魅惑(?)の三国志エロラノベの世界(2)〜井の中の井守『孔明のエルフ嫁 三国志赤壁異聞』
弊ブログはまじめな東洋史ブログのはずだが、なぜかアクセスランキングの上位に三国志エロラノベのレビュー記事が君臨していることが多い。
読者の品性を疑う由々しき事態だが、三国志コンテンツウォッチャーとしては、日本における受容形態のひとつとして、こういったアダルトコンテンツにおける三国志の描かれ方というのも考究すべきテーマだと考えている。
そこで、今回はあらたな三国志エロラノベとして、井の中の井守『孔明のエルフ嫁 三国志赤壁異聞』(フランス書院、2019)をとりあげたい。
まず、本書の目次は次のとおりである。
新野流亡の章 幸せの終わり、英雄のはじまり
赤壁前夜の章 雨龍は昇りてエルフは軍師に愛される
終章 どこまでもふたりで
目次からもわかるように、本書は諸葛亮(以下「孔明」)が荊州の名士黄承彦の娘(月英)を娶ってから、曹操の荊州攻略からの逃避行、そして赤壁の戦いまでを描く、孔明夫妻のいちゃラブ官能ラノベである。前回とりあげた『三国志艶義 貂蝉伝』シリーズが、三国志序盤を舞台とし、濡れ場がほぼ凌辱シーンばかりだったのとは対照的である。
さて、孔明の嫁、というと某マンガを連想するが、本書では、孔明の嫁・黄月英はタイトルどおりエルフである。自分でも何を書いているのか解らないが、エルフということになっている。
月英の生まれた部族は耳長族と呼ばれる。これは漢族からの呼称で、西域の民からは〝馬乳酒の民〟と呼ばれていた。遊牧生活の傍ら、馬乳酒を製造して交易を行っていたからだ。
ちなみに月英の部族は自らを〝エルフ〟と自称していた。他の民とは違う、という意識があったからである。
エルフの男は戦士となり、女は巫女となるのが慣習だった。女が生まれると長老は馬乳酒を用いた秘蹟を行う。すると霊感が上昇し、人ならざる者の声を聞けるようになるのだ。
本書の世界観では、西域の耳長族の出身ということで、人ならざる者――妖怪とも交信できるという、エルフらしい属性と三国志的な世界観をどうにか接合した、もっともらしい(?)設定となっている。黄氏については、木牛流馬の元ネタになったカラクリをつくった才女として内助の功を称える民間伝承があり*1、その異能で孔明を支えたという伝承や、髪が黄色いという史書の記載から、「異能(妖怪との交信)で孔明を支えるエルフ妻」というキャラクター設定となったのだろう。なお、本書ではエルフとしての属性を優先しており、キャラの渋滞を避けるためか発明家属性は捨象されている。
ちなみに正史の裴注で引かれる『襄陽記』では、黄承彦が娘の容姿を「黃頭黑色」と評しているので、金髪ダークエルフにした方がより史実に近かったかと思うが、金髪白皙の一般的なエルフ像の方が読者に受け入れられやすいという配慮から、現在の容姿に落ち着いたのだろう。また、黄氏が襄陽一帯では「醜女」と評されていた史実も、当時の漢人(とくに西域と交渉のない荊州の人びと)にとっては、なじみのないコーカソイド的容貌だったため、「醜女」として映ったものと処理されており、官能小説としての実用に供するには非常に合理的な解釈といえよう。
この黄月英は、後漢の衰退に伴う西域の混乱により一族が滅亡し、流亡の末に荊州へたどり着き、黄承彦の養女となったという設定であり、非漢人であることからも周囲から差別を受けて心を閉ざしたキャラクターとして描かれており、そんな彼女が誠実で女性を尊重し、世間の常識を意に介さない「奇人」孔明との夫婦生活をとおして心を開き、女としての幸せを手にしていく、という物語になっている。
もう一人の主人公である孔明の方は、結婚当初は女性に触れることすらためらいがちの童貞だったが、月英と交接するうちに言葉責めまで覚えていく学習能力の速さで、「さすがは臥竜」と感心してしまう。しかし、初夜ではやはり童貞で、月英の裸を前にしたときの会話は、神算鬼謀を謳われた名軍師とは思えないほどIQが低い。
まさに芸術的だった。真っ白な柔肉がふっくらと盛り上がり、その合間に綺麗な割れ目があった。
「こ、これがおま×──」
「いっ、言わないで! 見ないでッ!」
月英はくるんと反転し、両手で股間を覆い隠す。すると今度はまた魅力的なものが視界に映った。
「おっぱい」
「どこを見てるんですかっ!」
少女はバッと片腕で胸を隠す。だがふくらみは隠しきれるものではなく、押し潰れて卑猥な形になってしまっていた。
「おっぱい」
「そっ、それしか言えないんですか!?」
なんという理不尽さだろうか。どこを見ているのか正直に答えただけなのに。
こんなの俺たちが知ってる孔明じゃねえよ!!
また、史実の孔明は身長8尺(約184㎝)の偉丈夫だが、作中に身長についての言及はないが、月英が見とれるほどの巨根として描かれていることを、孔明の名誉のため付言しておきたい。
そのほか、諸葛家の重要人物として孔明の弟の諸葛均も登場するが、彼は男の娘である。自分でも何を書いているのか解らないが、特に何の必然性も濡れ場もなく、男の娘として造形されているのだ。
背丈は五尺ほど。艶やかな黒髪を三つ編みに、その先端を白の細布で結わえている。丈を短く切り詰めた女性用の漢服からは、真っ白な美脚がすらりと伸びていた。
