壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

トゥルギッシュのなかのソグド人

 西突厥の一派であるテュルク系遊牧民のトゥルギッシュ(突騎施)は、烏質勒が君長となったときに、その主君であった西突厥可汗の阿史那斛瑟羅の部衆を併呑し、西突厥の覇権を握るほどに勢力を伸張した。神龍2年(706)、その子の娑葛は父の後を襲って唐の羈縻支配下に入り、嗢鹿州都督・左驍衛大将軍を拝命し、懐徳郡王に封じられている。

新唐書』巻215下 突厥伝下 

 是歲、烏質勒死、其子嗢鹿州都督娑葛為左驍衞大將軍、襲封爵。

 

 この歳、烏質勒が没し、その子の嗢鹿州都督の娑葛を左驍衛大将軍とし、封爵を継がせた。

 嗢鹿州は烏質勒から継承した(唐朝に継承を認められた)トゥルギッシュの羈縻州であり、娑葛はその都督として部落を率いていたのである。

 しかし彼らの旧主の突厥がそうであったように、遊牧勢力は単一の部族で構成されるわけではなく、複数の部族の連合体であることが常である。トゥルギッシュも例に漏れず複数の部族が存在していたわけだが、その部族名はおなじ『新唐書突厥伝の前段に記されている。

 賀魯已滅、裂其地為州縣、以處諸部。木昆部為匐延都督府、突騎施索葛莫賀部為嗢鹿都督府、突騎施阿利施部為絜山都督府…(後略)…。

 

 阿史那賀魯はすでに滅び、その支配地を裂いて羈縻州県を設置し、(西突厥の)諸部を安置した。木昆部を匐延都督府とし、トゥルギッシュ(突騎施)の索葛莫賀部を嗢鹿都督府とし、トゥルギッシュの阿利施部を絜山都督府とし、…(後略)…。

 西突厥の阿史那賀魯が滅んだ顕慶2年(657)、唐はその旗下にあった西突厥の諸部族を羈縻州に編成したが、嗢鹿州(都督府)もそのなかに含まれていた。ここから烏質勒たちの部族は「索葛莫賀部」という名であったことが確認されるが、「莫賀」はおそらくテュルク語やモンゴル語で勇者を意味する「バガテュル(莫賀咄)」のことと考えられる。

 それでは「索葛」は何か、という問題になるが、従来、漢籍史料中にあらわれる「索葛」についてはソグドの漢字音転写であると考えられてきており、唐末の代北において沙陀集団を構成した部族のなかには、「薩葛」「索葛」と記されるソグド系突厥部落の存在が指摘されている*1

 そうすると「索葛莫賀」とは「ソグドの勇者」とでもいうべき名称になるが、これはソグド人が東突厥の内部に形成したコロニー「胡部」と同様に、トゥルギッシュ内部にソグド人が形成したコロニーだったのかとも勘繰ってしまう。しかし烏質勒や娑葛は、安や康といったソグド姓を冠して漢籍史料中に登場するわけではないので、やはりテュルク系で、しかしソグドとは関係の深い部族だったのではないか。

旧唐書』巻194下 突厥伝下

 突騎施烏質勒者、西突厥之別種也。初隸在斛瑟羅下、號為莫賀達干。後以斛瑟羅用刑嚴酷、眾皆畏之、尤能撫恤其部落、由是為遠近諸胡所歸附。

 

 トゥルギッシュ(突騎施)の烏質勒は西突厥の別種である。初めは斛瑟羅の旗下にあって、バガ・タルカン(莫賀達干)と号していた。後に斛瑟羅が刑罰を用いること厳酷であったため、部衆は皆これを畏れ、(烏質勒は)もっともその部落をいつくしんでいたため、これより遠近の諸胡が帰服するところとなった。

 烏質勒の恤民政策が「遠近の諸胡」の心をとらえて帰服させたとあるが、唐代において「胡」とはソグドを示す例が多いこと*2に鑑みれば、これらの「諸胡」とは、北庭に進出していた(あるいは西突厥に属していた)ソグド人たちを指すのではないだろうか。

 トゥルギッシュ内部のソグド人の具体例としては、次の記事があげられる。

『冊府元亀』巻975 外臣部 褒異二 開元二十二年条

 乙卯、突騎施遣其大首領何羯逹來朝、授鎭副、賜緋袍銀帯及帛四十疋、留宿衛。

 

(六月)乙卯の日、突騎施がその大首領何羯逹を遣わして來朝したので、鎮副を授け、緋袍と銀帯及び帛四十疋を賜い、宿衛に留めた。

 何姓はクシャーニャ出身のソグド人が中国において冠するソグド姓であり、何羯逹は彼らの得意とする外交に従事していたことがわかる。

 この記事は開元22年(734)のことなので、すでに東突厥のカプガン可汗に娑葛が殺され、その旗下にいた蘇禄が余衆を糾合し西域に覇を唱えていた時期であり、構成部族も烏質勒の代から変化しているおそれはあるが、ともあれトゥルギッシュの内部でソグド人が活動していたことは認められよう。

 このように旗下に多数のソグド人を抱えていたであろう烏質勒の後継ぎの名が「娑葛(Suōgĕ)」というのは、ソグドの漢字音転写と思しき「索葛(Suǒgĕ)」との近似を思うとき、あるいは彼は東突厥における阿史那思摩のように、ソグド人を母に持つ混血の可汗ではなかったかと想像してしまう。

 トゥルギッシュではなく、おなじテュルク系遊牧民の沙陀の話になるが、実子のほかに多数の仮子をもうけたことで知られる李克用は、墓誌中にその子の名と外号(呼び名、あるいはニックネーム)を併記される珍しいケースであった。そこには「存貴(外号は黠戞)」と「存順(外号は索葛)」という、中国風の輩行字を含む名のほかに、キルギスとソグドの音転写と思しき外号を有する子が列記され、それぞれキルギス系とソグド系の仮子である可能性が指摘されている*3。李克用といえば多数の仮子をもうけたイメージが強いので、彼らも仮子であると推定されたのだろうが、キルギスやソグドの母を持つ実子である可能性も捨てきれないだろう。

