壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

弐師将軍、神になる

 東洋陶磁美術館の唐代胡人俑展で出会った数々の魅力的な胡人俑、それらが出土した墓の主は穆泰という唐代中期の武人だった。穆泰の素性についての個人的な見解は前回の記事に書いたが、今回は彼の墓誌で気になった箇所を深掘りしていきたい。

ano-hacienda.hatenablog.com

  

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穆泰墓誌

 霊州という西北辺防衛の中心地で活動していた穆泰だが、墓誌中では、中宗の神龍3年(707)に定遠城大使に任ぜられたくだりに続き、辺境での活躍を後漢の耿恭と前漢の李広利になぞらえられている。

  『唐故游撃将軍上柱国前霊州河潤府左果毅穆君墓誌銘』

 耿恭設拝之地、久戍忘歸。廣利刺山之境、一從征戦。下葱山而入蒲海、出鴻門而歴鶏田。赤心事君、忠誠報國。

 このうち李広利に関する文言について、唐代胡人俑展の図録掲載のテキストでは「廣利郟山之境」としているが、墓誌の実物を見る限り「郟」ではなく「刺」である。後述する李広利にまつわる伝承からも「廣利刺山之境」とするのが自然。「下葱山而入蒲海」についても、図録では「葱山」を「窓山」としているが、実物を見る限りでは「窓」とは判読しがたく、続く「蒲海(バルクル湖)」と対になっていることも勘案すれば「葱山(葱嶺と呼ぶ方が一般的。パミール高原を指す)」と解釈すべきだと思う。

 胡人俑展は多彩な胡人俑も魅力だが、ふだん活字化されたテキストや拓本でしか見る機会のない墓誌の実物を見て、間近で写真を撮り、自宅や研究室で内容を検証するという、日本にいては得難い経験もできるので、石刻史料に興味のある大学生や東洋史クラスタはどんどん行くべき。

 さて、当該箇所の大意としては「後漢の耿恭が籠城中に地を拝礼した故事のように、穆泰が任地に長く駐屯し続けたことは帰心を忘れるほどであり、李広利が遠征中に山を刺した伝承のように、ずっと遠征に従っていた。葱山(パミール高原)や蒲海(バルクル湖)などの西域方面へわたり、鴻門県や(テュルク系阿跌部の羈縻州である)鷄田州などの関内道各地にも転戦した。まごころをもって君に仕えて忠誠を国に捧げた。」くらいの意味だろう。個人的には「葱山」や「蒲海」は漠然と西域を象徴する地名で、実際にそれらまで出征していたかは疑問だが、「鴻門」や「鷄田」という卑近な地名には具体性が感じられる。ともあれ穆泰は関内道における辺防だけでなく、行営軍に組み込まれて西域まで転戦していたのかもしれない。

 

 しかし今回の記事で僕が深掘りしたかったのは穆泰の経歴ではなく、墓誌中の李広利の評価である。この時代、墓誌に限らず詩でも上奏文でもおよそ文章というものは何らかの典拠に基づいて綴られることが常識で、要するに元ネタありきの会話ばかりするオタクみたいなものだが、墓誌は墓主の生涯を顕彰する内容のため、基本的には経書に記された美辞麗句や歴史上の偉人のポジティブエピソードを典拠に、墓主を褒めたたえる傾向がある。穆泰の場合は匈奴を相手に西域で熾烈な籠城戦を繰り広げた後漢の耿恭と、汗血馬を求めて大宛へ遠征した前漢の李広利が元ネタとして引用されている(実は後段におなじく塞外で活躍した将軍である班超や李広の名も出てきているのだが、今回のネタとは関係がないので割愛)。耿恭はわかるけど、李広利…?

 李広利といえば、漢の武帝の寵姫である李夫人の兄というコネで出世して、大宛遠征の総大将に抜擢されたはいいが、補給が続かず一度は撤退、膨大な兵員と物資を供給された二度目の遠征で多大な犠牲を払ってようやく大宛を征服し、名馬を持ち帰ったという、劣化版衛青のような外戚出身将軍である。自身の愛する女の兄弟を起用してみたら想像以上に有能だったという衛青、そしてその甥の霍去病という成功体験に引きずられた武帝が三匹目のどじょうを狙ってつかまえた雑魚、というイメージが一般には強いのではないか。何よりも後に彼が匈奴に敗れて降伏したことで、奮戦むなしく匈奴に降った李陵は漢への復帰の望みが絶たれ、李陵を弁護した司馬遷宮刑に処せられるという悲劇の連鎖を生み出したことは、中島敦の『李陵』で周知のとおり。

 現代日本ではそんな悪評嘖々たる李広利だが、彼の同時代や穆泰の生きた唐代では、はたして評価が高かったのだろうか?

