壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

哥舒翰のブラッドソーセージ~安史の乱点描(4)

 近年、安史の乱については、ソグドと突厥の混血児である安禄山をはじめ、ソグドや突厥、奚、契丹などの安史軍の民族構成だけでなく、これと対峙した唐朝側についても、契丹出身の李光弼や鉄勒の僕固懐恩をはじめとする非漢族の将領や、その旗下にいた遊牧民や西域出身の将兵など、構成民族の多様性が指摘されてきている。

 本稿では、安史の乱に登場する当事者たちの国際性・多民族性を「食」という切り口からうかがってみたい。

 リアル異世界転生おじさん哥舒翰

 玄宗期に活躍した蕃将の代表としては、タラスの戦いで有名な高仙芝のほか、安禄山のライバルとして潼関の戦いで唐軍をひきいた哥舒翰があげられる。

 その家系は、西突厥の一派であるテュルク系遊牧民のトゥルギッシュ(突騎施)のうち、哥舒部とよばれる部族の首領の家柄であり、いつごろから唐朝に帰順したのかは定かでないが*1安西都護府(治所はクチャ)の管内に代々居住していたという。その関係か父の哥舒道元安西都護府の将軍*2として出仕し、母は玉の産地・交易地として著名なオアシス国家コータンの王女という、西域においては相当の貴種であった*3

 このような生い立ちの哥舒翰だが、若いときは効轂府*4の果毅都尉という折衝府武官として出仕したものの、40歳までは長安の市場に出入りして酒と博打にあけくれ、実家の富にたよって散財を好む遊侠きどりの暮らしぶりという、完全に世間をなめたボンボンであった。そんなどら息子も父の死を機に発憤し、安西には帰らず、当時、唐朝の版図を西から蚕食しつつあった吐蕃への防衛の最前線である河西節度使の軍隊に身を投ずることとなる。

 そんな向こう見ずにみえる哥舒翰だったが、遊侠で鳴らしていただけあって、気前のよさから士卒には人気があり、戦場でもみずから槍をふるって敵を突き殺し、左車という従者に首を切らせる連係プレーで次々と武勲を立てていく。一手の将としても伏兵を用いて五千の吐蕃軍を殲滅するなど用兵が巧みであったため、節度使の王忠嗣の覚えもめでたく、軍中でトントン拍子に出世していった。

 元遊侠という経歴と豪放で礼儀にしばられない性格、そして戦場における武名から、武辺一辺倒の荒々しい武人像を思い描きそうになるが、『春秋左氏伝』や『漢書』を愛読するほどの教養もあったようで、やはり育ちがよかったのだろう。

 のちに河西と隴右の節度使を兼任し、対吐蕃前線のトップに昇りつめてからは、漢人だけでなく自身とおなじテュルク系やソグド系など雑多な民族構成の軍団をまとめることになるのだが、このとき密教僧の不空を招いて旗下の諸将とともに灌頂を授かっており、皆で仏縁を結ぶことで精神的統合をはかるという、仏教を軍団統制に利用した形跡がうかがえる*5

 哥舒氏と関わりの深いクチャは、キジル千仏洞を擁し、かつては鳩摩羅什ら幾人もの僧侶を輩出した、タリム盆地における仏教の布教センターのようなオアシス都市であり、また、母の母国であるコータンも仏教国として著名である。仏教を利用して多民族混成軍をまとめるという発想には、彼が生まれ育った環境も影響していたのではないだろうか。

 しかし、40過ぎまでろくに働きもせず遊び暮らしていたのに、一念発起して戦場にとびこんだら無双するという、都合のよすぎる中年デビューっぷりは、最近はやりの中年おじさんが異世界でチート能力を手にする転生物のようである。ちなみに節度使として異例の出世をとげた哥舒翰はこの後、安史の乱が勃発する前には酒色や詩歌管弦におぼれて中風で倒れるほどの贅沢三昧をしていたので、ハーレムもつくっていること請け合いである。哥舒翰、やっぱおまえ異世界転生おじさんじゃねーか!

