壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

唐代胡人俑展雑感

 先日、館長が出川哲朗であることでネット上で有名な大阪市立東洋陶磁美術館へ胡人俑を観に行った。2001年に中国は甘粛省慶城県で発掘された、唐の武人・穆泰の墓の出土遺物のうち胡人俑など60点を将来した特別展、しかもその大量の展示品はすべて写真撮り放題という太っ腹な展示である。ヤバいよヤバいよ。

 まず出迎えてくれたのは、凛々しい顔立ちに幞頭をかぶり、緑地に朱色の半円を描いた鮮やかな縁取りの胡服をまとった胡人俑である。

 f:id:ano_hacienda:20180114151649j:image

 右腕を上げたポーズから、馬を牽く牽馬俑と見られているようだ。開いた襟の先端に円い留め飾りがあり、ボタンダウンのように見える。

 f:id:ano_hacienda:20180114151731j:image

 続いて深目高鼻のいかにも中央アジアイラン系民族といったビジュアルに宝相華文の縁取りが鮮烈な褐色の胡服の胡人俑。これも馬かラクダを牽いていたのかもしれない。

 f:id:ano_hacienda:20180114151754j:image

 f:id:ano_hacienda:20180114151815j:image

 やたらと尖った胡帽の裏地や胡服の縁取りにおしゃれ心が垣間見える、ウィンクして腕まくりのいきいきとしたビジュアルのソグド・ガイ。「俺のラクダに乗ってきなよ」とかいいそう。

 

 そして今回の展示で一番強烈だった胡人俑がこちら。 f:id:ano_hacienda:20180114151921j:image

f:id:ano_hacienda:20180114151948j:image f:id:ano_hacienda:20180114152011j:image

 スキンヘッド、2,3人殺してそうないかつい顔面、シャベル状のバリっと固まったあごひげ、胡服を大きくはだけて魅せる、垂れた乳首と太鼓腹、そしてみっしりと描かれたギャランドゥー。くやしいけれどお前に夢中な圧倒的インパクト。両手を背後に回しているので手もとが見えないが、小指とか欠けてそう。

 腹を出した胡人俑は幻術を披露しているとも、滑稽戯の役者ともいわれているようだが、個人的にはどうしても「腹の垂ること膝を過ぐ」と形容されるほどの肥満体にも関わらず胡旋舞を得意とした安禄山のイメージが重なってしまう。ちなみにあごひげの付け根に円い突起があることから、付けひげの可能性もあるらしい。キャラ設定が複雑すぎる。

 

f:id:ano_hacienda:20180114152044j:image  そしてツイッターでも話題になっていた、どこかで見たようなヒョウ柄パンツとポーズが印象的なピ胡太郎。宙に浮いた両手はアップルとペンではなく、これも馬かラクダの手綱をつかんでいたものらしい。ちなみに胡人俑でもソグドではなくインド系と目されているようだ。

 f:id:ano_hacienda:20180114152116j:image

 ラクダと胡人の欲張りセット。どうでもいいけどみんな胡服の縁取りが派手だな。大学生かよ。 f:id:ano_hacienda:20180114152851j:image

 

f:id:ano_hacienda:20180114152931j:image

 こちらはふっくらとした柔和な顔立ちに花柄の胡服が優男感を醸し出している。HAREとか好きそう。

 しかしこれを含めて展示品には胡服こそ着ているものの彫りの浅い顔立ちの俑も混在しており、胡服を着て馬やラクダを牽いてそうなポーズをとってはいるが、彼らは当時の流行ファッションの胡服を着ただけの漢人(でなくともモンゴロイド)のように素人目には見える。「史」や「曹」などの漢人にも多いソグド姓を冠しているだけで、対象をソグド系認定する研究者のような杜撰さを感じる。

 f:id:ano_hacienda:20180114153150j:image

 こちらは参軍戯という漫才の俑と目されているが、立ち姿がぬらりひょんっぽい。しかし深目高鼻のソグド人が漫才をする姿は当時の漢人にはどのように映っていたのか。現代日本人が厚切りジェイソンを見るような感じだったのか。

