壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

南楚覇王補遺~安史の乱点描(3)

 以前、安史の乱に紛れて襄州で「南楚の覇王」を称して自立割拠したソグド系武人・康楚元について記事を書いた。
ano-hacienda.hatenablog.com

 このときは楚元のルーツについて、交通の要衝である襄州に集住したソグドの一族から軍士として出仕したものと推測したが、先日、たまたま章群『唐代蕃将研究』(聯經出版事業公司、1990)を読んでいると、康楚元の出自について「六州胡」である可能性が指摘されていたので紹介する。

 突厥第一可汗国の崩壊後の調露元年(679)、唐朝がオルドスの霊州域内に突厥遺民を安置するために設置した六つの羈縻州を「六胡州」と総称するが、六州胡とはそこに住むソグド系の住民を指す。彼らは突厥内部でコロニーを形成し、騎射技術の習熟など遊牧文化の影響を受けて突厥化した、いわゆる「ソグド系突厥」であったとするのが現在の通説である。*1

 六胡州は、唐朝にとっては復興した突厥第二可汗国との間の緩衝地帯であり、軍馬の供給地としても重視されていたが、唐朝の統治政策の失敗(軍馬の収奪や重税など諸説ある)により、開元九年(721)から翌十年にかけて、康待賓や康願子といったソグド系のリーダーを擁する反乱を招いてしまう。この六胡州の乱の鎮圧後、唐朝は反乱の母体となった六州胡の河南・江淮への徙民政策をとる。

資治通鑑』巻212 唐紀28 玄宗開元十年(722)の条

 康待賓餘黨康願子反、自稱可汗。張說發兵追討擒之、其黨悉平。徙河曲六州殘胡五萬餘口於許・汝・唐・鄧・仙・豫等州、空河南・朔方千里之地。

 康待賓の残党である康願子が反乱を起こし、可汗を自称した。張説は兵を発してこれを追討し擒らえ、その党類を悉く平定した。河曲六州の残胡五万余口を許・汝・唐・鄧・仙・予等州に移し、黄河の南方、朔方の千里の地が空くことになった。

 唐朝の監牧が多く設置され、生業であった馬の飼養に適したオルドスを追われた六州胡たち。彼らは再び結集して反乱を起こすことのないよう、河南から江淮にかけての広範囲に散り散りに徙民されたようだ。六胡州も土地ではなく人間集団(この場合はソグド系突厥コロニーか)に対して設置された羈縻州と考えられるので、この時点で解体されたのだろう。しかし、移住先になじめず関内の諸州へ逃亡するものがいたため、16年後の開元二十六年(738)、故地に宥州を新設し、そこに再度移住させることになった。

資治通鑑』巻214 唐紀30 玄宗開元二十六年(738)の条

 壬戌、敕河曲六州胡坐康待賓散隸諸州者、聽還故土、於鹽・夏之間、置宥州以處之。

 壬戌の日、河曲六州の胡人で、康待賓の乱に連座し、散らばって諸州に隷属させられていた者に勅を与え、故郷に帰ることを許し、塩・夏州の間に宥州を置き、ここに居住させた。

 こうしてオルドスに帰還した六州胡たちは、その後、安史の乱に合流するものや、朔方節度使など在地の藩鎮機構に吸収されるもの、代北へ移住して沙陀に合流するものなど、さまざまな経緯をたどったが、章氏は、すべての六州胡が北帰したわけではなく、彼らの移住先のひとつである鄧州が、康楚元の出仕した襄州の北隣にあることから、楚元も当地に残留した六州胡の出身ではないかと推測している。史料上では中唐以降、江淮地方にソグド人が多く見られるようになるが、その一因として六州胡の徙民政策をあげているのである。

f:id:ano_hacienda:20190829233840j:plain

中国歴史地図集/唐代/山南東道・山南西道

 鄧州も襄州節度使の管轄内であり、安史の乱が勃発し、軍備の増強に迫られた襄州節度使が、オルドスへ北帰せず管内に残っていた剽悍な六州胡やその後裔たちを藩鎮牙軍に組み込もうと考えてもふしぎではないだろう。史料によっては康楚元を「大将」と記しているので、藩鎮内では高位の軍将だったに違いない。

 安史軍残党が乱後の河北に創建した藩鎮魏博において、馬軍増強のためオルドスからソグド系突厥リクルートした結果、そのソグド系武人集団が藩鎮牙軍内部でヘゲモニーを握り、自集団から節度使を輩出するようになったことは、森部豊氏の一連の研究で論じられているが、ほんらい外様であった六州胡出身と思しき康楚元が襄州の反乱軍のリーダーに擁されたのも同様の構図に見える。

 また、康楚元のルーツが六州胡にあるならば、旗下におなじく六州胡を抱えていた安史軍と連携していた可能性も濃厚になるだろう。六州胡は当初から安史軍に参加していたわけではなく、安史軍の部将であった阿史那従礼がオルドスへ出奔し、糾合したことから乱に合流したと考えられている。

資治通鑑』巻220 唐紀36 粛宗至徳二載(757)の条

 安慶緒之北走也、其大將北平王李歸仁及精兵曳落河・同羅・六州胡數萬人皆潰歸范陽、所過俘掠、人物無遺。史思明厚為之備、且遣使逆招之范陽境、曳落河・六州胡皆降。

 安慶緒が北走するや、その大将の北平王李帰仁およびその精兵の曳落河、同羅、六州胡ら数万人はみな范陽をめざして潰走し、行く先々で略奪をしたため、人も物も残らぬほどであった。史思明はこれへの防備をする一方で、使者を遣わして范陽の境界まで招いたため、曳落河と六州胡はみな降伏した。

 その後、六州胡は唐軍に敗れた安慶緒から史思明の傘下へと移動しており、史思明が安史軍のヘゲモニーを握ってから、その軍事行動に呼応するかのように、乾元二年(759)、襄州で康楚元が兵を挙げたのである。前回の記事で指摘したように、康楚元が安史軍と連携していたのならば、それは自身のルーツである六州胡とソグドネットワークによって結ばれていたからとも考えられる。

 地理的条件以外に確たる論拠のない康楚元六州胡出身説だが、これが実証されれば、理念が先行しがちなソグドネットワーク論の補強材になりえるかもしれない。

*1:六胡州と六州胡については、そもそも六胡州は「唐人」を刺史としたと記す伝世文献から羈縻州ではないとする説もあり諸説紛々としているが、研究史を整理した論文として、李丹婕(中田裕子訳)「唐代六胡州研究論評」(『東洋史苑』65、2005)が、比較的最近の六胡州に関する研究成果を踏まえている上にアクセスしやすい論文としては、森部豊「八世紀半ば~十世紀の北中国政治史とソグド人」(森部編『ソグド人と東ユーラシアの文化交渉』勉誠出版、2014)がある。

珍小島の冒険

f:id:ano_hacienda:20190727175923j:plain

 洞爺湖はあいにくの曇り空であった。
 中国人観光客の家族が哄笑を響かせながら記念写真を撮り、白人の熟年夫婦は手をつないで湖畔を散歩する。
 洞爺湖サミットで一躍世界的な知名度を得たからか、温泉街にも、湖畔の遊歩道にも、外国人観光客が多い。

 遊覧船で湖をめぐるにはすでに遅く、夜の花火にはまだ早い、中途半端な夕刻の湖畔。乗り手のいないスワンボートの視線を背に受け、僕はひとり温泉街の外れへと歩いていた。

f:id:ano_hacienda:20190727180026j:plain

 目的は、湖でも温泉でもない。

 たどり着いたのは、温泉街の西の端にある有珠山噴火記念公園。

f:id:ano_hacienda:20190727170104j:plain

 見かけるのはジョガーや犬を散歩させる地元の住民ばかりで、温泉街の喧騒とは打って変わって長閑な雰囲気だ。

 一見どこにでもある市民公園のように見えるが、この平和を破るように突如現れる雌ライオンらしき謎の彫像。しかも3頭。

f:id:ano_hacienda:20190727170033j:plain

 

 そして獅子の群れの奥にはさらに物騒なモニュメントがたたずんでいた。

 

f:id:ano_hacienda:20190727165850j:plain

 え、何これ、メガテン…?

