壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

乱世の犬バカフードファイター~宦官これくしょん(1)廖習之~

 宦官という人種には、後宮の奥で陰謀をめぐらせるような、あるいは天子の股肱でありながらその廃立を画策するような、どこかぬめりとした陰湿なイメージがつきまとっている。三国志でおなじみの後漢十常侍や、秦を滅亡に導いた趙高、明の専横者・魏忠賢らの影響が大きいのだろう。

 しかし、実際に漢籍に触れていると、そういった一般的なイメージの枠外にいるような宦官も多数見受けられる。本シリーズでは、僕が漢籍を読んでいて出会った気になる宦官について、一般的なイメージのバイアスを除き、史料に即して虚心坦懐にその活動を綴っていきたい。

 

 第1回目は五代の後晋高祖・石敬瑭に仕えた廖習之をとりあげる。

『清異録』巻下 肢體門 五百斤肉磨

 晉祖時、寺宦者廖習之、體質魁梧、食量寬博、食物勇捷有若豺虎。 晉祖 嘗云「卿腹中不是脾胃、乃五百斤肉磨。」

 後晋の高祖のとき、宦官の廖習之は、身体つきはりっぱで、食べる量もすこぶる多く、物を食べるときはヤマイヌやトラのような猛然たる勢いであった。高祖はかつて言った、「そなたの腹のなかには内臓ではなく、五百斤の肉の碾き臼が入っているようだな」と。

 唐代の度量衡では1斤が660gなので、500斤は330㎏である。お前の腹のなかには300㎏の碾き臼が入ってるようだと、石敬瑭にからかわれたのだが、現代日本人の感覚ではなぜここで臼が出てくるのかピンとこないと思うので、解説する。

 唐代の華北では粟や麦が主食としてよく食べられたが、従来は手回しの臼で行われた製粉作業が、碾磑とよばれる水力で動く石臼によって機械化されたことにより、粉食が盛行し、多様な「餅(日本でいうモチではなく、小麦粉などを練って焼いたもの)」が生まれ、庶民にも愛好された。その一方で碾磑本体と製粉施設、さらにはそこに付随する水利権が利権化し、貴族や寺院などの重要な経済基盤となっていたのである。つまり当時の人間にとって、臼は食生活のベースを支える装置であり、富裕層の財産でもあったのだ。

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※このような手回しの臼による製粉作業が碾磑によって機械化された。(写真はすべて黄正建『唐代衣食住行』(中華書局、2013)より)

 

 麦を入れればゴリゴリ挽いていく碾磑のように、口にしたものをモリモリ消化していく大食いマシーン廖習之。どこか「ジャイアント白田」を連想させる「五百斤肉磨」というあだ名には、彼の大食いに対する敬愛がにじんでいるように思える。

 

 また、廖習之とほぼ同時代に起きた、唐末の黄巣の乱における悪名高い人肉食エピソードからも、当時の碾磑の在り方がうかがえる。

旧唐書』巻200下 黄巣

 賊圍陳郡三百日、關東仍歲無耕稼、人餓倚牆壁間、賊俘人而食、日殺數千。賊有「舂磨砦」、為巨碓數百、生納人於臼碎之、合骨而食。其流毒若是。

 賊が陳郡を囲むこと三百日、潼関の東側では依然として耕作できず収穫もないため、人びとは餓えて障壁にもたれかかり、賊がそこをさらっては食料にし、日に数千人も殺すほどであった。賊には「舂磨砦」があり、巨大な石臼数百基からなり、人を生きたまま投げ込み、骨ごと挽き砕いて食料にしていた。その流毒はこれほどのものであった。

 戦乱によって飢餓が蔓延していた当時、黄巣軍は「舂磨砦」という食料基地を設けて数百の巨大な石臼を設置し、戦争捕虜を投げ込み骨ごと粉砕して人肉ミンチをつくっていたという。石臼の規模や人間を骨ごと砕ける粉砕力からして、手回しではなく水力を利用した碾磑施設の集積地だったのではないかと思うが、自分たち民衆を食い物にしてきた貴族や寺院の碾磑を奪って、逆に彼らを文字通りの「食い物」にしてしまう残虐さは平山夢明のホラー小説のようでもある。

 ともあれ、このような碾き臼が食料の加工を支えていた時代を廖習之は生き、そのあだ名にも反映されていたのである。

 

 さて、正史には現れないほぼ無名の宦官であった廖習之だが、彼には大食い以外にもうひとつのエピソードが残されている。

『清異録』巻上 獣名門 黄奴 

 耒陽廖習之家、生一黄犬。識人喜怒頤指、習之嘗作歌云「吾家黄奴類黄耳。」

 耒陽の廖習之の家に、一匹の黄犬が生まれた。人の機嫌を見わけてあごで使うことができたので、習之はかつて歌をつくって「吾が家の黄奴、黄耳に類(に)たり」とうたった。

 よく愛猫家が「自分が猫の主人なのではなく、猫が自分の主人なのだ」ということを宣うが、廖習之と黄奴の関係も同じだろう。廖習之や家族の者の機嫌がよいときに甘えてきて、その愛くるしさで要求をのませる。イヌ的な忠順というよりは非常にネコ的で賢い犬である。その賢さを愛でた廖習之は、黄奴を西晋文人として名高い陸機の愛犬「黄耳」になぞらえている。

『晋書』巻54 陸機伝

 初機有駿犬、名曰黃耳、甚愛之。既而羈寓京師、久無家問、笑語犬曰「我家絕無書信、汝能齎書取消息不。」犬搖尾作聲。機乃為書以竹筩盛之而繫其頸。犬尋路南走、遂至其家、得報還洛。其後因以為常。

 はじめ陸機は駿犬を飼っており、名を黄耳といい、たいそう可愛がっていた。みやこに寄寓していたとき、久しく実家との音信が途絶えていたため、笑って犬に語りかけた。「我が家からめっきり手紙が届かなくなったなあ。お前、ちょっと手紙を届けてようすをみてきてくれないか。」犬はしっぽを振ってワンと一声。陸機はそこで手紙をしたため竹筒に入れ、その首にくくりつけた。犬は道をさがして南へと走り、ついにその家へたどり着き、返書をもらい洛陽へ帰ってきた。その後は黄耳が洛陽と実家を往復するのが常となった。