ただ、「孔明じゃなくてお前がパリピなの!?」とツッコみたくなる明るいムードメーカーで、月英のよき理解者ともなる愛すべきキャラクターではある。ちなみに作中では「背丈は五尺ほど」と描かれているが、後漢時代の度量衡(1尺=約23㎝)で換算すると約115㎝なので、男の娘キャラに萌えるどころか「小人症かな?」と心配になる身長である。おそらく日本の度量衡(約30㎝)を想定し、150㎝程度の小柄な男の娘キャラを造形したかったのだろうが、ファクトチェックの甘さが「エルフと妖怪と小人の織り成す異形の三国志エロラノベ」を爆誕させてしまっている。
また、呉陣営では、孫権や魯粛など月英に露骨に横恋慕するキャラクターが多く、男女関係に奔放なことを江南の風習のように描いているが、これは士庶の別に目を瞑ればあながち誤りともいいきれず、後代でも、江南における礼教的規範から自由な男女関係が中央から問題視される事例が散見される(一例として下記の過去記事を参照のこと)。
そのような江南の男たちの視線にさらされる月英も被虐的な妄想がドライブしてしまう。
(わたし、こんなところで裸にされて……)
ドクン、と心臓が跳ね上がった。呼吸がどんどん荒くなっていく。先ほど魯粛が放った卑猥な言葉が頭の中で反響していた。
今、あの卑怯で卑劣な男がやってきたら、わたしは簡単に組み伏せられてしまうだろう。パンパンに張り詰めた肉棒で陰唇の形が崩れるまで容赦なく犯されて、子宮の中に黄ばんだ子種汁をたっぷり注がされてしまうのだ。
そして彼は口封じのために、この船の漕ぎ手たちを誘うに違いない。わたしは屈強な男たちに輪姦されて、内も外も滅茶苦茶に穢し抜かれて──
(や、やだ……わたしったら、なんてことを考えてるの……!?)
──月英は顔を真っ赤にして身悶える。
しかし、孫権はともかく、魯粛も死後1800年ほどを経て東夷の国で自身がこんな性獣にされているとは思いもよらないだろう…。
あと、山越はケモミミだそうです。
「すみませんが、我が夫は諸葛亮ただひとりと心に決めております」
月英は戸惑いながら言った。
「それにわたしは、耳長族ですし」
「そんなこと、気にはせん」孫権は大真面目に言う。
「知らぬか? 我らが相手にしている山越の民は獣耳なのだ」
知らねーよ!!
このようにツッコみどころはありつつも、愛すべきキャラクターたちの和気藹々としたかけあいで物語が進んでおり、ラノベ特有の軽い文章やノリもあって、非常に読みやすい内容ではある(文章はやや拙いが…)。ただし、孔明の劉備への仕官の経緯や赤壁本戦が(ほぼ)割愛され、徐庶をはじめ孔明の周辺人物も大胆にカットされており、三国志物の小説としての面白さを求めている向きには不満が残るだろう。本書はあくまでも曹操の荊州攻略から赤壁の戦いに至る歴史を背景とした、孔明夫妻のいちゃラブが主眼のエロラノベなのである。
ただし、荊州の名士で蔡瑁や劉表とも閨閥でつながる黄承彦の娘との結婚が、孔明にとって荊州での安定した生活をもたらす旨を明記していたり、妖怪と交信できる月英の特性をいかして『子不語』等の伝奇小説に表れる中国妖怪を登場させ(当然時代は異なるのだが)赤壁の戦いの帰趨に結び付けるなど工夫が光っており(ネタバレになるので詳細はぜひ本書で確かめていただきたい)、また、諸葛瞻が孔明の晩年の子である理由付けまでされているなど、意外と考証にも目配りがされていて侮れない。
著者のほかの著作も日本の戦国時代に取材した作品が多いようで、羅姦中先生のように歴史小説家志望だったかは判らないが、歴史や伝奇小説への造詣があるのだろう。歴史エロラノベというニッチな世界で、今後の活躍が楽しみな書き手である。
また、本書の官能描写は普通のエロラノベと変わらず(まあ普通のエロラノベをそもそも読まないので何が普通かは判らないのだが…)、羅姦中先生のような中国文化に根差した独特の比喩がないため、個人的には物足りなく感じるが、実用したい読者にとっては羅姦中先生流の官能表現はノイズにしかならないだろうから、本書の方が実用向きだろう。凌辱シーンがなく、孔明夫妻のいちゃラブセックスがベースという脳に優しい仕様も含めて、『三国志艶義 貂蝉伝』と比べると三国志エロラノベとしては入門者向けの作品といえるかもしれない。本記事執筆時点ではKindle Unlimitedで読めるので、加入者は一度お試しあれ。
最後に、個人的に本書で一番好きなシーンをあげておく。孫権との同盟締結の使者として派遣された孔明に従い、柴桑まで長旅をしてきた月英がストレスで自慰をしたくなるシーンである。
(……指で慰めてから寝ようかしら)
妄想ならばともかく、現実に孔明以外の魔羅を求めようとは思わない月英だった。夫のそれを模した張形も今はない。新野からの逃避行で、家財と共に曹操軍に奪われてしまっていた。
本書では基本的に発明家属性が封印された月英だが、その彼女の唯一の発明が、よりによって孔明サイズのディルドである。しかも曹操軍に略奪されているという…。劉備軍の軍師の個人情報がダダ漏れなんて、由々しき事態ですよ!
猫と関羽と唐人屋敷
先日、学生時代からおよそ20年ぶりに長崎へ旅行に行った。
中華街には前回行っていたのだが、今回はその近くにある唐人屋敷跡が目当てのひとつ。江戸時代の対外貿易といえば出島ばかりがクローズアップされるが、実際は明や清の商人との唐人貿易が主流とのことで、唐人屋敷はその主役たちが居住していたゲットーである。当時の唐人屋敷を囲繞していた外壁などはもはや存在しないが、内部に存在していた建物のいくつかは残されているということで、楽しみにしていたのだ。

