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壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。

中国史におけるブタトイレの風景

漢代を中心に、地方の豪族の墓などから当時のブタ小屋の明器が出土することがある。「猪圏」と呼ばれる柵に囲まれたブタ小屋である。

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 これら「猪圏」の明器には、柵に囲まれたブタ小屋の上階にトイレとなる小屋がついていることが多い。上階のトイレから垂らした便をブタが餌として処理してくれる、エコでロハスなトイレとブタ小屋の複合建築である。

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ブタの代わりにヒツジを飼っているトイレもある。

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博物館や美術館で中国関係の展示を見るとき、僕が最も期待するのはこの「猪圏」明器の有無だ。 

中国では死後の世界は現実世界の延長として捉えられており、副葬される明器も現実世界で墓主が愛用していた品や生活必需品のミニチュアであることが多い。つまり実生活でもブタ小屋を併設したトイレを使用していたわけだ。

 昔の中国のトイレがすべてがそうだったとは思わないが、僕らが親しんでいる『史記』や『三国志』の英雄豪傑美女たちも、みんなブタ小屋の上でうんこをしていたのかもしれない。たとえば予譲が趙襄子を暗殺するために刑徒に身をやつした「廁」、衛子夫が漢の武帝に抱かれた「軒中」でも、その階下ではブタがうんこを貪っていたかもしれないのだ。

国史の名場面のなかにブタトイレの存在を意識するだけで、風景が変わって見える。「猪圏」明器を見るたびに僕がわくわくするのはそんな理由からだ。 

 このエントリーでは、中国の伝世文献上、ブタトイレはいかなる形で描かれてきたのかをざっくりと探っていきたい。

 

文献の上でブタトイレは多く「圂」または「溷」と表記される。豕(ブタ)を囲った字形のとおり、もとはブタ小屋を意味する漢字だったようだが、人間がブタに排泄物を処理させるようになってからはトイレとしての意味も持つようになったものらしい。

「圂」にブタがいたことを如実に物語る史料として、唐代のできごとではあるが、民家の「圂」からブタが出てきて踊りだした、という災異が記録されている。

 『新唐書』巻36 五行志3 豕禍の条

咸通七年、徐州蕭縣民家豕出圂舞、又牡豕多將隣里羣豕而行、復自相噬齧。

同条の上段にはトイレの存在こそ明示しないが、官署でもブタを飼っていたと思しき記述がある。

貞觀十七年六月、司農寺豕生子、一首八足、自頸分為二。

おそらく司農寺が貯蔵していた食料としてのブタではなく、官舎のトイレで飼っていたブタ がシャム双生児的な異形の仔を生んだのだろう。唐代では地方の民家から都の官署にいたるまで、幅広くトイレでブタを飼っていたのかもしれない。

 

漢代における「圂」を描いた記事としては、武帝の子である燕王旦をめぐる災異がある。

 『漢書』巻27中之下 五行志第7中之下 豕禍の条

昭帝元鳳元年、燕王宮永巷中豕出圂 、壞都竈、銜其鬴六七枚置殿前。

燕王の後宮の「圂」からブタが逃げ出し、カマドを壊してカマをくわえて殿前にならべたという。これは謀叛をくわだてていた燕王を天が譴責する災異「豕禍」として捉えられており、彼の伝にも同内容が記されている。

 『漢書』巻63 武五子伝 燕刺王旦の条

是時天雨、虹下屬宮中、飲井水竭。廁中豕羣出、壞大官竈。烏鵲鬬死、鼠舞殿端門中。

諸侯の後宮にブタトイレが存在していたとなると、武帝が衛子夫に手をつけた平陽公主邸の「軒中」(これもトイレを指す)にもブタが飼われていたと想像したくなる。ムードもクソもありはしないが(クソはあるか)、「雄材大略」を謳われた武帝ほどの傑物には些細なことなのだろう。英雄、色を好むである。

さて、漢代のブタとトイレの話といえば、史上に悪名高い「人彘」がある。

 『史記』巻9 呂太后本紀

太后遂斷戚夫人手足、去眼、煇耳、飲瘖藥、使居廁中、命曰「人彘 」。居數日、迺召孝惠帝觀人彘 。

 趙王如意の母であり、呂后のライバルとなりうる戚夫人がダルマ状態にされてトイレにおかれたという過酷な拷問だが、「彘」とは手足の短いブタを指し、戚夫人が手足を切られた状態を表しており、また「廁」におかれていることからも、呂后がブタトイレを意識して処置したのは間違いない。

上述したように燕王の後宮にはブタトイレが存在したが、諸侯に関わる諸制度は基本的に中央の模倣と考えるのが自然だろう。ならば漢朝の後宮にもブタトイレが存在したと考えられ、ことによると戚夫人はクソまみれのブタ小屋にダルマ状態で転がされていたのかもしれない。