 陸機は三国志でおなじみの陸遜の孫にあたるが、呉の滅亡後は西晋のみやこ洛陽へ出仕していた。そのときに江南の実家との連絡係として、愛犬の黄耳に手紙をくくりつけ、伝書鳩ならぬ伝書犬にしていたのである。それほど賢い黄耳に己が愛犬をなぞらえる廖習之。はっきりいって犬バカである。『清異録』のこの一文からは、黄奴にデレデレな彼の溺愛っぷりがにじみ出ていて微笑ましくなる。

 

 また、「黄奴」の記事からは、廖習之が陸機と黄耳の故事を踏まえて詩作ができるような、(文学的センスはともかく)一定の教養のある人物であったことが読み取れる。五代は乱世のため、目に一丁字なき武弁が官界に幅をきかせ、清河崔氏という名門出身であり後唐明宗朝の宰相をつとめた崔協でさえ、文字をわずかしか知らず「没字碑(字の書いてない石碑)」と蔑まれたほど文官の教養レベルが落ちていた。漢字が読めないどこかの国の首相や、北方四島の読み方がわからない北方領土担当大臣のような話である。こういった環境にあって、一介の宦官にすぎない廖習之の教養の深さは稀有なことであった。サイバーセキュリティ担当大臣がUSBを使えるくらい稀有なことであったのだ。これまでマッチョでドカ食いする犬バカという、「オデ、黄奴、スキ」「陛下ノ、ゴハン、マルカジリ」とか片言でしゃべる知能指数が低いパワーキャラみたいな印象しかなかったのに、ギャップがあるなあ。

 しかし管見のかぎり、廖習之が現れる史料は今回とりあげた『清異録』の記事のみであるため、彼の経歴は知りようがなく、その教養の由来についても不明だが、彼の出身地が衡州耒陽県であることは注目に値するかもしれない。

 ただの偶然かもしれないが、そこは宦官としての大先輩である後漢蔡倫の出身地なのである。 

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中国歴史地図集/唐代/江南西道

 現代でいえば湖南省の耒陽市だが、唐代では安史の乱を避けた流浪の杜甫が客死したともいわれる辺陬の地である。

 この周辺では唐末五代にかけて、雷満という文身断髪の武陵蛮の頭領が自立割拠したように、もともと少数民族の勢力が強い地域であった。後漢代から漢人の入植が進んだことによって、先住の「武陵蛮」「五渓蛮」などとよばれる少数民族とのあいだに衝突が起こったが、漢人王朝からは少数民族の「反乱」と見なされ、武力鎮圧され続けてきた土地である。こういった少数民族が先住し、漢人にとってはフロンティアとなる土地から、嶺南出身の高力士がそうであったように、戦争捕虜あるいは中央への献上品として男子が狩り出されて去勢手術を受け、宦官として供給されてきたことは夙に指摘されている。

 蔡倫の出自についても、後漢の桂陽郡耒陽県の出身であることしかわからず、後宮へ入る以前の経歴は一切不明である。ただ、「才学が有」るという個性は廖習之と共通しているが、これは両者ともに宮中へ入ってからの教育の賜物ではないかと思う。

 なんら確証のない推論だが、廖習之も蔡倫も、こういった民族的な背景を背負った宦官であった可能性が考えられよう。

 

 五代は乱離の時代である。史書に見えるのは武人による戦乱・陰謀と、文官による苛斂誅求ばかりである。そのなかにあって、大きな功績を残したわけでもなく、ただ大食らいで犬バカというだけで史書の片隅に名を留めた廖習之の存在は、どこか心和ませるものがある。

 しかし、彼を「犬バカフードファイター」とキャラ付けして、のほほんと可愛がってよいものか、こんなタイトルの記事を書いておいて何だが、疑問も生じる。

 三田村泰助はその著者『宦官』で、清末に北京を訪れた英国人ステントの報告として、当時の宦官は女や子どもに愛情を持ち、ペットとして小さな犬を可愛がる傾向があったことを記しているが、子孫を残せない廖習之にとっても、黄奴はわが子の代わりのような存在だったのかもしれない。

 また、犬や猫は去勢するとホルモンバランスが崩れて食欲旺盛になることがあるといわれており、犬や猫と人間のホルモンのメカニズムを同一視できるかは不明だが、廖習之の異常なまでの食欲も、生来の大食らいが去勢によって拍車がかかったのではないかとも考えられる。ステントは宦官に情緒不安定な傾向があったことを指摘しているが、これも去勢によるホルモンバランスの乱れが原因ではないだろうか。

 そういった視点からながめると、廖習之の「犬バカフードファイター」という一見面白いキャラの裏にも、フランケンシュタインの怪物のような歪さと悲しみ、さらには抑圧された少数民族の悲劇が見え隠れするのである。

 

0パーセントの晴れ男

 先日『天気の子』を見てきたので、唐代の天気の子っぽい話を紹介する。

 

『朝野僉載』巻5

 景雲中、西京霖雨六十餘日。有一胡僧名寶嚴、自云有術法、能止雨。設壇場、誦經咒。其時禁屠宰、寶嚴用羊二十口・馬兩匹以祭。祈請經五十餘日、其雨更盛。於是斬逐胡僧、其雨遂止。

 景雲年間(710~711)、長安では長雨が60日以上も続いていた。ひとりの胡僧、名を宝厳というものがおり、雨を止ませる法術を心得ていると宣うので、壇場を設け、経文を唱えさせた。このとき殺生を禁じ、宝厳は羊20匹、馬2頭をそなえて祭った。祈ること50余日を過ぎたが、雨はさらに激しくなっていった。ここに及んで胡僧を斬り、雨はようやく止んだ。

 

 宝厳、全然ダメじゃん…。

 でも自分が犠牲になることで天気を回復させているので、結果的には天気の子における巫女と同じ役割を果たしているともいえる。いえない?