中華街から唐人屋敷跡へ向かうと見えてくる大門。この先の館内町一帯が江戸時代は唐人屋敷として隔離され、多いときは二千人ほどの唐人が住んでいたとのこと。
現存している建物は土神堂、天后堂、観音堂、福建会館の4箇所である。

大門を抜けて右手に見えるのは土神堂だ。





小さな石橋を渡った先にある廟宇に祀られているのが土神、いわゆる土地神、土地爺、土地公などといわれる、道教のパンテオン的には末端の土地の守護神である。もっともそれだけに一般の民衆にはなじみ深い神なのだろう、唐人の船頭たちの願いが許され、建てられたとのこと。
土神堂から次なる天后堂へ向かう途中に見えてくるのが、蔵の資料館である。



入り口の門には魔除けとして門神の秦叔宝と尉遅敬徳が貼られており、テンションが上がる!


内部は唐人屋敷を描いた絵画や図面の複製が飾られ、唐人屋敷の沿革を知ることができる。

地元の商人も出入りできたニノ門前の市場の喧騒。これは銅や砂糖を取引していた唐人貿易ではなく、取引のあいだ唐人屋敷に滞在する唐人たちの生活のための薪や食料を買っている場面だろう。

圧宝というのか、チンチロリンのような博打をしている唐人たち。

2階で優雅に音楽を楽しむ唐人は船主だろうか、博打を打つ船員たちとは明らかに階級が異なっており、唐人屋敷の階級差も垣間見える。

ニノ門で出入りする唐人を検めてる場面。


いまに伝わる龍踊りなどの芸能や、
丸山の遊女との交情も描かれており、唐人屋敷の生活や行事が当時の人びとにとっても関心の高いトピックスだったことがわかる。
天后堂へ向かって裏路地を歩いていると、近隣の商店のシャッターにも唐人関係のイラストが描かれているのを見つけた。



地元の高校生たちが描いたようで、地域の歴史が現代の学生にも伝わっていることが、なんだかうらやましいような頼もしいような気持ちでながめていた。
さて、天后堂である。






天后、つまり媽祖を祀っているわけで、唐人たちも航海の安全祈願をしていたのだろう。


千里眼と順風耳もいるよ!
そしてこの天后堂、媽祖だけでなく、

みんな大好き関帝もいるよ!商売繁盛!


