壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

管崇嗣の放埓~安史の乱点描(1)

 遊牧世界と農耕世界にまたがる新王朝を樹立せんとする強大な北方のカリスマ安禄山と史思明の反乱により帝都長安は陥落、老いた玄宗は愛する楊貴妃を縊り殺して蜀へ落ちのび、父や楊氏一門と確執をかかえる皇太子・李亨は、長安回復の兵を集めるため父と袂を分かち、わずかな供回りをつれて朔風吹きすさぶオルドスの霊武をめざした。潼関の戦いで主力軍が壊滅した唐朝では、この北辺の地に駐屯する朔方軍がまとまった兵力としては最大のものであったからだ。

 霊武で即位した皇太子(粛宗)のもとに馳せ参じるは、朔方軍をひきいる人格・戦歴ともにすぐれた名将・郭子儀、彼によって派閥をのりこえ抜擢された教養ゆたかな契丹族の驍将・李光弼、ウィグルと婚姻関係をむすび援兵を借りた功労者にして、のちに叛旗をひるがえすことになる反骨のテュルク系武人・僕固懐恩、粛宗の幼なじみで嵩山に隠遁していた天才軍師・李泌、と多士済々。これもうアルスラーン戦記だろってくらいに設定がアツい。

 しかし現実の亡命政権ダリューンナルサスのような少数精鋭で成り立つはずがなく、粛宗の行在にはどうしようもない人材もいたようだ。

 

旧唐書』巻131 李勉伝

 至德初、從至靈武、拜監察御史。屬朝廷右武、勳臣恃寵、多不知禮。大將管崇嗣於行在朝堂背闕而坐、言笑自若、勉劾之、拘於有司。肅宗特原之、歎曰「吾有李勉、始知朝廷尊也。」

 至徳の初年(756)、李勉は粛宗に従って霊武に赴き、監察御史に任ぜられた。ときに朝廷は武事を尊んでいたので、功績ある将軍たちは君寵を頼んで無礼な者が多かった。大将の管崇嗣は行在の朝堂において宮闕に背中を向けて座り、のんびり談笑していたので、李勉はこれを弾劾し、有司に身柄を拘束させた。粛宗は特別にこれを赦して、嘆息した。「わたしは李勉がいることで、はじめて朝廷の尊厳を知ったぞ」

 

 礼儀知らずの放埓な将軍である管崇嗣。オルドスのいなかに立てた朝廷では、ほんらい朝廷にあるべき厳粛さも綱紀もなく、力がものをいい、粛宗を護衛してきた彼のような土くさい武人たちが幅を利かせていたのだろう。

 粛宗の亡命政権は当初、朔方軍のほかには、側近宦官の李輔国のように長安脱出時から彼に付き従う者や、玄宗と袂を分かったときにわけあたえられた兵、霊武におちつくまでに合流してきた潼関の戦いの敗残兵などから成る寄り合い所帯なので、当然人材も払底しており、粗野で無礼であろうとも実力のある武官は重宝されていたようだ。

 管崇嗣は新旧唐書に立伝されていないため詳細な経歴は不明だが、潼関の戦いの際、哥舒翰の部将として名が見えるので、河西か隴右、または朔方いずれかの藩鎮のそれなりの地位にある軍将だったのだろう。また、火抜帰仁以下の「蕃将」と区別されているため、辺境で戦ってきた野人のような男ではあるが、漢人であることが確認できる。

 

旧唐書』巻104 哥舒翰伝

 及安祿山反、上以封常清・高仙芝喪敗、召翰入、拜為皇太子先鋒兵馬元帥、以田良丘為御史中丞、充行軍司馬、以王思禮・鉗耳大福・李承光・蘇法鼎・管崇嗣及蕃將火拔歸仁・李武定・渾萼・契苾寧等為裨將、河隴・朔方兵及蕃兵與高仙芝舊卒共二十萬、拒賊於潼關。

 安禄山の反乱に際し、玄宗は封常清、高仙芝が敗れると、哥舒翰を召して、皇太子の先鋒兵馬元帥に任じ、田良丘を御史中丞として行軍司馬に充て、王思礼、鉗耳大福、李承光、蘇法鼎、管崇嗣および蕃將の火抜帰仁、李武定、渾萼、契苾寧らを部将として、河西・隴右節度使や朔方節度使の兵及び蕃兵、高仙芝の残兵あわせて二十万の大軍をひきいて、潼関で賊を防がせることにした。