 

南楚覇王補遺~安史の乱点描(3)

 以前、安史の乱に紛れて襄州で「南楚の覇王」を称して自立割拠したソグド系武人・康楚元について記事を書いた。
ano-hacienda.hatenablog.com

 このときは楚元のルーツについて、交通の要衝である襄州に集住したソグドの一族から軍士として出仕したものと推測したが、先日、たまたま章群『唐代蕃将研究』(聯經出版事業公司、1990)を読んでいると、康楚元の出自について「六州胡」である可能性が指摘されていたので紹介する。

 突厥第一可汗国の崩壊後の調露元年(679)、唐朝がオルドスの霊州域内に突厥遺民を安置するために設置した六つの羈縻州を「六胡州」と総称するが、六州胡とはそこに住むソグド系の住民を指す。彼らは突厥内部でコロニーを形成し、騎射技術の習熟など遊牧文化の影響を受けて突厥化した、いわゆる「ソグド系突厥」であったとするのが現在の通説である。*1

 六胡州は、唐朝にとっては復興した突厥第二可汗国との間の緩衝地帯であり、軍馬の供給地としても重視されていたが、唐朝の統治政策の失敗(軍馬の収奪や重税など諸説ある)により、開元九年(721)から翌十年にかけて、康待賓や康願子といったソグド系のリーダーを擁する反乱を招いてしまう。この六胡州の乱の鎮圧後、唐朝は反乱の母体となった六州胡の河南・江淮への徙民政策をとる。

資治通鑑』巻212 唐紀28 玄宗開元十年(722)の条

 康待賓餘黨康願子反、自稱可汗。張說發兵追討擒之、其黨悉平。徙河曲六州殘胡五萬餘口於許・汝・唐・鄧・仙・豫等州、空河南・朔方千里之地。

 康待賓の残党である康願子が反乱を起こし、可汗を自称した。張説は兵を発してこれを追討し擒らえ、その党類を悉く平定した。河曲六州の残胡五万余口を許・汝・唐・鄧・仙・予等州に移し、黄河の南方、朔方の千里の地が空くことになった。

 唐朝の監牧が多く設置され、生業であった馬の飼養に適したオルドスを追われた六州胡たち。彼らは再び結集して反乱を起こすことのないよう、河南から江淮にかけての広範囲に散り散りに徙民されたようだ。六胡州も土地ではなく人間集団(この場合はソグド系突厥コロニーか)に対して設置された羈縻州と考えられるので、この時点で解体されたのだろう。しかし、移住先になじめず関内の諸州へ逃亡するものがいたため、16年後の開元二十六年(738)、故地に宥州を新設し、そこに再度移住させることになった。

資治通鑑』巻214 唐紀30 玄宗開元二十六年(738)の条

 壬戌、敕河曲六州胡坐康待賓散隸諸州者、聽還故土、於鹽・夏之間、置宥州以處之。

 壬戌の日、河曲六州の胡人で、康待賓の乱に連座し、散らばって諸州に隷属させられていた者に勅を与え、故郷に帰ることを許し、塩・夏州の間に宥州を置き、ここに居住させた。

 こうしてオルドスに帰還した六州胡たちは、その後、安史の乱に合流するものや、朔方節度使など在地の藩鎮機構に吸収されるもの、代北へ移住して沙陀に合流するものなど、さまざまな経緯をたどったが、章氏は、すべての六州胡が北帰したわけではなく、彼らの移住先のひとつである鄧州が、康楚元の出仕した襄州の北隣にあることから、楚元も当地に残留した六州胡の出身ではないかと推測している。史料上では中唐以降、江淮地方にソグド人が多く見られるようになるが、その一因として六州胡の徙民政策をあげているのである。

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中国歴史地図集/唐代/山南東道・山南西道

 鄧州も襄州節度使の管轄内であり、安史の乱が勃発し、軍備の増強に迫られた襄州節度使が、オルドスへ北帰せず管内に残っていた剽悍な六州胡やその後裔たちを藩鎮牙軍に組み込もうと考えてもふしぎではないだろう。史料によっては康楚元を「大将」と記しているので、藩鎮内では高位の軍将だったに違いない。

 安史軍残党が乱後の河北に創建した藩鎮魏博において、馬軍増強のためオルドスからソグド系突厥リクルートした結果、そのソグド系武人集団が藩鎮牙軍内部でヘゲモニーを握り、自集団から節度使を輩出するようになったことは、森部豊氏の一連の研究で論じられているが、ほんらい外様であった六州胡出身と思しき康楚元が襄州の反乱軍のリーダーに擁されたのも同様の構図に見える。

 また、康楚元のルーツが六州胡にあるならば、旗下におなじく六州胡を抱えていた安史軍と連携していた可能性も濃厚になるだろう。六州胡は当初から安史軍に参加していたわけではなく、安史軍の部将であった阿史那従礼がオルドスへ出奔し、糾合したことから乱に合流したと考えられている。

資治通鑑』巻220 唐紀36 粛宗至徳二載(757)の条

 安慶緒之北走也、其大將北平王李歸仁及精兵曳落河・同羅・六州胡數萬人皆潰歸范陽、所過俘掠、人物無遺。史思明厚為之備、且遣使逆招之范陽境、曳落河・六州胡皆降。

 安慶緒が北走するや、その大将の北平王李帰仁およびその精兵の曳落河、同羅、六州胡ら数万人はみな范陽をめざして潰走し、行く先々で略奪をしたため、人も物も残らぬほどであった。史思明はこれへの防備をする一方で、使者を遣わして范陽の境界まで招いたため、曳落河と六州胡はみな降伏した。

 その後、六州胡は唐軍に敗れた安慶緒から史思明の傘下へと移動しており、史思明が安史軍のヘゲモニーを握ってから、その軍事行動に呼応するかのように、乾元二年(759)、襄州で康楚元が兵を挙げたのである。前回の記事で指摘したように、康楚元が安史軍と連携していたのならば、それは自身のルーツである六州胡とソグドネットワークによって結ばれていたからとも考えられる。

 地理的条件以外に確たる論拠のない康楚元六州胡出身説だが、これが実証されれば、理念が先行しがちなソグドネットワーク論の補強材になりえるかもしれない。

*1:六胡州と六州胡については、そもそも六胡州は「唐人」を刺史としたと記す伝世文献から羈縻州ではないとする説もあり諸説紛々としているが、研究史を整理した論文として、李丹婕(中田裕子訳)「唐代六胡州研究論評」(『東洋史苑』65、2005)が、比較的最近の六胡州に関する研究成果を踏まえている上にアクセスしやすい論文としては、森部豊「八世紀半ば~十世紀の北中国政治史とソグド人」(森部編『ソグド人と東ユーラシアの文化交渉』勉誠出版、2014)がある。

珍小島の冒険

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 洞爺湖はあいにくの曇り空であった。
 中国人観光客の家族が哄笑を響かせながら記念写真を撮り、白人の熟年夫婦は手をつないで湖畔を散歩する。
 洞爺湖サミットで一躍世界的な知名度を得たからか、温泉街にも、湖畔の遊歩道にも、外国人観光客が多い。

 遊覧船で湖をめぐるにはすでに遅く、夜の花火にはまだ早い、中途半端な夕刻の湖畔。乗り手のいないスワンボートの視線を背に受け、僕はひとり温泉街の外れへと歩いていた。

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 目的は、湖でも温泉でもない。

 たどり着いたのは、温泉街の西の端にある有珠山噴火記念公園。

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 見かけるのはジョガーや犬を散歩させる地元の住民ばかりで、温泉街の喧騒とは打って変わって長閑な雰囲気だ。

 一見どこにでもある市民公園のように見えるが、この平和を破るように突如現れる雌ライオンらしき謎の彫像。しかも3頭。

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 そして獅子の群れの奥にはさらに物騒なモニュメントがたたずんでいた。

 

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 え、何これ、メガテン…?