 民族的なルーツを名にする習慣がテュルク系諸族に存在したのかは不明であるし、索葛莫賀という部族名が「ソグドの勇者」を意味するというのもあくまでも仮説に過ぎない。しかし、索葛莫賀部の娑葛という字面を見ると、僕はどうしてもソグドとのつながりを考えずにはいられないのである。

 

*1:森部豊「河東における沙陀の興起とソグド系突厥」(『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史展開』関西大学出版部、2010)

*2:森安孝夫「唐代における胡と佛教的世界地理」『東洋史研究』66(3)、2007

*3:石見清裕・森部豊「唐末沙陀『李克用墓誌』訳注・考察」『内陸アジア言語の研究』18、2003

靺鞨のなかのソグド人

『冊府元亀』外臣部の以下の記事が、文献上に見えるソグド人が他民族へ進出した最北端の事例ではないかと思ったので、メモを残しておく。

 『冊府元亀』巻975 外臣部 褒異二 開元十五年条

 二月辛亥、鐡利靺鞨米象來朝、授郎將、放還蕃。

 二月辛亥の日、鉄利靺鞨の米象が来朝したので、郎将に任じ、帰国させた。

 開元15年(727)には靺鞨諸族のうち鉄利部の入朝があったが、その使者はマーイムルグ(米国)出身のソグド人が中国において称する米姓の者であった。つまり鉄利に進出していたソグド人が朝貢の使者として唐に派遣されてきたのだろう。

 日本に派遣された渤海の使者に安や史といったソグド姓を冠する者がいたことから、渤海にもソグド人が進出していたことが夙に指摘されているが*1、ソグドネットワークはさらにその北方、現在の黒竜江省からロシア沿海地方にかけて散在していた北部靺鞨諸族にまで延伸していたのだろう。エルンスト・V・シャフクノフが唱える「黒貂の道」論*2については眉唾な部分もあるが、ソグド人が北東アジアに足跡を残していたことだけは、この記事で例証されよう。

*1:福島恵「東アジアの海を渡る唐代のソグド人」(『東部ユーラシアのソグド人』汲古書院、2017)

*2:エルンスト・V・シャフクノフ「北東アジア民族の歴史におけるソグド人の黒貂の道」(『東アジアの古代文化』96、1998)

鳳凰がくる

 今年の大河ドラマ麒麟がくる』がスタートした。タイトルはもちろん孔子の「獲麟」の故事に基づいているのだろう。太平の世に出現する瑞獣麒麟。しかし戦乱絶え間ない時代に、孔子は本来あらわれるはずのない麒麟の亡骸を見つけてしまい、慨嘆する。世を正すことなく没した孔子と、天下を獲ることなく散った光秀を重ねるという、なかなか意味深長なタイトルである。

 孔子のもとには思いもよらず麒麟(の亡骸)がきてしまったのだが、史書にはおなじ瑞獣である鳳凰がきた人物の逸話がある。

 

『清異録』巻上 禽名門 黑鳳凰

 

 禮部郎康凝畏妻甚有聲。妻嘗病、求烏鴉為藥、而積雪未消、難以網捕。妻大怒、欲加捶楚。凝畏懼、涉泥出郊、用粒食引致之、僅獲一枚。同省劉尚賢戯之曰「聖人以鳳凰來儀為瑞、君獲此免禍、可謂黑鳳凰矣。」

 

 礼部郎(中?)の康凝は恐妻家として有名だった。妻が病をわずらったとき、カラスを薬にしたいと求められたが、外は雪がとけのこっており、網で捕らえるのは難しかった。妻は大いに怒り、彼を鞭打とうとした。凝は恐懼し、ぬかるみのなか郊外へまろび出て、穀物の粒でカラスをおびきよせ、ようやく一羽をとらえることができた。同僚の劉尚賢がからかっていった。「聖人は鳳凰が来ると瑞祥としたが、君はカラスをつかまえて災難を免れた。君のとってのカラスはさしずめ『黒鳳凰』といったところだな」

 

 ごめん、鳳凰じゃなくてカラスだったわ。

 しかし「黒鳳凰」ってネーミング、厨二っぽくてカッコいいな。

 康凝と劉尚賢については、管見の限りこの記事以外には名が見えず、彼らの経歴や、いずれの王朝の礼部郎中だったのかも不明である。『清異録』に収録されているからには唐から五代のいずれかの王朝であろう。

 康凝の家庭は完全なる「かかあ天下」で、彼の妻は北方遊牧民的一夫一妻制の名残をのこし、社会における礼教的規範がゆるんだ唐代に多く見られた、「妬婦」「悍妻」などといわれる鬼嫁である。*1

 時代を象徴するかのような夫婦像も然りながら、この逸話で僕が気になったのは、康凝夫妻がカラスを薬喰いしようとしている点である。寡聞にして僕はカラスを使った漢方薬や中華料理というものを知らない。ググれば「カラスの黒焼きは癲癇に効くとされていた」という話は拾えるのだが、たしかなソースは見つからない。むしろカラス肉と聞くと、北関東や信州、東北の一部で食べられていたというカラスつくね「ろうそく焼き」を想起してしまう。

 康凝夫妻がいかなる調理法でカラスを薬喰いしたのかは不明だが、カラス肉は高タンパクで低脂肪、低コレステロール、そしてタウリンと鉄分が豊富という大変ヘルシーでエネルギッシュな肉らしい(むね肉に含まれる鉄分は牛レバーの2倍以上!)*2。貧血気味の女性にはうれしい滋味だったのかもしれない。

 僕も犬やら虫やらを食べた記事を書くくらいなので、いかもの食いが好きなのだが、いつかカラス肉も食べてみたいし、そのときはブログに記事を書きたいと思う。 

ano-hacienda.hatenablog.com

ano-hacienda.hatenablog.com

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 さて、康凝夫妻について、もう一点気になったのは、康凝はその姓が示すようにサマルカンドにルーツを持つソグド人(あるいはその後裔)であるということだ。一般的に中国へ移住してきたソグド人はコロニーを形成し、同族間で通婚してアイデンティティーを維持するが、代を重ねるごとに漢人とも通婚し、「漢化」していく傾向を指摘されている。彼の礼部郎(礼部郎中のことか)が実職であれば、祭祀・教学等を管掌していたはずであり、中国へ移住してからある程度代を重ねて「漢化」したソグド人の後裔と考えられるが、彼の妻がおなじソグド系であった可能性も捨てきれない。僕は寡聞にして漢人がカラスを食べるという話を聞かないが、あるいはソグド人のあいだでは「病気になったらカラスを食え!」という習慣があったのかもしれない(妄想です)。