   『史記』巻123 大宛列伝

 貳師後行、軍非乏食、戰死不能多、而將吏貪、多不愛士卒、侵牟之、以此物故眾。天子為萬里而伐宛、不錄過、封廣利為海西侯。

  大宛遠征における漢軍は将吏が貪婪で士卒を愛さず食い物にしていたというから、軍紀の紊乱がひどかったのだろう。武帝もわざわざ万里を越えて遠征したのだからと過失については目をつむって李広利を褒賞している。つまり同時代人から見ても手放しで褒められるような功績ではなかったのだ。

 そして穆泰の生きた唐代でも李広利の悪評は健在だ。

 高昌国を滅ぼした唐初の将軍侯君集は素行不良で、占領地で財物の私物化など不正を犯して罪を得たが、中書侍郎の岑文本が彼を弁護した際に、李広利を引き合いに出している。

  『旧唐書』巻69 侯君集伝

 昔漢貳師將軍李廣利捐五萬之師、糜億萬之費、經四年之勞、唯獲駿馬三十匹。雖斬宛王之首、而貪不愛卒、罪惡甚多。武帝為萬里征伐、不錄其過、遂封廣利海西侯、食邑八千戶。

 李広利は5万の兵を損ない億万の費用を費やし4年もかけて得たものがたったの駿馬30頭、大宛王の首こそ得たものの兵を愛さず罪が多かった。それにも関わらず過ちは記録されず封侯されたとボロクソに評している。部下に功罪ふたつにあれば、主君たるもの罪過は忘れて功績を記録してやるべきであり、漢の武帝も李広利の功績を評価して罪を不問にしてるのだから、さらに賢明な太宗が侯君集を処罰することはないでしょう?というロジックである。ちなみに前漢の将軍で匈奴の郅支単于を滅ぼした陳湯も、同様に財物の私物化など素行不良のため罪を得たが、同じ文言で宗正の劉向に弁護されている。

  『漢書』巻70 陳湯伝

 貳師將軍李廣利捐五萬之師、靡億萬之費、經四年之勞、而厪獲駿馬三十匹、雖斬宛王毌鼓之首、猶不足以復費、其私罪惡甚多。孝武以為萬里征伐、不錄其過、遂封拜兩侯・三卿・二千石百有餘人。

 つまり岑文本の侯君集弁護は劉向の陳湯弁護を典拠としていたのだろう。

 また、時代は下って9世紀初頭の徳宗朝。ときの宰相賈耽は地理学好きが高じて『海内華夷図』と『古今郡国道県四夷述』という地理書を徳宗に献上する際、上表中で唐の諸帝の版図拡大における功績について言及しているが、そこにも李広利が登場する。

  『旧唐書』巻138 賈耽伝

 玄宗以大孝清內、以無為理外、大宛驥騄、歲充內廐、與貳師之窮兵黷武、豈同年哉。

 玄宗の御代にはいにしえの大宛の名馬のような駿馬が溢れており、李広利がわずかな名馬を得るために無益な血を流したことと同日に論ずることができないと、玄宗をアゲるためのダシに使われている。

 唐では官僚が「効率の悪い仕事をした先例」として李広利をあげるのがパターン化しているようにも見える。そしてそのパターンはすでに李広利と同時代の漢代に形成されており、唐代そして現代まで連綿と続いていたのである。

 

 ここまで悪評ばかり取り上げてきた李広利だが、それでは墓誌で引き合いに出されるほどの彼への好意的な評価とはどのようなものだったのか。まずは李広利と並んで穆泰墓誌であげられた後漢の耿恭の伝から見ていこう。

   『後漢書』巻19 耿恭伝

 恭以疏勒城傍有澗水可固、五月、乃引兵據之。七月、匈奴復來攻恭、恭募先登數千人直馳之、胡騎散走、匈奴遂於城下擁絕澗水。恭於城中穿井十五丈不得水、吏士渴乏、笮馬糞汁而飲之。恭仰歎曰「聞昔貳師將軍拔佩刀刺山、飛泉涌出。今漢德神明、豈有窮哉。」乃整衣服向井再拜、為吏士禱。有頃、水泉奔出、眾皆稱萬歲。乃令吏士揚水以示虜。虜出不意、以為神明、遂引去。

