壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

登州文登県における仏像出土とその背景~『五代会要』の瑞祥記事を読む

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 先日の即位礼正殿の儀の最中、それまで降っていた雨があがり、空に虹がかかったことで、僕のツイッターのTL上にも「瑞祥だ」というざわつきが流れてきた。

 もちろん皆さんネタでいっているのだが、世の中にはすなおに感動している方も多いようで、政教分離が進んでいるように見え、無宗教ともいわれる現代日本でも、天皇家に対する信仰心は抜きがたく潜在しているようだ。

 現代日本でもこのような「偶然」に「瑞祥」という意味があたえられるなら、王権と天人相関説が固く結びついていた前近代の日本や中国では、「偶然」がどれほど重視されたのか。史書にどのような「瑞祥」が記録されていたのか。興味本位に手元にあった『五代会要』をひもといてみると、気になる記事にぶつかった。

 

 五代の後晋少帝の開運3年(946)のことである。

『五代会要』巻五 祥瑞

 至三年六月、登州文登縣地内磅出金銅佛像四、瓷佛像十。

 三年六月に至り、登州文登県の地中から金銅の仏像が四体、陶製の仏像が十体出土した。

 「磅」は石が落ちるような大きな音をあらわすので、「磅出」という語から轟音とともに仏像が現れたようすがうかがえる。ありがたい仏像が突如地響きとともに地中から湧き出てきた。しかも14体。うん、現代日本人の僕から見てもりっぱな「瑞祥」である。この事件は『旧五代史』では次のようにとりあげられている。

『旧五代史』巻八十四 晋書十 少帝紀第四 開運三年六月の条

 六月庚申朔、登州奏、文登縣部內有銅佛像四・瓷佛像十、自地踴出。

 六月の庚申のついたち、登州が奏上したことには、文登県内で銅の仏像四体と陶製の仏像十体の、地中より躍り出てきたものがあったという。

 ちょっと躍動感あふれすぎじゃないですかね、仏像。これは写メ撮って「瑞祥わろた」とツイートしますわ。まあ「踊り出て」は我ながら原文を逐語訳しすぎだと思うが、要するに両記事とも「勢いよく仏像が地中から出てきた」ことを記録しているのである。

 しかし超自然的な「瑞祥」であれば、地中から14体もの仏像が勢いよく飛び出してきても許容されようが、あまりにも現実離れしている。史料に即して現実的に、仏像出土の背景を探ってみよう。

 

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中国歴史地図集/唐代/都畿道・河南道

 後晋少帝の開運年間(944~946)は、契丹との和約が破れて北辺を連年侵犯され、また登州を巡属とする青州平盧軍節度使の楊光遠が反乱を起こして鎮圧され、平盧軍は解体、登州も含めて山東半島一帯に広がっていた領域がすべて後晋朝の直轄領となった時期である。このような外寇と内乱が相次ぐなか、開運3年(946)には山東を中心に、大規模な飢饉が発生していたことが史料上に見受けられる。

『旧五代史』巻八十四 晋書十 少帝紀第四 開運三年三月の条

 辛亥、密州上言、飢民殍者一千五百。

 辛亥の日、密州が上言することには、飢民の餓死する者は千五百人にものぼったいう。

 4月には次の記事も含めて祈雨記事が2件もあるため、この飢饉は旱魃の影響と見受けられるが、山東半島の付け根では群盗がむらがり起こるほどの騒乱状態であったという。

『旧五代史』巻八十四 晋書十 少帝紀第四 開運三年四月の条

 乙亥、宰臣詣寺觀禱雨。曹州奏、部民相次餓死凡三千人。時河南・河北大飢、殍殕甚眾、沂・密・兗・鄆寇盜羣起、所在屯聚、剽劫縣邑、吏不能禁。

 乙亥の日、宰相たちが寺院や道観で雨ごいをした。曹州が上奏することには、民が相次いで餓死し、あわせて三千人にのぼったという。ときに河南・河北には大規模な飢饉が生じ、餓死者が非常に多く、沂・密・兗・鄆の各州では群盗が起こり、いたるところに集まっては県邑を襲って略奪し、官吏もおさえることができなかった。