 しかし、どうでもいいけど康凝の嫁さん、旦那が「いや、カラス獲るにはコンディション悪いから…。雪残って地面ぐちゃぐちゃだから…」とか言い訳してたら鞭打とうとしてるし、実はめちゃくちゃ元気なんじゃないですかね。

 

 

*1:「妬婦」については、大澤正昭『唐宋時代の家族・婚姻・女性 婦は強く』「二章 嫉妬する妻たち—―夫婦関係の変容」(明石書店、2005)に詳しい。

*2:塚原直樹『本当に美味しいカラス料理の本』「コラム1 カラス肉の栄養成分」(SPP出版、2017)

唐土における非漢人の姓名について

 吉備真備が書いたと思われる墓誌が公開されたとのことで、僕のツイッターのTLもにぎわっている。

www3.nhk.or.jp

 真備は「朝臣備」と称していた(あるいは呼ばれていた)ようで、ウジではなくカバネを唐土における姓としていたらしい。これは阿倍仲麻呂も同様で、両唐書に記される彼の姓名は「朝臣仲満」である。

旧唐書』巻199上 東夷伝 日本国の条

 其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名為朝衡、仕歷左補闕・儀王友。

 その副使である朝臣仲満(阿部朝臣仲麻呂)は、中国の風を慕い、よって留まって帰国せず、姓名を改めて朝衡とし、左補闕・儀王友を歴任した。

 真備と異なり日本への帰国がかなわなかった仲麻呂は、「朝臣」という夷臭のする複姓を中国風に「朝」の一字姓に改めている。彼の姓について、詩文によっては「晁衡」と記され、「晁」は「朝」と音通であり、字義としてもともに「あさ」を意味するが、おそらく朝という姓自体が漢人にはないため、漢人の姓として通行していた「晁」に仮借したものであろう。あるいは唐人に劣らぬ仲麻呂文人としての資質能力を称賛するニュアンスがあったのかもしれない。突厥の阿史那氏出身の史大奈は、李淵長安攻略に貢献した功績から、中国風の「史」姓を賜っているが、夷臭のする姓より中国風の姓を上等とみなす同じ中華思想に根差したものだろう。

 このほかに平群朝臣広成は「朝臣広成」、多治比真人県守は「真人莫問」と記されており、遣唐使はカバネを唐における姓としていたようにうかがえる。カバネが示す家格ヒエラルキーなど日本国内でしか通用しないうえに、当時はすでに形骸化していたのではと、日本史に無知な僕には思えるのだが、文書を含めて公的な場面ではカバネを称する機会が多いことから、自然と日本人の姓として認識されるようになったのだろうか。

 

 唐土における非漢人の姓名は、日本人(遣唐使)については上述したようにカバネを姓とする傾向が見られるが、ほかの民族では、康阿義屈達干や米薩宝のように、突厥やソグド人コロニー内での役職がそのまま名になってしまうくらいいい加減な部分があったようだ。

 森部豊氏は、奚である李詩とともに唐へ帰順した瑣高、史思明が捕らえた奚の部将の瑣高、奚出身の李宝臣の仮父である張鎖高らをあげて、奚には「瑣高(または鎖高)」という名が多いことを指摘しているが*1、そもそも「瑣高」とは奚における酋長の呼称という説もあり、自身の部落をひきいて唐に帰順してきた奚の酋長が、瑣高または鎖高と漢語表記されるような呼称で呼ばれていたのを、唐側がその者の名と認識したものではないだろうか。

資治通鑑』巻214 唐紀30 玄宗開元二十四年(736)の条 「瑣高」所引胡注

 瑣高者、蓋奚中酋豪之號、非人名也。

 瑣高とは、おそらく奚における酋長の号であり、人名ではなかろう。

 胡三省がいかなる史料に基づきこのような注を記したかはわからないが、僕も状況証拠的に「瑣高」でひとつづきのタームとして理解すべきだと考えている。

 范陽節度使に仕えていた史思明は、奚中で勇名をとどろかせていた「瑣高」という部将を生け捕りにする功績をたてたが、これも奚王の旗下で自身の部落をひきいる有力酋長だったものであろう。『新唐書』ではこの瑣高について、瑣を姓、高を名とみなして表記しているが、「瑣高=一般名詞」説が妥当ならば、このあたりも非漢人の姓名に対する漢人の認識のずれを表しているようで興味深い。

「薩宝」や「瑣高」のように、その民族にとっての一般名詞だったものが、唐土においては、その立場にある者の固有名詞となるパターンが散見される。一般名詞がいかに固有名詞化されるかについては、われらが「校長」を思い浮かべれば了解されよう。

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 ともあれ、唐土における非漢人の姓名については、ずいぶんとルーズに運用されていたようである。唐にわたった彼らは、唐朝からは漢語表記の姓名で呼ばれる一方、自分たちの言語世界ーー日本語世界、テュルク語世界、ソグド語世界、奚語世界などでは、本来の名で互いを呼び合っていたものと想像される。

*1:森部「安禄山女婿李献誠考」(『関西大学東西学術研究所創立六十周年記念論文集』関西大学出版部、2011)257頁

「古代中国 墳墓の護り手」展雑感

 週末、神田にある東京天理ビル内の天理ギャラリーで開催されていたこちらの展示に行ってきた。

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 東京にも天理教のビルがあるというのは初めて知ったが、天理市の宗教建築とは違い、いたって普通のビルで肩透かしをくらう。

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   しかしエレベーターの内部は鏡張りで星座が描かれ、ちょっとおしゃれだった。