 

 完全にやべーモンスターにエンカウントしてしまった気分である。

f:id:ano_hacienda:20190727165902j:plain

 裏側は貧弱。

 

 しかし僕のほんとうの目的地は、この公園ではない。

 この公園の奥の院、さらに西へと進んだ先に、それはあった。

f:id:ano_hacienda:20190727165047j:plain

 湖に浮かぶ、何の変哲もない離れ小島。

 

 そう、あれこそが今回の目的地、珍小島である。

 

 え、何て読むかわからない?

 仕方ないなあ…。

 

f:id:ano_hacienda:20190727164951j:plain

 Chinko-jimaだよ!

 

 さあ、このブログを読んでいるそこのお姉さん、あなたもご一緒に!

 

 有珠山噴火記念公園の敷地内とばかり思っていたが、気づけば僕は珍小島公園に足を踏み入れていたのだ。

f:id:ano_hacienda:20190727164857j:plain

 珍小島は陸繋島で、湖畔とは砂州でつながっているとのこと。つまり、島まで歩いて行けるのだ。会いに行けるアイドル?こっちは歩いて行けるChinkoだぜ!!

 

f:id:ano_hacienda:20190727164916j:plain

 鳥瞰図だとわかりやすい。

 たしかに砂州で湖畔とつながっており、まるで半島のように岸から雄々しく屹立しているのだ。

 非常に興味深い地形である。これには地形マニアのタモさんも興味津々ではないだろうか。あっちもこっちもブラタモリである。

 

 また、珍小島公園の解説ボードはきちんと英訳併記なので、洞爺湖サミットに集った各国首脳にもChinko-jimaをアピールしていたのだろう。先日のG20大阪サミットでは、開催期間中は飛田新地を休業していたというが、こちらは休業などない。剥き出しのChinko-jimaを世界へ向けてさらけ出していたのだ。

 何を恥ずべきことがあろう!これぞ日本男児の心意気!奮い立て、珍小島

 

 ちなみに珍小島公園にも謎のモニュメントが設置されている。

f:id:ano_hacienda:20190727165301j:plain

 一応確認したが、Chinkoはないようだ。

 

 珍小島へ向かって公園内を歩いていると、謎のキノコがちらほら。

f:id:ano_hacienda:20190727164836j:plain

 

 珍小島公園ではキャンプが禁止されているらしい。

f:id:ano_hacienda:20190727164741j:plain

 珍小島なのにテント張れないの!?

 そんなのってないよ…。

 

 珍小島近景。

f:id:ano_hacienda:20190727164203j:plain

 砂州は完全に緑化している。 

 珍小島周辺には使用済みティッシュのように朽ちた船の残骸が散らばっていた。

f:id:ano_hacienda:20190727164501j:plain

f:id:ano_hacienda:20190727164242j:plain


 ついに砂州をつたって珍小島へ上陸だ…! 

f:id:ano_hacienda:20190727164302j:plain

f:id:ano_hacienda:20190727164339j:plain

 といっても人が通れる道などあるはずもなく、草木が鬱蒼と生い茂るばかりである。もちろん建物などもない。そもそも人がまともに活動できるスペースがない。無人島である。当然のことだ。 

 

 結局、珍小島にはナニもなかった。

 僕の小さなちいさな冒険は、こうしてあっけなく幕を下ろした。

 落胆しなかったといえば、嘘になる。

 しかしこのとき、岸辺で途方に暮れる僕の脳裏を、大学時代の先輩の顔がよぎっていた。

 沖縄出身の先輩は、笑顔でこう教えてくれたものだ。

「沖縄には漫湖(Man-ko)っていう湖があるんだぜ。ニュースでアナウンサーが『今日、漫湖で小学生の写生大会が行われました』とか読み上げるんだぜ」

「ちなみにアレのことはホーミーっていうんだ。宝の味って書くんだぜ」

 そういってニヤリと笑った先輩。沖縄の風習や言語について、いつも示唆に富む指摘をしてくれた先輩。卒論が書けなくて留年した先輩。いま何をしているのだろうか。

 

 漫湖沖縄県那覇市にある干潟だという。

 北の果てに浮かぶ珍小島と、南の果てに広がる漫湖洞爺湖ではなく漫湖のなかに珍小島があれば完璧なのに、ふたりの距離は、こんなにも遠い。

 まるで互いに惹かれ合いながらも引き裂かれる恋人たち。現代のロミオとジュリエットである。

 

 島の大地に腰を屈めて砂を一握り、すくいあげた。

 僕のなかで、ひとつの決意が芽生えていた。

 いつか僕は漫湖へ行く。

 その潤いのなかへ、お前を放ってやる。そしてふたりはひとつになるんだ。 

 珍小島の砂を握りしめ、風のない穏やかな湖面を前に、僕はそう誓った。

 

 あらたな冒険のはじまりだった。

 

魅惑(?)の三国志エロラノベの世界~羅姦中『三国志艶義 貂蝉伝』シリーズ

 トーハクの三国志展が開幕し、関連出版物も続々刊行される今夏、日本では何度目かの三国志ブームが起きているようだ。

 横山三国志や吉川三国志を読んで育った僕も、最近は三国志熱が再燃し、関連書籍をいくらか読んでいるが、今回はそのなかでも僕以外には誰もレビューを書かなそうな三国志を紹介したいと思う。

 それがこちら、三国志艶義 貂蝉伝』シリーズである。 

三国志艶義 貂蝉伝―洛陽炎上 (パンプキンオリジナル)

三国志艶義 貂蝉伝―洛陽炎上 (パンプキンオリジナル)

 
三国志艶義 貂蝉伝-董卓暗殺 (パンプキンノベルス)

三国志艶義 貂蝉伝-董卓暗殺 (パンプキンノベルス)

 

 そう、タイトルと表紙からなんとなく察していただけると思うが、貂蝉を主人公にすえた三国志物のエロラノベである。

 Amazonの商品紹介リンクがなぜかシリーズ1作目「洛陽炎上」と3作目「董卓暗殺」しか貼れないが、2作目に「連環之計」がある。

 タイトルからもわかるように、後漢末の混乱による董卓の専横、それを危険視する王允が養女貂蝉を利用して董卓呂布を離反させる「連環の計」、そして董卓の暗殺まで、三国志でおなじみの物語を官能シーンたっぷりに描く歴史官能小説である。

 作者は羅姦中。本シリーズを書くためだけに名付けたようなペンネームだ。

サラリーマンを続ける傍ら、営業をサボって文筆活動に勤しむ。

陳舜臣ばりの中国歴史小説家を目指しながらも、どこにも採用されず。

そこで天から舞い降りたのが、「三国志をエロで書く」この企画。

通勤電車の中で美少女とのセックスシーンを書く日々が続く。

          『三国志艶義 貂蝉伝ー洛陽炎上』著者プロフィール

 天よ、この作者にもうちょっとまともな企画を与えてやってくれ。

 ちなみに羅姦中先生、本シリーズのほかに著作はないようだが、あるいは別名義で一般文芸デビューしてたりしないのだろうか。

www.mystery.or.jp

 と思って検索したら、日本推理作家協会の現職の会員らしい。歴史小説でもなければ官能小説でもない。どこに向かってるんだよ羅姦中先生!?