左右に関平と周倉がいるのは定番だが、関羽だけでもバージョン違いで3体いるぞ…!長崎に来航した唐人たちが各々持ってきた関帝像をここに集めたのだろうか…。

ちなみに天后堂は光緒32年(1906年)に改築されたらしい。
天后堂を後にして、通りを渡って住宅街の路地を抜けると見えてくるのが観音堂だ。






こちらでは観世音菩薩が祀られているだけでなく…

関帝、こっちにもいるの!?
唐人屋敷跡、関帝が四柱もいる、まさかの関帝密集地帯だったのか…。
ちなみに観音堂前の広場には野良猫?地域猫?が2匹いて、関羽だけでなく猫も密集してました…。








ちなみに福建会館は朝早かったからか空いておらず、入れずじまいでした…。次回来たときのお楽しみかな!


唐人屋敷跡、中国史と猫が好きな人にはおすすめのスポットでした。
唐代の未婚事情について
以前、白居易の例などをあげて唐代の晩婚化について記事を書いたが、唐代の未婚・晩婚事情には、科挙や戦乱などのほかにも別の要因があったようだ。
以下は、永州刺史として治績をあげた韋宙の施策である。
『新唐書』巻197 循吏伝 韋宙の条
出為永州刺史。…(中略)…初、俚民婚、出財會賓客、號「破酒」、晝夜集、多至數百人、貧者猶數十。力不足、則不迎、至淫奔者。宙條約、使略如禮、俗遂改。
(韋宙は)転出して永州刺史となった。…(中略)…はじめ、土地の人びとは結婚するときは、財産を傾けて客をまねき、「破酒」と号して昼夜集まり、その客は多ければ数百人、貧しい者でも数十人にものぼった。資力のない者は嫁を迎えることができぬので、正式に結婚せずに結ばれる者もいた。宙は決まりごとを定めて礼にならわせたので、とうとう風俗が改まったのである。
この当時の永州では奢侈が尊ばれており、当然「地味婚」などあるはずもなく、結婚するなら両家親族や関係者諸々を招いて、「破酒」なる昼夜を分かたぬどんちゃん騒ぎをしていたらしい。経済的事情でそんなド派手な結婚式(?)が挙げられないから結婚できない、というカップルもいたようで、なんだか非常に現代的な話である(ちなみにこの記事からもわかるように、我々が普通におこなっている婚前交渉は、唐代の価値観では「淫奔」というタテマエである)。
韋宙は奢侈の風俗を改め、「礼」にかなったやり方で結婚できるよう教化したそうで、それがどのような形の式なのかは不明ながらも、結婚できるようになったカップルは多かったのだろう。現代日本でも婚活事業に力を入れている自治体はあるが、その先例のような話である。
まあそれはそれとして、俺のように相手のいない男はどうしたらいいんだい、韋宙…?
愛されサセコの一生
先日読んだ古賀登「敦煌戸籍の一男十女について」(『古代学』12号、1965年)におもしろい史料が引かれていたので紹介する。*1
『太平広記』巻101所引『続玄怪録』 延州婦人の条
昔延州有婦女。白晳頗有姿貌、年可二十四五。孤行城市、年少之子、悉與之遊、狎昵薦枕、一無所却。數年而歿、州人莫不悲惜。共醵喪具、為之塟焉。以其無家、瘞於道左。大曆中、忽有胡僧自西域來。見墓、遂趺坐具、敬禮焚香、圍繞讚嘆。數日、人見謂曰「此一淫縱女子、人盡夫也。以其無屬、故瘞於此。和尚何敬耶。」僧曰「非檀越所知、斯乃大聖、慈悲喜捨、世俗之欲、無不狥焉。此即鏁骨菩薩。順緣已盡、聖者云耳。不信即啓以驗之。」衆人即開墓、視遍身之骨、鉤結皆如鏁狀。果如僧言。州人異之、為設大齋、起塔焉。
昔、延州にひとりの女がいた。色白の器量よしで、年のころは二十四、五ばかり。ひとりでまちをうろついては、若者はみなこの女とたわむれ、ベッドにさそえば拒むことがなかった。数年後に亡くなったが、州で悲しまぬものはいなかった。みなで金をだしあい葬儀をおこなったが、女には家族がいなかったので、道のかたわらに葬ったのであった。大暦年間(766~779)、胡人の僧侶が西域から延州にやってきた。僧は女の墓を見るや、座具にすわり、香を焚いては拝礼し、墓のまわりをめぐって賛嘆した。数日して、人がこれを見ていうには、「ここに葬られているのはある淫奔な女で、男はすべて夫のようなものでした。ひきとる親類もいないのでここに葬ったのですが、和尚はなぜこんな女を拝むのですか?」と。僧がいうには、「施主どのはご存じないでしょうが、彼女は大聖であり、慈悲の心で施しをおこない、世俗の望みはすべてかなえてくれました。これを鎖骨菩薩といい、善事をおこなった結果、仏縁が結ばれ、聖者となったのです。信じられなければ墓をひらいてみなさい」と。人びとがすぐに墓を開いたところ、女の全身の骨はみな鎖のようにつながっていた。はたして僧のいうとおりであった。人びとはこの奇跡に感じ入り、盛大に斎を設けて塔を建てたのである。
いやあ、こんなありがたい仏さまがいるんですね。とくに「世俗之欲、無不狥焉」という表現にすごみを感じる。どんなプレイでも対応してくれたんだろうなあ。
あと、彼女の死を「州人莫不悲惜」とのことだけど、これは確実に悲しんでるの男だけですよね…。
仏教説話にくわしい人からすれば既知の話なのだろうが、僕は今回はじめて「鎖骨菩薩」の存在を知ったので、いたく感銘を受けてこの記事を書いた次第。
さて、与太話はともかく、この説話で注目したいのは、舞台がみやこ長安と北の方オルドスの軍事拠点・霊州をつなぐ交通の要衝・延州であることだ。
以前、このブログでも書いた、墓から大量の胡人俑が出土した穆泰の活動地域(慶州・霊州)の近隣である。
説話内でも西域から胡僧、つまりソグド系の仏僧が来往したことが記されているが、河西回廊や霊州を経て、長安へ南下するか山西へ東進するかの中継地点としてだろうが、西域から人の移動や仏教文化の伝播があった、延州という土地の特性が反映されているのが興味深い。
このほかに、鎖骨菩薩説話の成立背景に関わっていそうな延州の土地柄も記しておく。
『隋書』巻29 地理志上 雍州の条
雕陰・延安・弘化、連接山胡、性多木強、皆女淫而婦貞、蓋俗然也。
雕陰・延安・弘化は山胡に隣接し、人びとの気質は素朴で気が強く、みな娘は淫らで妻は貞淑である。山胡の習俗の影響なのであろう。
延安(唐では延州)の女性は、独身時代は性に奔放だが、結婚したら身持ちが固くなるという、男にとって非常にありがたい貞操観念だったらしい。
これも礼教的規範から自由な非漢族(=山胡)との交雑・往来によるものなのだろう。前掲古賀論文では、延安をふくめて東西交易に関わる宿場町は隊商相手の娼妓が集まるから女は「淫」と見られる、というロジックだが、むしろ土地の非漢族的特質が、礼教的規範にとらわれる漢人官僚には「淫」と見えるのではないか。
「延州婦人」はあくまでも鎖骨菩薩誕生を描く説話なので、具体的な史実に基づいているわけではないだろうが、それでも、その成立背景には、シルクロードの一隅を占め、非漢族的特質が色濃く残る延州という土地のイメージが影響しているのではないだろうか。延州婦人の特徴の「白皙」も、ソグド人との混血を連想させる。
色白ハーフ美女が男をとっかえひっかえ、と想像するだけで、「そら聖者にもなるわ」と納得してしまう、そんな鎖骨菩薩ならぬサセコ菩薩の説話である。
*1:本記事では中華書局版『太平広記』から引用しているため、古賀論文とは一部字句に異同がある。
大シルクロード展雑感
昨年から全国巡回中の大シルクロード展、宮城県は多賀城市の東北歴史博物館で最終日に滑り込みで見てきたので、とくに気になった展示を簡単に紹介したい。