 

 謎の料理「熱洛河」

 哥舒翰が河西・隴右節度使として唐朝の西辺防衛を担っていたとき、東北辺・北辺の軍事力を掌握していたのは、范陽・平盧・河東の三節度使を兼ねた安禄山と、そのいとこで朔方節度使の安思順であった。いわば安禄山が東の横綱、哥舒翰が西の横綱という形勢だったわけだが、哥舒翰はこの安氏の二人を非常にきらっていた。

 哥舒翰をひきたてた上司である王忠嗣は、中央で専権をふるう宰相・李林甫と反目しており、一時は四つの節度使を兼任して地方で強大な軍事力を誇った彼の勢力を削るため、李林甫が各地の節度使として抜擢したのが、安禄山と安思順だったのである。また、王・李の対立の背景には、玄宗の後継者問題が潜在していた。李林甫は玄宗の最初の太子の死後、後継に玄宗お気に入りの寿王を推していたが、結果的には当時忠王だったのちの粛宗が立太子され、その幼なじみとして禁中で養育された王忠嗣も、粛宗ともども李林甫と対立することになったのだ*6。つまり、当時の朝野には、李林甫-安禄山・安思順と、(粛宗-)王忠嗣-哥舒翰のラインによる派閥争いがあり、ここに敵の敵は味方とばかりに李林甫・安禄山と反目していた楊国忠が哥舒翰へ接近し、事態は複雑化していく。

 哥舒翰は安思順の副将となったときも互いにへりくだらなかったというから、この派閥争いは長く尾をひいていたのだろう。王忠嗣の父・王海賓も対吐蕃戦で活躍した武人であり、戦功を同僚たちに嫉まれ援軍を送られなかったため戦死しているが、その同僚のなかに安思順がいたことから、あるいは王忠嗣は派閥を抜きにしても彼を恨み、恩人である上司の怨敵を、哥舒翰も己の敵としてとらえていたのかもしれない。哥舒翰同様、王忠嗣の配下から立身し、のちに安思順旗下へ移った李光弼も安には心を許さず、目をかけられてその娘との縁組を提案されてもにべもなく断っており、王忠嗣閥の将領の安思順に対する反感は根強いものだった。

 さて、この対立を危惧した玄宗三者を和解させるため、天宝11載(752)、彼らが入朝した際に宴席を設けたが、ここで騒動が起きてしまう。

旧唐書』巻104 哥舒翰伝

  翰素與祿山・思順不協、上每和解之為兄弟。其冬、祿山・思順・翰並來朝、上使內侍高力士及中貴人於京城東駙馬崔惠童池亭宴會。翰母尉遲氏、于闐之族也。祿山以思順惡翰、嘗銜之、至是忽謂翰曰「我父是胡、母是突厥。公父是突厥、母是胡。與公族類同、何不相親乎?」翰應之曰「古人云、野狐向窟嘷、不祥。以其忘本也。敢不盡心焉!」祿山以為譏其胡也、大怒、罵翰曰「突厥敢如此耶!」翰欲應之、高力士目翰、翰遂止。

 

 哥舒翰と安禄山・安思順は不仲であり、玄宗はつねづね和解して義兄弟にしたいと望んでいた。その冬、禄山・思順・翰がともに来朝したので、玄宗は内侍の高力士ら宦官たちに、長安の東郊にある駙馬都尉・崔恵童の池亭で宴会をひらかせた。哥舒翰の母は尉遅氏であり、コータン人である。禄山は思順がつねに翰を憎んでいることから、仲をとりもとうと翰へ言った。「わしの父は『胡』であり、母はテュルクである。そなたの父はテュルクであり、母は『胡』である。わしらは似た者同士、どうして親しくできないものか」翰はこれに応えて「昔の人はよく言ったものだ。狐が穴ぐらに向かってほえるのは不祥だと。その本を忘れるからだ。わしにそなたの本質を見破れぬと思うたか」禄山は「胡」であることをそしられたと思い、激怒して翰を罵った。「テュルクとはこのようなものか!」翰は応酬しようとしたが、高力士に目配せされたので、ついに止めてしまった。