 

 羅姦中先生の迷走はさておき、本書の内容を紹介しよう。各巻の章題は次のとおり。

三国志艶義 貂蝉伝―洛陽炎上』

 序 章 美少女との出会い

 第一章 暴君の放恣

 第二章 美女の宿命

 第三章 陰謀渦巻く宮廷

 第四章 伝国の玉璽

 第五章 陽城の虐殺

 第六章 淫虐の果てに

 第七章 榮陽の会戦

三国志艶義 貂蝉伝―連環之計』

 序 章 洛陽炎上

 第一章 酒池肉林の野望

 第二章 江東の虎

 第三章 激闘!陽人城

 第四章 董卓暗殺計画

 第五章 陽人城攻防戦

 第六章 暴君の正餐、虐殺と酒池肉林

 第七章 連環之計

 第八章 虎の死

三国志艶義  貂蝉伝―董卓暗殺』

 序 章 淫虐の虜囚

 第一章 暴君の虐政

 第二章 忍び寄る刺客

 第三章 智将対猛将

 第四章 董卓暗殺

 第五章 楽園の崩壊

 第六章 王允の暴走

 第七章 滅びの笑い

 

 内容的には黄巾の乱による戦災孤児であった貂蝉王允が引き取る序章から、董卓暗殺後の涼州軍団の逆襲による王允の最期まで、正史と演義に依拠しつつ、貂蝉の侍女や献帝の侍女、董卓の孫娘などオリジナルキャラを若干追加しながら、エロ要素をふくらませて描いており、曹操が女体化するような変化球がない、エロ多めの歴史小説としても読める、わりとまっとうな内容である。

 黄巾の乱戦災孤児であった貂蝉は、刺史として故郷に赴任してきた王允に拾われ、詩文や経書、舞踊のほかに性技も仕込まれる。本シリーズでの王允は、戦災孤児の女児を養女とし、「娘」と呼ばれる文武と性技に通じた一種の性奴隷に仕立て上げ、高官への賄賂や間諜に利用して官界でのし上がっていくというダーティーな設定。こんなの俺たちが知ってるあの硬骨漢の王允じゃないよ!どこ硬くしてるんだよ!

 そんな王允戦災孤児貂蝉(当時は十歳前後)と出会ったシーンがこちら。

(まだまだ青い蕾だが、きっと大輪の花が咲くぞ。蜜もたっぷり滴るような)

 王允は少女の癇の強そうな瞳に、褥での乱れた姿が目に浮かんできた。その蕾を押し広げることができたら、夜が明けるのも忘れて貫くことができたらどれほど幸せか。

 王允は少女を頭の天辺から足の爪先までしげしげと見た。

(まだ、男を知らない娘だ)

 王允の食指が動いた。本能が、王允に少女が処女であることを告げている。

 その無垢な、白地の生地を、王允の色に染めてみたい。自分の思うような女に調教してみたかった。

 思い通りといっても、ただ単に従順な女にするのではなく、暴れ馬を力でねじ伏せ服従させるように、表面だけでなく、心の底からの服従をさせたい。少女の花園に肉棒を入れ、思うさま掻き回したい。

 少女の身体を貫くときに、きっと少女は王允を睨むだろう。悍馬が乗り手を見極めようとするように。あるいは追い詰められた兎が猟犬を蹴り殺すように激しく抵抗するかも知れない。

 王允は、この少女を蹂躙する時を想像すると、居ても立ってもいられなくなった。下半身の疼きを覚え、見下ろすと勃起していた。

                『三国志艶義 貂蝉伝ー洛陽炎上』p7

 十歳の少女を前にしてこの発想。王允、完全にロリコンど変態じゃねーか。漢朝と献帝に忠実だけど、自分の性欲にも忠実なド畜生というパーソナリティが共存する、ある意味複雑なキャラクターである。

 ちなみに王允巨根で絶倫という設定だが、長さは「一尺二寸(漢代の尺で二十八センチ)」とのこと。まさか王允のち〇ちんで漢代の度量衡を学ぶことになるとは。勉強になるなあ(白目)。

 そんな王允に手とり腰とり性技を叩き込まれた貂蝉は魔性の女として成長し、周囲の男たちを次々と翻弄し、漢朝の命運をゆさぶっていく、というのが本シリーズの基調路線である。

 第一巻「洛陽炎上」では、董卓の洛陽入城による混乱、献帝の抵抗、董卓軍と献帝をともに翻弄する貂蝉董卓軍による陽城での虐殺と凌辱、作中で唯一、貂蝉の魅力に溺れない(読者も唯一感情移入して読める)理性的な董卓軍のブレーン賈詡の視点からみた反董卓連合軍との榮陽の戦いまでを描く。

 官能小説としてのエロシーンはやはり董卓やその配下による凌辱が多く、そのほかに王允貂蝉の頻繁な絡み、貂蝉による献帝の筆おろしなどがある。

 注目したいのは、董卓の悪行のひとつに数えられる陽城での住民の虐殺と凌辱に焦点を当てたり、彼の政策である清流派士人の登用や、五銖銭の改悪などにも目配りをしているように、董卓周辺のかなり細かいエピソードまで拾って官能小説というフォーマットに落とし込んでいたり演義一辺倒ではない、正史についての一定の知識をふまえて描いている点である。さすが羅姦中先生、中国歴史小説家を目指していただけあって勉強の跡がうかがえる。

 第二巻「連環之計」では、董卓による長安遷都と郿城での酒池肉林、反董卓連合軍の先鋒として活躍する孫堅の陽人城をめぐる攻防戦と荊州退転後の死、そして連環の計により呂布を篭絡し、董卓の閨に侵入する貂蝉、と物語は佳境を迎える。

 ここで注目すべきは、官能小説にしては力が入りすぎている孫堅の合戦シーンである。文章が拙いせいもあって、そこまで盛り上がるわけでも面白いわけでもないのだが、本来、羅姦中先生が描きたかったのは美少女のエロシーンよりも、こういう武将たちが活躍する血沸き肉躍る物語だったんだろうなあ。

 孫堅のシークエンスについては、とくに貂蝉が介入しなくても話が成立するのに、無理やり彼女と孫堅の濡れ場を入れている感が強くて、とにかく歴史小説の醍醐味である合戦シーンを描くために孫堅を引っ張り出し、言い訳のように貂蝉と絡ませているようにしか見えなかったのが残念。

 そのほか、董卓が美少女を集めて酒池肉林ハーレムプレイをするのも見どころのひとつなのだが、

 董卓は、古代商王朝の最後の王、紂王が殷の都に築いた酒池肉林を再現しようと思っている。

 酒を満たした池と、肉を枝にかけた林の間を裸の男女が戯れ、紂王自身もその乱交に加わって遊んだという。

(肉をかけると痛むし、乾肉では風情がない。そうだ!果物が良いだろう)