入り口から、北周の涼州薩宝だった史君(とその妻の康氏の合葬)墓から出土した石堂のレプリカでテンションが上がる。
ともにソグド系のカップルであり、ソグド語と漢文で併記された銘文からも、彼らは漢化が浅く、ソグド人としてのアイデンティティを濃厚に維持してしていたことが見てとれる。

ソグド語の手紙。マニ教徒間でやりとりされた手紙らしく、トルファン出土の11世紀のものということで、必ずしもソグド人とは限らず、ソグド文字を利用していたマニ教徒のウイグル人の手になるものかもしれない。

ホータン出土の前2〜後2世紀頃の壁掛とのことで、上半分はケンタウロス的な半人半馬、下半分は槍を持つ武人像。出土した墓の被葬者のズボンにリメイクされたものらしいが、陰影で顔の立体感を出す写実的な技法は、とても二千年も前のものとは思えない。

胡騰舞像。かなり小さいが、躍動感のあるポーズで胡騰舞をおどるソグド人を表現していて、じっと見入ってしまった。どこかピエロのような滑稽みも感じる像は、唐代の人びとが胡騰舞をどのように見ていたのかを表していそう。安禄山もこういうダンスでウケをとっていたんだろうな。

固原史氏の史索厳と安娘のこれまたソグド人夫婦の合葬墓から出土した水晶。ペンダントトップとして使われていた可能性があるそうで、青く透明感のある水晶はシンプルにきれい。


今回見た展示で一番アガったのが、このソグド商人へ発行された過所(通行証)。本物の過所というだけでも興奮するのに、ソグド商人が交易のために交付されたものということで、興奮倍増。
西州の石染典というソグド商人が、交易のために訪れていた瓜州から、常楽、塩池などの4つの守捉を通過し、沙州(敦煌)からさらに伊州(ハミ)へ向かう西行の足どりがたどれることや、その一行に康禄山、石怒◾️などのソグド人がいたこと、ロバ十頭の小規模な隊商だったことなどもわかり、非常におもしろい史料だった。あと、禄山という名前はやはりソグド人には珍しくない名前(光を意味するソグド語?)の音転写なんだろうな、とか。
行く先々で紙を継ぎ足されて割り印が押されているのも、現代人の感覚に近くておもしろい。

今回の展示には吐蕃関係の文物もあり、この飾板は吐蕃人を表しているとのこと。ターバンを巻いて、袖が長くて…という吐蕃のファッションをはじめて見たので、非常に新鮮だった。

敦煌出土の龍文塼。お座りしている龍は、辟邪の機能をもつ「伏龍」とのことで、そういえば鎮墓獣もみんなお座りポーズだけど、このポーズ自体に意味があるのだろうか…。



そのほか、色々な西域っぽい唐三彩など。3枚目のリュトンみたいな唐三彩ははじめて見たな。鳳凰をあしらった鳳首杯とのことで、しっかり中華ナイズされたリュトン。



白居易の故居から出土したという、小鉢や碗、石硯。こういう質朴な硯で墨をすりつつ、閑適詩なんかを詠んでいたのかと想像するのも楽しい。


唐太宗の妃である韋貴妃の墓から出土した「献馬図」。巻髪に深目高鼻の馬丁?たちはあきらかに西域の胡人、おそらくはソグド人として描かれており、西域から駿馬を献上するシーンを描いているのかもしれないが、ソグド系の人びとが唐朝の監牧に関わっていたことを思いあわせると、馬の扱いに慣れた彼らが馬とセットで唐代の人びとには想起されたのではないか、などと想像してしまう。
いやー見応えあったなあ、と満足して会場から出ようとすると、出口にラクダの剥製が。説明をよく見ると…


