壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

日本最北の関帝廟があると聞いて

 行ってきました、函館中華会館に。

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 といっても、現在、一般公開はしていないので、中の関帝廟には参拝できない。

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 それでも西暦1910年ということは、清朝の宣統2年に建てられたわけで、日本で唯一の清代建築らしい。

 幕末から開港した函館には俵物や昆布の取引のために華僑が移住してきており、彼らの集会所として機能していたとのこと。

 横浜の現在の関帝廟が戦後に再建されたものであることを鑑みると、日本最北かつ最古の関帝廟になるのではないか。

 

 中には入れないので外観だけ。

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 赤茶けた煉瓦造りの外壁は、和洋折衷の函館の街並みにもしっくりなじむ。横浜中華街にあるような満艦飾のギラギラした派手さはなく、むしろ質実剛健といった印象。

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 いまにも緑に呑み込まれそう。

 

 近くにはイギリス領事館もあるし、函館といえば西洋風の建築というイメージが強いが、ラッキーピエロ創業者の王一郎会長も華僑だし、横浜や神戸、長崎ほどでなくとも「華僑のまち」という側面もある。王会長は陳舜臣と同じ神戸華僑(王会長は福建系、陳舜臣は台湾系だが)なので、函館華僑の末裔ではないのだけど、故郷と似ている函館に惹かれて移住したそうなので、開港地特有の雰囲気は共通しており、そのまちづくりの一端には華僑も関わっていたということなのだろう。

 僕はソグド人のように、日本全国に張り巡らされた華僑ネットワークに乗っかって函館に移住してきたのでは?と妄想したけれど。

 関帝廟は期間限定で公開したこともあるそうなので、次回に期待したい。そのときはまた参拝しに来よう。

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博浪沙のはなし

 黄河の流域には沙地や沙丘が形成されることが多いという。

 黄河が運ぶ土砂は、氾濫のたびに沖積平原に堆積されていき、乾燥した土砂に強風が吹きつけると、細かい粒子だけが吹き上げられ、沙地や沙丘が形成される。この沙地について、大川裕子氏は、古代中国では「神秘的な霊力の存在を認め」られていたと指摘する。*1 

 春秋時代の会盟地として、丘・山・水辺などの土地が選定されることが多いが、これは会盟を監する神として、山川の鬼神の存在が関係していたためであり、沙地についても同様に会盟地に選択されることや、殷の紂王、趙の武霊王、秦の始皇帝らが崩じた沙丘平台が「権力者たちの滅びの場として語り継がれていた」と思しきこと、沙麓が崩れるという自然現象が災異として記録されたことなどを挙げ、沙地が「非日常的な要素を備えた自然」として認識されていたと論じている。

 

 この大川氏の指摘の当否は門外漢の僕にはわからないが、この視座に立って『史記』を読み返したとき、沙丘のほかにもうひとつ、有名な沙地が登場することに思いあたる。始皇帝暗殺未遂劇の舞台となった博浪沙である。

史記』巻55 留侯世家

 良嘗學禮淮陽、東見倉海君、得力士。為鐵椎重百二十斤。秦皇帝東游、良與客狙擊秦皇帝博浪沙中、誤中副車。秦皇帝大怒、大索天下、求賊甚急、為張良故也。

 

 張良は淮陽へ行って礼を学び、東行して倉海君に会い、大力の士を得た。鉄槌をつくり、その重さは百二十斤あった。秦の皇帝が東方に遊幸した際、良は客とともに博浪沙で秦の皇帝を狙い撃ったが、鉄槌は誤って副車にあたった。秦の皇帝は激怒し、大いに天下に犯人を捜索させ、追及は甚だ急だったが、それは張良のせいであった。

 秦に滅ぼされた韓の宰相の家系であった張良は、刺客を養い、巡幸途中の始皇帝の暗殺をはかる。舞台となった博浪沙は、河南の陽武県の南に位置する。同じく陽武県の南には、始皇帝が開いた鴻溝という運河が流れ、黄河と淮水とを繋いでおり、博浪沙もこの流域に形成された沙地であったのだろう。

