壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

唐五代のラクダ部隊とソグド系武人

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高校時代、中国へ旅行に行ったとき、万里の長城で観光客向けの記念撮影用のラクダを見かけて度肝を抜かれた憶えがある。動物園のような柵のなかではなく、飼い主と思しき人間の傍らにしれっとたたずんでいたこともさりながら、当時の僕は、ラクダという生き物は砂漠に住んでいるものだとばかり思っていたのだ。

しかし史書を繙いていると、「駱駝」「駞」「槖陀」などと表記されるラクダは、漠北や西域のみならず、いわゆる中原と呼ばれるような中華世界の中心部まで幅広く顔をのぞかせていることに気づく。

とくに漠北西域へ勢力を伸長し、シルクロード交易も隆盛を極めた唐代では、遊牧民や西域諸国からの朝貢品、あるいは戦争による鹵獲物としてのラクダが史料上に散見するだけでなく、宮中で乗馬等を管理する閑廄使には馬のほかにラクダや象までいたというし、オルドスに設置された監牧でもラクダを飼養していたことがうかがえる。

何よりラクダは唐三彩など陶器のモチーフとして代表的であり、博物館では彼らを牽くソグド人とのセットで、現代日本人にもおなじみだ。ソグド人は唐代にはシルクロードや国際都市・長安から、揚州など江淮までネットワークを広げていたと考えられており、おそらく「ラクダを牽くソグド商人」の姿は、唐代では日常にすっかり溶け込んでいたのではないだろうか。

 

さて、運搬力に優れるラクダは、軍事の場面では輜重隊としての利用が見込まれる。

ソグド商人にとってラクダが良き相棒だったように、唐五代に活躍したソグド系武人にも、ラクダと密接な関わりを持つ者が存在する。

旧唐書』巻200上 史思明伝

自祿山陷兩京、常以駱駝運兩京御府珍寶於范陽、不知紀極。

洛陽・長安を陥した安禄山は宮中の財宝をラクダに載せて、本拠地である范陽まで運んだという。ソグド系突厥である安禄山はソグドネットワークを利用していたことがつとに指摘されているが、彼のロジスティクスを支えていたのも、こうしたネットワークとキャラバン隊だったのだろう。

 

また、ラクダが輜重隊以外の活躍を見せた例として、後周世宗による南唐攻略があげられる。 

『旧五代史』巻117 周書8 世宗本紀4 顕徳4年11月条

丙戌、車駕至濠州城下。戊子、親破十八里灘。砦在濠州東北淮水之中、四面阻水、上令甲士數百人跨以濟。今上以騎軍浮水而渡、遂破其砦、擄其戰艦而迴。

濠州城攻略の際、後周軍は重装兵をラクダに載せて淮水を渡らせていたが、そのラクダ部隊を率いていたのが「康保裔」という世宗の側近の武人である。

資治通鑑』巻293 後周紀4 顕徳4年11月条 

戊子、帝自攻之、命內殿直康保裔帥甲士數百、乘橐駝涉水、太祖皇帝帥騎兵繼之、遂拔之。

「康」というソグド姓を冠していることから、彼がソグド系であることは間違いなく、やはりラクダの扱いに長けていたのだろうか。康保裔率いる重装ラクダ騎兵は趙匡胤率いる騎兵部隊の前衛として先陣を切っている。主力騎兵の渡河をサポートするために重装備の兵士を先行させたものと考えられるが、彼らを渡河させるには馬より運搬力に優れるラクダが望ましく、ラクダの扱いに長けていたソグド系の康保裔が指揮官として抜擢されたのだろう。

 

上記のほかにラクダと関わりを持っていたソグド系武人としては、唐代の魏博節度使に仕えていた米文辯もあげられる。

『唐・魏博節度歩軍左廂都知兵馬使米文辯墓誌銘』*1

署左親事・馬歩廂虞候・兼節度押衙、又管在府西坊征馬及駞坊騾坊事。

「米」というソグド姓を冠する米文辯は、安史軍残党が創設し、複数のソグド系節度使が君臨した魏博に仕えており、一時期魏博の中核に存在したと思しきソグド系武人集団の一員と考えられる。おそらく「馬歩廂虞候」の職責かと思われるが、会府である魏州の西坊において馬軍の戦馬と、駞坊のラクダ、騾坊のラバを管理していたのだろう。

米文辯が管理していたラクダが戦闘用として利用されたのか、または輜重隊として利用されたのかは不明だが、唐末の魏博節度使は河南の後梁と山西の沙陀集団の間に挟まれ、当初、後梁に従属していた。

資治通鑑』巻265 唐紀81 天祐3年条

全忠留魏半歲、羅紹威供億、所殺牛羊豕近七十萬、資糧稱是、所賂遣又近百萬、此去、蓄積為之一空。

九月、辛亥朔、朱全忠自白馬渡河、丁卯、至滄州、軍於長蘆、滄人不出。羅紹威饋運、自魏至長蘆五百里、不絕於路。又建元帥府舍於魏、所過驛亭供酒饌・幄幕・什器、上下數十萬人、無一不備。

当時の節度使羅紹威は河朔に展開していた後梁軍の輜重を担っており、数十万の将兵に不足を感じさせなかったといわれるほど大量の食料物資を供給している。

この羅紹威の驚異的なロジスティクスを支えていたのが、「駞坊」のラクダであり、米文辯のようなラクダの扱いに長けたソグド系武人だったのではないだろうか。

後年、魏博節度使は沙陀集団に寝返り、その精鋭部隊である銀槍効節都を取り込んだことが後梁打倒に大きく資したといわれているが、河朔における沙陀の活動を輜重面から支えたことも、勝因のひとつとなったのかもしれない。

ラクダとソグドが歴史を転回させたのではと想像すると、月の沙漠を闊歩するのとはまた別のロマンが感じられる。

*1:釈文は森部豊『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史的展開』資料5より引用。