 

 潼関の戦いで敗れて逃げ帰ったのち、粛宗の行在へ合流したのだろう。管崇嗣の行在でのふるまいを見ると、彼が属していた蕃漢入り混じる荒々しい武弁だらけの辺境藩鎮では、節度使に対してかしこまった礼儀もなく、集まればみな自由に戦功を誇ったりゲラゲラ大笑いしていたのかもしれないし、そちらの方が礼儀に縛られた朝廷より人間らしい気もする。

 しかし管崇嗣の粗相はこれだけでない。

 兵力を蓄えた粛宗政権が行在を霊武から長安に近い鳳翔へ移し、いざ出兵というときに、またしても失敗してしまうのだ。

 

旧唐書』巻128 顔真卿

 元帥廣平王領朔方蕃漢兵號二十萬來收長安、出辭之日、百僚致謁於朝堂。百僚拜、答拜、辭亦如之。王當闕不乘馬、步出木馬門而後乘。管崇嗣為王都虞候、先王上馬、真卿進狀彈之。肅宗曰「朕兒子每出、諄諄教誡之、故不敢失禮。 崇嗣老將、有足疾、姑欲優容之、卿勿復言。」乃以奏狀還真卿。

 天下兵馬元帥である広平王俶が朔方軍の二十万と号する蕃漢の兵をひきいて長安を回復することになり、出陣の日、百官が朝堂で拝謁した。百官が拝礼し、王が返礼する。あいさつはこのように進んだ。宮闕を出るにあたり王は馬に乗らず、歩いて木馬門を出て、そののち乗馬した。管崇嗣は王の都虞候であったにもかかわらず、王より先に馬に乗ったため、顔真卿は上奏してこれを弾劾した。粛宗は「朕の子どもたちには、宮外に出ることがあるたびに諄々と教誨していたので、あえて礼を失わなかったのだろうが、崇嗣は老将で足も悪い。しばらく見逃してやってほしい。卿はもう言上しないでくれ」といって、弾劾文を顔真卿へ差し戻した。

 

 粛宗の長男でのちに代宗となる広平王の出陣の儀の一場面。都虞候は藩鎮機構におけるMPのような軍職であり、当然、広平王ひきいる行営軍でも中枢に位置していたであろうから、立場上ありえない非礼である。しかし霊武から自分に付き従ってくれている、この粗野ではあるが、苦楽をともにした忠実な将軍に、粛宗はずっと目をかけていたのだろう。御史大夫として唐朝の権威に泥をぬるような人物に目を光らせる顔真卿の弾劾をかわす言辞にも、管崇嗣へのいたわりが感じられる。

 

旧唐書』巻120 郭子儀伝

 上元元年九月、以子儀為諸道兵馬都統、管崇嗣副之、令率英武・威遠等禁軍及河西・河東諸鎮之師、取邠寧・朔方・大同・橫野、徑抵范陽。詔下旬日、復為朝恩所間、事竟不行。

 上元元年(760)九月、郭子儀を諸道兵馬都統、管崇嗣をその副官とし、英武軍・威遠軍などの禁軍や河西・河東の諸藩鎮の兵をひきいて、邠寧節度使・朔方軍・大同軍・橫野軍を経て、ただちに范陽を衝かせようとした。詔が下ってすぐに、また魚朝恩に阻害され、さたやみとなってしまった。

 

 史思明の勢力が盛り返してきた時期、官軍の実質的総大将の任を解かれていた郭子儀に再び天下の兵をひきいさせ、その副官には管崇嗣を添えて、史思明の本拠地である范陽を衝かせようと企図していたことからも、粛宗がいかに彼を重視していたかがわかる。

 翌上元二年(761)、哥舒翰の旧将から粛宗の亡命政権へ合流し重用されるという管崇嗣とよく似た経歴の(しかしずっと出世している)王思礼が、史思明に対する北の抑えたる河東節度使として太原に鎮していたが、その死没にともない、後任として管崇嗣が抜擢される。

 

旧唐書』巻111 鄧景山伝

 太原尹・北京留守王思禮軍儲豐實、其外又別積米萬石、奏請割其半送京師。屬思禮薨、以管崇嗣代之、委任左右、失於寬緩、數月之間、費散殆盡、唯存陳爛萬餘石。上聞之、即日召景山代崇嗣。及至太原、以鎮撫紀綱為己任、檢覆軍吏隱沒者、眾懼。有一偏將抵罪當死、諸將各請贖其罪、景山不許、其弟請以身代其兄、又不許、弟請納馬一匹以贖兄罪、景山許其減死。眾咸怒、謂景山曰「我等人命輕如一馬乎?」軍眾憤怒、遂殺景山。