 博浪沙という沙地で一命をとりとめた始皇帝だったが、のちに沙丘という、これは黄河の旧河道付近に形成された別の沙地で崩御する。彼の死は沙地とよくよく因縁があるようだ。

 しかし、これだけでは博浪沙ひいては沙地そのものに、当時の人びとが霊威を認識していたのかは判然としない。そこで秦漢代における他の沙地の事例を探してみると、武帝が巡幸しようとしていた万里沙という沙地が確認できる。

史記』巻12 孝武本紀

 是歲旱、於是天子既出毋名、乃禱萬里沙、過祠泰山。

 

 この年は旱魃であった。天子は出遊の名目がないので万里沙に祈ることとして、泰山に立ち寄ってこれを祠った。

 万里沙については、『史記集解』が引く応劭の注によれば「萬里沙、神祠也、在東萊曲城。」とあり、山東半島にある東萊郡曲成県(「城」は「成」の誤り)に存在する「神祠」のようだが、孟康の注によれば「沙徑三百餘里。」とのことなので、実際に沙地が存在したようだ。「三百里」は、広大さを表すレトリックであって実測値ではないのかもしれないが、仮に孟康が生きた魏の度量衡で換算すると、その直径はおよそ130㎞以上になり、東西16㎞ほどの我が鳥取砂丘とは比較にならない広さである。

漢書』巻28上 地理志8上 東萊郡

 曲成、有參山萬里沙祠。

 

 曲成(県)、参山の万里沙祠あり。

 『漢書』地理志によれば、万里沙祠は参山にあったとのことなので、山岳の鬼神を祀ったものとも考えられるが、その名称からすれば、やはり祭祀の対象は沙地の鬼神であったのではないか。渤海湾に臨む参山の麓に広がる広大な砂地。方術が盛んであった斉の人びとは、その大自然に霊威を認識していたのではないだろうか。

漢書』巻25下 郊祀志5下

又祠參山八神於曲城、…(後略)…。

 

また参山の八神を曲城(成)に祠り、…(後略)…。

 なお、のちに漢の宣帝も参山の「八神」を祭祀対象としているが、この「八神」とは、斉の地に伝わっていた天主、地主などの八つの神格で、山東半島北方の渤海湾に面した名山や、天斉、蚩尤などの鬼神を指すようで、始皇帝も東方巡幸の際に祀っている。このうちの第四を「陰主」といい、『史記』封禅書では「三山」としているが、「三」は「参」に通じることから、参山と考えられる。もともと斉のローカルな山川の鬼神が、秦の統一により中央の祭祀対象として回収され、その滅亡後は祭祀体系ごと漢に引き継がれているのである。

 万里沙祠が陰主たる参山を祀った祠なのか、あるいは漢代には参山からその麓に広がる万里沙まで祭祀対象を拡大していたものなのかは不明だが、漢代中期に至っても、沙地に霊威を認識していた人びとの記憶が連綿と受け継がれていたことがわかる。

 

 そうなると、博浪沙故事についても、鬼神の霊威が発揚される場である沙地という舞台設定が、どうにも出来すぎているように思える。同じ始皇帝暗殺の物語である荊軻の故事についても、第三者が知りえない秘密裡の会話や、出発の舞台が易水という鬼神が関与すると認識されていた水辺であったりと、創作的な雰囲気が濃厚である。

 『史記』が文献史料だけでなく、司馬遷が各地で採取した口碑も取り入れた、いわゆるオーラル・ヒストリー的手法に則っていることは周知の事実である。宮崎市定も刺客列伝をはじめいくつかの故事について、民間での語り物に依拠していると推測していたが、僕も留侯世家のうち博浪沙故事については、当時の人びと(特に旧六国地域の人びと)に共有されていた沙地認識を背景とした民間伝承がソースなのではないかと想像している。暗殺に失敗した張良が逃亡先の下邳で黄石公から太公望の兵書を授けられたり、最後は神仙になろうとしていたりと、漢代に流行した神仙思想の影響なのか、留侯世家は博浪沙故事以外の箇所についても神怪な雰囲気が漂っており、虚構性が強い。

 ともあれ『史記』に描かれる数々の物語たちは、沙塵の彼方に隠れるように茫として、容易には実像をつかませてくれないようだ。

 