 後漢明帝の永平18年(75)、西域に駐屯していた耿恭は、澗水という川が側を流れている利点からカシュガル(疏勒)に拠点をおいたが、攻め寄せた匈奴が城下において澗水を堰き止めてしまった。城中では井戸を十五丈まで掘っても水が出ず、士卒は渇きに苦しみ、馬の糞汁を絞って飲むありさまだった。耿恭は天を仰ぎ「昔、弐師将軍李広利が佩刀を抜いて山に刺すと、噴泉が湧き出てきたと聞く。漢の徳が明らかないま、何を窮することがあろうか」と気を吐いた。そこで衣服を整え井戸に向かって再拝し、部下のために祈ったところ、水が勢いよく湧き出し、兵はみな万歳を唱えたという。

 耿恭の生きた後漢代には、大宛遠征時の西域においてか匈奴遠征時の漠北においてかはわからないが、李広利が進軍中に湧き水を探り当てたという伝承があったようだ。刀を刺した地から泉が湧き出るなんて、空海かよ。いや、こっちの方が先だけど。

 穆泰墓誌に見える「耿恭設拝之地」、「廣利刺山之境」という字句の典拠は、彼らが渇きに苦しんでいたときに地を拝礼あるいは佩刀を刺すことで泉水が湧き出た故事に因んでいるのだろう。つまり、李広利に対する好意的な評価というのは、大宛遠征の多大な損耗や匈奴遠征の失敗というような大局から見たネガティブな評価とは切り離した、窮地にあって湧き水を見つけたという、あくまでも現場レベルでの局地的功績によるものなのだろう。上述してきたように漢唐では中央の官僚が功罪半ばする将の事例として李広利をあげるのに対し、後述するように西域の砂漠地帯という現場で活動する将士の間では、李広利は神秘的なイメージを帯びて語られている。

 穆泰の生きた唐代においても李広利の湧水発見伝説が生きていたことは正史からも見受けられる。

 穆泰と同時代である唐の高宗の調露元年(679)、西域通の裴行倹は滅亡したササン朝ペルシャの亡命王子ナルサス(泥涅師)というどこかで聞いたような設定のキャラを復帰させる名目で西域へ出兵しているが、砂漠で遭難してオアシスを発見した際に、李広利に例えられている。
  『旧唐書』巻84 裴行倹伝

 因命行儉冊送波斯王、仍為安撫大食使。途經莫賀延磧、屬風沙晦暝、導者益迷。行儉命下營、虔誠致祭、令告將吏、泉井非遙。俄而雲收風靜、行數百步、水草甚豐、後來之人、莫知其處。眾皆悅服、比之貳師將軍

 風砂に視界を遮られ、案内人すらも道がわからなくなったときに、裴行倹は祭祀をおこない、士卒に「近くに泉があるぞ」と告げる。たちまち雲は消え風は静まり、歩くこと数百歩で豊かなオアシスにつきあたった。しかも後から来た者には探しあてられなかったというから桃源郷のような神怪な話である。この奇蹟によって部下がみな裴行倹をリスペクトして李広利になぞらえたというから、李広利の湧水発見伝説は7世紀半ばにも知られていたのだろう。

 ここまで李広利の湧水発見伝説にならって自身も湧き水を発見した人物の事例をあげてきたが、異なるパターンも存在する。

  『晋書』巻122 呂光載記

 光乃進及流沙、三百餘里無水、將士失色。光曰「吾聞李廣利精誠玄感,飛泉涌出,吾等豈獨無感致乎。皇天必將有濟、諸君不足憂也。」俄而大雨、平地三尺。

 後涼の太祖である呂光が前秦の部将として西域へ出兵した際、やはり砂漠で水不足に陥り軍が恐慌をきたしたが、「李広利のまごころに感応して泉が噴きあがったと聞くが、我らにも験がないわけがない。諸君は心配するな」と励ましたところ、湧き水の噴出ではなく大雨が降ったという。もう「とにかく砂漠で水に困ったら李広利に頼ればいい」みたいになってるな。