 董卓は美女と戯れる己の姿を想像し、天幕を支える柱のようにそそり立つ怒張を感じた。

                『三国志艶義 貂蝉伝―連環之計』p20

 酒池肉林を再現するのにも実現性をまじめに考慮した結果、果物を木にかけるという平凡な発想に着地する董卓がちょっと可愛い。

 そして最終巻「董卓暗殺」では、王允による士孫瑞や呂布を巻き込んだ董卓暗殺計画の推移と、董卓亡きあとの王允の暴走、貂蝉の挑発にのった李傕・郭汜ら董卓軍残党である涼州軍団の逆襲までを描く。

 二巻までのエロシーンは董卓やその配下による凌辱描写が多かったのだが、この巻では王允が酷い。

 董卓の孫娘をさらってきては監禁・凌辱したり、董卓暗殺後は気に入らない蔡邕を投獄し、その娘の蔡文姫をこれまた監禁・凌辱するという畜生っぷり。董卓ならまだしも、王允もまさか死後1800年経ってこんなに性獣扱いされるとは思いもよらなかっただろう。

 しかし王允が博学な才媛である蔡文姫に論語を朗読させながら身体を弄ぶシーンは、本シリーズの白眉といえる。

「朗読せよ。お前にとっては子供の玩具であろうがな」

 王允は文姫の隣に腰を下ろした。文姫が竹簡を最初のほうの数枚分だけ広げた。全部を広げると文姫の両腕を広げた流さになってしまう。

「子曰、学而時習之……」

 朗読を始めた。幼い頃から厳しく躾けられただけあって、見事な発声だ。

「不亦……あッ、いやッ」

 王允が文姫の胸の谷間に手を入れた。耳朶も舌先で揉む。

論語のどこにそんな言葉が書いてあるのだ? もう一度、最初から!」

               『三国志艶義 貂蝉伝―董卓暗殺』p221

 手コキカラオケかよ!

 思わずツッコみたくなるシチュエーション。羅姦中先生、蔡文姫の登場を決めた時点でこのシーンを思いついて絶頂してそう。

 ちなみに官能小説特有の表現についても、中国歴史小説家を目指していた羅姦中先生なだけに、独特である。

「ぃやぁああああ、そこッ、も……漏れちゃうぅッ」

 貂蝉が神話に出てくる神・羿の剛弓みたいに仰け反った。老仙が使う瓢箪のように、止め処なく女陰から愛の神酒が溢れ出す。

                『三国志艶義 貂蝉伝―連環之計』p64

 

 王允の指が雨期の渭水みたいに止め処なく溢れる陰戸を責め立てた。

               『三国志艶義 貂蝉伝―董卓暗殺』p221

 愛液の表現ひとつとっても、中国の伝承や自然をふまえたうえで、重複しないよう描き分ける配慮と工夫が光っている。ぜひ『官能小説用語表現辞典』に載せていただきたいところだ。

 

 以上、見てきたように、本シリーズは董卓周辺のエピソードを丁寧に拾って官能小説のフォーマットに落とし込んだり、当時の文物についても版築や履(サンダル状の履物)などが大した説明もなくさらりと描かれたりと、中国史に対する羅姦中先生の(官能小説家としては)造詣の深さが垣間見え、意外と考証がしっかりしている歴史小説という側面と、ビッチ、クール美女、ロリ、人妻など多彩な属性の女キャラによる濡れ場や、国史の素養に裏打ちされた独特の官能表現が楽しめる官能小説としての側面を併せ持つ、意欲的な作品である(題材が題材なだけにイチャラブなシチュエーションはないが)。

 個人的には歴史小説としてはいまいち盛り上がらず中途半端だが、官能小説としてはそこそこエロくて、それ以上に笑えるという感想。

 羅姦中先生の次回作があるのかはわからないが、次は水滸伝物なんてどうだろうか。ペンネームも「したい、あ~ん」とかで。

 

碧い瞳の項羽~安史の乱点描(2)

 河北では史思明が大燕皇帝を称して自立し、唐朝と安史軍が一進一退の攻防をくりひろげていた粛宗の乾元2年(759)8月、安史軍の勢力圏からは遠い洛陽南方の襄州でひとつの反乱が起こった。

旧唐書』巻10 粛宗紀 乾元二年条

 八月乙亥、襄州偏將康楚元逐刺史王政、據城自守。…九月甲午、襄州賊張嘉延襲破荊州、澧・朗・復・郢・硤・歸等州官吏皆棄城奔竄。

 八月乙亥の日、襄州の部将康楚元が刺史の王政を放逐し、州城を固めた。…九月甲午の日、襄州の賊の張嘉延が荊州を破り、澧・朗・復・郢・硤・帰などの諸州の官吏はみな城を捨てて遁鼠した。

 康楚元軍は襄州から荊州へと山南東道を南下し、荊南節度使として荊州に駐屯していた杜鴻漸が戦わずして出奔したことを受け、その管下諸州の官吏も相次いで逃げ出す事態となってしまった。

旧唐書』巻108 杜鴻漸伝

 襄州大將康楚元・張嘉延盜所管兵、據襄州城叛、刺史王政遁走。嘉延南襲荊州、鴻漸聞之、棄城而遁。澧・朗・硤・歸等州聞鴻漸出奔、皆惶駭、潛竄山谷。

 襄州の大将の康楚元、張嘉延は所管の兵をひきいて襄州城に拠って反し、刺史の王政は遁走した。嘉延は南進して荊州を襲わんとし、杜鴻漸はこれを聞くや、城を棄てて逃げ出した。澧・朗・硤・帰などの諸州は鴻漸の出奔を聞くや、みな驚きおそれ、山谷に遁鼠した。

 一時は山南東道全域を制圧するかに見えた康楚元軍だが、商州刺史であった韋倫の活躍により、11月にはあえなく鎮圧されている。

旧唐書』巻10 粛宗紀 乾元二年条

 十一月甲子朔、商州刺史韋倫破康楚元、荊襄平。

 十一月甲子の朔日、商州刺史の韋倫が康楚元を破り、荊州・襄州は平定された。

 この反乱を率いた康楚元とは何者か、また、この反乱はどのような性格を持つ事件であったのだろうのか。

 

 康楚元は自立の際に「南楚覇王」という西楚の覇王項羽を彷彿とさせる王号を称している。

資治通鑑』巻221 粛宗乾元二年条

 八月、乙巳、襄州將康楚元・張嘉延據州作亂、刺史王政奔荊州。楚元自稱南楚霸王。 

 八月乙巳の日、襄州の将である康楚元と張嘉延が当地で反乱を起こし、刺史の王政を荊州へ出奔させた。楚元はみずから「南楚の覇王」と称した。

新唐書』巻126 杜暹伝 杜鴻漸条

 乾元二年、襄州大將康楚元等反、刺史王政脫身走、楚元偽稱南楚霸王、因襲荊州

 乾元二年、襄州の大将康楚元らが反し、刺史の王政は単身脱走し、楚元は「南楚の覇王」を偽称し、すぐに荊州を襲った。

 康楚元が称した王号については、別系統の史料では「東楚義王」となっており、これはこれで項羽が弑逆した楚の義帝を彷彿とさせるが、東楚とは現在の安徽省方面であり、張嘉延が目指した荊州こそ南楚とよばれる地域であったことから、「南楚覇王」が正しいように見える。