*1:大川「黄河下流域における沙地利用の歴史的変遷」(鶴間和幸編『黄河下流域の歴史と環境』東方書店、2007

トゥルギッシュのなかのソグド人

 西突厥の一派であるテュルク系遊牧民のトゥルギッシュ(突騎施)は、烏質勒が君長となったときに、その主君であった西突厥可汗の阿史那斛瑟羅の部衆を併呑し、西突厥の覇権を握るほどに勢力を伸張した。神龍2年(706)、その子の娑葛は父の後を襲って唐の羈縻支配下に入り、嗢鹿州都督・左驍衛大将軍を拝命し、懐徳郡王に封じられている。

新唐書』巻215下 突厥伝下 

 是歲、烏質勒死、其子嗢鹿州都督娑葛為左驍衞大將軍、襲封爵。

 

 この歳、烏質勒が没し、その子の嗢鹿州都督の娑葛を左驍衛大将軍とし、封爵を継がせた。

 嗢鹿州は烏質勒から継承した(唐朝に継承を認められた)トゥルギッシュの羈縻州であり、娑葛はその都督として部落を率いていたのである。

 しかし彼らの旧主の突厥がそうであったように、遊牧勢力は単一の部族で構成されるわけではなく、複数の部族の連合体であることが常である。トゥルギッシュも例に漏れず複数の部族が存在していたわけだが、その部族名はおなじ『新唐書突厥伝の前段に記されている。

 賀魯已滅、裂其地為州縣、以處諸部。木昆部為匐延都督府、突騎施索葛莫賀部為嗢鹿都督府、突騎施阿利施部為絜山都督府…(後略)…。

 

 阿史那賀魯はすでに滅び、その支配地を裂いて羈縻州県を設置し、(西突厥の)諸部を安置した。木昆部を匐延都督府とし、トゥルギッシュ(突騎施)の索葛莫賀部を嗢鹿都督府とし、トゥルギッシュの阿利施部を絜山都督府とし、…(後略)…。

 西突厥の阿史那賀魯が滅んだ顕慶2年(657)、唐はその旗下にあった西突厥の諸部族を羈縻州に編成したが、嗢鹿州(都督府)もそのなかに含まれていた。ここから烏質勒たちの部族は「索葛莫賀部」という名であったことが確認されるが、「莫賀」はおそらくテュルク語やモンゴル語で勇者を意味する「バガテュル(莫賀咄)」のことと考えられる。

 それでは「索葛」は何か、という問題になるが、従来、漢籍史料中にあらわれる「索葛」についてはソグドの漢字音転写であると考えられてきており、唐末の代北において沙陀集団を構成した部族のなかには、「薩葛」「索葛」と記されるソグド系突厥部落の存在が指摘されている*1

 そうすると「索葛莫賀」とは「ソグドの勇者」とでもいうべき名称になるが、これはソグド人が東突厥の内部に形成したコロニー「胡部」と同様に、トゥルギッシュ内部にソグド人が形成したコロニーだったのかとも勘繰ってしまう。しかし烏質勒や娑葛は、安や康といったソグド姓を冠して漢籍史料中に登場するわけではないので、やはりテュルク系で、しかしソグドとは関係の深い部族だったのではないか。

旧唐書』巻194下 突厥伝下

 突騎施烏質勒者、西突厥之別種也。初隸在斛瑟羅下、號為莫賀達干。後以斛瑟羅用刑嚴酷、眾皆畏之、尤能撫恤其部落、由是為遠近諸胡所歸附。

 

 トゥルギッシュ(突騎施)の烏質勒は西突厥の別種である。初めは斛瑟羅の旗下にあって、バガ・タルカン(莫賀達干)と号していた。後に斛瑟羅が刑罰を用いること厳酷であったため、部衆は皆これを畏れ、(烏質勒は)もっともその部落をいつくしんでいたため、これより遠近の諸胡が帰服するところとなった。

 烏質勒の恤民政策が「遠近の諸胡」の心をとらえて帰服させたとあるが、唐代において「胡」とはソグドを示す例が多いこと*2に鑑みれば、これらの「諸胡」とは、北庭に進出していた(あるいは西突厥に属していた)ソグド人たちを指すのではないだろうか。