池田…大作、先生!?
ああ〜、そうか、そういうことか〜。
池田大作は中国史に関心あるし、潮出版は横光三国志をはじめ中国史関係の本いっぱい出してるもんな!
そもそもこの展示の主催である富士美術館もそっちのアレだもんな!
ミホミュージアムといい、新興宗教はなんでこんなにシルクロード好きなの…。
そして俺みたいなソグド畑の人間は、好むと好まざるとに関わらず、こういう新興宗教のお世話になってるんだなあ…、と複雑な思いで博物館を後にしたのであった。
まあ展示品に罪はないので、シルクロードに興味があって、創価学会のせいで一家離散の憂き目を見たわけではない人にはおすすめの展示ですよ。これから愛媛・岡山・京都と西日本を巡回するので、西日本の方はぜひ。
パリピ淵明
先日、朝の情報番組で「米のとぎ汁でシャンプーするのが流行っていて~」という話が出ており驚いたのだが、TikTokでは #ricewater というハッシュタグで世界的に投稿されているそうだ。
僕が驚いたのは、不衛生だからではなく、それが古代中国における洗髪方法だからである。
漢の文帝の皇后である竇皇后は宮中に入る前、弟の竇広国との別れ際、米のとぎ汁で髪を洗ってあげたエピソードがある。
「姊去我西時、與我決於傳舍中、丐沐沐我、請食飯我、乃去。」
「姉がわたしを残して西へ去ったとき、わたしと駅舎で別れました。「沐」を借り受け、私の髪を洗ってくれ、また食べ物を請うて、わたしに食べさせたうえ、去ってゆきました。」
ここでいう「沐」は穀物(竇氏の郷里は河北のため、コメではなくアワではないか)のとぎ汁(潘)を指し (『史記索隠』沐 、米潘也。謂后乞潘為弟沐。)、漢代では「米」のとぎ汁(=沐または潘)での洗髪が一般的だったことが見てとれる。
時代は下って、東晋末から劉宋にかけて活躍した詩人・陶淵明には、「閑情の賦」という非常にフェティッシュな作品があるが、そのなかで美女の身の回りのものに変化したいという妄想をうたっている。
願在衣而為領 なれるものなら、上衣では襟になり、
承華首之余芳 うなじのにおいにむせびたい。
悲羅襟之宵離 でも寝るときには脱ぎすてられ、
怨秋夜之未央 秋の夜長がうらめしい。
願在裳而為帯 なれるものなら、スカートでは帯になり、
束窈窕之繊身 たおやかな腰をしめてあげたい。
嗟温涼之異気 でも季節がうつりかわれば、
或脱故而服新 新しいものととりかえられる。
願在髪而為沢 なれるものなら、髪では髪油となり、
刷玄鬢於頽肩 黒髪をなで肩のうえでとかしてあげたい。
悲佳人之屡沐 でも美しいあなたはしばしば髪を洗うから、
従白水以枯煎 米のとぎ汁で流されかわいてしまう。
ここでは米のとぎ汁を「白水」と表現しているが(陶淵明は江南の人なので、コメのとぎ汁と思われる)、洗髪の際はとぎ汁を煮沸して利用するため、ヘアオイルに変じた妄想上の陶淵明は、ただ流されるのではなく、熱で「枯煎」するのである。陶淵明、どMかよ。
孔明ではなく陶淵明が現代に転生した場合、TikTokの #ricewater 動画を「いいね」しまくるんだろうなあ…(それはパリピでなくむっつりスケベでは?)。
トラとパンダと文帝と
Twitterで話題になっているが、漢の文帝の陵墓・覇陵の西側にある動物殉葬坑からジャイアントパンダの骨が出土したとのこと。
僕も現時点での自分の考えをまとめるために、このブログにメモとして記録しておく(今後の進捗によって補訂する可能性あり)。
漢の文帝の陵墓にパンダが陪葬されてたという話だけど、たぶん文帝はパンダに限らず動物全般好きだったんじゃないかな。上林苑で禽獣簿について、担当の役人が答えられないくらい質問してたらしく、唯一よどみなく回答できた「虎圏」の雑役夫を取り立てようとしてたらしいので。 https://t.co/4m6b2Ebi7F
— 韓信 (@ano_hacienda) 2023年8月2日
