沙陀の貌
久しぶりの更新になります。
西突厥の支族と称する沙陀についても、中核氏族の朱邪氏は無批判にテュルク系であると見なされているようですが、実際にはどうだったのでしょうか。
史料上に沙陀であることが明記されている人物の風貌については、管見のかぎり、「一目微眇」のため「独眼龍」とあだ名された李克用の他には、沙陀としての矜恃を抱くソグド系の康福が、その恰幅の良さを「體貌豐厚」と評されているケースのみで、具体的な人種の推定にはつながりません。
一方、沙陀一般に対する当時の人びとの認識は、朱全忠率いる河南軍閥(のちの後梁)の部将氏叔琮が沙陀(晋)軍をスパイで撹乱したエピソードから伺えます。
『旧五代史』巻19 梁書19 氏叔琮伝
晋軍恃勝攻臨汾、叔琮厳設備御。乃於軍中選壮士二人、深目虬鬚、貌如沙陀者、令就襄陵県牧馬於道間。蕃冦見之不疑、二人因雑其行間、俄而伺隙各擒一人而来、晋軍大驚、且疑有伏兵、遂退據蒲県。
氏叔琮は、眼窩がくぼみ頬ヒゲがもじゃもじゃ、という「沙陀のような顔」の兵士二人をスパイにしたてあげます。二人は沙陀の進軍ルートにあたる襄陵県で馬を放牧しますが、それを近在の牧民と見たのか怪しまない沙陀軍にまんまと潜入し、撹乱工作を成功させました。
そして当時の河東道では、沙陀やソグド系突厥の部落が安置された代北からはるか南方においても(襄陵県は現在の山西省臨汾市周辺)、コーカソイド的風貌の牧民が馬を追う光景が日常的に見られたことも特記すべきでしょう。
沙陀にコーカソイド色が濃厚であったことは、黄巣が李克用へ送った和睦の使者が米重威というソグド系の者である点からも伺えます。
『旧五代史』巻50 唐書26 宗室列伝第2 李克譲の条
中和二年冬、武皇入関討賊、屯沙苑。黄巣遣使米重威齎賂修好、因送渾進通至、兼擒送害克譲僧十人。
また、本筋からは逸れますが、上掲史料に見える「渾進通」は、もとは李克用の弟克譲の下僕です。姓からして渾の出身と考えられ、沙陀集団には渾も参加していたことを証する稀少な事例です。
沙陀との折衝にソグド系の人物を起用するのは黄巣だけではありません。
唐朝から軍監として派遣され、李克用・存勗二代に仕え、名宦官として名高い張承業も、元の姓は「康」のため、ソグド系といえます。
『旧五代史』巻72 唐書48 張承業伝
張承業、字継元、本姓康、同州人。咸通中、内常侍張泰畜為仮子。光啓中、主郃陽軍事、賜紫、入為内供奉。武皇之討王行瑜、承業累奉使渭水、因留監武皇軍事、賊平、改酒坊使。三年、昭宗将幸太原、以承業与武皇善、乃除為河東監軍、密令迎駕。
同州には薩宝がおかれ、ソグド人コロニーが存在していたといわれていますが、張承業の出自もおなじコロニーなのかもしれません。
ともあれ、唐朝も沙陀集団の目付け役を果たし、意思疎通もはかれる人物はソグド系が適任と考えていたのではないでしょうか。
以上、見てきましたように、唐末において沙陀は、内部に多くのソグド系を含んでいたためか、外部からはコーカソイド的外貌で認識されており、折衝にもソグド人が起用されることが多かったといえます。
ただし、李克用ら朱邪氏がテュルク系か否か、モンゴロイドかコーカソイドかについては何れも未詳です。
また、ソグドを中心とした沙陀集団内部の民族構成は樊文礼、森部豊、西村陽子の各氏の研究に詳しいため、このエントリでは追究しません(iPhoneなので文章書くのがめんどくさい)。あしからず。