 

 完全にやべーモンスターにエンカウントしてしまった気分である。

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 裏側は貧弱。

 

 しかし僕のほんとうの目的地は、この公園ではない。

 この公園の奥の院、さらに西へと進んだ先に、それはあった。

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 湖に浮かぶ、何の変哲もない離れ小島。

 

 そう、あれこそが今回の目的地、珍小島である。

 

 え、何て読むかわからない?

 仕方ないなあ…。

 

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 Chinko-jimaだよ!

 

 さあ、このブログを読んでいるそこのお姉さん、あなたもご一緒に!

 

 有珠山噴火記念公園の敷地内とばかり思っていたが、気づけば僕は珍小島公園に足を踏み入れていたのだ。

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 珍小島は陸繋島で、湖畔とは砂州でつながっているとのこと。つまり、島まで歩いて行けるのだ。会いに行けるアイドル?こっちは歩いて行けるChinkoだぜ!!

 

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 鳥瞰図だとわかりやすい。

 たしかに砂州で湖畔とつながっており、まるで半島のように岸から雄々しく屹立しているのだ。

 非常に興味深い地形である。これには地形マニアのタモさんも興味津々ではないだろうか。あっちもこっちもブラタモリである。

 

 また、珍小島公園の解説ボードはきちんと英訳併記なので、洞爺湖サミットに集った各国首脳にもChinko-jimaをアピールしていたのだろう。先日のG20大阪サミットでは、開催期間中は飛田新地を休業していたというが、こちらは休業などない。剥き出しのChinko-jimaを世界へ向けてさらけ出していたのだ。

 何を恥ずべきことがあろう!これぞ日本男児の心意気!奮い立て、珍小島

 

 ちなみに珍小島公園にも謎のモニュメントが設置されている。

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 一応確認したが、Chinkoはないようだ。

 

 珍小島へ向かって公園内を歩いていると、謎のキノコがちらほら。

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 珍小島公園ではキャンプが禁止されているらしい。

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 珍小島なのにテント張れないの!?

 そんなのってないよ…。

 

 珍小島近景。

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 砂州は完全に緑化している。 

 珍小島周辺には使用済みティッシュのように朽ちた船の残骸が散らばっていた。

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 ついに砂州をつたって珍小島へ上陸だ…! 

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 といっても人が通れる道などあるはずもなく、草木が鬱蒼と生い茂るばかりである。もちろん建物などもない。そもそも人がまともに活動できるスペースがない。無人島である。当然のことだ。 

 

 結局、珍小島にはナニもなかった。

 僕の小さなちいさな冒険は、こうしてあっけなく幕を下ろした。

 落胆しなかったといえば、嘘になる。

 しかしこのとき、岸辺で途方に暮れる僕の脳裏を、大学時代の先輩の顔がよぎっていた。

 沖縄出身の先輩は、笑顔でこう教えてくれたものだ。

「沖縄には漫湖(Man-ko)っていう湖があるんだぜ。ニュースでアナウンサーが『今日、漫湖で小学生の写生大会が行われました』とか読み上げるんだぜ」

「ちなみにアレのことはホーミーっていうんだ。宝の味って書くんだぜ」

 そういってニヤリと笑った先輩。沖縄の風習や言語について、いつも示唆に富む指摘をしてくれた先輩。卒論が書けなくて留年した先輩。いま何をしているのだろうか。

 

 漫湖沖縄県那覇市にある干潟だという。

 北の果てに浮かぶ珍小島と、南の果てに広がる漫湖洞爺湖ではなく漫湖のなかに珍小島があれば完璧なのに、ふたりの距離は、こんなにも遠い。

 まるで互いに惹かれ合いながらも引き裂かれる恋人たち。現代のロミオとジュリエットである。

 

 島の大地に腰を屈めて砂を一握り、すくいあげた。

 僕のなかで、ひとつの決意が芽生えていた。

 いつか僕は漫湖へ行く。

 その潤いのなかへ、お前を放ってやる。そしてふたりはひとつになるんだ。 

 珍小島の砂を握りしめ、風のない穏やかな湖面を前に、僕はそう誓った。

 

 あらたな冒険のはじまりだった。

 

魅惑(?)の三国志エロラノベの世界~羅姦中『三国志艶義 貂蝉伝』シリーズ

 トーハクの三国志展が開幕し、関連出版物も続々刊行される今夏、日本では何度目かの三国志ブームが起きているようだ。

 横山三国志や吉川三国志を読んで育った僕も、最近は三国志熱が再燃し、関連書籍をいくらか読んでいるが、今回はそのなかでも僕以外には誰もレビューを書かなそうな三国志を紹介したいと思う。

 それがこちら、三国志艶義 貂蝉伝』シリーズである。 

三国志艶義 貂蝉伝―洛陽炎上 (パンプキンオリジナル)

三国志艶義 貂蝉伝―洛陽炎上 (パンプキンオリジナル)

 
三国志艶義 貂蝉伝-董卓暗殺 (パンプキンノベルス)

三国志艶義 貂蝉伝-董卓暗殺 (パンプキンノベルス)

 

 そう、タイトルと表紙からなんとなく察していただけると思うが、貂蝉を主人公にすえた三国志物のエロラノベである。

 Amazonの商品紹介リンクがなぜかシリーズ1作目「洛陽炎上」と3作目「董卓暗殺」しか貼れないが、2作目に「連環之計」がある。

 タイトルからもわかるように、後漢末の混乱による董卓の専横、それを危険視する王允が養女貂蝉を利用して董卓呂布を離反させる「連環の計」、そして董卓の暗殺まで、三国志でおなじみの物語を官能シーンたっぷりに描く歴史官能小説である。