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 天理教と聞くと「え、新興宗教?」と身構えてしまうが、以前、天理参考館で開催された「天理サファリランド」という、シルクロード上に遺された動物意匠の文物の展示がすばらしかった(さらにいえば常設展も見応えがあって良かった)のと、天理市自体が独特の建築や、宗教が街にとけこんで「生きた宗教都市」といった風情があって散策するだけでも面白かったので、教義は知らずとも個人的には好感を抱いていたのだが、今回の展示もまた小規模ながら見応えのある内容だった。あくまでもビルのワンフロアにあるギャラリーなので展示数自体は少なめだが、一つひとつの展示品と丁寧な解説がとても良かった。

 

 展示は先史時代から唐代までの中国の墓葬における副葬品から当時の死生観をうかがう内容になっており、墓中に留まった死者の霊の安寧を乱し遺体を侵す魍魎を払う鎮墓辟邪のために用いられた器物で構成されている。

 たとえば「玉」は、その霊力によって邪気が体内へ侵入するのを防ぐと考えられ、遺体の防腐効果も期待されていた。「ダイヤモンドは永遠の輝き」ではないが、玉や金銀など鉱物の永続性への憧憬は、後に遺体を包む金縷玉衣や、不老長生のための丹薬に見られるように、肉体の保護から果ては不死幻想にまでつながっていく。

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 代表的な玉器である璧(普通の玉の璧の写真を撮り忘れたので滑石製の璧と孔が大きめの瑗の写真を貼っておきます)。遺体の頭部や脚部におかれたという。

 

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 ランドルト環のように璧の一部が欠けた玉器の玦。写真は西周時代のものだが、鴻門の会で范増が項羽劉邦を殺す決意を促すために示した器物としておなじみである。ADが「巻きでお願いします」とカンペを出すように、范増はこれを項羽に向かってチラチラ見せていたわけだ。

 

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 まるで福笑いのような西周時代の玉覆面。写真を拡大するとわかるが、各パーツの端に小孔が穿たれており、遺体の顔に布を被せ、その上にこれらの玉片を綴じあわせたものらしい。髭のパーツもあるので、成人男子にとっては髭がデフォルトだったことがわかる。

 

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 漢代の含蟬。遺体の口腔に納める蟬型の含玉という玉器である。口からの邪気の侵入を防ぐための器物だが、蝉は羽化登仙の象徴であり、漢代に勃興していた神仙思想の影響がうかがえる。

 

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 漢代の玻璃製の塞玉。ガラスは玉の代用品として用いられたらしく、この塞玉も遺体の耳や鼻などを塞いで防腐するための器物とのこと。

 

 玉のほかに代表的な副葬品としては戈や剣などの利器があげられる。

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 鋭利な武器が邪を払うという感覚は我々にも理解しやすい。

 

 そのほかにも西王母や神仙を描いた塼で墓室や棺の壁面を飾り、空間ごと辟邪をおこなうケースもあったようだ。

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 写真は漢代の空心塼だが、上段に描かれた怪人は、『山海経』に記される原始的な西王母像とのこと。後世の女性らしい柔和なイメージからは遠く、たしかにこれなら悪霊邪鬼を威圧できそうだ。

 

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 こちらも漢代の空心塼だが、描かれるのは一対の怪獣と、それを追う仙鹿に乗った羽人。

 

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 空心塼のなかには柱状のものもあり、邪鬼を威圧するようなけわしい獣面のものや、柱礎部に紐で結んでぶら下げられた璧の意匠を施したものもある。

 あーわかる、僕も大学生のときにこういうネックレスをぶら下げてる風プリントのクソださフェイクTシャツ着てましたね(一緒にすんな)。

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 このほかにも香による防虫効果を期待された香炉や、

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四神や十二支によって各方位を守護する鏡、

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擬人化された十二支の俑などもあった。

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 また、古代中国の人びとは動物の異能にも神秘性を見出していたらしく、暗闇を飛びまわるフクロウや朝を告げるニワトリなどの鳥を象った器物も見受けられた。

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 神仙思想の勃興期、仙人は「羽人」と呼ばれる翼を持った姿で描かれていたように、空を飛ぶ鳥に天上とのつながりを想い、神聖視するという感覚は我々にも共感できよう。

 しかし、僕は今回の展示ではじめて知ったのだが、鯀や禹が化身した説話があるように、熊が強い霊力を有した動物とみなされ、漢代以降、副葬品として熊形の器物が流行った時期があったらしい。

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 後漢の熊形脚燈。灯台鬼かよ!

 というかあの説話も遣唐使か誰かが中国でこういう灯台を見たところから生まれてそう。

 

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 青銅の火のし(アイロン)を熊形の脚台にセット。やだ、何これかわいい…。

 

 さて、時代が下ると鎮墓辟邪には兵馬俑のように武人を象った鎮墓俑を用いることが増えていく。

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 北魏の武人俑だが、彫りが深くて胡人風のビジュアル。

 

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 こちらも北魏の武人俑。素環刀と盾、明光鎧で重武装しており、いかにも墓を守ってくれそうで頼もしい。

 

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 君はちょっとカマっぽいな。これはこれで悪霊邪鬼が逃げ出しそう。

 

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 頭部だけ残った唐代の武人俑だが、鬼気迫る表情が何とも威圧的。

 

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 唐代半ばからは仏教の盛行もあり、鎮墓俑は西域由来の天王俑が主流となっていく。足もとに邪鬼を踏みつける造形が多く、やはり鎮墓辟邪の用途をあらわしている。

 

 これら鎮墓俑とセットで副葬されることが多いのが、想像上の獣を象った鎮墓獣である。

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 獅子をモチーフにしたと思しき怪獣「辟邪」。その名のとおりの働きを期待された神獣である。

 

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 犀牛形鎮墓獣。角の持つ霊力で悪霊邪鬼を払うと考えられていた。

 

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 いや、お前は角ねじねじしすぎだろ!中尾彬か!!