 トゥルギッシュ内部のソグド人の具体例としては、次の記事があげられる。

『冊府元亀』巻975 外臣部 褒異二 開元二十二年条

 乙卯、突騎施遣其大首領何羯逹來朝、授鎭副、賜緋袍銀帯及帛四十疋、留宿衛。

 

(六月)乙卯の日、突騎施がその大首領何羯逹を遣わして來朝したので、鎮副を授け、緋袍と銀帯及び帛四十疋を賜い、宿衛に留めた。

 何姓はクシャーニャ出身のソグド人が中国において冠するソグド姓であり、何羯逹は彼らの得意とする外交に従事していたことがわかる。

 この記事は開元22年(734)のことなので、すでに東突厥のカプガン可汗に娑葛が殺され、その旗下にいた蘇禄が余衆を糾合し西域に覇を唱えていた時期であり、構成部族も烏質勒の代から変化しているおそれはあるが、ともあれトゥルギッシュの内部でソグド人が活動していたことは認められよう。

 このように旗下に多数のソグド人を抱えていたであろう烏質勒の後継ぎの名が「娑葛(Suōgĕ)」というのは、ソグドの漢字音転写と思しき「索葛(Suǒgĕ)」との近似を思うとき、あるいは彼は東突厥における阿史那思摩のように、ソグド人を母に持つ混血の可汗ではなかったかと想像してしまう。

 トゥルギッシュではなく、おなじテュルク系遊牧民の沙陀の話になるが、実子のほかに多数の仮子をもうけたことで知られる李克用は、墓誌中にその子の名と外号(呼び名、あるいはニックネーム)を併記される珍しいケースであった。そこには「存貴(外号は黠戞)」と「存順(外号は索葛)」という、中国風の輩行字を含む名のほかに、キルギスとソグドの音転写と思しき外号を有する子が列記され、それぞれキルギス系とソグド系の仮子である可能性が指摘されている*3。李克用といえば多数の仮子をもうけたイメージが強いので、彼らも仮子であると推定されたのだろうが、キルギスやソグドの母を持つ実子である可能性も捨てきれないだろう。

 民族的なルーツを名にする習慣がテュルク系諸族に存在したのかは不明であるし、索葛莫賀という部族名が「ソグドの勇者」を意味するというのもあくまでも仮説に過ぎない。しかし、索葛莫賀部の娑葛という字面を見ると、僕はどうしてもソグドとのつながりを考えずにはいられないのである。

 

*1:森部豊「河東における沙陀の興起とソグド系突厥」(『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史展開』関西大学出版部、2010)

*2:森安孝夫「唐代における胡と佛教的世界地理」『東洋史研究』66(3)、2007

*3:石見清裕・森部豊「唐末沙陀『李克用墓誌』訳注・考察」『内陸アジア言語の研究』18、2003

靺鞨のなかのソグド人

『冊府元亀』外臣部の以下の記事が、文献上に見えるソグド人が他民族へ進出した最北端の事例ではないかと思ったので、メモを残しておく。

 『冊府元亀』巻975 外臣部 褒異二 開元十五年条

 二月辛亥、鐡利靺鞨米象來朝、授郎將、放還蕃。

 二月辛亥の日、鉄利靺鞨の米象が来朝したので、郎将に任じ、帰国させた。

 開元15年(727)には靺鞨諸族のうち鉄利部の入朝があったが、その使者はマーイムルグ(米国)出身のソグド人が中国において称する米姓の者であった。つまり鉄利に進出していたソグド人が朝貢の使者として唐に派遣されてきたのだろう。

 日本に派遣された渤海の使者に安や史といったソグド姓を冠する者がいたことから、渤海にもソグド人が進出していたことが夙に指摘されているが*1、ソグドネットワークはさらにその北方、現在の黒竜江省からロシア沿海地方にかけて散在していた北部靺鞨諸族にまで延伸していたのだろう。エルンスト・V・シャフクノフが唱える「黒貂の道」論*2については眉唾な部分もあるが、ソグド人が北東アジアに足跡を残していたことだけは、この記事で例証されよう。