 この哥舒翰の返答は、『安禄山事迹』では「野狐向窟嘷拝、以其不忘本也」とあり、こちらの方が「狐が穴ぐらに向かってほえるのは、その本質を忘れないからだ」、つまり人間にまつろわぬ狐の野生を失わない、という批判として筋がとおっている。伝奇小説では狐が人間に化けたときに「胡」姓を称するように、「狐」と「胡」は同音である。安禄山の父方のソグドと哥舒翰の母方のコータンはともにイラン系と考えられるが、「胡」といっても別物で、唐代ではソグドを指して「胡」と称すことが通例だったことから、これにひっかけた哥舒翰のせりふは、ひとり安禄山への批判だけでなく、たしかに唐代社会に浸透し、その経済を牛耳るソグド人に対する不信感がにじみでているようだ。これは現代の欧米社会におけるユダヤ人に対する感情に似ているだろう。

 ちなみに安禄山の罵倒は「それがお前ら(テュルク)のやり方かー!」くらいのニュアンスである。安禄山、体型もゆいPと似てるし。

 さて、この騒動、『新唐書』の哥舒翰伝ではまた異なった描かれ方をしている。

新唐書』巻135 哥舒翰伝

 翰素與安祿山・安思順不平、帝每欲和解之。會三人俱來朝、帝使驃騎大將軍高力士宴城東、翰等皆集。詔尚食生擊鹿、取血瀹腸為熱洛何以賜之。

 

 哥舒翰はもともと安禄山・安思順と不和だったが、玄宗はつねづね和解させたいと思っていた。おりよく三人そろって来朝したので、帝は驃騎大将軍の高力士に東郊で宴会を設けさせ、翰たちをみな集めた。詔を下して尚食に生きたまま鹿を刺し、血を抜き腸を煮て「熱洛何」をつくらせて、これを賜った。

 鹿の血を抜いて腸を煮る、という鉄鍋のジャンに出てきそうなハードコアな料理だが、どうもこれは哥舒翰の好物だったらしい。

安禄山事迹』巻上 天宝十一歳三月の条

 使射生官供解鹿、取血煮其腸、謂之熱洛河以賜之。爲翰好之故也。

 

 射生官に鹿を解体させ、血を抜いてその腸を煮こみ、これを「熱洛河」といって、下賜した。哥舒翰がこれを好んでいたからである。

 ほかの史料にも同様の記述がある。

『太平廣記』所引『盧氏雑説』「熱洛河」

 玄宗命射生官射鮮鹿、取血煎鹿腸、食之。謂之熱洛河、賜安禄山及哥舒翰。

 

 玄宗は射生官に命じて生きている鹿を射て、血を抜いて鹿の腸を煮て、これを食べさせた。これを「熱洛河」といい、安禄山と哥舒翰に賜った。

 およそ聞きなれない「熱洛河(何)」だが、史料によって表記に異同があるため、テュルク語など非漢語からの音転写だろう。哥舒翰が好んだというから、トゥルギッシュではよく食べられた料理なのかもしれない。

 それではこの「熱洛河(何)」とはいったい、どのような料理だったのだろうか?