 五月に入っても飢饉は続く。

『旧五代史』巻八十四 晋書十 少帝紀第四 開運三年五月の条

 青州奏、全家殍死者一百一十二戶。

 青州が上奏することには、一家が全て餓死した家は百十二戸という。

 天下がこのような状態で、北辺ではなお対契丹戦争が続いているという非常事態だが、少帝はこのときも寵臣の邸第への行幸や舟遊びをくりかえし、金印を彫らせたりと遊興にうつつを抜かす体たらくであった。少帝はのちに契丹に滅ぼされる亡国の君であり、後晋自体もその成立時に燕雲十六州を契丹へ割譲するなど、のちに地盤をひきついで中国を再統一した北宋にとっては禍根を残した天子であり王朝であったことを考えると、あるいはこの暗君としての描かれ方には若干のバイアスがかかっているのかもしれない。天災は実際に起きていたのだろうが、ことさら強調するように記載が多いのは、亡国の兆しとしての伏線とも解釈しうる。災異とは天子が徳を失ったとき、つまり失政を天が譴責するために起こすものである、という災異思想の文脈で一連の記事をながめると、宋代の史家によって張られた、少帝の亡国という物語の伏線のようにも読めるのだ。ともあれ少帝の天子としての個人的資質は措くとしても、後晋という朽木が内憂外患に蝕まれ、いまにも倒れようとしていたことだけは確かであった。

 このような惨状が続いた六月、飢饉と群盗の嵐がふきあれる山東半島の突端にある登州において、突如として仏像が出土したのである。

 登州からのこの上奏が、いかに少帝をはじめ京師の人びとをよろこばせたか、天子の徳の発露たる「瑞祥」として尊ばれたか、記録に残して印象操作をはかろうとしたか、相次ぐ台風被害にみまわれた千葉県をはじめ被災地をすておき、皇居上空にかかった虹に神秘を感じる現代日本人を見れば想像に容易い。ネットと史料を見比べて、「瑞祥」とはそういう道具なのだと改めて感じた。

 

 皇居の上空に虹がかかったからといって被災地の復興が進むわけではないように、仏像が出土したからといって飢饉がおさまるわけではない。仏像出土後は飢饉と群盗蜂起のほかに、長雨とそれに伴う黄河の決壊記事が頻出するようになる。つまり悪化している。

『旧五代史』巻八十四 晋書十 少帝紀第四 開運三年七月の条

 楊劉口河決西岸、水闊四十里。…(中略)…辛亥、宋州穀熟縣河水雨水一概東流、漂沒秋稼。…(中略)…自夏初至是、河南・河北諸州郡餓死者數萬人、羣盜蜂起、剽略縣鎮、霖雨不止、川澤汎漲、損害秋稼。

 楊劉口で黄河の西岸が決壊し、氾濫した水が四十里にまで広がった。…(中略)…辛亥の日、宋州の穀熟県では(汴水が決壊して?)河水と雨水がともに東側へ氾濫し、作物を水没させた。…初夏よりいまに至るまで、河南・河北の諸州では餓死者が数万人に達し、群盗が蜂起しては、県や鎮を略奪しており、長雨もやまず、川や沢は氾濫し、作物に損害をあたえていた。

 4月の段階では旱魃が飢饉の原因だったと見られるが、雨乞いが功を奏しすぎたのか、その後は長雨が続き、黄河をはじめ河川の氾濫が各地で起こり、ただでさえ実りが悪かったであろう作物に損害をあたえている。この後も河北・河南での黄河決壊記事が陸続とつづくが、仏像出土という「瑞祥」にはまったく験がなかったことが実証されている。

 先日の台風の影響で、墓地で土砂崩れが起こり、土葬していた頭蓋骨が流出したという画像付きツイートが流れていたが、おそらく登州の仏像についても、初夏から続いていた長雨によって地盤が緩み、土砂崩れとともに地中に埋没していた仏像が出土したものと考えられる。「瑞祥」のからくりとは、このようなものだったのだろう。単なる偶然に、ときの為政者が天子の徳の高さを示す「瑞祥」として意味付けして政権の正統性の補強材とし、呪術的迷妄から抜けきれない民衆はそれをありがたがるという図式である。

 

 では、この仏像たちはどういう経緯で地中に埋没していたのか。以下は蛇足である。

 仏像が出土した登州文登県は、我らが慈覚太師円仁が遣唐使使節団から抜け出し、入唐求法の第一歩を踏み出した地として知られる。当時の円仁の日記『入唐求法巡礼行記』(以下『行記』とする。なお『行記』の訳文については深谷憲一訳『入唐求法巡礼行記』(中公文庫、1990)による)には、彼が滞在した文登県清寧郷の赤山村という在唐新羅人コロニーでの暮らしぶりが活写されているが、その中心となったのが赤山法花院という新羅人勢力によって建立された仏寺である。当然ながら赤山院にも仏像が存在していたことは『行記』にも記録されているが、それが金銅製か陶製かなど材質までは不明である。