 しかし「東楚義王」として記録しているのは、実際に康楚元の乱の鎮圧にあたった当時の商州刺史であり荊襄等道租庸使でもあった韋倫の新旧唐書の伝である。乱の経過について詳細な記述があり、おそらく本人の行状などに基づいているものと考えられるため、軽視できない。

 『旧唐書』巻138 韋倫伝

 會襄州裨將康楚元、張嘉延聚眾為叛、兇黨萬餘人、自稱東楚義王、襄州刺史王政棄城遁走。嘉延又南襲破江陵、漢・沔饋運阻絕、朝廷旰食。倫乃調發兵甲駐鄧州界、兇黨有來降者、必厚加接待。數日後、楚元眾頗怠、倫進軍擊之、生擒楚元以獻、餘眾悉走散、收租庸錢物僅二百萬貫、並不失墜。

 そのとき襄州の部将康楚元、張嘉延が兵を集めて謀反した。凶徒一万余人を擁し、自ら東楚の義王を称し、襄州刺史の王政は城を棄てて遁走した。嘉延はまた南進して江陵(荊州)を陥れたため、漢水・沔水経由の食糧輸送が断絶し、朝廷は食に事欠いていた。韋倫はそこで兵を集めて(襄州北隣の)鄧州の州境に駐屯し、賊軍が投降してくれば手厚くもてなした。数日にして康楚元の賊徒はだらけてしまい、倫は進軍してこれを打ち破り、楚元を生け捕りにして朝廷へ献上した。残党はみな潰走し、税銭二百万貫を収めた。

 しかしこのほかに「〇〇(地域名)義王」という用例は管見の限りみつからず、「〇〇(地域名)覇王」には、「西楚覇王」項羽のほかに隋末唐初の群雄西秦覇王」薛挙がいる。

『隋書』巻4 煬帝紀下 大業十三年条

 夏四月癸未、金城校尉薛舉率眾反、自稱西秦霸王、建元秦興、攻陷隴右諸郡。

 夏四月癸未の日、金城校尉の薛挙は兵を率いて謀反し、みずから「西秦覇王」を称し、「秦興」の元号を建て、隴右の諸郡を攻め落とした。

 薛挙はこの後、皇帝として即位するが、国名については未詳である。「秦興」という象徴的な元号を建てたことからも、「秦」または「西秦」かと思われるが、そもそも挙兵時の自称が異例である。後世の史家が他の同名の王朝と区別するために「西秦」「前燕」などといった東西南北や前後を国名に冠するケースは多いが、当事者たちの意識としては「秦」または「大秦」であるのが普通である。あえて「西秦覇王」を称した薛挙は、やはり「西楚覇王」項羽を意識していたのではないか。

 項羽については南北朝時代にすでに江東では神格化しており*1、軍士のあいだでは英雄または軍神として人気があったのだろう。薛挙も自立する際に軍士の支持を得ようと、隋末の西北辺まで広がっていた項羽人気にあやかったのではないか。

 そうなると康楚元の自称についても、当時の襄州の軍士のあいだで人気のあった項羽にあやかってのものと考えられ、やはり「南楚覇王」こそが正しい自称だったのではないだろうか。西北辺の金城にさえ項羽人気が浸透していたのならば、戦国時代には楚の領域であり、項羽信仰の中心地でもある江東にもより近い襄州で、項羽を英雄視または神格化して信仰する層が幅広く存在していたとしてもふしぎではない。ちなみに康楚元と同時代の人である顔真卿は、湖州刺史時代に項羽碑を復旧しており、当時、項羽信仰が江東に存続していたことがうかがえる。

 

 項羽の再来を称して挙兵した康楚元だが、それでは彼自身はいったい何者なのか。

「康」というサマルカンド出身のソグド人が称していた、いわゆるソグド姓を冠していることからも、彼がソグドの血を引く武人であることがわかる。

 また、彼が活動していた襄州は、漢水の水運の要衝に位置しており、南の荊州と併せて、長江から送られてきた物資の長安や漢中への運送ルートの結節点にあたる。両州を抑えられたことによって長安への食糧供給が滞ったのは韋倫伝に見えるとおり。

 中国に往来したソグド人はみやこの長安や洛陽のほか、霊州、幽州から果ては揚州まで、交通の要衝に集住してコロニーを形成し、各コロニー間のネットワークを介して交易・情報伝達をする傾向がつとに指摘されているが、襄州についてはまだ報告がないものの、当地の交通上の重要性に鑑みれば、ソグド人が進出していてもふしぎではない。

 康楚元は襄州に集住したソグドの家系から身を起こし、当地の軍将として仕官した武人ではないだろうか。ソグドの血を引き、深目高鼻に碧眼というコーカソイド的形質をそなえていたかもしれない康楚元が項羽の再来を称するというのは、どう見てもモンゴロイドルパン三世のようで、どこかおかしみがある。

 薛挙が挙兵した金城郡も西域と長安をつなぐ河西回廊の要衝で、ソグド系住人の多い土地である。あるいは項羽というやたらめっぽう戦が強く、儒教的な堅苦しさ、小難しさのない英雄は、漢化が浅い非漢族にも受け入れられやすいアイコンだったのかもしれない。

 さて、康楚元がソグド系であるということで、またひとつの推測が生まれる。おなじくソグド系の史思明との連携である。

 史思明は突厥第二可汗国崩壊後に唐朝に内附したソグド系突厥突厥内部に「胡部」とよばれるコロニーを形成して生活し、遊牧文化や騎射技術などを習得して突厥化したソグド)と見られるが、森部豊氏らが示唆する安史軍がソグドネットワークを利用して軍資金を調達していたという説*2に従えば、河北で活動していた史思明とソグドネットワークを介して連携したうえで挙兵した可能性もすてきれない(ソグドネットワークという概念自体が理念が先行しすぎており、安史の乱によって混乱していた当時の唐朝本土でどれほど実態があったのかは不明だが)。

新唐書』巻6 粛宗紀 乾元二年条

 九月甲子、張嘉延陷荊州。丁亥、太子少保崔光遠為荊襄招討・山南東道處置兵馬使。庚寅、史思明陷東京及齊・汝・鄭・滑四州。

 九月甲子の日、張嘉延は荊州を陥れた。丁亥の日、太子少保の崔光遠を荊襄招討・山南東道處置兵馬使とした。庚寅の日、史思明が東京および斉・汝・鄭・滑の四州を陥れた。

 康楚元軍が荊州を落とし、唐朝がその対応に追われているあいだに、安史軍は洛陽ほか河南の諸州を攻め落としており、有機的に連携がとれているように見えるのだ。

 康楚元があくまでも南楚の「覇王」として地域権力に終始しようとし、帝号を称さなかったのも、項羽にあやかっただけでなく、史思明ひきいる大燕王朝への配慮もあったのではないだろうか。

 以上見てきたように、康楚元の乱はソグドネットワークという汎ユーラシア規模のネットワークと中国土着の項羽信仰が結合した事件としてとらえることが可能である。ソグドネットワークによる安史軍との連携についても、項羽信仰に基づく軍士の統率についても、史料に乏しく、あくまでも推測にすぎないが、従来説かれてきたような唐朝側・安史軍側だけでなく、第三勢力にもソグド系武人が存在していたことだけはたしかだろう。