 しかし補給が続かなくて遠征に失敗した李広利に湧き水を発見したという伝承があるのは実に皮肉な話だ。 李広利の第2回遠征軍は人数が多すぎるため個々のオアシス都市国家では全軍の補給が賄えないことをおそれて数軍に分かれたとのことなので、あるいは分遣隊が湧き水を発見したという事実はあったのかもしれない。

 李広利の湧水発見伝説が西北方面で知れ渡っていた証のひとつとして、彼を讃える詩も存在する。ペリオが将来した敦煌文書にある「沙州燉煌二十詠」という、唐末の敦煌の風物を詠んだ一連の詩篇中に、李広利が発見したとされるオアシスの由来をうたった一篇がある。山田勝久「唐代の西域文学―敦煌二十詠の世界―」(同『唐代文学の研究』笠間書院 1984 所収)より以下に引用する。

弐師泉詠

賢哉李広利  賢なる哉 李広利、

為将討兇奴  将と為りて兇奴を討つ。

路指三危逈  路は三危を指して逈(とお)く、

山連万里枯  山は万里に連なりて枯る。

抽刀刺石壁  刀を抽(ぬ)いて石壁を刺し、

発矢落金鳥  矢を発して金鳥を落とす。

志感飛泉湧  志感じて飛泉湧き、

能令士馬甦  能く士馬をして甦ら令(し)む。

  訳も山田訳で引用する。

 賢人であることよ李広利は、将軍となって匈奴を討伐した。その路は三危山を指標として遠くつづき、山は果てしなく連なり、見わたすかぎり荒涼としている。伝説によれば、李広利の軍に水が渇乏した時、将軍は佩剣を以て山の石壁を刺し、太陽を弓矢で射落としたという。その志に感じて飛泉が湧き出で、兵卒や馬を蘇生させることができた。

 内容を端的にまとめれば、「広利の心は母心、刺せば命の泉湧く」ということだが、山の石壁を刀剣で刺して泉水を湧出させただけでなく、太陽を射落としたという尾ひれまでついている。山田氏によれば、「前漢の李広利将軍の志に感じて、泉が湧き出てきたという伝説は、『沙州都督府図経』に詳しく、また『敦煌録』には、『弐師泉は沙州城の東、三程ほど離れたところにある。漢の時代に李広利の軍は、進軍中に水が欠乏してきた。そこで将軍は山の神を祭り、腰の剣を抜いて山を刺したところ、そこより水が流れ出てきた』とある。昔からこの弐師泉には、こうした伝説が地域の人々に語り継がれていたことが分かる。」とのことで、弐師泉という地元のオアシスに、李広利の湧水発見伝説が結びついたものと考えられる。砂漠を旅する者にとって重要な水を見つけ出した李広利は、中央での低評価とは別に、敦煌を中心とした西北方面では、半ば神格化されたローカルな英雄となっていたのだ。

 史実の李広利は匈奴への遠征中に、一族が巫蠱に連座して処刑されたことを聞き、帰る場所を失い匈奴に降伏したが、彼を妬む同じ投降漢人である衛律の讒訴によって単于に殺される。

  『漢書』巻94上 匈奴伝上

 貳師在匈奴歲餘、衞律害其寵、會母閼氏病、律飭胡巫言先單于怒、曰「胡攻時祠兵、常言得貳師以社、今何故不用。」於是收貳師、貳師怒罵曰「我死必滅匈奴。」遂屠貳師以祠。會連雨雪數月、畜產死、人民疫病、穀稼不孰、單于恐、為貳師立祠室。

 李広利は死の間際に「俺は死んでも必ず匈奴を滅ぼしてやる」と罵ったが、その死後数ヶ月にわたって雪が降り続き、家畜が死に、人びとは疫病にかかり、穀物も実らないという天災に見舞われたため、単于がたたりと恐れて彼のために祠堂を立てたとのこと。漢と匈奴、どちらにおいても居場所を失った李広利は、皮肉にも匈奴ではたたり神として、漢では砂漠に泉水を湧き出させた英雄として半ば神格化され、畏敬を集めることになった。

 穆泰が西域へ遠征していたならば、おそらく李広利の湧水発見伝説を耳にしたことだろうし、彼の終焉の地である慶州においても知れ渡っていたからこそ、墓誌に典拠として編み込まれたのだろう。穆泰墓の発見は、胡人俑によってシルクロードを行き交う「胡人」たちの姿態を蘇らせただけでなく、墓誌によってシルクロードの流砂に埋もれた不遇の英雄の伝承をも掘り起こしたのかもしれない。