 

 そんな彬に見送られ、たっぷり1時間以上も楽しんで展示会を後にした。

 今回僕が写真を載せたのは展示品の一部であり、これ以上に多彩な副葬品を閲覧できる貴重な企画だった。何より写真撮り放題(フラッシュ厳禁)、そして無料というのがありがたい。新興宗教のビルと聞くと近寄りがたいイメージがあるが、東洋史に興味がある方はぜひ臆せずに見に行ってほしい。11月30日(土)までだけど。

 

登州文登県における仏像出土とその背景~『五代会要』の瑞祥記事を読む

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 先日の即位礼正殿の儀の最中、それまで降っていた雨があがり、空に虹がかかったことで、僕のツイッターのTL上にも「瑞祥だ」というざわつきが流れてきた。

 もちろん皆さんネタでいっているのだが、世の中にはすなおに感動している方も多いようで、政教分離が進んでいるように見え、無宗教ともいわれる現代日本でも、天皇家に対する信仰心は抜きがたく潜在しているようだ。

 現代日本でもこのような「偶然」に「瑞祥」という意味があたえられるなら、王権と天人相関説が固く結びついていた前近代の日本や中国では、「偶然」がどれほど重視されたのか。史書にどのような「瑞祥」が記録されていたのか。興味本位に手元にあった『五代会要』をひもといてみると、気になる記事にぶつかった。

 

 五代の後晋少帝の開運3年(946)のことである。

『五代会要』巻五 祥瑞

 至三年六月、登州文登縣地内磅出金銅佛像四、瓷佛像十。

 三年六月に至り、登州文登県の地中から金銅の仏像が四体、陶製の仏像が十体出土した。

 「磅」は石が落ちるような大きな音をあらわすので、「磅出」という語から轟音とともに仏像が現れたようすがうかがえる。ありがたい仏像が突如地響きとともに地中から湧き出てきた。しかも14体。うん、現代日本人の僕から見てもりっぱな「瑞祥」である。この事件は『旧五代史』では次のようにとりあげられている。

『旧五代史』巻八十四 晋書十 少帝紀第四 開運三年六月の条

 六月庚申朔、登州奏、文登縣部內有銅佛像四・瓷佛像十、自地踴出。

 六月の庚申のついたち、登州が奏上したことには、文登県内で銅の仏像四体と陶製の仏像十体の、地中より躍り出てきたものがあったという。

 ちょっと躍動感あふれすぎじゃないですかね、仏像。これは写メ撮って「瑞祥わろた」とツイートしますわ。まあ「踊り出て」は我ながら原文を逐語訳しすぎだと思うが、要するに両記事とも「勢いよく仏像が地中から出てきた」ことを記録しているのである。

 しかし超自然的な「瑞祥」であれば、地中から14体もの仏像が勢いよく飛び出してきても許容されようが、あまりにも現実離れしている。史料に即して現実的に、仏像出土の背景を探ってみよう。

 

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中国歴史地図集/唐代/都畿道・河南道

 後晋少帝の開運年間(944~946)は、契丹との和約が破れて北辺を連年侵犯され、また登州を巡属とする青州平盧軍節度使の楊光遠が反乱を起こして鎮圧され、平盧軍は解体、登州も含めて山東半島一帯に広がっていた領域がすべて後晋朝の直轄領となった時期である。このような外寇と内乱が相次ぐなか、開運3年(946)には山東を中心に、大規模な飢饉が発生していたことが史料上に見受けられる。

『旧五代史』巻八十四 晋書十 少帝紀第四 開運三年三月の条

 辛亥、密州上言、飢民殍者一千五百。

 辛亥の日、密州が上言することには、飢民の餓死する者は千五百人にものぼったいう。

 4月には次の記事も含めて祈雨記事が2件もあるため、この飢饉は旱魃の影響と見受けられるが、山東半島の付け根では群盗がむらがり起こるほどの騒乱状態であったという。

『旧五代史』巻八十四 晋書十 少帝紀第四 開運三年四月の条

 乙亥、宰臣詣寺觀禱雨。曹州奏、部民相次餓死凡三千人。時河南・河北大飢、殍殕甚眾、沂・密・兗・鄆寇盜羣起、所在屯聚、剽劫縣邑、吏不能禁。

 乙亥の日、宰相たちが寺院や道観で雨ごいをした。曹州が上奏することには、民が相次いで餓死し、あわせて三千人にのぼったという。ときに河南・河北には大規模な飢饉が生じ、餓死者が非常に多く、沂・密・兗・鄆の各州では群盗が起こり、いたるところに集まっては県邑を襲って略奪し、官吏もおさえることができなかった。

 五月に入っても飢饉は続く。

『旧五代史』巻八十四 晋書十 少帝紀第四 開運三年五月の条

 青州奏、全家殍死者一百一十二戶。

 青州が上奏することには、一家が全て餓死した家は百十二戸という。

 天下がこのような状態で、北辺ではなお対契丹戦争が続いているという非常事態だが、少帝はこのときも寵臣の邸第への行幸や舟遊びをくりかえし、金印を彫らせたりと遊興にうつつを抜かす体たらくであった。少帝はのちに契丹に滅ぼされる亡国の君であり、後晋自体もその成立時に燕雲十六州を契丹へ割譲するなど、のちに地盤をひきついで中国を再統一した北宋にとっては禍根を残した天子であり王朝であったことを考えると、あるいはこの暗君としての描かれ方には若干のバイアスがかかっているのかもしれない。天災は実際に起きていたのだろうが、ことさら強調するように記載が多いのは、亡国の兆しとしての伏線とも解釈しうる。災異とは天子が徳を失ったとき、つまり失政を天が譴責するために起こすものである、という災異思想の文脈で一連の記事をながめると、宋代の史家によって張られた、少帝の亡国という物語の伏線のようにも読めるのだ。ともあれ少帝の天子としての個人的資質は措くとしても、後晋という朽木が内憂外患に蝕まれ、いまにも倒れようとしていたことだけは確かであった。

 このような惨状が続いた六月、飢饉と群盗の嵐がふきあれる山東半島の突端にある登州において、突如として仏像が出土したのである。

 登州からのこの上奏が、いかに少帝をはじめ京師の人びとをよろこばせたか、天子の徳の発露たる「瑞祥」として尊ばれたか、記録に残して印象操作をはかろうとしたか、相次ぐ台風被害にみまわれた千葉県をはじめ被災地をすておき、皇居上空にかかった虹に神秘を感じる現代日本人を見れば想像に容易い。ネットと史料を見比べて、「瑞祥」とはそういう道具なのだと改めて感じた。

