壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

南楚覇王補遺~安史の乱点描(3)

 以前、安史の乱に紛れて襄州で「南楚の覇王」を称して自立割拠したソグド系武人・康楚元について記事を書いた。
ano-hacienda.hatenablog.com

 このときは楚元のルーツについて、交通の要衝である襄州に集住したソグドの一族から軍士として出仕したものと推測したが、先日、たまたま章群『唐代蕃将研究』(聯經出版事業公司、1990)を読んでいると、康楚元の出自について「六州胡」である可能性が指摘されていたので紹介する。

 突厥第一可汗国の崩壊後の調露元年(679)、唐朝がオルドスの霊州域内に突厥遺民を安置するために設置した六つの羈縻州を「六胡州」と総称するが、六州胡とはそこに住むソグド系の住民を指す。彼らは突厥内部でコロニーを形成し、騎射技術の習熟など遊牧文化の影響を受けて突厥化した、いわゆる「ソグド系突厥」であったとするのが現在の通説である。*1

 六胡州は、唐朝にとっては復興した突厥第二可汗国との間の緩衝地帯であり、軍馬の供給地としても重視されていたが、唐朝の統治政策の失敗(軍馬の収奪や重税など諸説ある)により、開元九年(721)から翌十年にかけて、康待賓や康願子といったソグド系のリーダーを擁する反乱を招いてしまう。この六胡州の乱の鎮圧後、唐朝は反乱の母体となった六州胡の河南・江淮への徙民政策をとる。

資治通鑑』巻212 唐紀28 玄宗開元十年(722)の条

 康待賓餘黨康願子反、自稱可汗。張說發兵追討擒之、其黨悉平。徙河曲六州殘胡五萬餘口於許・汝・唐・鄧・仙・豫等州、空河南・朔方千里之地。

 康待賓の残党である康願子が反乱を起こし、可汗を自称した。張説は兵を発してこれを追討し擒らえ、その党類を悉く平定した。河曲六州の残胡五万余口を許・汝・唐・鄧・仙・予等州に移し、黄河の南方、朔方の千里の地が空くことになった。

 唐朝の監牧が多く設置され、生業であった馬の飼養に適したオルドスを追われた六州胡たち。彼らは再び結集して反乱を起こすことのないよう、河南から江淮にかけての広範囲に散り散りに徙民されたようだ。六胡州も土地ではなく人間集団(この場合はソグド系突厥コロニーか)に対して設置された羈縻州と考えられるので、この時点で解体されたのだろう。しかし、移住先になじめず関内の諸州へ逃亡するものがいたため、16年後の開元二十六年(738)、故地に宥州を新設し、そこに再度移住させることになった。

資治通鑑』巻214 唐紀30 玄宗開元二十六年(738)の条

 壬戌、敕河曲六州胡坐康待賓散隸諸州者、聽還故土、於鹽・夏之間、置宥州以處之。

 壬戌の日、河曲六州の胡人で、康待賓の乱に連座し、散らばって諸州に隷属させられていた者に勅を与え、故郷に帰ることを許し、塩・夏州の間に宥州を置き、ここに居住させた。

 こうしてオルドスに帰還した六州胡たちは、その後、安史の乱に合流するものや、朔方節度使など在地の藩鎮機構に吸収されるもの、代北へ移住して沙陀に合流するものなど、さまざまな経緯をたどったが、章氏は、すべての六州胡が北帰したわけではなく、彼らの移住先のひとつである鄧州が、康楚元の出仕した襄州の北隣にあることから、楚元も当地に残留した六州胡の出身ではないかと推測している。史料上では中唐以降、江淮地方にソグド人が多く見られるようになるが、その一因として六州胡の徙民政策をあげているのである。

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中国歴史地図集/唐代/山南東道・山南西道

 鄧州も襄州節度使の管轄内であり、安史の乱が勃発し、軍備の増強に迫られた襄州節度使が、オルドスへ北帰せず管内に残っていた剽悍な六州胡やその後裔たちを藩鎮牙軍に組み込もうと考えてもふしぎではないだろう。史料によっては康楚元を「大将」と記しているので、藩鎮内では高位の軍将だったに違いない。

 安史軍残党が乱後の河北に創建した藩鎮魏博において、馬軍増強のためオルドスからソグド系突厥リクルートした結果、そのソグド系武人集団が藩鎮牙軍内部でヘゲモニーを握り、自集団から節度使を輩出するようになったことは、森部豊氏の一連の研究で論じられているが、ほんらい外様であった六州胡出身と思しき康楚元が襄州の反乱軍のリーダーに擁されたのも同様の構図に見える。

 また、康楚元のルーツが六州胡にあるならば、旗下におなじく六州胡を抱えていた安史軍と連携していた可能性も濃厚になるだろう。六州胡は当初から安史軍に参加していたわけではなく、安史軍の部将であった阿史那従礼がオルドスへ出奔し、糾合したことから乱に合流したと考えられている。

資治通鑑』巻220 唐紀36 粛宗至徳二載(757)の条

 安慶緒之北走也、其大將北平王李歸仁及精兵曳落河・同羅・六州胡數萬人皆潰歸范陽、所過俘掠、人物無遺。史思明厚為之備、且遣使逆招之范陽境、曳落河・六州胡皆降。

 安慶緒が北走するや、その大将の北平王李帰仁およびその精兵の曳落河、同羅、六州胡ら数万人はみな范陽をめざして潰走し、行く先々で略奪をしたため、人も物も残らぬほどであった。史思明はこれへの防備をする一方で、使者を遣わして范陽の境界まで招いたため、曳落河と六州胡はみな降伏した。

 その後、六州胡は唐軍に敗れた安慶緒から史思明の傘下へと移動しており、史思明が安史軍のヘゲモニーを握ってから、その軍事行動に呼応するかのように、乾元二年(759)、襄州で康楚元が兵を挙げたのである。前回の記事で指摘したように、康楚元が安史軍と連携していたのならば、それは自身のルーツである六州胡とソグドネットワークによって結ばれていたからとも考えられる。

 地理的条件以外に確たる論拠のない康楚元六州胡出身説だが、これが実証されれば、理念が先行しがちなソグドネットワーク論の補強材になりえるかもしれない。

*1:六胡州と六州胡については、そもそも六胡州は「唐人」を刺史としたと記す伝世文献から羈縻州ではないとする説もあり諸説紛々としているが、研究史を整理した論文として、李丹婕(中田裕子訳)「唐代六胡州研究論評」(『東洋史苑』65、2005)が、比較的最近の六胡州に関する研究成果を踏まえている上にアクセスしやすい論文としては、森部豊「八世紀半ば~十世紀の北中国政治史とソグド人」(森部編『ソグド人と東ユーラシアの文化交渉』勉誠出版、2014)がある。