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壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。

石君立、ソグド人やめるってよ

ツイッターで呟いていた石君立ネタのまとめ。

中華書局の「点校本二十四史修訂本」シリーズの『新・旧五代史』が届いたのでパラパラめくっていたのだが、文献史料以外に墓誌も活用してテキストを修訂していて、なかなか面白い。

そのなかでも目に付いたのが、『旧五代史』巻65唐書41列伝第17の石君立伝。従来のテキストでは「石家財」と記されていた彼の異名が次のように修訂されているのだ。

石君立 、趙州昭慶人也、亦謂之石家才。初事代州刺史李克柔、後隸李嗣昭為牙校,歷典諸軍。

石君立は沙陀政権の部将として後梁との戦いに従事していた武人だが、ソグド研究者の一部では、石というソグド姓と、沙陀政権にはソグド系武人(いわゆるソグド系突厥)が多数参加していること、さらには「石家財」という異名が交易に巧みなソグド人をイメージすることから彼をソグド系と見なす向きがあった。

今回の修訂は、校勘記によると次のような校勘の結果らしい。

石家才 原作「石家財」、據本書巻九梁帝末紀中・冊府巻二一七・巻三六九改。

冊府元亀は手元にないので確認のしようがないが、なるほど『旧五代史』巻9梁書9末帝紀中・貞明5年の条では「石家才」と記している。

十二月戊戌、晉王領軍迫河南寨、王瓚率師禦之、獲晉將石家才案:通鑑石家才作石君立。考薛史列傳、君立一名家才

その他、『旧五代史』の石君立登場記事を見ても、「石君立」の他は「石家才」あるいは「石嘉才」の表記であり、「石家財」は本人の伝にしか見えないのだ。

 『旧五代史』巻22梁書22列伝第12王檀伝

二年二月、師至晉陽、晝夜急攻其壘、并州幾陷。既而蕃將石家才自潞州以援兵至、檀引軍大掠而還。

 『旧五代史』巻28唐書4荘宗紀第2

是月、梁主遣別將王檀率兵五萬、自陰地關趨晉陽、急攻其城、昭義李嗣昭遣將石嘉才案:梁紀作家才、唐列傳作家財。(舊五代史考異)率騎三百赴援。

 『旧五代史』巻61唐書37列伝第13安金全伝

俄而石君立自潞州至、汴軍退走。

財は才に通じるので、まったくの誤字ともいえないが、おそらくは「石家才」が正しいのだろう。

石君立の異名が「石家才」だとすると、彼をソグド系と見なす根拠(というほど確実なものではないが)がひとつ消えることとなるが、石君立ソグド説を完全に否定することもできない。

彼の出自である趙州は成徳軍節度使の管内だが、周知のとおり安史軍の残党の創建になる成徳軍には、康日知をはじめ多数のソグド系軍将が存在したことが明らかになっている*1。石君立自身は一貫して沙陀政権に仕えており、成徳軍に出仕した形跡はないものの、彼がこれら安史軍残党の流れを汲むソグド系武人であった可能性も捨てきれないのだ。

 

石君立について、またひとつ気になる点は、彼の諱である。

「君立」という諱を持つ者は管見の限り、『旧五代史』では石君立の他には、李克用を擁立した代北のソグド系の「邊豪」康君立と、荘宗の仮子となっていた経歴不詳のソグド系武人米君立(仮子としては「李紹能」の姓名を賜っていた)の2人のみである。

漢籍電子文献でざっくり検索をかけても五代以前には「君立」という諱あるいは字を持つ者は彼ら3名のほか、北魏の皇族である元樹しか見つからない。

 『北史』巻19列伝第7咸陽王禧伝

翼弟樹、字秀和、一字君立 。美姿貌、善吐納、兼有將略。位宗正卿。後亦奔梁。

元樹の兄弟は一部を除き、「曇和」「仲和」など、みな字に輩行字と思しき「和」の字を含んでおり、こういった儒教的性格を帯びた字とは別に有する「君立」という字は、彼の鮮卑での本名の音転写という可能性は考えられないだろうか。

北斉のテュルク系武人斛律金の字は「阿六敦(アルトゥン)」(テュルク語で「金」を意味する)であり、彼の場合は漢地における諱と字が一致しているわけだが、おそらく敕勒における彼の本名の音転写なのだろう。

元樹の字が斛律金と同様のケースだとすれば、これは完全に僕の妄想だが、漠北のテュルク・モンゴル語世界では漢字に音転写すると「君立」と表記される言葉が存在し、鮮卑の皇族である元樹や、突厥や沙陀と交雑していたソグド系突厥である康君立らがそれを名乗った可能性も微粒子レベルで存在しているんじゃないだろうか(石君立の場合は先祖が安史軍に参加したソグド系突厥か)。

 

とまあ、ぐだぐだ書き連ねてきたが、いまのところ石君立がソグド系であることを立証する証拠はないわけで、やはり彼には一旦ソグド人の看板を下ろしてもらうしかないだろう。

そういうわけで、石君立、ソグド人やめるってよ。

 

 

【9月10日補記】

石君立をソグド系と見なす根拠が薄いと書いたが、改めて彼の登場する史料を見返すと、『旧五代史』王檀伝では「蕃將」と明記されている。

当初、彼は当時「晋」と呼ばれていた沙陀政権の部将であるから梁書においては「晋將」のほかに「蕃將」と記されたのかと思い、看過していた。『旧五代史』では「蕃將」と冠される者は、梁書では石君立の他、史冠府(ソグド?)、何懐宝(ソグド?)、張汚落(李存信の旧名。ウィグル系沙陀)、賁金鉄(出自不明)、慕容騰(鮮卑?)、李存建(沙陀?)、安休休(ソグド)、石君和(ソグド?)ら沙陀政権の部将であり、唐書以降では惕隠、大相温、諧里相公、高牟翰、禿餒、偉王、耿崇美、楊袞、耶律忠と、すべて契丹の部将に限定されている。

しかし、『旧五代史』巻38唐書14明宗紀第4の天成2年10月の条に、「本非蕃將」と記された漢人節度使の霍彥威が「番家之符信」に倣い、明宗に矢を献じた例があるように、一般的に「蕃將」といえば非漢人の将領を指し、非漢人集団の部将だから出自に関係なく「蕃將」と呼ぶのは無理がある。

青州節度使霍彥威差人走馬進箭一對、賀誅朱守殷、帝卻賜彥威箭一對。傳箭、番家之符信也、起軍令眾則使之、彥威本非蕃將、以臣傳箭於君、非禮也。

おなじ沙陀政権(晋)の部将であっても李嗣昭や周徳威ら漢人が「晋將」と記されることはあっても「蕃將」を冠する例はない(ただし李克用墓誌に表れる「嗣昭」は李克用の「元子」つまり長子とされており、編纂史料中の李嗣昭と同一人物ならば、彼は沙陀ということになる)。

よって石君立については非漢人であることは疑いなく、「石」がソグド姓であることを鑑みれば、彼もまたソグド系であったと見なすのが妥当だろう。

結局タイトルと真逆の結果じゃないか…。

*1:森部豊『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史的展開』「第4章 ソグド系突厥の東遷と河朔三鎮の動静」関西大学出版部、2010