 

f:id:ano_hacienda:20180114153256j:image  f:id:ano_hacienda:20180114153322j:image

 古代日本なら「みずら髪」の男子と見なされるところだが、「双垂髻」という女性の髪形らしく、この俑も女性の可能性が高いとのこと。けっこう彫りの深い美形じゃないでしょうか。

 f:id:ano_hacienda:20180114153453j:image

f:id:ano_hacienda:20180114153518j:image  こちらも男装の麗人像とのこと。たしかに柔らかいフォルムとチークのようなうっすらとした紅が女性的。口の両側の頬の黒い点は「靨鈿」という化粧法らしいが、どういう効果があるのだろうか。額に朱く花文などをあしらう花鈿がポイントメイクとして華やかで可愛いのは現代日本人の感性でも理解できるが、これは口もとにほくろがあるとエロいとかそういう類のものなのだろうか。

 f:id:ano_hacienda:20180114153542j:image

f:id:ano_hacienda:20180114153642j:image

 髪型もファッションも多彩な女俑。二人とも顔はふくよかな典型的盛唐美人。ハイウエストできちんと感を演出。

 f:id:ano_hacienda:20180114153738j:image

f:id:ano_hacienda:20180114153814j:image

  またしても男装の麗人とのこと。額の花鈿、なで肩、柔らかいフォルムから女性と判断されているようだが、ファッションが婆裟羅すぎる。まず一番外側の胡服をだぼっと着崩しており、騎乗しやすいタイトさが身上のはずの胡服なのに、このオーバーサイズ。これもうボーイフレンド胡服ですよ。そしてその左肩を脱ぎ、黒地に大きめドットの服をのぞかせ、さらにその下に着た服のものなのか朱色のドレープが効いた袖を垂らし、左脚も胡服をたくしあげてベルトに挟み、朱色の地に白い小花柄のスカート(?)をのぞかせるという、レイヤードしまくりだがちゃんと色を拾って統一感を出す超上級者コーデ。慶城県は唐代の慶州で、みやこ長安からもそう遠くはないので、こういう尖ったファッションも流入してきたのだろうか。あるいは東漸してきた西域由来の最先端ファッションなのか。

 f:id:ano_hacienda:20180114153851j:image

f:id:ano_hacienda:20180114153924j:image

 こちらも「双垂髻」のようなので女俑と見られているが、ちょっとお顔がいかつすぎませんかね…。彫りの深さからすると胡人の女性と見られるが、もしかして、国際都市・長安を彩ったエキゾチックな「胡姫」たちもこんなビジュアルだったの…?「笑って入る胡姫の酒肆の中」じゃねーよ!少年も笑顔ひきつるよ!

 しかし、にらみをきかせた独特の表情や、どうも髪が不自然なことから「假髪(かつら)」を被って女装した男性の役者じゃないかという説もあるらしい。ここまで見てきた個性的な面々からして、穆泰墓の俑は大量生産された画一的な工業品ではなく、具体的なモデルがいたものと思われるが、この俑のモデルが本当に女性だったらめちゃくちゃ失礼な学説だな。

 f:id:ano_hacienda:20180114153958j:image

 GANTZにいませんでしたっけ…? f:id:ano_hacienda:20180114154544j:image

 

 f:id:ano_hacienda:20180114154653j:image

 はじめて見た跪拝俑。墓主の死を悲しむさまを象ったのかと思いきや、鎮墓獣(今回は出品されてないが穆泰墓からも出土しているとのこと)や武人俑と同じく墓室の入口付近において墓を守る役目があるらしい。

 

最後に穆泰墓誌。 f:id:ano_hacienda:20180114154752j:image

 f:id:ano_hacienda:20180114154849j:image

 穆泰について、今回の展示の資料映像では、馬の俑を紹介してから、彼が授かった「游撃将軍」の職務に馬が資したのではないかという趣旨のナレーションが流れていたが、これはただの武散官(従五品下)なので職務とは関係がない

 墓誌にあらわれる彼の職について、勲官である「上柱国」(正二品)を除き、「行慶州洪徳鎮副将」、「霊州河潤府左果毅都尉」、「豊安軍副使」、「定遠城大使」を歴任したことがうかがえるが、豊安軍や定遠城は霊州の域内、屈曲部へ達する前、北流する黄河の外側(西側)に設置された軍鎮である。慶州の「洪徳鎮」については未詳だが、宋代の陝西路の環州に「洪徳砦」という対西夏の最前線の砦があったらしく、まあ、あれだ、きっとその辺だ。

