唐代のソグド系医官
『北夢瑣言』巻6「同昌公主事」に、唐の懿宗の愛娘である同昌公主が病死した際、その責任を負わされた医官が族滅されたという記事が見えます。
『北夢瑣言』巻6「同昌公主事」
因有疾、湯藥不效而殞、醫官韓宗昭・康守商等數家皆族誅。
同じ事件について、『旧唐書』では次のように記されています。
『旧唐書』巻177 劉瞻伝
十一年八月、同昌公主薨、懿宗尤嗟惜之。以翰林醫官韓宗召・康仲殷等用藥無効、收之下獄。兩家宗族、枝蔓盡捕三百餘人、狴牢皆滿。
薬が効かなかったという理由で韓宗昭とともに族滅された医官として、康守商または康仲殷の名が見えます。同一人物であることは間違いないでしょうが、いずれにせよソグド姓を冠していることに変わりはなく、当時、唐の宮中にソグド系の医官がいたことになります。
この康守商は中国に移住して数世代を重ね漢化したソグド人で、伝統的な中国の医術をもって宮仕えしていた可能性もありますが、唐代の多くの皇帝がインドや西域の医者を招聘したことを鑑みれば、彼もまた西域伝来の医術をもって懿宗に召し抱えられたのではないかと思います。
近年のソグド研究では、従来の商人として以外に、武人や牧馬官、宦官等として活躍する多様なソグド人の姿があきらかになってきていますが、彼らの中国における存在形態のひとつとして、医者も数える必要があるのかもしれません。