*1:福島恵「東アジアの海を渡る唐代のソグド人」(『東部ユーラシアのソグド人』汲古書院、2017)

*2:エルンスト・V・シャフクノフ「北東アジア民族の歴史におけるソグド人の黒貂の道」(『東アジアの古代文化』96、1998)

鳳凰がくる

 今年の大河ドラマ麒麟がくる』がスタートした。タイトルはもちろん孔子の「獲麟」の故事に基づいているのだろう。太平の世に出現する瑞獣麒麟。しかし戦乱絶え間ない時代に、孔子は本来あらわれるはずのない麒麟の亡骸を見つけてしまい、慨嘆する。世を正すことなく没した孔子と、天下を獲ることなく散った光秀を重ねるという、なかなか意味深長なタイトルである。

 孔子のもとには思いもよらず麒麟(の亡骸)がきてしまったのだが、史書にはおなじ瑞獣である鳳凰がきた人物の逸話がある。

 

『清異録』巻上 禽名門 黑鳳凰

 

 禮部郎康凝畏妻甚有聲。妻嘗病、求烏鴉為藥、而積雪未消、難以網捕。妻大怒、欲加捶楚。凝畏懼、涉泥出郊、用粒食引致之、僅獲一枚。同省劉尚賢戯之曰「聖人以鳳凰來儀為瑞、君獲此免禍、可謂黑鳳凰矣。」

 

 礼部郎(中?)の康凝は恐妻家として有名だった。妻が病をわずらったとき、カラスを薬にしたいと求められたが、外は雪がとけのこっており、網で捕らえるのは難しかった。妻は大いに怒り、彼を鞭打とうとした。凝は恐懼し、ぬかるみのなか郊外へまろび出て、穀物の粒でカラスをおびきよせ、ようやく一羽をとらえることができた。同僚の劉尚賢がからかっていった。「聖人は鳳凰が来ると瑞祥としたが、君はカラスをつかまえて災難を免れた。君のとってのカラスはさしずめ『黒鳳凰』といったところだな」

 

 ごめん、鳳凰じゃなくてカラスだったわ。

 しかし「黒鳳凰」ってネーミング、厨二っぽくてカッコいいな。

 康凝と劉尚賢については、管見の限りこの記事以外には名が見えず、彼らの経歴や、いずれの王朝の礼部郎中だったのかも不明である。『清異録』に収録されているからには唐から五代のいずれかの王朝であろう。

 康凝の家庭は完全なる「かかあ天下」で、彼の妻は北方遊牧民的一夫一妻制の名残をのこし、社会における礼教的規範がゆるんだ唐代に多く見られた、「妬婦」「悍妻」などといわれる鬼嫁である。*1

 時代を象徴するかのような夫婦像も然りながら、この逸話で僕が気になったのは、康凝夫妻がカラスを薬喰いしようとしている点である。寡聞にして僕はカラスを使った漢方薬や中華料理というものを知らない。ググれば「カラスの黒焼きは癲癇に効くとされていた」という話は拾えるのだが、たしかなソースは見つからない。むしろカラス肉と聞くと、北関東や信州、東北の一部で食べられていたというカラスつくね「ろうそく焼き」を想起してしまう。

 康凝夫妻がいかなる調理法でカラスを薬喰いしたのかは不明だが、カラス肉は高タンパクで低脂肪、低コレステロール、そしてタウリンと鉄分が豊富という大変ヘルシーでエネルギッシュな肉らしい(むね肉に含まれる鉄分は牛レバーの2倍以上!)*2。貧血気味の女性にはうれしい滋味だったのかもしれない。

 僕も犬やら虫やらを食べた記事を書くくらいなので、いかもの食いが好きなのだが、いつかカラス肉も食べてみたいし、そのときはブログに記事を書きたいと思う。 

ano-hacienda.hatenablog.com

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 さて、康凝夫妻について、もう一点気になったのは、康凝はその姓が示すようにサマルカンドにルーツを持つソグド人(あるいはその後裔)であるということだ。一般的に中国へ移住してきたソグド人はコロニーを形成し、同族間で通婚してアイデンティティーを維持するが、代を重ねるごとに漢人とも通婚し、「漢化」していく傾向を指摘されている。彼の礼部郎(礼部郎中のことか)が実職であれば、祭祀・教学等を管掌していたはずであり、中国へ移住してからある程度代を重ねて「漢化」したソグド人の後裔と考えられるが、彼の妻がおなじソグド系であった可能性も捨てきれない。僕は寡聞にして漢人がカラスを食べるという話を聞かないが、あるいはソグド人のあいだでは「病気になったらカラスを食え!」という習慣があったのかもしれない(妄想です)。

