吏士渴乏、笮馬糞汁而飲之。恭仰歎曰「聞昔貳師將軍拔佩刀刺山、飛泉涌出。今漢德神明、豈有窮哉。」乃整衣服向井再拜、為吏士禱。有頃、水泉奔出、眾皆稱萬歲。乃令吏士揚水以示虜。虜出不意、以為神明、遂引去。
後漢明帝の永平18年(75)、西域に駐屯していた耿恭は、澗水という川が側を流れている利点からカシュガル(疏勒)に拠点をおいたが、攻め寄せた匈奴が城下において澗水を堰き止めてしまった。城中では井戸を十五丈まで掘っても水が出ず、士卒は渇きに苦しみ、馬の糞汁を絞って飲むありさまだった。耿恭は天を仰ぎ「昔、弐師将軍李広利が佩刀を抜いて山に刺すと、噴泉が湧き出てきたと聞く。漢の徳が明らかないま、何を窮することがあろうか」と気を吐いた。そこで衣服を整え井戸に向かって再拝し、部下のために祈ったところ、水が勢いよく湧き出し、兵はみな万歳を唱えたという。
耿恭の生きた後漢代には、大宛遠征時の西域においてか匈奴遠征時の漠北においてかはわからないが、李広利が進軍中に湧き水を探り当てたという伝承があったようだ。刀を刺した地から泉が湧き出るなんて、空海かよ。いや、こっちの方が先だけど。
穆泰墓誌に見える「耿恭設拝之地」、「廣利刺山之境」という字句の典拠は、彼らが渇きに苦しんでいたときに地を拝礼あるいは佩刀を刺すことで泉水が湧き出た故事に因んでいるのだろう。つまり、李広利に対する好意的な評価というのは、大宛遠征の多大な損耗や匈奴遠征の失敗というような大局から見たネガティブな評価とは切り離した、窮地にあって湧き水を見つけたという、あくまでも現場レベルでの局地的功績によるものなのだろう。上述してきたように漢唐では中央の官僚が功罪半ばする将の事例として李広利をあげるのに対し、後述するように西域の砂漠地帯という現場で活動する将士の間では、李広利は神秘的なイメージを帯びて語られている。
穆泰の生きた唐代においても李広利の湧水発見伝説が生きていたことは正史からも見受けられる。
穆泰と同時代である唐の高宗の調露元年(679)、西域通の裴行倹は滅亡したササン朝ペルシャの亡命王子ナルサス(泥涅師)というどこかで聞いたような設定のキャラを復帰させる名目で西域へ出兵しているが、砂漠で遭難してオアシスを発見した際に、李広利に例えられている。
『旧唐書』巻84 裴行倹伝
因命行儉冊送波斯王、仍為安撫大食使。途經莫賀延磧、屬風沙晦暝、導者益迷。行儉命下營、虔誠致祭、令告將吏、泉井非遙。俄而雲收風靜、行數百步、水草甚豐、後來之人、莫知其處。眾皆悅服、比之貳師將軍。
風砂に視界を遮られ、案内人すらも道がわからなくなったときに、裴行倹は祭祀をおこない、士卒に「近くに泉があるぞ」と告げる。たちまち雲は消え風は静まり、歩くこと数百歩で豊かなオアシスにつきあたった。しかも後から来た者には探しあてられなかったというから桃源郷のような神怪な話である。この奇蹟によって部下がみな裴行倹をリスペクトして李広利になぞらえたというから、李広利の湧水発見伝説は7世紀半ばにも知られていたのだろう。
ここまで李広利の湧水発見伝説にならって自身も湧き水を発見した人物の事例をあげてきたが、異なるパターンも存在する。
『晋書』巻122 呂光載記
光乃進及流沙、三百餘里無水、將士失色。光曰「吾聞李廣利精誠玄感,飛泉涌出,吾等豈獨無感致乎。皇天必將有濟、諸君不足憂也。」俄而大雨、平地三尺。
後涼の太祖である呂光が前秦の部将として西域へ出兵した際、やはり砂漠で水不足に陥り軍が恐慌をきたしたが、「李広利のまごころに感応して泉が噴きあがったと聞くが、我らにも験がないわけがない。諸君は心配するな」と励ましたところ、湧き水の噴出ではなく大雨が降ったという。もう「とにかく砂漠で水に困ったら李広利に頼ればいい」みたいになってるな。