 作者は羅姦中。本シリーズを書くためだけに名付けたようなペンネームだ。

サラリーマンを続ける傍ら、営業をサボって文筆活動に勤しむ。

陳舜臣ばりの中国歴史小説家を目指しながらも、どこにも採用されず。

そこで天から舞い降りたのが、「三国志をエロで書く」この企画。

通勤電車の中で美少女とのセックスシーンを書く日々が続く。

          『三国志艶義 貂蝉伝ー洛陽炎上』著者プロフィール

 天よ、この作者にもうちょっとまともな企画を与えてやってくれ。

 ちなみに羅姦中先生、本シリーズのほかに著作はないようだが、あるいは別名義で一般文芸デビューしてたりしないのだろうか。

www.mystery.or.jp

 と思って検索したら、日本推理作家協会の現職の会員らしい。歴史小説でもなければ官能小説でもない。どこに向かってるんだよ羅姦中先生!?

 

 羅姦中先生の迷走はさておき、本書の内容を紹介しよう。各巻の章題は次のとおり。

三国志艶義 貂蝉伝―洛陽炎上』

 序 章 美少女との出会い

 第一章 暴君の放恣

 第二章 美女の宿命

 第三章 陰謀渦巻く宮廷

 第四章 伝国の玉璽

 第五章 陽城の虐殺

 第六章 淫虐の果てに

 第七章 榮陽の会戦

三国志艶義 貂蝉伝―連環之計』

 序 章 洛陽炎上

 第一章 酒池肉林の野望

 第二章 江東の虎

 第三章 激闘!陽人城

 第四章 董卓暗殺計画

 第五章 陽人城攻防戦

 第六章 暴君の正餐、虐殺と酒池肉林

 第七章 連環之計

 第八章 虎の死

三国志艶義  貂蝉伝―董卓暗殺』

 序 章 淫虐の虜囚

 第一章 暴君の虐政

 第二章 忍び寄る刺客

 第三章 智将対猛将

 第四章 董卓暗殺

 第五章 楽園の崩壊

 第六章 王允の暴走

 第七章 滅びの笑い

 

 内容的には黄巾の乱による戦災孤児であった貂蝉王允が引き取る序章から、董卓暗殺後の涼州軍団の逆襲による王允の最期まで、正史と演義に依拠しつつ、貂蝉の侍女や献帝の侍女、董卓の孫娘などオリジナルキャラを若干追加しながら、エロ要素をふくらませて描いており、曹操が女体化するような変化球がない、エロ多めの歴史小説としても読める、わりとまっとうな内容である。

 黄巾の乱戦災孤児であった貂蝉は、刺史として故郷に赴任してきた王允に拾われ、詩文や経書、舞踊のほかに性技も仕込まれる。本シリーズでの王允は、戦災孤児の女児を養女とし、「娘」と呼ばれる文武と性技に通じた一種の性奴隷に仕立て上げ、高官への賄賂や間諜に利用して官界でのし上がっていくというダーティーな設定。こんなの俺たちが知ってるあの硬骨漢の王允じゃないよ!どこ硬くしてるんだよ!

 そんな王允戦災孤児貂蝉(当時は十歳前後)と出会ったシーンがこちら。

(まだまだ青い蕾だが、きっと大輪の花が咲くぞ。蜜もたっぷり滴るような)

 王允は少女の癇の強そうな瞳に、褥での乱れた姿が目に浮かんできた。その蕾を押し広げることができたら、夜が明けるのも忘れて貫くことができたらどれほど幸せか。

 王允は少女を頭の天辺から足の爪先までしげしげと見た。

(まだ、男を知らない娘だ)

 王允の食指が動いた。本能が、王允に少女が処女であることを告げている。

 その無垢な、白地の生地を、王允の色に染めてみたい。自分の思うような女に調教してみたかった。

 思い通りといっても、ただ単に従順な女にするのではなく、暴れ馬を力でねじ伏せ服従させるように、表面だけでなく、心の底からの服従をさせたい。少女の花園に肉棒を入れ、思うさま掻き回したい。

 少女の身体を貫くときに、きっと少女は王允を睨むだろう。悍馬が乗り手を見極めようとするように。あるいは追い詰められた兎が猟犬を蹴り殺すように激しく抵抗するかも知れない。

 王允は、この少女を蹂躙する時を想像すると、居ても立ってもいられなくなった。下半身の疼きを覚え、見下ろすと勃起していた。

                『三国志艶義 貂蝉伝ー洛陽炎上』p7

 十歳の少女を前にしてこの発想。王允、完全にロリコンど変態じゃねーか。漢朝と献帝に忠実だけど、自分の性欲にも忠実なド畜生というパーソナリティが共存する、ある意味複雑なキャラクターである。

 ちなみに王允巨根で絶倫という設定だが、長さは「一尺二寸(漢代の尺で二十八センチ)」とのこと。まさか王允のち〇ちんで漢代の度量衡を学ぶことになるとは。勉強になるなあ(白目)。

 そんな王允に手とり腰とり性技を叩き込まれた貂蝉は魔性の女として成長し、周囲の男たちを次々と翻弄し、漢朝の命運をゆさぶっていく、というのが本シリーズの基調路線である。

 第一巻「洛陽炎上」では、董卓の洛陽入城による混乱、献帝の抵抗、董卓軍と献帝をともに翻弄する貂蝉董卓軍による陽城での虐殺と凌辱、作中で唯一、貂蝉の魅力に溺れない(読者も唯一感情移入して読める)理性的な董卓軍のブレーン賈詡の視点からみた反董卓連合軍との榮陽の戦いまでを描く。

 官能小説としてのエロシーンはやはり董卓やその配下による凌辱が多く、そのほかに王允貂蝉の頻繁な絡み、貂蝉による献帝の筆おろしなどがある。

 注目したいのは、董卓の悪行のひとつに数えられる陽城での住民の虐殺と凌辱に焦点を当てたり、彼の政策である清流派士人の登用や、五銖銭の改悪などにも目配りをしているように、董卓周辺のかなり細かいエピソードまで拾って官能小説というフォーマットに落とし込んでいたり演義一辺倒ではない、正史についての一定の知識をふまえて描いている点である。さすが羅姦中先生、中国歴史小説家を目指していただけあって勉強の跡がうかがえる。