 太原尹・北京留守の王思礼の軍資は豊富で、そのほかに別に一万石もの米穀をたくわえており、その半ばを割いて京師に送りたいと奏請していた。たまたま思礼が没し、管崇嗣がこれに代わってからは、側近にすべて任せ、軍政が寛容に過ぎたため、数ヶ月で軍資をほとんど浪費してしまい、ただ腐った米穀だけが一万余石残された。粛宗はこれを聞いて、すぐに鄧景山を召し出して崇嗣の後任とした。景山は太原に至るや、綱紀の粛清に奔走し、軍資を隠匿する軍吏を検断したため、みな懼れた。ある部将は死罪に値する罪をおかしていたが、諸将がみな彼の罪を贖うことを望んでも景山は許さず、その弟が兄の身代わりに処刑されることを求めてもまた許さなかったが、弟が兄の贖罪として馬一頭を納めたいと願うと、景山は死罪を減ずることを許した。みな怒り、景山にいった。「われらの人名は一頭の馬のように軽いのか!?」士卒は激怒し、ついに景山を殺してしまった。

 

 何かにつけルーズな管崇嗣は、前任者が余剰分を京師へ仕送りしようとしていた軍需物資の扱いを側近に任せ、盛大に放出してしまう。藩鎮士卒に横流しされ、あっという間に底を尽いてしまったので、さすがの粛宗も彼を更迭し、廉直な節度使経験者である鄧景山をこれに代えた。礼儀に縛られない放埓な武弁である管崇嗣とは対極の四角四面で倹約家の文臣である。しかし厳酷で人を人とも思わないような景山の軍政は、軍士の支持を失い、兵変を招くことになってしまう。

 管崇嗣に節度使としてすぐれた資質があったわけではないが、彼は長年辺境の藩鎮にいただけあって、その軍士たちの気質を知りぬいていた。否、彼の放埓、粗野、驕慢こそが藩鎮軍士たちの気質を体現していたために、巧みに彼らの意を迎え、軍政は弛緩すれども、その命だけはまっとうしたのだろう。

  更迭後の管崇嗣については、粛宗を継いだ代宗が、安史勢力の最後の巨魁である史朝義の追討について禁軍幹部に諮った際に登場するのが最後である。

 

新唐書』巻225上 逆臣伝上 史朝義条

 代宗召南北軍諸將問所以討賊計、開府儀同三司管崇嗣曰「我得回紇、無不勝。」帝曰「未也。」右金吾大將軍薛景仙曰「我若不勝、請以勇士二萬椎鋒死賊。」帝曰「壯矣!」

 代宗が南北の禁軍諸将を召して史朝義を討つ軍略を諮った。開府儀同三司の管崇嗣は「わしはウィグルの援兵さえ得れば、勝たぬことはありませんな」といい、帝は「ないのう」と応えた。右金吾衛大将軍の薛景仙は「わたしはもし勝てねば、勇士二万人をひきいて突撃し賊を殺してみせましょう」と豪語し、帝は「いさましいことよ!」といった。

 

 管崇嗣の提案もいまさらだし、代宗の返答もほかに比べてぞんざいである。注目したいのは、これは禁軍の幹部への諮問であり、薛景仙の肩書は「右金吾(衛)大将軍」という禁軍の職事官だが(なお、この後におなじ「右金吾大將軍」の「長孫全緒」も返答しており、どちらかは「左」金吾衛大将軍の誤りではないかと思う)、管崇嗣の肩書が従一品の文散官である開府儀同三司である点だ。禁軍で実際に軍職に就いていなかったのか。散官もなぜ武散官ではないのか。

 苦難の時代を支えたことから粛宗には寵愛されたが、たいした実績もなく、人柄も厳粛な朝廷には相応しくない管崇嗣は、代宗の御代には軍事の実権はあたえられず、位階だけ進めて形ばかりの元老として、腫れ物のように扱われていたのではないか。

 これは僕の妄想でしかないが、伝世史料中に残るわずかな管崇嗣の記事を追っていくと、かつてオルドスの朔風吹き抜ける行在で笑声に揺らした背中を丸め、悄然と宮中を歩く老人の姿を見るような思いがするのである。