壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

トゥルギッシュのなかのソグド人

 西突厥の一派であるテュルク系遊牧民のトゥルギッシュ(突騎施)は、烏質勒が君長となったときに、その主君であった西突厥可汗の阿史那斛瑟羅の部衆を併呑し、西突厥の覇権を握るほどに勢力を伸張した。神龍2年(706)、その子の娑葛は父の後を襲って唐の羈縻支配下に入り、嗢鹿州都督・左驍衛大将軍を拝命し、懐徳郡王に封じられている。

新唐書』巻215下 突厥伝下 

 是歲、烏質勒死、其子嗢鹿州都督娑葛為左驍衞大將軍、襲封爵。

 

 この歳、烏質勒が没し、その子の嗢鹿州都督の娑葛を左驍衛大将軍とし、封爵を継がせた。

 嗢鹿州は烏質勒から継承した(唐朝に継承を認められた)トゥルギッシュの羈縻州であり、娑葛はその都督として部落を率いていたのである。

 しかし彼らの旧主の突厥がそうであったように、遊牧勢力は単一の部族で構成されるわけではなく、複数の部族の連合体であることが常である。トゥルギッシュも例に漏れず複数の部族が存在していたわけだが、その部族名はおなじ『新唐書突厥伝の前段に記されている。

 賀魯已滅、裂其地為州縣、以處諸部。木昆部為匐延都督府、突騎施索葛莫賀部為嗢鹿都督府、突騎施阿利施部為絜山都督府…(後略)…。

 

 阿史那賀魯はすでに滅び、その支配地を裂いて羈縻州県を設置し、(西突厥の)諸部を安置した。木昆部を匐延都督府とし、トゥルギッシュ(突騎施)の索葛莫賀部を嗢鹿都督府とし、トゥルギッシュの阿利施部を絜山都督府とし、…(後略)…。

 西突厥の阿史那賀魯が滅んだ顕慶2年(657)、唐はその旗下にあった西突厥の諸部族を羈縻州に編成したが、嗢鹿州(都督府)もそのなかに含まれていた。ここから烏質勒たちの部族は「索葛莫賀部」という名であったことが確認されるが、「莫賀」はおそらくテュルク語やモンゴル語で勇者を意味する「バガテュル(莫賀咄)」のことと考えられる。

 それでは「索葛」は何か、という問題になるが、従来、漢籍史料中にあらわれる「索葛」についてはソグドの漢字音転写であると考えられてきており、唐末の代北において沙陀集団を構成した部族のなかには、「薩葛」「索葛」と記されるソグド系突厥部落の存在が指摘されている*1

 そうすると「索葛莫賀」とは「ソグドの勇者」とでもいうべき名称になるが、これはソグド人が東突厥の内部に形成したコロニー「胡部」と同様に、トゥルギッシュ内部にソグド人が形成したコロニーだったのかとも勘繰ってしまう。しかし烏質勒や娑葛は、安や康といったソグド姓を冠して漢籍史料中に登場するわけではないので、やはりテュルク系で、しかしソグドとは関係の深い部族だったのではないか。

旧唐書』巻194下 突厥伝下

 突騎施烏質勒者、西突厥之別種也。初隸在斛瑟羅下、號為莫賀達干。後以斛瑟羅用刑嚴酷、眾皆畏之、尤能撫恤其部落、由是為遠近諸胡所歸附。

 

 トゥルギッシュ(突騎施)の烏質勒は西突厥の別種である。初めは斛瑟羅の旗下にあって、バガ・タルカン(莫賀達干)と号していた。後に斛瑟羅が刑罰を用いること厳酷であったため、部衆は皆これを畏れ、(烏質勒は)もっともその部落をいつくしんでいたため、これより遠近の諸胡が帰服するところとなった。

 烏質勒の恤民政策が「遠近の諸胡」の心をとらえて帰服させたとあるが、唐代において「胡」とはソグドを示す例が多いこと*2に鑑みれば、これらの「諸胡」とは、北庭に進出していた(あるいは西突厥に属していた)ソグド人たちを指すのではないだろうか。

 トゥルギッシュ内部のソグド人の具体例としては、次の記事があげられる。

『冊府元亀』巻975 外臣部 褒異二 開元二十二年条

 乙卯、突騎施遣其大首領何羯逹來朝、授鎭副、賜緋袍銀帯及帛四十疋、留宿衛。

 

(六月)乙卯の日、突騎施がその大首領何羯逹を遣わして來朝したので、鎮副を授け、緋袍と銀帯及び帛四十疋を賜い、宿衛に留めた。

 何姓はクシャーニャ出身のソグド人が中国において冠するソグド姓であり、何羯逹は彼らの得意とする外交に従事していたことがわかる。

 この記事は開元22年(734)のことなので、すでに東突厥のカプガン可汗に娑葛が殺され、その旗下にいた蘇禄が余衆を糾合し西域に覇を唱えていた時期であり、構成部族も烏質勒の代から変化しているおそれはあるが、ともあれトゥルギッシュの内部でソグド人が活動していたことは認められよう。

 このように旗下に多数のソグド人を抱えていたであろう烏質勒の後継ぎの名が「娑葛(Suōgĕ)」というのは、ソグドの漢字音転写と思しき「索葛(Suǒgĕ)」との近似を思うとき、あるいは彼は東突厥における阿史那思摩のように、ソグド人を母に持つ混血の可汗ではなかったかと想像してしまう。

 トゥルギッシュではなく、おなじテュルク系遊牧民の沙陀の話になるが、実子のほかに多数の仮子をもうけたことで知られる李克用は、墓誌中にその子の名と外号(呼び名、あるいはニックネーム)を併記される珍しいケースであった。そこには「存貴(外号は黠戞)」と「存順(外号は索葛)」という、中国風の輩行字を含む名のほかに、キルギスとソグドの音転写と思しき外号を有する子が列記され、それぞれキルギス系とソグド系の仮子である可能性が指摘されている*3。李克用といえば多数の仮子をもうけたイメージが強いので、彼らも仮子であると推定されたのだろうが、キルギスやソグドの母を持つ実子である可能性も捨てきれないだろう。

 民族的なルーツを名にする習慣がテュルク系諸族に存在したのかは不明であるし、索葛莫賀という部族名が「ソグドの勇者」を意味するというのもあくまでも仮説に過ぎない。しかし、索葛莫賀部の娑葛という字面を見ると、僕はどうしてもソグドとのつながりを考えずにはいられないのである。

 

*1:森部豊「河東における沙陀の興起とソグド系突厥」(『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史展開』関西大学出版部、2010)

*2:森安孝夫「唐代における胡と佛教的世界地理」『東洋史研究』66(3)、2007

*3:石見清裕・森部豊「唐末沙陀『李克用墓誌』訳注・考察」『内陸アジア言語の研究』18、2003