 

*1:宮川尚志「項羽神の研究」同『六朝史研究 宗教篇』(平楽寺書店、1964)所収

*2:森部豊『世界史リブレット人18 安禄山』(山川出版社、2013)

左慈の弁当

 久々に『北夢瑣言』を読んでいると、気になる記事が見つかった。

 

『北夢瑣言』逸文補遺 六甲行厨

 修道功深者、享六甲行厨。凡有所須、舉意即至。

 

 道術を深く修めた者は、「六甲行厨」を会得できる。およそ望むものは、念ずればすぐに届く。

 

 解釈にあまり自信はないが、およそこのような意味であろうか。道術を深く修めた者は、「六甲行厨」によって欲しいものを望みのままに手に入れられるとのこと。

 では「六甲行厨」とは何か。

 「行厨」は弁当を指し、「六甲」の意味するところは甲子・甲戌・甲申・甲午・甲辰・甲寅の六つの干支、星の名、神の名など多数あるが、ここでは五行の方術とする解釈を採りたい。

 それというのも「六甲行厨」という語は、管見のかぎり『神仙伝』の左慈伝を典拠とするように見受けられるからである。

 三国志でも曹操を惑わす方士としておなじみの左慈の能力について、『神仙伝』では次のように描かれている。

 

『神仙伝』巻五 左慈

 …乃學道、尤明六甲、能役使鬼神、坐致行厨

 

 …そこで方術を学び、なかでも六甲に精通し、よく鬼神を使役して、いながらにして食事を運ばせることができた。

 

 方術としての「六甲」は、『後漢書』方術列伝における「遁甲」への李賢注に「遁甲、推六甲之陰而隱遁也」とあるように、(少なくとも唐代には)隠形術である遁甲を指すと解釈されているようで、左慈はみずからの身体を隠したり変化させるほか、鬼神に食事を運ばせることまでできたということだ。

 盆に張った水から鱸を釣り上げたり、羊に化けて追手を惑わしたりと、左慈曹操を幻惑する三国志の名シーン、あれこそが(鬼神は具体的に描かれないが)その場に食事を現出させる「行厨」と隠形術である「六甲」だったのである。これらのエピソードは『神仙伝』のほか、『捜神記』や『後漢書』などの左慈伝にも多少の異同を含みながらほぼ同じ内容で描かれている。

 そして『北夢瑣言』編者の孫光憲が生きた唐末五代まで、左慈が得意としたといわれる「六甲」と「行厨」は、道術の奥義として伝承され続けていたのであろう。

 ちなみに北宋に入ると、「六丁」と「六甲」とよばれる鬼神を使役する道士や、「六甲法」という六甲の年にうまれた者(?)だけで構成された軍隊で戦うインチキ兵法など、うさんくさい輩が散見され、道術としての「六甲」の裾野の広がりがうかがえる。

 

長安独身男子

 高橋一生らがアラフォー「AK(あえて結婚しない)男子」を演じる深夜ドラマ『東京独身男子』が好評のようだ。

 アラフォーとまではいかないが、僕もおなじ30代独身男子(って歳か)として、興味深く見てるんだけれど、時代錯誤な90年代トレンディドラマ風のスカした主人公たちの生活環境とハイスベックぶり(高級マンション住み、職業は銀行員、開業医、弁護士)にまったく共感できない。あと3人とも基本モテる点も共感できない「笑顔が高橋一生に似てる」と言われた僕も、もうちょっとモテてもいいんじゃないですかね…。

 『逃げ恥』以降だろうか?『東京タラレバ娘』やら『私 結婚できないんじゃなくて、しないんです』やら、晩婚化・非婚化をテーマにした恋愛ドラマが目立つようになってきたと思う。単に自分がそういう年代になったので、目につくようになったのかもしれないが、晩婚(または非婚)は2010年代の恋愛ドラマのトレンドのひとつといってよいだろう。

 現実的にも自分の周りには(自分も含めて)結婚しない・できないアラサーは男女問わずけっこう多い(とくに男)。おとなりの中国では一人っ子政策の反動で、男子ばかり増えた農村部には嫁のなり手がおらず、ミャンマーなど東南アジアから嫁を「輸入」しているという惨状らしい。

 こういった晩婚化・非婚化は現代特有の課題かというとそうではなく、唐代中国でも問題化していたようで、かの大詩人・白居易も、諷喩詩と呼ばれる一連の社会問題を批評した詩で当時の晩婚化の弊害をうたっている。

 

贈友五首 其五

  三十男有室、二十女有歸。
  近代多離亂、婚姻多過期。
  嫁娶既不早、生育常苦遲。
  兒女未成人、父母已衰羸。
  凡人貴達日、多在長大時。
  欲報親不待、孝心無所施。
  哀哉三牲養、少得及庭闈。
  惜哉萬鍾粟、多用飽妻兒。
  誰能正婚禮、待君張國維。
  庶使孝子心、皆無風樹悲。

 

友に贈る五首 其の五

  三十にして男に室有り、二十にして女歸(とつ)ぐ有り。

  近代 離亂多くして、婚姻 多く期を過ぐ。

  嫁娶 既に早からず、生育 常に苦(はなは)だ遲し。

  兒女 未だ成人せざるに、父母 已に衰羸す。

  凡そ人の貴達する日、多く長大の時に在り。

  報いんと欲すれども親待たず、孝心 施す所無し。

  哀しいかな 三牲の養、庭闈に及ぶを得ること少なし。

  惜しいかな 萬鍾の粟、多くは用って妻兒を飽かしむるのみ。

  誰か能く婚禮を正さん、君を待ちて國維を張り、

  庶(ねが)はくは孝子の心をして、皆 風樹の悲しみ無からしめん。

 

 『礼記』で記されるように男は30歳、女は20歳で結婚するのが古代のしきたりであったが、白居易の生きた時代には戦乱が相継いだためか、多くの男女が婚期を逃していたという。結婚が遅れれば子育ても当然遅くなる。すると子どもが成人しないうちに父母は老いおとろえ、成長して出世したときには親はもうこの世におらず、孝行したいときに親はなし、という事態に陥ってしまう。りっばなごちそうを親に供することができる者は少なく、ただ妻子にぜいたくさせるばかりである。この惨憺たる結婚事情を正すことができるのは誰か。それは白居易がこの詩を送る友人「君」である。白居易は願う。「君」よ、国家の綱紀をひきしめ、天下の孝子に親を亡くす悲しみをあたえないようにしてくれたまえ、と。

 僕は全然孝行息子ではないのだが、なんだかすごく身につまされる内容である。

 この「友に贈る五首」は、両税法の弊害や、江南における金銀採掘ブームで農民が農地を放棄して浮浪化するなど、当時の社会問題をとりあげて、それを解決できるのは「君」だけだ、と友人たちを鼓舞する連作なのだが、白居易の目には晩婚化がそれらと同列の社会問題として映っていたのである。耕作地放棄とか晩婚・非婚による少子化とか、現代日本の地方社会の問題にも通じるな。もう街コン業者に補助金出せよってレベル。ホワ〇トキー呼べよ。

 ちなみに白居易自身も結婚は元和3年(808)、37歳のときで晩婚である。「友に贈る五首」の制作年は朱金城『白居易集箋校』では元和10年(815)説、岡村繁『白氏文集 一』(新釈漢文大系第97巻)では元和4~5年(809~810)説を説いているようで、どちらにせよ結婚後を想定しているようだ。まあ、独身のときにうたっていたら僻みに聞こえるしね…。