 第二巻「連環之計」では、董卓による長安遷都と郿城での酒池肉林、反董卓連合軍の先鋒として活躍する孫堅の陽人城をめぐる攻防戦と荊州退転後の死、そして連環の計により呂布を篭絡し、董卓の閨に侵入する貂蝉、と物語は佳境を迎える。

 ここで注目すべきは、官能小説にしては力が入りすぎている孫堅の合戦シーンである。文章が拙いせいもあって、そこまで盛り上がるわけでも面白いわけでもないのだが、本来、羅姦中先生が描きたかったのは美少女のエロシーンよりも、こういう武将たちが活躍する血沸き肉躍る物語だったんだろうなあ。

 孫堅のシークエンスについては、とくに貂蝉が介入しなくても話が成立するのに、無理やり彼女と孫堅の濡れ場を入れている感が強くて、とにかく歴史小説の醍醐味である合戦シーンを描くために孫堅を引っ張り出し、言い訳のように貂蝉と絡ませているようにしか見えなかったのが残念。

 そのほか、董卓が美少女を集めて酒池肉林ハーレムプレイをするのも見どころのひとつなのだが、

 董卓は、古代商王朝の最後の王、紂王が殷の都に築いた酒池肉林を再現しようと思っている。

 酒を満たした池と、肉を枝にかけた林の間を裸の男女が戯れ、紂王自身もその乱交に加わって遊んだという。

(肉をかけると痛むし、乾肉では風情がない。そうだ!果物が良いだろう)

 董卓は美女と戯れる己の姿を想像し、天幕を支える柱のようにそそり立つ怒張を感じた。

                『三国志艶義 貂蝉伝―連環之計』p20

 酒池肉林を再現するのにも実現性をまじめに考慮した結果、果物を木にかけるという平凡な発想に着地する董卓がちょっと可愛い。

 そして最終巻「董卓暗殺」では、王允による士孫瑞や呂布を巻き込んだ董卓暗殺計画の推移と、董卓亡きあとの王允の暴走、貂蝉の挑発にのった李傕・郭汜ら董卓軍残党である涼州軍団の逆襲までを描く。

 二巻までのエロシーンは董卓やその配下による凌辱描写が多かったのだが、この巻では王允が酷い。

 董卓の孫娘をさらってきては監禁・凌辱したり、董卓暗殺後は気に入らない蔡邕を投獄し、その娘の蔡文姫をこれまた監禁・凌辱するという畜生っぷり。董卓ならまだしも、王允もまさか死後1800年経ってこんなに性獣扱いされるとは思いもよらなかっただろう。

 しかし王允が博学な才媛である蔡文姫に論語を朗読させながら身体を弄ぶシーンは、本シリーズの白眉といえる。

「朗読せよ。お前にとっては子供の玩具であろうがな」

 王允は文姫の隣に腰を下ろした。文姫が竹簡を最初のほうの数枚分だけ広げた。全部を広げると文姫の両腕を広げた流さになってしまう。

「子曰、学而時習之……」

 朗読を始めた。幼い頃から厳しく躾けられただけあって、見事な発声だ。

「不亦……あッ、いやッ」

 王允が文姫の胸の谷間に手を入れた。耳朶も舌先で揉む。

論語のどこにそんな言葉が書いてあるのだ? もう一度、最初から!」

               『三国志艶義 貂蝉伝―董卓暗殺』p221

 手コキカラオケかよ!

 思わずツッコみたくなるシチュエーション。羅姦中先生、蔡文姫の登場を決めた時点でこのシーンを思いついて絶頂してそう。

 ちなみに官能小説特有の表現についても、中国歴史小説家を目指していた羅姦中先生なだけに、独特である。

「ぃやぁああああ、そこッ、も……漏れちゃうぅッ」

 貂蝉が神話に出てくる神・羿の剛弓みたいに仰け反った。老仙が使う瓢箪のように、止め処なく女陰から愛の神酒が溢れ出す。

                『三国志艶義 貂蝉伝―連環之計』p64

 

 王允の指が雨期の渭水みたいに止め処なく溢れる陰戸を責め立てた。

               『三国志艶義 貂蝉伝―董卓暗殺』p221

 愛液の表現ひとつとっても、中国の伝承や自然をふまえたうえで、重複しないよう描き分ける配慮と工夫が光っている。ぜひ『官能小説用語表現辞典』に載せていただきたいところだ。

 

 以上、見てきたように、本シリーズは董卓周辺のエピソードを丁寧に拾って官能小説のフォーマットに落とし込んだり、当時の文物についても版築や履(サンダル状の履物)などが大した説明もなくさらりと描かれたりと、中国史に対する羅姦中先生の(官能小説家としては)造詣の深さが垣間見え、意外と考証がしっかりしている歴史小説という側面と、ビッチ、クール美女、ロリ、人妻など多彩な属性の女キャラによる濡れ場や、国史の素養に裏打ちされた独特の官能表現が楽しめる官能小説としての側面を併せ持つ、意欲的な作品である(題材が題材なだけにイチャラブなシチュエーションはないが)。

 個人的には歴史小説としてはいまいち盛り上がらず中途半端だが、官能小説としてはそこそこエロくて、それ以上に笑えるという感想。

 羅姦中先生の次回作があるのかはわからないが、次は水滸伝物なんてどうだろうか。ペンネームも「したい、あ~ん」とかで。

 

碧い瞳の項羽~安史の乱点描(2)

 河北では史思明が大燕皇帝を称して自立し、唐朝と安史軍が一進一退の攻防をくりひろげていた粛宗の乾元2年(759)8月、安史軍の勢力圏からは遠い洛陽南方の襄州でひとつの反乱が起こった。

旧唐書』巻10 粛宗紀 乾元二年条

 八月乙亥、襄州偏將康楚元逐刺史王政、據城自守。…九月甲午、襄州賊張嘉延襲破荊州、澧・朗・復・郢・硤・歸等州官吏皆棄城奔竄。

 八月乙亥の日、襄州の部将康楚元が刺史の王政を放逐し、州城を固めた。…九月甲午の日、襄州の賊の張嘉延が荊州を破り、澧・朗・復・郢・硤・帰などの諸州の官吏はみな城を捨てて遁鼠した。