しかし補給が続かなくて遠征に失敗した李広利に湧き水を発見したという伝承があるのは実に皮肉な話だ。 李広利の第2回遠征軍は人数が多すぎるため個々のオアシス都市国家では全軍の補給が賄えないことをおそれて数軍に分かれたとのことなので、あるいは分遣隊が湧き水を発見したという事実はあったのかもしれない。
李広利の湧水発見伝説が西北方面で知れ渡っていた証のひとつとして、彼を讃える詩も存在する。ペリオが将来した敦煌文書にある「沙州燉煌二十詠」という、唐末の敦煌の風物を詠んだ一連の詩篇中に、李広利が発見したとされるオアシスの由来をうたった一篇がある。山田勝久「唐代の西域文学―敦煌二十詠の世界―」(同『唐代文学の研究』笠間書院 1984 所収)より以下に引用する。
弐師泉詠
賢哉李広利 賢なる哉 李広利、
為将討兇奴 将と為りて兇奴を討つ。
路指三危逈 路は三危を指して逈(とお)く、
山連万里枯 山は万里に連なりて枯る。
抽刀刺石壁 刀を抽(ぬ)いて石壁を刺し、
志感飛泉湧 志感じて飛泉湧き、
能令士馬甦 能く士馬をして甦ら令(し)む。
訳も山田訳で引用する。
賢人であることよ李広利は、将軍となって匈奴を討伐した。その路は三危山を指標として遠くつづき、山は果てしなく連なり、見わたすかぎり荒涼としている。伝説によれば、李広利の軍に水が渇乏した時、将軍は佩剣を以て山の石壁を刺し、太陽を弓矢で射落としたという。その志に感じて飛泉が湧き出で、兵卒や馬を蘇生させることができた。
内容を端的にまとめれば、「広利の心は母心、刺せば命の泉湧く」ということだが、山の石壁を刀剣で刺して泉水を湧出させただけでなく、太陽を射落としたという尾ひれまでついている。山田氏によれば、「前漢の李広利将軍の志に感じて、泉が湧き出てきたという伝説は、『沙州都督府図経』に詳しく、また『敦煌録』には、『弐師泉は沙州城の東、三程ほど離れたところにある。漢の時代に李広利の軍は、進軍中に水が欠乏してきた。そこで将軍は山の神を祭り、腰の剣を抜いて山を刺したところ、そこより水が流れ出てきた』とある。昔からこの弐師泉には、こうした伝説が地域の人々に語り継がれていたことが分かる。」とのことで、弐師泉という地元のオアシスに、李広利の湧水発見伝説が結びついたものと考えられる。砂漠を旅する者にとって重要な水を見つけ出した李広利は、中央での低評価とは別に、敦煌を中心とした西北方面では、半ば神格化されたローカルな英雄となっていたのだ。
史実の李広利は匈奴への遠征中に、一族が巫蠱に連座して処刑されたことを聞き、帰る場所を失い匈奴に降伏したが、彼を妬む同じ投降漢人である衛律の讒訴によって単于に殺される。
貳師在匈奴歲餘、衞律害其寵、會母閼氏病、律飭胡巫言先單于怒、曰「胡攻時祠兵、常言得貳師以社、今何故不用。」於是收貳師、貳師怒罵曰「我死必滅匈奴。」遂屠貳師以祠。會連雨雪數月、畜產死、人民疫病、穀稼不孰、單于恐、為貳師立祠室。
李広利は死の間際に「俺は死んでも必ず匈奴を滅ぼしてやる」と罵ったが、その死後数ヶ月にわたって雪が降り続き、家畜が死に、人びとは疫病にかかり、穀物も実らないという天災に見舞われたため、単于がたたりと恐れて彼のために祠堂を立てたとのこと。漢と匈奴、どちらにおいても居場所を失った李広利は、皮肉にも匈奴ではたたり神として、漢では砂漠に泉水を湧き出させた英雄として半ば神格化され、畏敬を集めることになった。
穆泰が西域へ遠征していたならば、おそらく李広利の湧水発見伝説を耳にしたことだろうし、彼の終焉の地である慶州においても知れ渡っていたからこそ、墓誌に典拠として編み込まれたのだろう。穆泰墓の発見は、胡人俑によってシルクロードを行き交う「胡人」たちの姿態を蘇らせただけでなく、墓誌によってシルクロードの流砂に埋もれた不遇の英雄の伝承をも掘り起こしたのかもしれない。