 当時の晩婚化の原因として、白居易は「離亂」すなわち戦乱を指摘しており、たしかに彼の生きた時代には各地で藩鎮の反乱や吐蕃ら外敵の侵攻などがあったが、ほんとうにそれだけが原因かというと、ちょっと疑わしい。

 白居易のような科挙官僚層については、科挙合格後に出世の手段として朝廷の高官や名門と婚姻を結ぶ(そしてそれまで付き合っていた彼女は捨てる)ケースが多く、実際に白居易の妻も弘農楊氏という名門の出である。科挙は難関であり、「五十少進士(五十で進士はわかいうち)」とうたわれたように及第が遅れることによって、彼らは自然と晩婚になったのではないか。

 白居易は貞元16年(800)、進士科に及第したのち、同19年(803)に吏部が主催する書判抜萃科に合格し、秘書省校書郎に任官、官界デビューを果たす。このとき32歳だが、これでも早い方だったようだ。名門・弘農楊氏との婚姻はこの5年後である。吏部試験の同期合格者で、のちに白居易無二の親友となる元稹はさらに若く、このとき若干25歳。おなじく秘書省校書郎となったこの年に、これも名門である京兆韋氏から妻を迎えている。

 要するに白居易ら唐代の科挙官僚層は、時代を先取りした科挙に及第するまではAK(あえて結婚しない)男子」であり、晩婚化社会の一翼を担っていたのである。え、白居易、どの口で晩婚化が問題だなんていってんの?

管崇嗣の放埓~安史の乱点描(1)

 遊牧世界と農耕世界にまたがる新王朝を樹立せんとする強大な北方のカリスマ安禄山と史思明の反乱により帝都長安は陥落、老いた玄宗は愛する楊貴妃を縊り殺して蜀へ落ちのび、父や楊氏一門と確執をかかえる皇太子・李亨は、長安回復の兵を集めるため父と袂を分かち、わずかな供回りをつれて朔風吹きすさぶオルドスの霊武をめざした。潼関の戦いで主力軍が壊滅した唐朝では、この北辺の地に駐屯する朔方軍がまとまった兵力としては最大のものであったからだ。

 霊武で即位した皇太子(粛宗)のもとに馳せ参じるは、朔方軍をひきいる人格・戦歴ともにすぐれた名将・郭子儀、彼によって派閥をのりこえ抜擢された教養ゆたかな契丹族の驍将・李光弼、ウィグルと婚姻関係をむすび援兵を借りた功労者にして、のちに叛旗をひるがえすことになる反骨のテュルク系武人・僕固懐恩、粛宗の幼なじみで嵩山に隠遁していた天才軍師・李泌、と多士済々。これもうアルスラーン戦記だろってくらいに設定がアツい。

 しかし現実の亡命政権ダリューンナルサスのような少数精鋭で成り立つはずがなく、粛宗の行在にはどうしようもない人材もいたようだ。

 

旧唐書』巻131 李勉伝

 至德初、從至靈武、拜監察御史。屬朝廷右武、勳臣恃寵、多不知禮。大將管崇嗣於行在朝堂背闕而坐、言笑自若、勉劾之、拘於有司。肅宗特原之、歎曰「吾有李勉、始知朝廷尊也。」

 至徳の初年(756)、李勉は粛宗に従って霊武に赴き、監察御史に任ぜられた。ときに朝廷は武事を尊んでいたので、功績ある将軍たちは君寵を頼んで無礼な者が多かった。大将の管崇嗣は行在の朝堂において宮闕に背中を向けて座り、のんびり談笑していたので、李勉はこれを弾劾し、有司に身柄を拘束させた。粛宗は特別にこれを赦して、嘆息した。「わたしは李勉がいることで、はじめて朝廷の尊厳を知ったぞ」

 

 礼儀知らずの放埓な将軍である管崇嗣。オルドスのいなかに立てた朝廷では、ほんらい朝廷にあるべき厳粛さも綱紀もなく、力がものをいい、粛宗を護衛してきた彼のような土くさい武人たちが幅を利かせていたのだろう。

 粛宗の亡命政権は当初、朔方軍のほかには、側近宦官の李輔国のように長安脱出時から彼に付き従う者や、玄宗と袂を分かったときにわけあたえられた兵、霊武におちつくまでに合流してきた潼関の戦いの敗残兵などから成る寄り合い所帯なので、当然人材も払底しており、粗野で無礼であろうとも実力のある武官は重宝されていたようだ。

 管崇嗣は新旧唐書に立伝されていないため詳細な経歴は不明だが、潼関の戦いの際、哥舒翰の部将として名が見えるので、河西か隴右、または朔方いずれかの藩鎮のそれなりの地位にある軍将だったのだろう。また、火抜帰仁以下の「蕃将」と区別されているため、辺境で戦ってきた野人のような男ではあるが、漢人であることが確認できる。

 

旧唐書』巻104 哥舒翰伝

 及安祿山反、上以封常清・高仙芝喪敗、召翰入、拜為皇太子先鋒兵馬元帥、以田良丘為御史中丞、充行軍司馬、以王思禮・鉗耳大福・李承光・蘇法鼎・管崇嗣及蕃將火拔歸仁・李武定・渾萼・契苾寧等為裨將、河隴・朔方兵及蕃兵與高仙芝舊卒共二十萬、拒賊於潼關。

 安禄山の反乱に際し、玄宗は封常清、高仙芝が敗れると、哥舒翰を召して、皇太子の先鋒兵馬元帥に任じ、田良丘を御史中丞として行軍司馬に充て、王思礼、鉗耳大福、李承光、蘇法鼎、管崇嗣および蕃將の火抜帰仁、李武定、渾萼、契苾寧らを部将として、河西・隴右節度使や朔方節度使の兵及び蕃兵、高仙芝の残兵あわせて二十万の大軍をひきいて、潼関で賊を防がせることにした。

 

 潼関の戦いで敗れて逃げ帰ったのち、粛宗の行在へ合流したのだろう。管崇嗣の行在でのふるまいを見ると、彼が属していた蕃漢入り混じる荒々しい武弁だらけの辺境藩鎮では、節度使に対してかしこまった礼儀もなく、集まればみな自由に戦功を誇ったりゲラゲラ大笑いしていたのかもしれないし、そちらの方が礼儀に縛られた朝廷より人間らしい気もする。

 しかし管崇嗣の粗相はこれだけでない。

 兵力を蓄えた粛宗政権が行在を霊武から長安に近い鳳翔へ移し、いざ出兵というときに、またしても失敗してしまうのだ。

 

旧唐書』巻128 顔真卿

 元帥廣平王領朔方蕃漢兵號二十萬來收長安、出辭之日、百僚致謁於朝堂。百僚拜、答拜、辭亦如之。王當闕不乘馬、步出木馬門而後乘。管崇嗣為王都虞候、先王上馬、真卿進狀彈之。肅宗曰「朕兒子每出、諄諄教誡之、故不敢失禮。 崇嗣老將、有足疾、姑欲優容之、卿勿復言。」乃以奏狀還真卿。