 康楚元軍は襄州から荊州へと山南東道を南下し、荊南節度使として荊州に駐屯していた杜鴻漸が戦わずして出奔したことを受け、その管下諸州の官吏も相次いで逃げ出す事態となってしまった。

旧唐書』巻108 杜鴻漸伝

 襄州大將康楚元・張嘉延盜所管兵、據襄州城叛、刺史王政遁走。嘉延南襲荊州、鴻漸聞之、棄城而遁。澧・朗・硤・歸等州聞鴻漸出奔、皆惶駭、潛竄山谷。

 襄州の大将の康楚元、張嘉延は所管の兵をひきいて襄州城に拠って反し、刺史の王政は遁走した。嘉延は南進して荊州を襲わんとし、杜鴻漸はこれを聞くや、城を棄てて逃げ出した。澧・朗・硤・帰などの諸州は鴻漸の出奔を聞くや、みな驚きおそれ、山谷に遁鼠した。

 一時は山南東道全域を制圧するかに見えた康楚元軍だが、商州刺史であった韋倫の活躍により、11月にはあえなく鎮圧されている。

旧唐書』巻10 粛宗紀 乾元二年条

 十一月甲子朔、商州刺史韋倫破康楚元、荊襄平。

 十一月甲子の朔日、商州刺史の韋倫が康楚元を破り、荊州・襄州は平定された。

 この反乱を率いた康楚元とは何者か、また、この反乱はどのような性格を持つ事件であったのだろうのか。

 

 康楚元は自立の際に「南楚覇王」という西楚の覇王項羽を彷彿とさせる王号を称している。

資治通鑑』巻221 粛宗乾元二年条

 八月、乙巳、襄州將康楚元・張嘉延據州作亂、刺史王政奔荊州。楚元自稱南楚霸王。 

 八月乙巳の日、襄州の将である康楚元と張嘉延が当地で反乱を起こし、刺史の王政を荊州へ出奔させた。楚元はみずから「南楚の覇王」と称した。

新唐書』巻126 杜暹伝 杜鴻漸条

 乾元二年、襄州大將康楚元等反、刺史王政脫身走、楚元偽稱南楚霸王、因襲荊州

 乾元二年、襄州の大将康楚元らが反し、刺史の王政は単身脱走し、楚元は「南楚の覇王」を偽称し、すぐに荊州を襲った。

 康楚元が称した王号については、別系統の史料では「東楚義王」となっており、これはこれで項羽が弑逆した楚の義帝を彷彿とさせるが、東楚とは現在の安徽省方面であり、張嘉延が目指した荊州こそ南楚とよばれる地域であったことから、「南楚覇王」が正しいように見える。

 しかし「東楚義王」として記録しているのは、実際に康楚元の乱の鎮圧にあたった当時の商州刺史であり荊襄等道租庸使でもあった韋倫の新旧唐書の伝である。乱の経過について詳細な記述があり、おそらく本人の行状などに基づいているものと考えられるため、軽視できない。

 『旧唐書』巻138 韋倫伝

 會襄州裨將康楚元、張嘉延聚眾為叛、兇黨萬餘人、自稱東楚義王、襄州刺史王政棄城遁走。嘉延又南襲破江陵、漢・沔饋運阻絕、朝廷旰食。倫乃調發兵甲駐鄧州界、兇黨有來降者、必厚加接待。數日後、楚元眾頗怠、倫進軍擊之、生擒楚元以獻、餘眾悉走散、收租庸錢物僅二百萬貫、並不失墜。

 そのとき襄州の部将康楚元、張嘉延が兵を集めて謀反した。凶徒一万余人を擁し、自ら東楚の義王を称し、襄州刺史の王政は城を棄てて遁走した。嘉延はまた南進して江陵(荊州)を陥れたため、漢水・沔水経由の食糧輸送が断絶し、朝廷は食に事欠いていた。韋倫はそこで兵を集めて(襄州北隣の)鄧州の州境に駐屯し、賊軍が投降してくれば手厚くもてなした。数日にして康楚元の賊徒はだらけてしまい、倫は進軍してこれを打ち破り、楚元を生け捕りにして朝廷へ献上した。残党はみな潰走し、税銭二百万貫を収めた。

 しかしこのほかに「〇〇(地域名)義王」という用例は管見の限りみつからず、「〇〇(地域名)覇王」には、「西楚覇王」項羽のほかに隋末唐初の群雄西秦覇王」薛挙がいる。

『隋書』巻4 煬帝紀下 大業十三年条

 夏四月癸未、金城校尉薛舉率眾反、自稱西秦霸王、建元秦興、攻陷隴右諸郡。

 夏四月癸未の日、金城校尉の薛挙は兵を率いて謀反し、みずから「西秦覇王」を称し、「秦興」の元号を建て、隴右の諸郡を攻め落とした。

 薛挙はこの後、皇帝として即位するが、国名については未詳である。「秦興」という象徴的な元号を建てたことからも、「秦」または「西秦」かと思われるが、そもそも挙兵時の自称が異例である。後世の史家が他の同名の王朝と区別するために「西秦」「前燕」などといった東西南北や前後を国名に冠するケースは多いが、当事者たちの意識としては「秦」または「大秦」であるのが普通である。あえて「西秦覇王」を称した薛挙は、やはり「西楚覇王」項羽を意識していたのではないか。

 項羽については南北朝時代にすでに江東では神格化しており*1、軍士のあいだでは英雄または軍神として人気があったのだろう。薛挙も自立する際に軍士の支持を得ようと、隋末の西北辺まで広がっていた項羽人気にあやかったのではないか。

 そうなると康楚元の自称についても、当時の襄州の軍士のあいだで人気のあった項羽にあやかってのものと考えられ、やはり「南楚覇王」こそが正しい自称だったのではないだろうか。西北辺の金城にさえ項羽人気が浸透していたのならば、戦国時代には楚の領域であり、項羽信仰の中心地でもある江東にもより近い襄州で、項羽を英雄視または神格化して信仰する層が幅広く存在していたとしてもふしぎではない。ちなみに康楚元と同時代の人である顔真卿は、湖州刺史時代に項羽碑を復旧しており、当時、項羽信仰が江東に存続していたことがうかがえる。

 