 しかし、どうでもいいけど康凝の嫁さん、旦那が「いや、カラス獲るにはコンディション悪いから…。雪残って地面ぐちゃぐちゃだから…」とか言い訳してたら鞭打とうとしてるし、実はめちゃくちゃ元気なんじゃないですかね。

 

 

*1:「妬婦」については、大澤正昭『唐宋時代の家族・婚姻・女性 婦は強く』「二章 嫉妬する妻たち—―夫婦関係の変容」(明石書店、2005)に詳しい。

*2:塚原直樹『本当に美味しいカラス料理の本』「コラム1 カラス肉の栄養成分」(SPP出版、2017)

唐土における非漢人の姓名について

 吉備真備が書いたと思われる墓誌が公開されたとのことで、僕のツイッターのTLもにぎわっている。

www3.nhk.or.jp

 真備は「朝臣備」と称していた(あるいは呼ばれていた)ようで、ウジではなくカバネを唐土における姓としていたらしい。これは阿倍仲麻呂も同様で、両唐書に記される彼の姓名は「朝臣仲満」である。

旧唐書』巻199上 東夷伝 日本国の条

 其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名為朝衡、仕歷左補闕・儀王友。

 その副使である朝臣仲満(阿部朝臣仲麻呂)は、中国の風を慕い、よって留まって帰国せず、姓名を改めて朝衡とし、左補闕・儀王友を歴任した。

 真備と異なり日本への帰国がかなわなかった仲麻呂は、「朝臣」という夷臭のする複姓を中国風に「朝」の一字姓に改めている。彼の姓について、詩文によっては「晁衡」と記され、「晁」は「朝」と音通であり、字義としてもともに「あさ」を意味するが、おそらく朝という姓自体が漢人にはないため、漢人の姓として通行していた「晁」に仮借したものであろう。あるいは唐人に劣らぬ仲麻呂文人としての資質能力を称賛するニュアンスがあったのかもしれない。突厥の阿史那氏出身の史大奈は、李淵長安攻略に貢献した功績から、中国風の「史」姓を賜っているが、夷臭のする姓より中国風の姓を上等とみなす同じ中華思想に根差したものだろう。

 このほかに平群朝臣広成は「朝臣広成」、多治比真人県守は「真人莫問」と記されており、遣唐使はカバネを唐における姓としていたようにうかがえる。カバネが示す家格ヒエラルキーなど日本国内でしか通用しないうえに、当時はすでに形骸化していたのではと、日本史に無知な僕には思えるのだが、文書を含めて公的な場面ではカバネを称する機会が多いことから、自然と日本人の姓として認識されるようになったのだろうか。

 

 唐土における非漢人の姓名は、日本人(遣唐使)については上述したようにカバネを姓とする傾向が見られるが、ほかの民族では、康阿義屈達干や米薩宝のように、突厥やソグド人コロニー内での役職がそのまま名になってしまうくらいいい加減な部分があったようだ。

 森部豊氏は、奚である李詩とともに唐へ帰順した瑣高、史思明が捕らえた奚の部将の瑣高、奚出身の李宝臣の仮父である張鎖高らをあげて、奚には「瑣高(または鎖高)」という名が多いことを指摘しているが*1、そもそも「瑣高」とは奚における酋長の呼称という説もあり、自身の部落をひきいて唐に帰順してきた奚の酋長が、瑣高または鎖高と漢語表記されるような呼称で呼ばれていたのを、唐側がその者の名と認識したものではないだろうか。

