壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

博浪沙のはなし

 黄河の流域には沙地や沙丘が形成されることが多いという。

 黄河が運ぶ土砂は、氾濫のたびに沖積平原に堆積されていき、乾燥した土砂に強風が吹きつけると、細かい粒子だけが吹き上げられ、沙地や沙丘が形成される。この沙地について、大川裕子氏は、古代中国では「神秘的な霊力の存在を認め」られていたと指摘する。*1 

 春秋時代の会盟地として、丘・山・水辺などの土地が選定されることが多いが、これは会盟を監する神として、山川の鬼神の存在が関係していたためであり、沙地についても同様に会盟地に選択されることや、殷の紂王、趙の武霊王、秦の始皇帝らが崩じた沙丘平台が「権力者たちの滅びの場として語り継がれていた」と思しきこと、沙麓が崩れるという自然現象が災異として記録されたことなどを挙げ、沙地が「非日常的な要素を備えた自然」として認識されていたと論じている。

 

 この大川氏の指摘の当否は門外漢の僕にはわからないが、この視座に立って『史記』を読み返したとき、沙丘のほかにもうひとつ、有名な沙地が登場することに思いあたる。始皇帝暗殺未遂劇の舞台となった博浪沙である。

史記』巻55 留侯世家

 良嘗學禮淮陽、東見倉海君、得力士。為鐵椎重百二十斤。秦皇帝東游、良與客狙擊秦皇帝博浪沙中、誤中副車。秦皇帝大怒、大索天下、求賊甚急、為張良故也。

 

 張良は淮陽へ行って礼を学び、東行して倉海君に会い、大力の士を得た。鉄槌をつくり、その重さは百二十斤あった。秦の皇帝が東方に遊幸した際、良は客とともに博浪沙で秦の皇帝を狙い撃ったが、鉄槌は誤って副車にあたった。秦の皇帝は激怒し、大いに天下に犯人を捜索させ、追及は甚だ急だったが、それは張良のせいであった。

 秦に滅ぼされた韓の宰相の家系であった張良は、刺客を養い、巡幸途中の始皇帝の暗殺をはかる。舞台となった博浪沙は、河南の陽武県の南に位置する。同じく陽武県の南には、始皇帝が開いた鴻溝という運河が流れ、黄河と淮水とを繋いでおり、博浪沙もこの流域に形成された沙地であったのだろう。

 博浪沙という沙地で一命をとりとめた始皇帝だったが、のちに沙丘という、これは黄河の旧河道付近に形成された別の沙地で崩御する。彼の死は沙地とよくよく因縁があるようだ。

 しかし、これだけでは博浪沙ひいては沙地そのものに、当時の人びとが霊威を認識していたのかは判然としない。そこで秦漢代における他の沙地の事例を探してみると、武帝が巡幸しようとしていた万里沙という沙地が確認できる。

史記』巻12 孝武本紀

 是歲旱、於是天子既出毋名、乃禱萬里沙、過祠泰山。

 

 この年は旱魃であった。天子は出遊の名目がないので万里沙に祈ることとして、泰山に立ち寄ってこれを祠った。

 万里沙については、『史記集解』が引く応劭の注によれば「萬里沙、神祠也、在東萊曲城。」とあり、山東半島にある東萊郡曲成県(「城」は「成」の誤り)に存在する「神祠」のようだが、孟康の注によれば「沙徑三百餘里。」とのことなので、実際に沙地が存在したようだ。「三百里」は、広大さを表すレトリックであって実測値ではないのかもしれないが、仮に孟康が生きた魏の度量衡で換算すると、その直径はおよそ130㎞以上になり、東西16㎞ほどの我が鳥取砂丘とは比較にならない広さである。

漢書』巻28上 地理志8上 東萊郡

 曲成、有參山萬里沙祠。

 

 曲成(県)、参山の万里沙祠あり。

 『漢書』地理志によれば、万里沙祠は参山にあったとのことなので、山岳の鬼神を祀ったものとも考えられるが、その名称からすれば、やはり祭祀の対象は沙地の鬼神であったのではないか。渤海湾に臨む参山の麓に広がる広大な砂地。方術が盛んであった斉の人びとは、その大自然に霊威を認識していたのではないだろうか。

漢書』巻25下 郊祀志5下

又祠參山八神於曲城、…(後略)…。

 

また参山の八神を曲城(成)に祠り、…(後略)…。

 なお、のちに漢の宣帝も参山の「八神」を祭祀対象としているが、この「八神」とは、斉の地に伝わっていた天主、地主などの八つの神格で、山東半島北方の渤海湾に面した名山や、天斉、蚩尤などの鬼神を指すようで、始皇帝も東方巡幸の際に祀っている。このうちの第四を「陰主」といい、『史記』封禅書では「三山」としているが、「三」は「参」に通じることから、参山と考えられる。もともと斉のローカルな山川の鬼神が、秦の統一により中央の祭祀対象として回収され、その滅亡後は祭祀体系ごと漢に引き継がれているのである。

 万里沙祠が陰主たる参山を祀った祠なのか、あるいは漢代には参山からその麓に広がる万里沙まで祭祀対象を拡大していたものなのかは不明だが、漢代中期に至っても、沙地に霊威を認識していた人びとの記憶が連綿と受け継がれていたことがわかる。

 

 そうなると、博浪沙故事についても、鬼神の霊威が発揚される場である沙地という舞台設定が、どうにも出来すぎているように思える。同じ始皇帝暗殺の物語である荊軻の故事についても、第三者が知りえない秘密裡の会話や、出発の舞台が易水という鬼神が関与すると認識されていた水辺であったりと、創作的な雰囲気が濃厚である。

 『史記』が文献史料だけでなく、司馬遷が各地で採取した口碑も取り入れた、いわゆるオーラル・ヒストリー的手法に則っていることは周知の事実である。宮崎市定も刺客列伝をはじめいくつかの故事について、民間での語り物に依拠していると推測していたが、僕も留侯世家のうち博浪沙故事については、当時の人びと(特に旧六国地域の人びと)に共有されていた沙地認識を背景とした民間伝承がソースなのではないかと想像している。暗殺に失敗した張良が逃亡先の下邳で黄石公から太公望の兵書を授けられたり、最後は神仙になろうとしていたりと、漢代に流行した神仙思想の影響なのか、留侯世家は博浪沙故事以外の箇所についても神怪な雰囲気が漂っており、虚構性が強い。

 ともあれ『史記』に描かれる数々の物語たちは、沙塵の彼方に隠れるように茫として、容易には実像をつかませてくれないようだ。

 

*1:大川「黄河下流域における沙地利用の歴史的変遷」(鶴間和幸編『黄河下流域の歴史と環境』東方書店、2007