壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

『入唐求法巡礼行記』に見える酢

 最近、すきま時間に『入唐求法巡礼行記』(中公文庫版)を読んでいるが、気になるのが、山東を旅する円仁一行が食を施される際、「使君手書施兩碩米・兩碩麵・一斛油・一斗醋 ・一斗鹽・柴三十根・以充旅糧。(使君は直筆で米二石・麺二石・油一斗・酢一斗・塩一斗・柴三十束を旅行中の食糧に充てるようにと施してくれた)」(開成五年三月三日の条)とあるように、塩と同量の酢を給されており、また、「就主人乞菜醬醋鹽、惣不得。遂出茶一斤、買得醬菜、不堪喫。(主人に野菜・ひしお・酢・塩を出してほしいと頼んだが、どれもこれも出してもらえない。仕方なくとうとう持参の茶一斤を出して、ひしおと野菜を買うことができたが、とても食べられるようなものではなかった)」(同月十七日の条)、「主人慳極、一撮鹽・一匙醬醋、非錢不與。(主人は極度にけちな人で、一つまみの塩、一さじのひしおや酢さえ、銭を支払わない限り出してくれない。)」(同月二十一日の条)とあるように、塩やひしお(中公文庫版では「醤油」と訳されているが、当時、現代の醤油に類する「清醤」が一般的に普及していたのか未詳なため、伝統的に普及していたジャン、つまりひしおとして訳しておく)とおなじ調味料として酢が併記されることである。

 調味料として必須であろう塩やひしおと同量の酢が給されており、現代日本人の感覚では異常なくらい酢の消費量が多かったことがうかがえる。え、何なの円仁、途中で味変とかするの?

 そこで唐代の飲食に関する本で酢の用途について調べるが、食材や料理法、変わった料理などは記していても、調味料について解説しているものは意外と少ない。そんななか、高啓安『敦煌の飲食文化』(東方書店、2013)では、円仁が旅した山東からはるか西方・敦煌のことではあるが、おなじ唐代の酢について、「寺院では毎年六月に一回、あるいは春と秋の二回に分けて酢の醸造を行い、集まってみなで食事をする場合には必ず酢を使っていた。…(中略)…文献中では、酢は粥を煮るときに加える以外に用途は見えない」と記載している。『齊民要術』でも粟米を炊くときに酢を入れるレシピを掲載しており、味変どころか、当時は粥に酢を入れる食べ方が一般的だったのだろう。そういえば現代でも中華粥には黒酢を入れるな。

 行記では、円仁は粟などの穀物の「飯」または「粥」を食べていることが多く、その味付けとして酢は必須の調味料だったのだろう。行記を読む際の参考までに、読書メモとしてここに記録しておく。