資治通鑑』巻214 唐紀30 玄宗開元二十四年(736)の条 「瑣高」所引胡注

 瑣高者、蓋奚中酋豪之號、非人名也。

 瑣高とは、おそらく奚における酋長の号であり、人名ではなかろう。

 胡三省がいかなる史料に基づきこのような注を記したかはわからないが、僕も状況証拠的に「瑣高」でひとつづきのタームとして理解すべきだと考えている。

 范陽節度使に仕えていた史思明は、奚中で勇名をとどろかせていた「瑣高」という部将を生け捕りにする功績をたてたが、これも奚王の旗下で自身の部落をひきいる有力酋長だったものであろう。『新唐書』ではこの瑣高について、瑣を姓、高を名とみなして表記しているが、「瑣高=一般名詞」説が妥当ならば、このあたりも非漢人の姓名に対する漢人の認識のずれを表しているようで興味深い。

「薩宝」や「瑣高」のように、その民族にとっての一般名詞だったものが、唐土においては、その立場にある者の固有名詞となるパターンが散見される。一般名詞がいかに固有名詞化されるかについては、われらが「校長」を思い浮かべれば了解されよう。

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 ともあれ、唐土における非漢人の姓名については、ずいぶんとルーズに運用されていたようである。唐にわたった彼らは、唐朝からは漢語表記の姓名で呼ばれる一方、自分たちの言語世界ーー日本語世界、テュルク語世界、ソグド語世界、奚語世界などでは、本来の名で互いを呼び合っていたものと想像される。

*1:森部「安禄山女婿李献誠考」(『関西大学東西学術研究所創立六十周年記念論文集』関西大学出版部、2011)257頁

「古代中国 墳墓の護り手」展雑感

 週末、神田にある東京天理ビル内の天理ギャラリーで開催されていたこちらの展示に行ってきた。

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 東京にも天理教のビルがあるというのは初めて知ったが、天理市の宗教建築とは違い、いたって普通のビルで肩透かしをくらう。

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   しかしエレベーターの内部は鏡張りで星座が描かれ、ちょっとおしゃれだった。

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 天理教と聞くと「え、新興宗教?」と身構えてしまうが、以前、天理参考館で開催された「天理サファリランド」という、シルクロード上に遺された動物意匠の文物の展示がすばらしかった(さらにいえば常設展も見応えがあって良かった)のと、天理市自体が独特の建築や、宗教が街にとけこんで「生きた宗教都市」といった風情があって散策するだけでも面白かったので、教義は知らずとも個人的には好感を抱いていたのだが、今回の展示もまた小規模ながら見応えのある内容だった。あくまでもビルのワンフロアにあるギャラリーなので展示数自体は少なめだが、一つひとつの展示品と丁寧な解説がとても良かった。

 

 展示は先史時代から唐代までの中国の墓葬における副葬品から当時の死生観をうかがう内容になっており、墓中に留まった死者の霊の安寧を乱し遺体を侵す魍魎を払う鎮墓辟邪のために用いられた器物で構成されている。

 たとえば「玉」は、その霊力によって邪気が体内へ侵入するのを防ぐと考えられ、遺体の防腐効果も期待されていた。「ダイヤモンドは永遠の輝き」ではないが、玉や金銀など鉱物の永続性への憧憬は、後に遺体を包む金縷玉衣や、不老長生のための丹薬に見られるように、肉体の保護から果ては不死幻想にまでつながっていく。

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 代表的な玉器である璧(普通の玉の璧の写真を撮り忘れたので滑石製の璧と孔が大きめの瑗の写真を貼っておきます)。遺体の頭部や脚部におかれたという。

 

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 ランドルト環のように璧の一部が欠けた玉器の玦。写真は西周時代のものだが、鴻門の会で范増が項羽劉邦を殺す決意を促すために示した器物としておなじみである。ADが「巻きでお願いします」とカンペを出すように、范増はこれを項羽に向かってチラチラ見せていたわけだ。

 

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 まるで福笑いのような西周時代の玉覆面。写真を拡大するとわかるが、各パーツの端に小孔が穿たれており、遺体の顔に布を被せ、その上にこれらの玉片を綴じあわせたものらしい。髭のパーツもあるので、成人男子にとっては髭がデフォルトだったことがわかる。

 