『入唐求法巡礼行記』巻二 開成四年十一月の条

 九日。冬至節。眾僧相禮。辰時、堂前禮佛。

 十一月九日。冬至の日。大勢の僧がお互いにあいさつを交わす。午前八時、堂の前で仏を礼拝した。

 赤山村周辺のおなじ新羅人コロニーと思しき村落にも、真荘村には天門院なる寺院があり、劉村という村落では、当地の新羅人の夢に文殊菩薩があらわれ、土中に埋もれた古寺の仏像を掘り起こすようお告げをしたという伝承があり、円仁も実際に「白石」の弥勒菩薩像を礼拝しているように、複数の仏寺や仏像が存在していた。また、文登県城にも円仁が宿泊した恵聚寺、中食をとった恵海寺の極楽闍梨院など複数の寺院が見える。

 そしてこれらの仏寺は円仁が登州を離れたあと、武宗の会昌の廃仏によりことごとく廃却され、仏像も表面の金を剥ぎとられて没収されるという悲劇にみまわれた。

 会昌5年(845)、廃仏の嵐ふきあれる長安から弾圧を逃れて登州へ戻った円仁が直面したのが、この惨状である。

『入唐求法巡礼行記』巻四 会昌五年八月の条

 十六日、到登州。見蕭端公新來赴任。又有敕云「天下金銅佛像、當州縣司剝取其金、稱量進上者。」…(中略)…雖是邊北、條流僧尼、毀拆寺舍、禁經毀像、收檢寺物、共京城無異。況乃就佛上剝金、打碎銅鐵佛、稱其斤兩、痛當奈何! 天下銅鐵佛・金佛有何限數、准敕盡毀滅化塵物。

 八月十六日。登州に到着、蕭端公(蕭侍御史兼登州節度使)にお会いした。新しくこの州に赴任して来た人である。また勅があってそれによると、天下の金銅仏像はその州の県役人がその金を剥ぎ取り、目方をはかって献上せよということである。…(中略)…ここは都から遠く離れたところであるが、勅令による法規によって僧尼を強制還俗させ寺院を破壊し、経の所持を禁じ仏像をこわし寺の所有物を官に没収することは、長安の都と何ら変わるところがない。まして仏像の上についている金を剥ぎ取り銅鉄仏を打ち砕いてその目方をはかるとはまさに何ともしがたい痛ましいことである。天下の銅鉄の仏、金の仏はどれほど数に限りのある貴重なものかわかっているのに、勅に従ってすべて破壊し尽くしてただの金屑にしてしまった。

 さらに文登県では、新羅人コロニーを管理していた「張大使」こと張詠から、赤山村においても赤山院が廃却されたことを知らされるのである。

『入唐求法巡礼行記』巻四 会昌五年九月の条

 大使宅公客不絕、向大使請閑靜處過冬。本意擬住赤山院、緣州縣准敕毀拆盡、無房舍可居、大使處分於寺莊中一房安置、飯食大使供也。

 また張大使の家は公務関係の客が絶えずやってくるので、大使に閑静な所でこの冬を過ごしたいとお願いした。本心は赤山院に住みたかったのであるが、州と県が勅に従って破壊しつくしたので泊まれるような宿坊があるはずはなかった。張大使は寺院の荘園の中の一つの住居に住めるよう配慮してくれ、食事は大使自身が面倒をみてくれた。

 この後、武宗が崩じて宣宗の代になると一州につき二寺院の建立が認められるようになる。よって開運3年(946)に登州文登県より出土した仏像は、廃仏後に復興した寺院が唐末五代の戦乱のなかで荒れ果て、自然と土中に埋もれたものであったかもしれない。しかし、僕は不法滞在者であった円仁を助けた数々の新羅人僧侶たちの姿を『行記』のなかに認めるとき、これは当時の勇気ある寺僧たちによって、廃仏から逃れるため土中に埋められた仏像ではなかったかと空想するのである。

 そうであれば、後晋朝が瑞祥として仏像出土を記録したことには政治の道具以上の価値はないが、かつて円仁が礼拝したかもしれない、文登県の善男善女や唐で暮らす新羅人たちの心の拠り所であった仏像が、弾圧を免れ再び日の目をみたことは、紛れもなく「瑞祥」であったのではないだろうか。