靺鞨のなかのソグド人
『冊府元亀』外臣部の以下の記事が、文献上に見えるソグド人が他民族へ進出した最北端の事例ではないかと思ったので、メモを残しておく。
『冊府元亀』巻975 外臣部 褒異二 開元十五年条
二月辛亥、鐡利靺鞨米象來朝、授郎將、放還蕃。
二月辛亥の日、鉄利靺鞨の米象が来朝したので、郎将に任じ、帰国させた。
開元15年(727)には靺鞨諸族のうち鉄利部の入朝があったが、その使者はマーイムルグ(米国)出身のソグド人が中国において称する米姓の者であった。つまり鉄利に進出していたソグド人が朝貢の使者として唐に派遣されてきたのだろう。
日本に派遣された渤海の使者に安や史といったソグド姓を冠する者がいたことから、渤海にもソグド人が進出していたことが夙に指摘されているが*1、ソグドネットワークはさらにその北方、現在の黒竜江省からロシア沿海地方にかけて散在していた北部靺鞨諸族にまで延伸していたのだろう。エルンスト・V・シャフクノフが唱える「黒貂の道」論*2については眉唾な部分もあるが、ソグド人が北東アジアに足跡を残していたことだけは、この記事で例証されよう。