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 漢代の含蟬。遺体の口腔に納める蟬型の含玉という玉器である。口からの邪気の侵入を防ぐための器物だが、蝉は羽化登仙の象徴であり、漢代に勃興していた神仙思想の影響がうかがえる。

 

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 漢代の玻璃製の塞玉。ガラスは玉の代用品として用いられたらしく、この塞玉も遺体の耳や鼻などを塞いで防腐するための器物とのこと。

 

 玉のほかに代表的な副葬品としては戈や剣などの利器があげられる。

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 鋭利な武器が邪を払うという感覚は我々にも理解しやすい。

 

 そのほかにも西王母や神仙を描いた塼で墓室や棺の壁面を飾り、空間ごと辟邪をおこなうケースもあったようだ。

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 写真は漢代の空心塼だが、上段に描かれた怪人は、『山海経』に記される原始的な西王母像とのこと。後世の女性らしい柔和なイメージからは遠く、たしかにこれなら悪霊邪鬼を威圧できそうだ。

 

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 こちらも漢代の空心塼だが、描かれるのは一対の怪獣と、それを追う仙鹿に乗った羽人。

 

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 空心塼のなかには柱状のものもあり、邪鬼を威圧するようなけわしい獣面のものや、柱礎部に紐で結んでぶら下げられた璧の意匠を施したものもある。

 あーわかる、僕も大学生のときにこういうネックレスをぶら下げてる風プリントのクソださフェイクTシャツ着てましたね(一緒にすんな)。

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 このほかにも香による防虫効果を期待された香炉や、

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四神や十二支によって各方位を守護する鏡、

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擬人化された十二支の俑などもあった。

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 また、古代中国の人びとは動物の異能にも神秘性を見出していたらしく、暗闇を飛びまわるフクロウや朝を告げるニワトリなどの鳥を象った器物も見受けられた。

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 神仙思想の勃興期、仙人は「羽人」と呼ばれる翼を持った姿で描かれていたように、空を飛ぶ鳥に天上とのつながりを想い、神聖視するという感覚は我々にも共感できよう。

 しかし、僕は今回の展示ではじめて知ったのだが、鯀や禹が化身した説話があるように、熊が強い霊力を有した動物とみなされ、漢代以降、副葬品として熊形の器物が流行った時期があったらしい。

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 後漢の熊形脚燈。灯台鬼かよ!

 というかあの説話も遣唐使か誰かが中国でこういう灯台を見たところから生まれてそう。

 

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 青銅の火のし(アイロン)を熊形の脚台にセット。やだ、何これかわいい…。

 

 さて、時代が下ると鎮墓辟邪には兵馬俑のように武人を象った鎮墓俑を用いることが増えていく。

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 北魏の武人俑だが、彫りが深くて胡人風のビジュアル。

 

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 こちらも北魏の武人俑。素環刀と盾、明光鎧で重武装しており、いかにも墓を守ってくれそうで頼もしい。

 

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 君はちょっとカマっぽいな。これはこれで悪霊邪鬼が逃げ出しそう。

 

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 頭部だけ残った唐代の武人俑だが、鬼気迫る表情が何とも威圧的。

 

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 唐代半ばからは仏教の盛行もあり、鎮墓俑は西域由来の天王俑が主流となっていく。足もとに邪鬼を踏みつける造形が多く、やはり鎮墓辟邪の用途をあらわしている。

 

 これら鎮墓俑とセットで副葬されることが多いのが、想像上の獣を象った鎮墓獣である。

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 獅子をモチーフにしたと思しき怪獣「辟邪」。その名のとおりの働きを期待された神獣である。

 

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 犀牛形鎮墓獣。角の持つ霊力で悪霊邪鬼を払うと考えられていた。

 

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 いや、お前は角ねじねじしすぎだろ!中尾彬か!!

 

 そんな彬に見送られ、たっぷり1時間以上も楽しんで展示会を後にした。

 今回僕が写真を載せたのは展示品の一部であり、これ以上に多彩な副葬品を閲覧できる貴重な企画だった。何より写真撮り放題(フラッシュ厳禁)、そして無料というのがありがたい。新興宗教のビルと聞くと近寄りがたいイメージがあるが、東洋史に興味がある方はぜひ臆せずに見に行ってほしい。11月30日(土)までだけど。