この史記や漢書の張釈之伝の逸話を読んで改めて気づいたけど、「登虎圏」して質問攻めにしていた、という表現なので、上から見下ろすような形の檻で虎を飼っていたんだろう。今回骨が出たパンダも陪葬のために秦嶺から狩ってきたのではなく、上林苑で飼われてた奇獣で文帝のお気に入りだったのでは?
— 韓信 (@ano_hacienda) 2023年8月2日
管見のかぎり伝世文献上で文帝にパンダが献上された、またはパンダを狩猟した、という記事は見えないので、「このパンダって史記に出てきたあいつじゃね…?」という同定は不可能である。そもそも現代中国語では「大熊猫」と表記されるパンダの前近代中国における呼称すら未詳である。実は史書や詩文に出てきているが、別名なのでそれがパンダだと現代の我々には認知できていない可能性はあるが。
現代のパンダ人気のルーツとして、家永真幸氏は、19世紀に四川省へ動物収集に訪れていたフランス人宣教師がパンダを「発見」したことを挙げており*1、四川や陝西等の棲息地において、パンダは当地の民衆には認知されていただろうが、現代のように広く世間一般に珍重されていたわけではなかった、というのが、家永書を読んだときの僕のパンダ理解だったのだが(僕が読んだのは底本となる『パンダ外交』(メディアファクトリー新書、2011)だが)、皇帝陵に陪葬されていたとなると、この理解を改めなければならない。
パンダは前漢代においても、皇帝の陵墓に陪葬する価値のある珍獣として扱われていたのだろう。ちなみに、文帝の母の薄太后の陵墓からも、パンダの骨が出土しており、こちらはほかにもサイやキンシコウ、タンチョウヅル、カメなど、多彩な動物も一緒に埋められていたそうで、まさに「地下動物園」である。
さて、では文帝母子は、一緒にお墓に埋めてもらうほどの無類のパンダ好きだったのかといえば、個人的には、(少なくとも文帝は)パンダに限らず動物全般が好きだったのだろうと考えている。
以下は、文帝が謁者僕射の張釈之をともない、みやこ長安の南方に広がる皇室の大庭園である上林苑へ行幸した際のエピソードである(『漢書』張釈之伝もほぼ同じ内容である)。
『史記』巻102 張釋之馮唐列傳第42 張釋之の条
釋之從行、登虎圈。上問上林尉諸禽獸簿十餘問、尉左右視、盡不能對。虎圈嗇夫從旁代尉對上所問禽獸簿甚悉、欲以觀其能口對響應無窮者。文帝曰「吏不當若是邪。尉無賴!」乃詔釋之拜嗇夫為上林令。
張釈之は行幸に従って、虎圏へ登った。文帝が上林尉へ禽獣簿について十あまりの質問をしたところ、尉は狼狽して左右を顧みるが、誰ひとり答えられなかった。するとかたわらにいた虎圏の下役人が尉に代わって下問に詳細に答えたが、自分の能力を示そうと響きに応じるように即答し返事に窮することがなかった。文帝は「役人はこのようでなければならない。尉は頼みにならぬ!」といい、釈之に詔してこの下役人を上林令に任じようとした。
上林苑は広大な敷地内に複数の宮殿や山川・池沼・森林を擁し、皇帝が軍事訓練を兼ねた狩猟をするなど、幅広い用途をもつ大庭園だったが、苑内では皇帝に献上された珍獣なども飼育されていた。文帝が関心を抱いていた「禽獣簿」も、おそらくは苑内で飼われている禽獣のリストのようなものだろう。
上林苑の機構については、のちの武帝の時代においては、トップの上林令の下に八丞と十二尉で構成されており、文帝の治世でも大きく変わらなければ、この12人の上林尉のうちの数名が、このとき文帝の応接をしたのだろう。
禽獣簿を見ながらウキウキで矢継ぎ早に質問する文帝と、狼狽してまったく答えられない上林尉たちの構図は、はたから見ればどこか滑稽で微笑ましいが、彼らの立場になれば冷や汗ものである。このとき文帝の下問に対してよどみなく応答したのが、「虎圏」の下級吏員たる嗇夫である。では「虎圏」とは何か?
「圏」とは、家畜を飼育するために柵などで囲った場所を指し、ブタを飼育する「猪圏」、ヒツジの「羊圏」などがポピュラーである。