 

 皇居の上空に虹がかかったからといって被災地の復興が進むわけではないように、仏像が出土したからといって飢饉がおさまるわけではない。仏像出土後は飢饉と群盗蜂起のほかに、長雨とそれに伴う黄河の決壊記事が頻出するようになる。つまり悪化している。

『旧五代史』巻八十四 晋書十 少帝紀第四 開運三年七月の条

 楊劉口河決西岸、水闊四十里。…(中略)…辛亥、宋州穀熟縣河水雨水一概東流、漂沒秋稼。…(中略)…自夏初至是、河南・河北諸州郡餓死者數萬人、羣盜蜂起、剽略縣鎮、霖雨不止、川澤汎漲、損害秋稼。

 楊劉口で黄河の西岸が決壊し、氾濫した水が四十里にまで広がった。…(中略)…辛亥の日、宋州の穀熟県では(汴水が決壊して?)河水と雨水がともに東側へ氾濫し、作物を水没させた。…初夏よりいまに至るまで、河南・河北の諸州では餓死者が数万人に達し、群盗が蜂起しては、県や鎮を略奪しており、長雨もやまず、川や沢は氾濫し、作物に損害をあたえていた。

 4月の段階では旱魃が飢饉の原因だったと見られるが、雨乞いが功を奏しすぎたのか、その後は長雨が続き、黄河をはじめ河川の氾濫が各地で起こり、ただでさえ実りが悪かったであろう作物に損害をあたえている。この後も河北・河南での黄河決壊記事が陸続とつづくが、仏像出土という「瑞祥」にはまったく験がなかったことが実証されている。

 先日の台風の影響で、墓地で土砂崩れが起こり、土葬していた頭蓋骨が流出したという画像付きツイートが流れていたが、おそらく登州の仏像についても、初夏から続いていた長雨によって地盤が緩み、土砂崩れとともに地中に埋没していた仏像が出土したものと考えられる。「瑞祥」のからくりとは、このようなものだったのだろう。単なる偶然に、ときの為政者が天子の徳の高さを示す「瑞祥」として意味付けして政権の正統性の補強材とし、呪術的迷妄から抜けきれない民衆はそれをありがたがるという図式である。

 

 では、この仏像たちはどういう経緯で地中に埋没していたのか。以下は蛇足である。

 仏像が出土した登州文登県は、我らが慈覚太師円仁が遣唐使使節団から抜け出し、入唐求法の第一歩を踏み出した地として知られる。当時の円仁の日記『入唐求法巡礼行記』(以下『行記』とする。なお『行記』の訳文については深谷憲一訳『入唐求法巡礼行記』(中公文庫、1990)による)には、彼が滞在した文登県清寧郷の赤山村という在唐新羅人コロニーでの暮らしぶりが活写されているが、その中心となったのが赤山法花院という新羅人勢力によって建立された仏寺である。当然ながら赤山院にも仏像が存在していたことは『行記』にも記録されているが、それが金銅製か陶製かなど材質までは不明である。

『入唐求法巡礼行記』巻二 開成四年十一月の条

 九日。冬至節。眾僧相禮。辰時、堂前禮佛。

 十一月九日。冬至の日。大勢の僧がお互いにあいさつを交わす。午前八時、堂の前で仏を礼拝した。

 赤山村周辺のおなじ新羅人コロニーと思しき村落にも、真荘村には天門院なる寺院があり、劉村という村落では、当地の新羅人の夢に文殊菩薩があらわれ、土中に埋もれた古寺の仏像を掘り起こすようお告げをしたという伝承があり、円仁も実際に「白石」の弥勒菩薩像を礼拝しているように、複数の仏寺や仏像が存在していた。また、文登県城にも円仁が宿泊した恵聚寺、中食をとった恵海寺の極楽闍梨院など複数の寺院が見える。

 そしてこれらの仏寺は円仁が登州を離れたあと、武宗の会昌の廃仏によりことごとく廃却され、仏像も表面の金を剥ぎとられて没収されるという悲劇にみまわれた。

 会昌5年(845)、廃仏の嵐ふきあれる長安から弾圧を逃れて登州へ戻った円仁が直面したのが、この惨状である。

『入唐求法巡礼行記』巻四 会昌五年八月の条

 十六日、到登州。見蕭端公新來赴任。又有敕云「天下金銅佛像、當州縣司剝取其金、稱量進上者。」…(中略)…雖是邊北、條流僧尼、毀拆寺舍、禁經毀像、收檢寺物、共京城無異。況乃就佛上剝金、打碎銅鐵佛、稱其斤兩、痛當奈何! 天下銅鐵佛・金佛有何限數、准敕盡毀滅化塵物。

 八月十六日。登州に到着、蕭端公(蕭侍御史兼登州節度使)にお会いした。新しくこの州に赴任して来た人である。また勅があってそれによると、天下の金銅仏像はその州の県役人がその金を剥ぎ取り、目方をはかって献上せよということである。…(中略)…ここは都から遠く離れたところであるが、勅令による法規によって僧尼を強制還俗させ寺院を破壊し、経の所持を禁じ仏像をこわし寺の所有物を官に没収することは、長安の都と何ら変わるところがない。まして仏像の上についている金を剥ぎ取り銅鉄仏を打ち砕いてその目方をはかるとはまさに何ともしがたい痛ましいことである。天下の銅鉄の仏、金の仏はどれほど数に限りのある貴重なものかわかっているのに、勅に従ってすべて破壊し尽くしてただの金屑にしてしまった。

 さらに文登県では、新羅人コロニーを管理していた「張大使」こと張詠から、赤山村においても赤山院が廃却されたことを知らされるのである。

『入唐求法巡礼行記』巻四 会昌五年九月の条

 大使宅公客不絕、向大使請閑靜處過冬。本意擬住赤山院、緣州縣准敕毀拆盡、無房舍可居、大使處分於寺莊中一房安置、飯食大使供也。

 また張大使の家は公務関係の客が絶えずやってくるので、大使に閑静な所でこの冬を過ごしたいとお願いした。本心は赤山院に住みたかったのであるが、州と県が勅に従って破壊しつくしたので泊まれるような宿坊があるはずはなかった。張大使は寺院の荘園の中の一つの住居に住めるよう配慮してくれ、食事は大使自身が面倒をみてくれた。