 項羽の再来を称して挙兵した康楚元だが、それでは彼自身はいったい何者なのか。

「康」というサマルカンド出身のソグド人が称していた、いわゆるソグド姓を冠していることからも、彼がソグドの血を引く武人であることがわかる。

 また、彼が活動していた襄州は、漢水の水運の要衝に位置しており、南の荊州と併せて、長江から送られてきた物資の長安や漢中への運送ルートの結節点にあたる。両州を抑えられたことによって長安への食糧供給が滞ったのは韋倫伝に見えるとおり。

 中国に往来したソグド人はみやこの長安や洛陽のほか、霊州、幽州から果ては揚州まで、交通の要衝に集住してコロニーを形成し、各コロニー間のネットワークを介して交易・情報伝達をする傾向がつとに指摘されているが、襄州についてはまだ報告がないものの、当地の交通上の重要性に鑑みれば、ソグド人が進出していてもふしぎではない。

 康楚元は襄州に集住したソグドの家系から身を起こし、当地の軍将として仕官した武人ではないだろうか。ソグドの血を引き、深目高鼻に碧眼というコーカソイド的形質をそなえていたかもしれない康楚元が項羽の再来を称するというのは、どう見てもモンゴロイドルパン三世のようで、どこかおかしみがある。

 薛挙が挙兵した金城郡も西域と長安をつなぐ河西回廊の要衝で、ソグド系住人の多い土地である。あるいは項羽というやたらめっぽう戦が強く、儒教的な堅苦しさ、小難しさのない英雄は、漢化が浅い非漢族にも受け入れられやすいアイコンだったのかもしれない。

 さて、康楚元がソグド系であるということで、またひとつの推測が生まれる。おなじくソグド系の史思明との連携である。

 史思明は突厥第二可汗国崩壊後に唐朝に内附したソグド系突厥突厥内部に「胡部」とよばれるコロニーを形成して生活し、遊牧文化や騎射技術などを習得して突厥化したソグド)と見られるが、森部豊氏らが示唆する安史軍がソグドネットワークを利用して軍資金を調達していたという説*2に従えば、河北で活動していた史思明とソグドネットワークを介して連携したうえで挙兵した可能性もすてきれない(ソグドネットワークという概念自体が理念が先行しすぎており、安史の乱によって混乱していた当時の唐朝本土でどれほど実態があったのかは不明だが)。

新唐書』巻6 粛宗紀 乾元二年条

 九月甲子、張嘉延陷荊州。丁亥、太子少保崔光遠為荊襄招討・山南東道處置兵馬使。庚寅、史思明陷東京及齊・汝・鄭・滑四州。

 九月甲子の日、張嘉延は荊州を陥れた。丁亥の日、太子少保の崔光遠を荊襄招討・山南東道處置兵馬使とした。庚寅の日、史思明が東京および斉・汝・鄭・滑の四州を陥れた。

 康楚元軍が荊州を落とし、唐朝がその対応に追われているあいだに、安史軍は洛陽ほか河南の諸州を攻め落としており、有機的に連携がとれているように見えるのだ。

 康楚元があくまでも南楚の「覇王」として地域権力に終始しようとし、帝号を称さなかったのも、項羽にあやかっただけでなく、史思明ひきいる大燕王朝への配慮もあったのではないだろうか。

 以上見てきたように、康楚元の乱はソグドネットワークという汎ユーラシア規模のネットワークと中国土着の項羽信仰が結合した事件としてとらえることが可能である。ソグドネットワークによる安史軍との連携についても、項羽信仰に基づく軍士の統率についても、史料に乏しく、あくまでも推測にすぎないが、従来説かれてきたような唐朝側・安史軍側だけでなく、第三勢力にもソグド系武人が存在していたことだけはたしかだろう。

 

*1:宮川尚志「項羽神の研究」同『六朝史研究 宗教篇』(平楽寺書店、1964)所収

*2:森部豊『世界史リブレット人18 安禄山』(山川出版社、2013)

左慈の弁当

 久々に『北夢瑣言』を読んでいると、気になる記事が見つかった。

 

『北夢瑣言』逸文補遺 六甲行厨

 修道功深者、享六甲行厨。凡有所須、舉意即至。

 

 道術を深く修めた者は、「六甲行厨」を会得できる。およそ望むものは、念ずればすぐに届く。

 

 解釈にあまり自信はないが、およそこのような意味であろうか。道術を深く修めた者は、「六甲行厨」によって欲しいものを望みのままに手に入れられるとのこと。

 では「六甲行厨」とは何か。

 「行厨」は弁当を指し、「六甲」の意味するところは甲子・甲戌・甲申・甲午・甲辰・甲寅の六つの干支、星の名、神の名など多数あるが、ここでは五行の方術とする解釈を採りたい。

 それというのも「六甲行厨」という語は、管見のかぎり『神仙伝』の左慈伝を典拠とするように見受けられるからである。

 三国志でも曹操を惑わす方士としておなじみの左慈の能力について、『神仙伝』では次のように描かれている。

 

『神仙伝』巻五 左慈

 …乃學道、尤明六甲、能役使鬼神、坐致行厨

 

 …そこで方術を学び、なかでも六甲に精通し、よく鬼神を使役して、いながらにして食事を運ばせることができた。

 

 方術としての「六甲」は、『後漢書』方術列伝における「遁甲」への李賢注に「遁甲、推六甲之陰而隱遁也」とあるように、(少なくとも唐代には)隠形術である遁甲を指すと解釈されているようで、左慈はみずからの身体を隠したり変化させるほか、鬼神に食事を運ばせることまでできたということだ。

 盆に張った水から鱸を釣り上げたり、羊に化けて追手を惑わしたりと、左慈曹操を幻惑する三国志の名シーン、あれこそが(鬼神は具体的に描かれないが)その場に食事を現出させる「行厨」と隠形術である「六甲」だったのである。これらのエピソードは『神仙伝』のほか、『捜神記』や『後漢書』などの左慈伝にも多少の異同を含みながらほぼ同じ内容で描かれている。

 そして『北夢瑣言』編者の孫光憲が生きた唐末五代まで、左慈が得意としたといわれる「六甲」と「行厨」は、道術の奥義として伝承され続けていたのであろう。

 ちなみに北宋に入ると、「六丁」と「六甲」とよばれる鬼神を使役する道士や、「六甲法」という六甲の年にうまれた者(?)だけで構成された軍隊で戦うインチキ兵法など、うさんくさい輩が散見され、道術としての「六甲」の裾野の広がりがうかがえる。