 また、穆泰には霊州の折衝府に属していたと思しき肩書(霊州河潤府左果毅都尉)もあるが、彼が没したのは開元17年(729)のことであり、府兵制が崩壊していく時期に活動していたと考えられることから、実際には豊安軍や定遠城といった軍鎮の将校として辺防にあたっていたのではないか。

 さて、資料映像で示唆されていた馬との関わりについていえば、穆泰は鮮卑の血を引くものと考えられているらしく、おそらく漢化はしていただろうが、関内道中部に位置する慶州という土地に生まれ、周辺に監牧が設置され、西北辺防衛の要衝であった霊州で活動していることから、実際に馬とは縁が深かったのかもしれない。また、誌文中で後漢の耿恭や前漢の李広利ら対匈奴戦線で活躍した将軍に擬せられていることからも、突厥などの遊牧民族に対する辺防に従事した生涯であったことが読み取れる(わかったようなことを書いているけど工具書がないので墓誌は精読できません)。

 ちなみに穆泰の家系については「隴西天水」を本貫とし、曾祖父の「安」は「豪州司馬」、父の「表」は「任州録事参軍」とのことで、「豪州」は新旧唐書にも見えるがどこに設置されたかは未詳の州で、「任州」という地名は管見の限り他に例を見ないが、「州録事参軍に任」ぜられたと読めば、穆氏が居住していたと思しき慶州、または本貫の天水郡つまり秦州、はたまた穆安の任官後に豪州に住み続けていたならば当地の録事参軍に任ぜられたのかもしれない(穆安の肩書が「曽祖諱安、上(護)(軍)、任豪州司馬」と表記されているので、穆表の「任州録事参軍」も「任州」の録事参軍ではなく、「州録事参軍」に冠する州名が抜けたものと考えられる)。

 ただ、素人考えだが、穆安と穆表の官職はどちらも穆泰の功績による後の贈官ではないだろうか。二人の事績については、墓誌にありがちなことだが空疎な美辞麗句で治績を讃えるだけで具体性に乏しい。また、穆泰自身がゴリゴリの武人であり(彼の子も朔方軍に出仕している形跡がうかがえる)、遊牧系武人の家系では代を経るごとに漢化して文官を輩出するようになる傾向があるが、穆氏が鮮卑系である確証はないものの、ここではその流れが逆転している点が不自然に見える。そもそも穆泰の出自について、鮮卑説を提唱した李鴻賓論文を読んでいないため当否の判断ができないが、ソグド姓のひとつに数えられる穆姓を冠し、これだけ大量の胡人俑が埋葬されていたことから、個人的には穆泰自身がソグド系である可能性も考えたくなるのだが、今回の展示ではその点については一切指摘がなかったため、考えすぎかもしれない。そもそも穆姓を冠するソグド人の例が極端に少ないので(少なくとも石刻史料では未確認のはず)、判断は慎重にすべきだろう。いずれにせよ穆氏は非漢族的雰囲気を濃厚にまとった一族で、穆泰も辺防に非漢人将領を起用する唐朝の政策によって歴史の表舞台へ躍り出た、いわゆる「蕃将」だったのかもしれない。

 しかし決して高位とはいえない(従五品下)、いわば「いなか侍」のような武人であった穆泰の墓から出土した胡人俑たちがこれほど精彩に富み、紋切り型の大量生産品とは一線を画する豊かな個性に溢れていることは驚異的だ。河西回廊・漠北・山西・長安を結ぶ交通の要衝であり、多くのソグド人が通交・居住する霊州で活動し、そこから長安へ南下するルート上に位置する慶州に起居していたことからも、穆泰は日常的に、胡人俑で描かれたような多種多様な「胡人」たちと接していたのだろう。そして場合によっては彼自身も「胡人」だったのかもしれない。

  唐代胡人俑展は、個性豊かな胡人俑の写実性に驚き、オルドス周辺で活動していた武人の生活に思いを馳せられる、とても充実した内容だった。3月まで開催しているらしいので、唐代やソグド人に興味のある人はぜひ行くべき。