壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

ソグド系ウィグル武人の肖像―五代人物伝(1)何重建

 唐末五代の代北に勢力を伸長し、のちに後唐を建国した李克用父子率いる沙陀集団には多数のソグド系武人が存在したことが夙に指摘されているが、森部豊氏の一連の論著で取り上げられるように、彼らの淵源としては唐代にオルドスに設置された突厥遺民の羈縻州である六胡州の突厥化したソグド人(いわゆる六州胡)が有力視されている。

 沙陀集団に六州胡由来のソグド系武人が多数存在したことは確かであろうが、後晋高祖石敬瑭の祖先である石璟のように、沙陀が代北へ東遷する以前から従っていたソグド人も存在しており(沙陀系王朝が華北を支配していた五代では、『旧五代史』康福伝に見えるように、古くから沙陀と関わりがあるほど門族が高いとみられていた形跡があり、石敬瑭の太原石氏についても家門に箔をつけるために古くから沙陀に従属していたと詐称していた可能性もある)、実際には彼らソグド系武人の出自は多様である。

 その一例として、何重建(彼が仕えた後晋の少帝石重貴の諱を避け、のちに何建と改名)を取り上げよう。

『旧五代史』巻九十四・晋書二十・何建伝

 何建、其先迴鶻人也。代居雲・朔間。祖慶、父懷福、俱事後唐武皇為小校。建少以謹厚隸於高祖帳下、以掌廐為役、及即位、累典禁軍。遙領驩・睦二郡。天福中、自曹州刺史遷延州兵馬留後、尋正授旄鉞。數年之間、歷涇・鄧・貝・澶・孟五鎮節度使、累官至檢校太傅。開運三年、移鎮秦州。是冬、契丹入汴、戎王遣人齎詔以賜建、建憤然謂將吏曰「吾事石氏二主、累擁戎旃、人臣之榮、亦已極矣。今日不能率兵赴難、豈可受制於契丹乎!」即遣使齎表與其地送款於蜀、孟昶待之甚厚、偽加同平章事、依前秦節度使。歲餘、移閬州保寧軍節度使、加偽官至中書令、後卒於蜀。

 何姓はクシャーニャ(何国)出身のソグド人が中国において称した姓(ソグド姓)であり、ウィグル人(迴鶻人)でありながらソグド姓を冠する何重建の家系についてもソグド系であると考えられる。先祖はウィグル人で代々雲州・朔州に居住していたとあるが、おそらくこれはウィグル内部にコロニーを形成していたソグド人が唐朝の北辺に内附したものであろう。

 突厥、ウィグル、吐谷渾など、当時の遊牧勢力にはブレーンとしてソグド人が存在しており、ソグド語が国際共通語として機能していた東ユーラシアでは外交官としても活躍していた。彼らはソグド人特有のネットワークや折衝能力から外交・交易に従事するだけでなく、遊牧民のなかで生活することで騎射技術を習得し、遊牧武人化する傾向があった。森部氏が六州胡のように突厥内部にコロニーを形成して遊牧武人化したソグド人を「ソグド系突厥」と称したように、当時の遊牧勢力にはソグド系ウィグル、ソグド系吐谷渾ともいうべき遊牧武人化したソグド人が多数存在したと考えられる。

 何重建の祖先もおそらくはそういった遊牧武人化したソグド系ウィグルであったのだろう。祖父の何慶、父の何清福がともに武人(「小校」)として李克用に仕えており、何重建自身も石敬瑭の旗下で厩の管理をしていることから、彼の代まで遊牧武人的性格を維持し、馬の扱いに習熟していたと考えられる。『九国志』には「重建初事晉祖為奉德馬軍都指揮使。」とあり、後晋の禁軍のひとつである奉徳軍で馬軍を率いていたようだ。

 その後、何重建は禁軍軍将として中央にありながら驩州・睦州の刺史を遥領し(驩州は南漢、睦州は呉越の版図のため名目的なものであった。五代の禁軍軍将や藩鎮牙将には、彼らの地位が州長に相当することを示す名誉職として州刺史を遥領する事例が多い)、曹州防御使として地方へ転任したのち、天福7年(942)、彰武軍留後となるが、その経緯は以下のとおりである。

資治通鑑後晋紀四・高祖・天福七年の条

 彰武節度使丁審琪、養部曲千人、縱之為暴於境內、軍校賀行政與諸胡相結為亂、攻延州、帝遣曹州防禦使何重建將兵救之、同・鄜援兵繼至、乃得免。二月、癸巳、以重建為彰武留後、召審琪歸朝。重建、雲・朔間胡人也。