猪圏は一般的に、多階層の建築物となっており、1階がブタ小屋、2階がトイレで構成されている。2階で用を足した人間の糞便を1階のブタが餌にする、という循環型のトイレ兼ブタ小屋である(詳しくは過去のブタトイレの記事を参照)。
上林苑内にあった「虎圏」が、ブタトイレならぬトラトイレだったとは考えがたいが(僕なら確実に緊張して出るものも出ないと思う)、猪圏や羊圏のように、柵で囲ったなかでトラを飼育していた施設だったのだろう。「登虎圏」という表記からも、多階層の建築物だったことが読みとれる。
おそらく文帝は「虎圏」の2階に上り、1階の柵のなかをうろつくトラを見下ろしながら、上林苑の役人たちをあれこれ質問攻めにしていたのだろう。その質問に対して尉ではなく、実際にトラの飼育にたずさわっていただろう下っ端の嗇夫が回答していることから、質問内容はトラの具体的な生態に関することだったのかもしれない。上役では回答に窮するほど細かい質問をしてくる文帝の、動物に対する並々ならぬ関心の高さがうかがえる。
嗇夫の打てば響くような回答と、しどろもどろでろくに答えられない上林尉を比較して、前者を上林苑のトップたる令へ抜擢しようとした文帝だが、随行していた張釈之に口が巧いものばかり取り立てるようになる弊害を説かれて諫められたため、この人事は断念している。
諸方から献上された珍獣などは、このように上林苑内で無造作に放し飼いされていたのではなく、「圏」のなかで飼育されていたと考えられるので、おそらくトラ以外の禽獣についても同様の「犀圏」や「象圏」などが存在しており、文帝や薄太后の陵墓に陪葬されたパンダも、秦嶺山脈の北側にいた野良パンダを狩ってきたわけではなく、上林苑の「パンダ圏」にいた個体だったのではないだろうか。
文帝の下問に対して上林尉が回答できなかったのも、おそらくは苑内には複数の動物の「圏」がもうけられており、ひとりの尉が数圏を統括していたので、一つひとつの動物の生態までは把握しきれていなかったためではないか。
文帝は即位してからの23年間、宮室・苑🈶・車騎・服御を何も増さなかったと節倹を称えられた名君であり、自身の葬儀についても薄葬にするよう言い残しているが、動物に関しては「別腹」だったのかもしれない。そんなふうに想像すると、奔放な武帝などと比べて、生真面目で倹約家的なお堅いイメージの文帝にも人間臭さを感じられる。
もっとも文帝や薄太后にパンダを陪葬させたのは、彼らの嗜好を慮った景帝のとりはからいかもしれないが…。