 この後、武宗が崩じて宣宗の代になると一州につき二寺院の建立が認められるようになる。よって開運3年(946)に登州文登県より出土した仏像は、廃仏後に復興した寺院が唐末五代の戦乱のなかで荒れ果て、自然と土中に埋もれたものであったかもしれない。しかし、僕は不法滞在者であった円仁を助けた数々の新羅人僧侶たちの姿を『行記』のなかに認めるとき、これは当時の勇気ある寺僧たちによって、廃仏から逃れるため土中に埋められた仏像ではなかったかと空想するのである。

 そうであれば、後晋朝が瑞祥として仏像出土を記録したことには政治の道具以上の価値はないが、かつて円仁が礼拝したかもしれない、文登県の善男善女や唐で暮らす新羅人たちの心の拠り所であった仏像が、弾圧を免れ再び日の目をみたことは、紛れもなく「瑞祥」であったのではないだろうか。

乱世の犬バカフードファイター~宦官これくしょん(1)廖習之~

 宦官という人種には、後宮の奥で陰謀をめぐらせるような、あるいは天子の股肱でありながらその廃立を画策するような、どこかぬめりとした陰湿なイメージがつきまとっている。三国志でおなじみの後漢十常侍や、秦を滅亡に導いた趙高、明の専横者・魏忠賢らの影響が大きいのだろう。

 しかし、実際に漢籍に触れていると、そういった一般的なイメージの枠外にいるような宦官も多数見受けられる。本シリーズでは、僕が漢籍を読んでいて出会った気になる宦官について、一般的なイメージのバイアスを除き、史料に即して虚心坦懐にその活動を綴っていきたい。

 

 第1回目は五代の後晋高祖・石敬瑭に仕えた廖習之をとりあげる。

『清異録』巻下 肢體門 五百斤肉磨

 晉祖時、寺宦者廖習之、體質魁梧、食量寬博、食物勇捷有若豺虎。 晉祖 嘗云「卿腹中不是脾胃、乃五百斤肉磨。」

 後晋の高祖のとき、宦官の廖習之は、身体つきはりっぱで、食べる量もすこぶる多く、物を食べるときはヤマイヌやトラのような猛然たる勢いであった。高祖はかつて言った、「そなたの腹のなかには内臓ではなく、五百斤の肉の碾き臼が入っているようだな」と。

 唐代の度量衡では1斤が660gなので、500斤は330㎏である。お前の腹のなかには300㎏の碾き臼が入ってるようだと、石敬瑭にからかわれたのだが、現代日本人の感覚ではなぜここで臼が出てくるのかピンとこないと思うので、解説する。

 唐代の華北では粟や麦が主食としてよく食べられたが、従来は手回しの臼で行われた製粉作業が、碾磑とよばれる水力で動く石臼によって機械化されたことにより、粉食が盛行し、多様な「餅(日本でいうモチではなく、小麦粉などを練って焼いたもの)」が生まれ、庶民にも愛好された。その一方で碾磑本体と製粉施設、さらにはそこに付随する水利権が利権化し、貴族や寺院などの重要な経済基盤となっていたのである。つまり当時の人間にとって、臼は食生活のベースを支える装置であり、富裕層の財産でもあったのだ。

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※このような手回しの臼による製粉作業が碾磑によって機械化された。(写真はすべて黄正建『唐代衣食住行』(中華書局、2013)より)

 

 麦を入れればゴリゴリ挽いていく碾磑のように、口にしたものをモリモリ消化していく大食いマシーン廖習之。どこか「ジャイアント白田」を連想させる「五百斤肉磨」というあだ名には、彼の大食いに対する敬愛がにじんでいるように思える。

 

 また、廖習之とほぼ同時代に起きた、唐末の黄巣の乱における悪名高い人肉食エピソードからも、当時の碾磑の在り方がうかがえる。

旧唐書』巻200下 黄巣

 賊圍陳郡三百日、關東仍歲無耕稼、人餓倚牆壁間、賊俘人而食、日殺數千。賊有「舂磨砦」、為巨碓數百、生納人於臼碎之、合骨而食。其流毒若是。

 賊が陳郡を囲むこと三百日、潼関の東側では依然として耕作できず収穫もないため、人びとは餓えて障壁にもたれかかり、賊がそこをさらっては食料にし、日に数千人も殺すほどであった。賊には「舂磨砦」があり、巨大な石臼数百基からなり、人を生きたまま投げ込み、骨ごと挽き砕いて食料にしていた。その流毒はこれほどのものであった。

 戦乱によって飢餓が蔓延していた当時、黄巣軍は「舂磨砦」という食料基地を設けて数百の巨大な石臼を設置し、戦争捕虜を投げ込み骨ごと粉砕して人肉ミンチをつくっていたという。石臼の規模や人間を骨ごと砕ける粉砕力からして、手回しではなく水力を利用した碾磑施設の集積地だったのではないかと思うが、自分たち民衆を食い物にしてきた貴族や寺院の碾磑を奪って、逆に彼らを文字通りの「食い物」にしてしまう残虐さは平山夢明のホラー小説のようでもある。

 ともあれ、このような碾き臼が食料の加工を支えていた時代を廖習之は生き、そのあだ名にも反映されていたのである。

 

 さて、正史には現れないほぼ無名の宦官であった廖習之だが、彼には大食い以外にもうひとつのエピソードが残されている。

『清異録』巻上 獣名門 黄奴 

 耒陽廖習之家、生一黄犬。識人喜怒頤指、習之嘗作歌云「吾家黄奴類黄耳。」

 耒陽の廖習之の家に、一匹の黄犬が生まれた。人の機嫌を見わけてあごで使うことができたので、習之はかつて歌をつくって「吾が家の黄奴、黄耳に類(に)たり」とうたった。

 よく愛猫家が「自分が猫の主人なのではなく、猫が自分の主人なのだ」ということを宣うが、廖習之と黄奴の関係も同じだろう。廖習之や家族の者の機嫌がよいときに甘えてきて、その愛くるしさで要求をのませる。イヌ的な忠順というよりは非常にネコ的で賢い犬である。その賢さを愛でた廖習之は、黄奴を西晋文人として名高い陸機の愛犬「黄耳」になぞらえている。