 

 遊牧民とブラッドソーセージ

 熱洛河調理の過程は史料によって多少の異同はあるが、おおよそ次のようなものだろう。

 舞台は長安東郊にある駙馬都尉・崔恵童(玄宗の娘の晋国公主の夫)の荘園内の池亭。ここに生きた鹿を放し、禁軍の射生官がこれを射止め、血を抜いて腸を煮こむ。史料によって熱洛河の調理者が異なるが、後述するように『安禄山事迹』や『盧氏雑説』が記す射生官が担当したものと考えられる。

「取血煎鹿腸」というレシピの解釈だが、単純に鹿の体内から抜いた血でその腸を煮こんだとも読めるが、遊牧民が動物の血を摂取するときは腸に詰める、つまりソーセージにすることが多いことから、個人的には熱洛河も一種のブラッドソーセージだったのではないかと思う。

 梅棹忠夫が記録したモンゴルのブラッドソーセージのつくり方は次のとおりである。

「ヒツジを屠畜するときには、あおむけにしておいて腹をさいて手をつっこみ、大動脈を人さし指と中指と薬指の三本ではさんできる。血はすべて体腔内にたまり、地面にこぼれることはない。血を地面にこぼしてはいけないのである。小腸をとりだして、内容物をきれいにあらいだす。そのあとに、体腔内にたまった血をあらった小腸にいれて、ゆでる。」*7

 小長谷有紀氏によれば、この腹腔のたまった血をすくい出すことをモンゴル語で「ツォス・アバハ(血を取る)」とよぶとのことだが*8、史料上に見える「取血」とは、この作業を指していたのではないだろうか。ちなみにこのモンゴルにおける血液の腸詰は「ゲデス」*9とよばれており、言語はちがえど、熱洛河の正体は、このような遊牧民特有のブラッドソーセージだったのではないか。

 そして血を地面にこぼさずに抜くという特殊技術は、純然たる文官で構成されていたであろう尚食ではなく、やはり遊牧系武人を内包していた射生官だからこそ可能だったと考えられる。

旧唐書』巻142 李宝臣伝

 李寶臣、范陽城旁奚族也。故范陽將張鎖高之假子、故姓張、名忠志。幼善騎射、節度使安祿山選為射生官。天寶中、隨祿山入朝、玄宗留為射生子弟、出入禁中。

 

 李宝臣は范陽近郊の奚族である。范陽節度使の将であった張鎖高の仮子となったため、もとの姓を張、名を忠志といった。幼いころから騎射を得意としたため、節度使安禄山に射生官として抜擢された。天宝年間、禄山に従って入朝したところ、玄宗は彼を留めて射生子弟とし、禁中に出入りすることとなった。

 射生官には奚出身の李宝臣のような事例があり、この宴席で鹿を射て熱洛河を調理したのも、彼のような遊牧系武人だったのだろう。

 ともあれ、ともに遊牧系武人である哥舒翰・安禄山・安思順らを接待するために、彼らになじみのある狩猟をもよおし、獲った獲物をその場で調理してふるまうという、遊牧民的雰囲気の濃厚な宴の場であったからこそ、先に見たように、似通った文化を共有する哥舒翰と安禄山は自身の出自の話になったのではないか。

 なお、北魏で成立した『斉民要術』には「羊盤腸雌斛(ヒツジ大腸のくろあつもの)」という、羊の大腸に血や香辛料を詰めて煮こむ料理のレシピ*10があり、すでに当時の中国にはブラッドソーセージのレシピは伝わっていたようだ。

 乱の初期に激突した二大巨頭が一堂に会した宴席がこのような遊牧的気風にみちていたように、安史の乱ひいては玄宗の治世とは、いわゆる「蕃将」が軍事的イニシアティブをにぎり、多様性と差別が併存する、現代にも似て渾沌とした時代だったのである。

 