 当時の彰武軍節度使の丁審琪の横暴から、部将の賀行政が彰武軍管内の「諸胡」と結託して叛旗を翻すが、曹州防御使であった何重建がこれを鎮圧し、丁審琪更迭後に留後として彰武軍を預かることになる。何重建は「謹厚」と評されたその性格のせいもあろうが、善政を敷いて民衆を安んじたため(『九国志』には「下車諭以威福、邊民安堵、就加彰武軍節度使。」とある)、のちに正式に彰武軍節度使を拝命するのだが、オルドスに設置された延州の反乱鎮圧と丁審琪の後任に、遠く河南の曹州にいた彼がわざわざ選ばれた理由として、ソグド系ウィグルの血を引くことが挙げられないだろうか。

 唐代では「胡」はソグドを意味する用例が多く、彰武軍管内の「諸胡」とはソグド人を指す可能性がある。また、彰武軍の治所である延州には唐朝に内附したウィグルの白霫部などが安置されており、「諸胡」にウィグルを含む場合、何重建のソグド系ウィグルという血統が、彼らの統治に資すると期待されたのではないだろうか。

 『新唐書』巻二百一十七上・回鶻伝上

 帝更詔時健俟斤它部為祁連州、隸靈州都督、 白霫它部為居延州。

 また、唐代の延州には種族は不明ながら「安塞軍」という軍鎮に組織された非漢族部落があり、「諸胡」がこの末裔である可能性も考えられよう。無論、この「蕃落」がウィグルであった可能性も否定できない。

旧唐書』巻十三・徳宗本紀下・貞元十年三月の条

 辛丑、以延州刺史李如暹所部蕃落賜名曰安塞軍、以如暹為軍使。

 

 以上のように何重建の半生から遊牧武人的・ウィグル的特質を垣間見てきたが、彼ら何氏を輩出した雲州・朔州のウィグルは、そもそもどういった経緯でこの地へ移住してきたのだろうか。

『旧五代史』巻五十三・唐書二十九・李存信伝

 李存信、本姓張、父君政、迴鶻部人也。大中初、隨懷化郡王李思忠內附、因家雲中之合羅川。存信通黠多數、會四夷語、別六蕃書、善戰、識兵勢。

 李克用の有力仮子のひとりである李存信(もとの姓名は張汚落)の父・張君政もウィグル部の人であり、大中年間(847~859)の初めに懐化郡王李思忠に従って唐に帰順、雲中郡(雲州)の合羅川に居住したという。李思忠はもとの名を嗢沒斯といい、ウィグルのテギン(王子)であったが、ウィグル可汗国の崩壊により開成5年(840)に唐へ帰順し、その一族を雲州・朔州の間に安置されており、張君政や何氏のルーツはこのウィグル遺民と考えられよう。

新唐書』巻二百一十七下・回鶻伝下

 嗢沒斯請留族太原、率昆弟為天子扞邊、帝命劉沔為列舍雲・朔間處其家。

 沙陀集団はこのように嗢沒斯率いるウィグル遺民にルーツを持つウィグル系遊牧武人も内包しており、多様な種族から構成されていたことがわかる。李存信が「四夷語」を理解し、「六蕃書」を使い分けられたというマルチリンガルだったことからも、彼の育った代北が多種族混淆の地であったことがうかがい知れるが、想像をたくましくすれば、出自を同じくする上にソグドの血を引く何重建にも同様の能力が期待され、「諸胡」が跋扈する延州の反乱鎮圧と統帥を任されたのではないだろうか。

 

 さて、後晋は少帝(出帝)が即位し、対契丹強硬路線を貫いたため、度重なる契丹の侵攻を招くこととなった。何重建は彰武軍節度使から涇州・鄧州・貝州・澶州・孟州の節度使を歴任しつつ、対契丹の防衛戦にも従事していたが、開運3年(946)には対契丹前線からは遠い陝西の秦州節度使に転任する。この年の冬にみやこ開封契丹により陥落、少帝も北方へ連れ去られ、後晋は滅亡するのだが、各地の節度使契丹の招撫に続々と応じるなか、「私は石氏二主に仕え、節度使として人臣の位を極めた。今日の難を救えず、どうして契丹の制を受けられようか」と憤り、秦州をあげて後蜀に帰順してしまう。石敬瑭の子飼いとして立身したためか、裏切りの横行する五代では珍しく忠節を貫いた何重建だったが、亡命先の後蜀で重用されつつも当地で没しており、ソグド系ウィグル武人というその個性をつくりあげた故地へ帰ることは二度となかったのである。