 天下兵馬元帥である広平王俶が朔方軍の二十万と号する蕃漢の兵をひきいて長安を回復することになり、出陣の日、百官が朝堂で拝謁した。百官が拝礼し、王が返礼する。あいさつはこのように進んだ。宮闕を出るにあたり王は馬に乗らず、歩いて木馬門を出て、そののち乗馬した。管崇嗣は王の都虞候であったにもかかわらず、王より先に馬に乗ったため、顔真卿は上奏してこれを弾劾した。粛宗は「朕の子どもたちには、宮外に出ることがあるたびに諄々と教誨していたので、あえて礼を失わなかったのだろうが、崇嗣は老将で足も悪い。しばらく見逃してやってほしい。卿はもう言上しないでくれ」といって、弾劾文を顔真卿へ差し戻した。

 

 粛宗の長男でのちに代宗となる広平王の出陣の儀の一場面。都虞候は藩鎮機構におけるMPのような軍職であり、当然、広平王ひきいる行営軍でも中枢に位置していたであろうから、立場上ありえない非礼である。しかし霊武から自分に付き従ってくれている、この粗野ではあるが、苦楽をともにした忠実な将軍に、粛宗はずっと目をかけていたのだろう。御史大夫として唐朝の権威に泥をぬるような人物に目を光らせる顔真卿の弾劾をかわす言辞にも、管崇嗣へのいたわりが感じられる。

 

旧唐書』巻120 郭子儀伝

 上元元年九月、以子儀為諸道兵馬都統、管崇嗣副之、令率英武・威遠等禁軍及河西・河東諸鎮之師、取邠寧・朔方・大同・橫野、徑抵范陽。詔下旬日、復為朝恩所間、事竟不行。

 上元元年(760)九月、郭子儀を諸道兵馬都統、管崇嗣をその副官とし、英武軍・威遠軍などの禁軍や河西・河東の諸藩鎮の兵をひきいて、邠寧節度使・朔方軍・大同軍・橫野軍を経て、ただちに范陽を衝かせようとした。詔が下ってすぐに、また魚朝恩に阻害され、さたやみとなってしまった。

 

 史思明の勢力が盛り返してきた時期、官軍の実質的総大将の任を解かれていた郭子儀に再び天下の兵をひきいさせ、その副官には管崇嗣を添えて、史思明の本拠地である范陽を衝かせようと企図していたことからも、粛宗がいかに彼を重視していたかがわかる。

 翌上元二年(761)、哥舒翰の旧将から粛宗の亡命政権へ合流し重用されるという管崇嗣とよく似た経歴の(しかしずっと出世している)王思礼が、史思明に対する北の抑えたる河東節度使として太原に鎮していたが、その死没にともない、後任として管崇嗣が抜擢される。

 

旧唐書』巻111 鄧景山伝

 太原尹・北京留守王思禮軍儲豐實、其外又別積米萬石、奏請割其半送京師。屬思禮薨、以管崇嗣代之、委任左右、失於寬緩、數月之間、費散殆盡、唯存陳爛萬餘石。上聞之、即日召景山代崇嗣。及至太原、以鎮撫紀綱為己任、檢覆軍吏隱沒者、眾懼。有一偏將抵罪當死、諸將各請贖其罪、景山不許、其弟請以身代其兄、又不許、弟請納馬一匹以贖兄罪、景山許其減死。眾咸怒、謂景山曰「我等人命輕如一馬乎?」軍眾憤怒、遂殺景山。

 太原尹・北京留守の王思礼の軍資は豊富で、そのほかに別に一万石もの米穀をたくわえており、その半ばを割いて京師に送りたいと奏請していた。たまたま思礼が没し、管崇嗣がこれに代わってからは、側近にすべて任せ、軍政が寛容に過ぎたため、数ヶ月で軍資をほとんど浪費してしまい、ただ腐った米穀だけが一万余石残された。粛宗はこれを聞いて、すぐに鄧景山を召し出して崇嗣の後任とした。景山は太原に至るや、綱紀の粛清に奔走し、軍資を隠匿する軍吏を検断したため、みな懼れた。ある部将は死罪に値する罪をおかしていたが、諸将がみな彼の罪を贖うことを望んでも景山は許さず、その弟が兄の身代わりに処刑されることを求めてもまた許さなかったが、弟が兄の贖罪として馬一頭を納めたいと願うと、景山は死罪を減ずることを許した。みな怒り、景山にいった。「われらの人名は一頭の馬のように軽いのか!?」士卒は激怒し、ついに景山を殺してしまった。

 

 何かにつけルーズな管崇嗣は、前任者が余剰分を京師へ仕送りしようとしていた軍需物資の扱いを側近に任せ、盛大に放出してしまう。藩鎮士卒に横流しされ、あっという間に底を尽いてしまったので、さすがの粛宗も彼を更迭し、廉直な節度使経験者である鄧景山をこれに代えた。礼儀に縛られない放埓な武弁である管崇嗣とは対極の四角四面で倹約家の文臣である。しかし厳酷で人を人とも思わないような景山の軍政は、軍士の支持を失い、兵変を招くことになってしまう。

 管崇嗣に節度使としてすぐれた資質があったわけではないが、彼は長年辺境の藩鎮にいただけあって、その軍士たちの気質を知りぬいていた。否、彼の放埓、粗野、驕慢こそが藩鎮軍士たちの気質を体現していたために、巧みに彼らの意を迎え、軍政は弛緩すれども、その命だけはまっとうしたのだろう。

  更迭後の管崇嗣については、粛宗を継いだ代宗が、安史勢力の最後の巨魁である史朝義の追討について禁軍幹部に諮った際に登場するのが最後である。

 

新唐書』巻225上 逆臣伝上 史朝義条

 代宗召南北軍諸將問所以討賊計、開府儀同三司管崇嗣曰「我得回紇、無不勝。」帝曰「未也。」右金吾大將軍薛景仙曰「我若不勝、請以勇士二萬椎鋒死賊。」帝曰「壯矣!」

 代宗が南北の禁軍諸将を召して史朝義を討つ軍略を諮った。開府儀同三司の管崇嗣は「わしはウィグルの援兵さえ得れば、勝たぬことはありませんな」といい、帝は「ないのう」と応えた。右金吾衛大将軍の薛景仙は「わたしはもし勝てねば、勇士二万人をひきいて突撃し賊を殺してみせましょう」と豪語し、帝は「いさましいことよ!」といった。

 

 管崇嗣の提案もいまさらだし、代宗の返答もほかに比べてぞんざいである。注目したいのは、これは禁軍の幹部への諮問であり、薛景仙の肩書は「右金吾(衛)大将軍」という禁軍の職事官だが(なお、この後におなじ「右金吾大將軍」の「長孫全緒」も返答しており、どちらかは「左」金吾衛大将軍の誤りではないかと思う)、管崇嗣の肩書が従一品の文散官である開府儀同三司である点だ。禁軍で実際に軍職に就いていなかったのか。散官もなぜ武散官ではないのか。

 苦難の時代を支えたことから粛宗には寵愛されたが、たいした実績もなく、人柄も厳粛な朝廷には相応しくない管崇嗣は、代宗の御代には軍事の実権はあたえられず、位階だけ進めて形ばかりの元老として、腫れ物のように扱われていたのではないか。

 これは僕の妄想でしかないが、伝世史料中に残るわずかな管崇嗣の記事を追っていくと、かつてオルドスの朔風吹き抜ける行在で笑声に揺らした背中を丸め、悄然と宮中を歩く老人の姿を見るような思いがするのである。