*1:章群氏は系譜上に明記されている哥舒翰の祖父・沮の代に帰順したのであれば、1世代30年と計算して、690年代頃の武后の時代に帰順したものと推測している(章『唐代蕃将研究』「第二章 蕃将総論」聯経出版事業公司、1986)。哥舒沮の帯びた「左清道率」は東宮十率府の一つとして府兵を率いる太子付きの親衛武官であり、あるいは哥舒部が帰順した際に、沮は質子として宿衛入朝し授官したのかもしれない。ただし、東宮十率府のうち左右衛率府以外はすべて外府(禁中ではなく地方に所在する折衝府)のみを管掌していたという張国剛氏の指摘(張『唐代官制』「第五章 事務機関-卿監百司与諸衛諸軍」三秦出版社、1987)、さらには同じ東宮十率府のひとつである左衛率府の外府がクチャに存在していたこと(劉統『唐代羈縻府州研究』上篇「第七章 羈縻府州与唐朝疆域的関係」西北大学出版社、1998)を鑑みれば、哥舒沮の左清道率府とは、クチャで府兵制体系に組み込まれ折衝府となった、自身の部落だった可能性も考えられないだろうか。

*2:旧唐書』哥舒翰伝は「安西副都護」、『新唐書』哥舒翰伝では「安西都護将軍、赤水軍使」とする。赤水軍は河西節度使治所の涼州城内にある軍鎮であり、ウイグルをはじめ雑多な遊牧部落を統率していた(王永興『唐代前期西北軍事研究』「論唐代前期河西節度」中国社会科学出版社、1994)。安西節度使管下の安西都護府で活動しながら哥舒道元がこの軍使をつとめていたとは考えがたく、安西都護府管内にも同名の赤水軍という軍鎮が存在していたのか、または安西都護での活動時期とは別の時期に河西節度使に仕えていたのかもしれない。

*3:コータンは安西四鎮のひとつで安西都護府の統制下にあったので、唐朝にとってこれと婚姻関係を結ぶ哥舒氏は西域経営に有用だったと考えられる。実際に、景雲元年(710)、華厳経の訳経者として知られるシクシャーナンダ(実叉難陀)が入滅した際、哥舒道元は勅使として門人の悲智とともに、その遺灰と焼け残った舌を故国のコータンへ送っており、唐朝とコータンのパイプとして哥舒氏が機能していたことがわかる。また、後述するように哥舒氏が裕福だったことについて、森部豊氏はコータンが東西交易で栄えたことに関連づけて、哥舒氏がクチャで商業活動に従事していた可能性を指摘している(森部「蕃将たちの活躍-高仙芝・哥舒翰・安禄山・安思順・李光弼」松原朗編『杜甫玄宗皇帝の時代』(勉誠出版、2018)所収)。

*4:効轂府の所在は不明だが、『新唐書』地理志によれば、沙州には「効穀」府という折衝府が存在したとのこと。両者の関係は未詳。

*5:中田美絵「不空の長安仏教界台頭とソグド人」『東洋学報』89、2007

*6:章群『唐代蕃将研究』「第六章 安禄山之叛」

*7:梅棹『回想のモンゴル』「モンゴル遊牧図譜」中公文庫、1991

*8:小長谷有紀『モンゴル草原の生活世界』朝日選書、1996

*9:野沢延行『モンゴルの馬と遊牧民 大草原の生活誌』「第二章-遊牧民の食事」原書房、1991

*10:田中静一ほか編『斉民要術-現存する最古の料理書-』(雄山閣、2017)によるレシピの訳は次のとおり。「ヒツジの血五升を取り、中脈麻跡を取り去って、これを裂く。細切りしたヒツジ脇腹の脂肪二升、切ったショウガ一斤、「ちんぴ」三枚、サンショウの粉末一合、たまり醤油一升、豆鼓汁五合、コムギ粉一升五合、コメ一升をまぜて、あじめしをつくる。これら全部を混ぜて、さらに水三升をこれにそそぐ。ヒツジの大腸をほぐしてもみあらいをし、濁酒で腸の中を洗う。折り曲げて、よくなじませてから、材料を腸詰めにする。これを長さ五寸に切りつめ、煮る。血がにじみださなくなったところで、寸切りにし、食酢とたまり醤油をつけて食べる。」