壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

長安独身男子

 高橋一生らがアラフォー「AK(あえて結婚しない)男子」を演じる深夜ドラマ『東京独身男子』が好評のようだ。

 アラフォーとまではいかないが、僕もおなじ30代独身男子(って歳か)として、興味深く見てるんだけれど、時代錯誤な90年代トレンディドラマ風のスカした主人公たちの生活環境とハイスベックぶり(高級マンション住み、職業は銀行員、開業医、弁護士)にまったく共感できない。あと3人とも基本モテる点も共感できない「笑顔が高橋一生に似てる」と言われた僕も、もうちょっとモテてもいいんじゃないですかね…。

 『逃げ恥』以降だろうか?『東京タラレバ娘』やら『私 結婚できないんじゃなくて、しないんです』やら、晩婚化・非婚化をテーマにした恋愛ドラマが目立つようになってきたと思う。単に自分がそういう年代になったので、目につくようになったのかもしれないが、晩婚(または非婚)は2010年代の恋愛ドラマのトレンドのひとつといってよいだろう。

 現実的にも自分の周りには(自分も含めて)結婚しない・できないアラサーは男女問わずけっこう多い(とくに男)。おとなりの中国では一人っ子政策の反動で、男子ばかり増えた農村部には嫁のなり手がおらず、ミャンマーなど東南アジアから嫁を「輸入」しているという惨状らしい。

 こういった晩婚化・非婚化は現代特有の課題かというとそうではなく、唐代中国でも問題化していたようで、かの大詩人・白居易も、諷喩詩と呼ばれる一連の社会問題を批評した詩で当時の晩婚化の弊害をうたっている。

 

贈友五首 其五

  三十男有室、二十女有歸。
  近代多離亂、婚姻多過期。
  嫁娶既不早、生育常苦遲。
  兒女未成人、父母已衰羸。
  凡人貴達日、多在長大時。
  欲報親不待、孝心無所施。
  哀哉三牲養、少得及庭闈。
  惜哉萬鍾粟、多用飽妻兒。
  誰能正婚禮、待君張國維。
  庶使孝子心、皆無風樹悲。

 

友に贈る五首 其の五

  三十にして男に室有り、二十にして女歸(とつ)ぐ有り。

  近代 離亂多くして、婚姻 多く期を過ぐ。

  嫁娶 既に早からず、生育 常に苦(はなは)だ遲し。

  兒女 未だ成人せざるに、父母 已に衰羸す。

  凡そ人の貴達する日、多く長大の時に在り。

  報いんと欲すれども親待たず、孝心 施す所無し。

  哀しいかな 三牲の養、庭闈に及ぶを得ること少なし。

  惜しいかな 萬鍾の粟、多くは用って妻兒を飽かしむるのみ。

  誰か能く婚禮を正さん、君を待ちて國維を張り、

  庶(ねが)はくは孝子の心をして、皆 風樹の悲しみ無からしめん。

 

 『礼記』で記されるように男は30歳、女は20歳で結婚するのが古代のしきたりであったが、白居易の生きた時代には戦乱が相継いだためか、多くの男女が婚期を逃していたという。結婚が遅れれば子育ても当然遅くなる。すると子どもが成人しないうちに父母は老いおとろえ、成長して出世したときには親はもうこの世におらず、孝行したいときに親はなし、という事態に陥ってしまう。りっばなごちそうを親に供することができる者は少なく、ただ妻子にぜいたくさせるばかりである。この惨憺たる結婚事情を正すことができるのは誰か。それは白居易がこの詩を送る友人「君」である。白居易は願う。「君」よ、国家の綱紀をひきしめ、天下の孝子に親を亡くす悲しみをあたえないようにしてくれたまえ、と。

 僕は全然孝行息子ではないのだが、なんだかすごく身につまされる内容である。

 この「友に贈る五首」は、両税法の弊害や、江南における金銀採掘ブームで農民が農地を放棄して浮浪化するなど、当時の社会問題をとりあげて、それを解決できるのは「君」だけだ、と友人たちを鼓舞する連作なのだが、白居易の目には晩婚化がそれらと同列の社会問題として映っていたのである。耕作地放棄とか晩婚・非婚による少子化とか、現代日本の地方社会の問題にも通じるな。もう街コン業者に補助金出せよってレベル。ホワ〇トキー呼べよ。

 ちなみに白居易自身も結婚は元和3年(808)、37歳のときで晩婚である。「友に贈る五首」の制作年は朱金城『白居易集箋校』では元和10年(815)説、岡村繁『白氏文集 一』(新釈漢文大系第97巻)では元和4~5年(809~810)説を説いているようで、どちらにせよ結婚後を想定しているようだ。まあ、独身のときにうたっていたら僻みに聞こえるしね…。

 当時の晩婚化の原因として、白居易は「離亂」すなわち戦乱を指摘しており、たしかに彼の生きた時代には各地で藩鎮の反乱や吐蕃ら外敵の侵攻などがあったが、ほんとうにそれだけが原因かというと、ちょっと疑わしい。

 白居易のような科挙官僚層については、科挙合格後に出世の手段として朝廷の高官や名門と婚姻を結ぶ(そしてそれまで付き合っていた彼女は捨てる)ケースが多く、実際に白居易の妻も弘農楊氏という名門の出である。科挙は難関であり、「五十少進士(五十で進士はわかいうち)」とうたわれたように及第が遅れることによって、彼らは自然と晩婚になったのではないか。

 白居易は貞元16年(800)、進士科に及第したのち、同19年(803)に吏部が主催する書判抜萃科に合格し、秘書省校書郎に任官、官界デビューを果たす。このとき32歳だが、これでも早い方だったようだ。名門・弘農楊氏との婚姻はこの5年後である。吏部試験の同期合格者で、のちに白居易無二の親友となる元稹はさらに若く、このとき若干25歳。おなじく秘書省校書郎となったこの年に、これも名門である京兆韋氏から妻を迎えている。

 要するに白居易ら唐代の科挙官僚層は、時代を先取りした科挙に及第するまではAK(あえて結婚しない)男子」であり、晩婚化社会の一翼を担っていたのである。え、白居易、どの口で晩婚化が問題だなんていってんの?