『晋書』巻54 陸機伝

 初機有駿犬、名曰黃耳、甚愛之。既而羈寓京師、久無家問、笑語犬曰「我家絕無書信、汝能齎書取消息不。」犬搖尾作聲。機乃為書以竹筩盛之而繫其頸。犬尋路南走、遂至其家、得報還洛。其後因以為常。

 はじめ陸機は駿犬を飼っており、名を黄耳といい、たいそう可愛がっていた。みやこに寄寓していたとき、久しく実家との音信が途絶えていたため、笑って犬に語りかけた。「我が家からめっきり手紙が届かなくなったなあ。お前、ちょっと手紙を届けてようすをみてきてくれないか。」犬はしっぽを振ってワンと一声。陸機はそこで手紙をしたため竹筒に入れ、その首にくくりつけた。犬は道をさがして南へと走り、ついにその家へたどり着き、返書をもらい洛陽へ帰ってきた。その後は黄耳が洛陽と実家を往復するのが常となった。

 陸機は三国志でおなじみの陸遜の孫にあたるが、呉の滅亡後は西晋のみやこ洛陽へ出仕していた。そのときに江南の実家との連絡係として、愛犬の黄耳に手紙をくくりつけ、伝書鳩ならぬ伝書犬にしていたのである。それほど賢い黄耳に己が愛犬をなぞらえる廖習之。はっきりいって犬バカである。『清異録』のこの一文からは、黄奴にデレデレな彼の溺愛っぷりがにじみ出ていて微笑ましくなる。

 

 また、「黄奴」の記事からは、廖習之が陸機と黄耳の故事を踏まえて詩作ができるような、(文学的センスはともかく)一定の教養のある人物であったことが読み取れる。五代は乱世のため、目に一丁字なき武弁が官界に幅をきかせ、清河崔氏という名門出身であり後唐明宗朝の宰相をつとめた崔協でさえ、文字をわずかしか知らず「没字碑(字の書いてない石碑)」と蔑まれたほど文官の教養レベルが落ちていた。漢字が読めないどこかの国の首相や、北方四島の読み方がわからない北方領土担当大臣のような話である。こういった環境にあって、一介の宦官にすぎない廖習之の教養の深さは稀有なことであった。サイバーセキュリティ担当大臣がUSBを使えるくらい稀有なことであったのだ。これまでマッチョでドカ食いする犬バカという、「オデ、黄奴、スキ」「陛下ノ、ゴハン、マルカジリ」とか片言でしゃべる知能指数が低いパワーキャラみたいな印象しかなかったのに、ギャップがあるなあ。

 しかし管見のかぎり、廖習之が現れる史料は今回とりあげた『清異録』の記事のみであるため、彼の経歴は知りようがなく、その教養の由来についても不明だが、彼の出身地が衡州耒陽県であることは注目に値するかもしれない。

 ただの偶然かもしれないが、そこは宦官としての大先輩である後漢蔡倫の出身地なのである。 

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中国歴史地図集/唐代/江南西道

 現代でいえば湖南省の耒陽市だが、唐代では安史の乱を避けた流浪の杜甫が客死したともいわれる辺陬の地である。

 この周辺では唐末五代にかけて、雷満という文身断髪の武陵蛮の頭領が自立割拠したように、もともと少数民族の勢力が強い地域であった。後漢代から漢人の入植が進んだことによって、先住の「武陵蛮」「五渓蛮」などとよばれる少数民族とのあいだに衝突が起こったが、漢人王朝からは少数民族の「反乱」と見なされ、武力鎮圧され続けてきた土地である。こういった少数民族が先住し、漢人にとってはフロンティアとなる土地から、嶺南出身の高力士がそうであったように、戦争捕虜あるいは中央への献上品として男子が狩り出されて去勢手術を受け、宦官として供給されてきたことは夙に指摘されている。

 蔡倫の出自についても、後漢の桂陽郡耒陽県の出身であることしかわからず、後宮へ入る以前の経歴は一切不明である。ただ、「才学が有」るという個性は廖習之と共通しているが、これは両者ともに宮中へ入ってからの教育の賜物ではないかと思う。

 なんら確証のない推論だが、廖習之も蔡倫も、こういった民族的な背景を背負った宦官であった可能性が考えられよう。

 

 五代は乱離の時代である。史書に見えるのは武人による戦乱・陰謀と、文官による苛斂誅求ばかりである。そのなかにあって、大きな功績を残したわけでもなく、ただ大食らいで犬バカというだけで史書の片隅に名を留めた廖習之の存在は、どこか心和ませるものがある。

 しかし、彼を「犬バカフードファイター」とキャラ付けして、のほほんと可愛がってよいものか、こんなタイトルの記事を書いておいて何だが、疑問も生じる。

 三田村泰助はその著者『宦官』で、清末に北京を訪れた英国人ステントの報告として、当時の宦官は女や子どもに愛情を持ち、ペットとして小さな犬を可愛がる傾向があったことを記しているが、子孫を残せない廖習之にとっても、黄奴はわが子の代わりのような存在だったのかもしれない。

 また、犬や猫は去勢するとホルモンバランスが崩れて食欲旺盛になることがあるといわれており、犬や猫と人間のホルモンのメカニズムを同一視できるかは不明だが、廖習之の異常なまでの食欲も、生来の大食らいが去勢によって拍車がかかったのではないかとも考えられる。ステントは宦官に情緒不安定な傾向があったことを指摘しているが、これも去勢によるホルモンバランスの乱れが原因ではないだろうか。

 そういった視点からながめると、廖習之の「犬バカフードファイター」という一見面白いキャラの裏にも、フランケンシュタインの怪物のような歪さと悲しみ、さらには抑圧された少数民族の悲劇が見え隠れするのである。