史記』に現れるブタの話としては轅固生の逸話も有名である。老子を奴隷の学問と切り捨てるスノッブな発言のせいで、老子推しの竇太后の逆鱗に触れた儒者の轅固生は、ブタ小屋に行ってブタを刺してこいと無茶ぶりを振られる。

 『史記』巻121 儒林列伝 轅固生の条

乃使固入圈刺豕 。景帝知太后怒而固直言無罪、乃假固利兵、下圈刺豕 、正中其心、一刺、 豕應手而倒。

彼を惜しんだ景帝がこっそり刃物を渡したため、轅固生はブタを一突きに刺し殺してことなきを得たという儒者らしからぬ武闘派エピソードだが、このブタ小屋、「圏」とだけあるためトイレとは関係ない柵で囲まれただけの豚舎のように思えるが、「下圏」という表現からすると上階から降りた先にあるブタ小屋だったようで、やはりこれもトイレのなかでクソまみれになってブタと戦ったものではないだろうか。高慢ちきな腐れ儒者を汚辱にまみれさせたいという竇太后のドSっぷりがうかがえる。

 おなじく漢代のエピソードとして、景帝のとき上林苑のトイレに「野彘」が闖入した話もあるが、これはそのトイレ併設のブタ小屋で飼われていたブタではなく、苑中で放牧されていたイノシシであろう。

 『漢書』巻90 酷吏伝 致都の条

嘗從入上林、賈姬在廁、野彘入廁、上目都、都不行。上欲自持兵救賈姬、都伏上前曰「亡一姬復一姬進、天下所少寧姬等邪。陛下縱自輕、奈宗廟太后何」上還、 彘亦不傷賈姬。

イノシシは賈姫を襲わなかったそうなので、目的は彼女のうんこだったのではないか。

 

視線を中国の周縁に転ずると、中国東北部にいた夫余の始祖である東明(高句麗の始祖である朱蒙と同一人物か?)の感生帝説にもブタトイレが登場する。

 『三国志』魏書巻30 烏丸鮮卑東夷伝 扶余の条 裴松之注所引『魏略』

舊志又言、昔北方有高離之國者、其王者侍婢有身、王欲殺之、婢云「有氣如雞子來下、我故有身。」後生子、王捐之於溷中、豬以喙噓之、徙至馬閑、馬以氣噓之、不死。

高離の王のもとに生まれた東明は父王にブタトイレへ捨てられたが、ブタが息を吹きかけて温め、死を免れたという。中国東北部にもブタトイレが根付いていたことがわかる。

なお、後漢書では「溷」ではなく「豕牢」という露骨な表現になっている。

 『後漢書』巻85 東夷列伝 夫余の条

王令置於豕牢、豕以口氣噓之、不死。

この「豕牢」という表現でトイレが描かれるケースも多く、『宋書』が伝えるところによれば、周の文王はブタトイレで産み落とされたという伝承もあるようだ。

 『宋書』巻27 符瑞志上

季歷之妃曰太任、夢長人感己、溲于豕牢而生昌、是為周文王。

「溲」は小便をするという意味のため、この「豕牢」はまずトイレと見て間違いない。季歴の妃はブタトイレに小便をしに行き、うっかり文王を産み落としてしまったというのだろう。文王、よくグレなかったな。

ちなみに、西晋の恵帝の長子であった司馬遹は、幼時に祖父の武帝と「豕牢」を見学している。

 『晋書』巻53 愍懷太子伝

嘗從帝觀豕牢、言於帝曰「 豕甚肥、何不殺以享士、而使久費五穀。」帝嘉其意、即使烹之。

わざわざ皇帝が見に来るくらいなのでこの「豕牢」はトイレを併設しない純然たるブタ小屋だと思いたい。が、武帝といえば王済の屋敷にて人の乳で育てられたブタ肉をごちそうになってドン引きしたエピソードがあるので、案外もりもりうんこを食ってるブタを見て「やっぱこれだよ」と安心していたかもしれない。

 

この他、「溷」や「豕牢」に死体を棄てたり埋めたりするエピソードが史料上に散見するが、ブタの存在は明示されない。あるいは雑食のブタに死体を食わせて処理するハンニバル的な目的もあるのかもしれないが、今回はそこまで触れずに筆を擱きたい。

ざっくりと唐代までのブタトイレのある風景を点描してみたが、まだまだ判らないことは多い。五代以降について、正史からはブタトイレの存在をにおわせる記事に乏しく、実態をつかめないのも残念だ。

ブタトイレについては今後も史料や論著を読み、明器を見て、その実態について考えていきたい。このクソみたいなエントリーはその第一歩なのだ。