壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

哥舒翰のブラッドソーセージ~安史の乱点描(4)

 近年、安史の乱については、ソグドと突厥の混血児である安禄山をはじめ、ソグドや突厥、奚、契丹などの安史軍の民族構成だけでなく、これと対峙した唐朝側についても、契丹出身の李光弼や鉄勒の僕固懐恩をはじめとする非漢族の将領や、その旗下にいた遊牧民や西域出身の将兵など、構成民族の多様性が指摘されてきている。

 本稿では、安史の乱に登場する当事者たちの国際性・多民族性を「食」という切り口からうかがってみたい。

 リアル異世界転生おじさん哥舒翰

 玄宗期に活躍した蕃将の代表としては、タラスの戦いで有名な高仙芝のほか、安禄山のライバルとして潼関の戦いで唐軍をひきいた哥舒翰があげられる。

 その家系は、西突厥の一派であるテュルク系遊牧民のトゥルギッシュ(突騎施)のうち、哥舒部とよばれる部族の首領の家柄であり、いつごろから唐朝に帰順したのかは定かでないが*1安西都護府(治所はクチャ)の管内に代々居住していたという。その関係か父の哥舒道元安西都護府の将軍*2として出仕し、母は玉の産地・交易地として著名なオアシス国家コータンの王女という、西域においては相当の貴種であった*3

 このような生い立ちの哥舒翰だが、若いときは効轂府*4の果毅都尉という折衝府武官として出仕したものの、40歳までは長安の市場に出入りして酒と博打にあけくれ、実家の富にたよって散財を好む遊侠きどりの暮らしぶりという、完全に世間をなめたボンボンであった。そんなどら息子も父の死を機に発憤し、安西には帰らず、当時、唐朝の版図を西から蚕食しつつあった吐蕃への防衛の最前線である河西節度使の軍隊に身を投ずることとなる。

 そんな向こう見ずにみえる哥舒翰だったが、遊侠で鳴らしていただけあって、気前のよさから士卒には人気があり、戦場でもみずから槍をふるって敵を突き殺し、左車という従者に首を切らせる連係プレーで次々と武勲を立てていく。一手の将としても伏兵を用いて五千の吐蕃軍を殲滅するなど用兵が巧みであったため、節度使の王忠嗣の覚えもめでたく、軍中でトントン拍子に出世していった。

 元遊侠という経歴と豪放で礼儀にしばられない性格、そして戦場における武名から、武辺一辺倒の荒々しい武人像を思い描きそうになるが、『春秋左氏伝』や『漢書』を愛読するほどの教養もあったようで、やはり育ちがよかったのだろう。

 のちに河西と隴右の節度使を兼任し、対吐蕃前線のトップに昇りつめてからは、漢人だけでなく自身とおなじテュルク系やソグド系など雑多な民族構成の軍団をまとめることになるのだが、このとき密教僧の不空を招いて旗下の諸将とともに灌頂を授かっており、皆で仏縁を結ぶことで精神的統合をはかるという、仏教を軍団統制に利用した形跡がうかがえる*5

 哥舒氏と関わりの深いクチャは、キジル千仏洞を擁し、かつては鳩摩羅什ら幾人もの僧侶を輩出した、タリム盆地における仏教の布教センターのようなオアシス都市であり、また、母の母国であるコータンも仏教国として著名である。仏教を利用して多民族混成軍をまとめるという発想には、彼が生まれ育った環境も影響していたのではないだろうか。

 しかし、40過ぎまでろくに働きもせず遊び暮らしていたのに、一念発起して戦場にとびこんだら無双するという、都合のよすぎる中年デビューっぷりは、最近はやりの中年おじさんが異世界でチート能力を手にする転生物のようである。ちなみに節度使として異例の出世をとげた哥舒翰はこの後、安史の乱が勃発する前には酒色や詩歌管弦におぼれて中風で倒れるほどの贅沢三昧をしていたので、ハーレムもつくっていること請け合いである。哥舒翰、やっぱおまえ異世界転生おじさんじゃねーか!

 

 謎の料理「熱洛河」

 哥舒翰が河西・隴右節度使として唐朝の西辺防衛を担っていたとき、東北辺・北辺の軍事力を掌握していたのは、范陽・平盧・河東の三節度使を兼ねた安禄山と、そのいとこで朔方節度使の安思順であった。いわば安禄山が東の横綱、哥舒翰が西の横綱という形勢だったわけだが、哥舒翰はこの安氏の二人を非常にきらっていた。

 哥舒翰をひきたてた上司である王忠嗣は、中央で専権をふるう宰相・李林甫と反目しており、一時は四つの節度使を兼任して地方で強大な軍事力を誇った彼の勢力を削るため、李林甫が各地の節度使として抜擢したのが、安禄山と安思順だったのである。また、王・李の対立の背景には、玄宗の後継者問題が潜在していた。李林甫は玄宗の最初の太子の死後、後継に玄宗お気に入りの寿王を推していたが、結果的には当時忠王だったのちの粛宗が立太子され、その幼なじみとして禁中で養育された王忠嗣も、粛宗ともども李林甫と対立することになったのだ*6。つまり、当時の朝野には、李林甫-安禄山・安思順と、(粛宗-)王忠嗣-哥舒翰のラインによる派閥争いがあり、ここに敵の敵は味方とばかりに李林甫・安禄山と反目していた楊国忠が哥舒翰へ接近し、事態は複雑化していく。

 哥舒翰は安思順の副将となったときも互いにへりくだらなかったというから、この派閥争いは長く尾をひいていたのだろう。王忠嗣の父・王海賓も対吐蕃戦で活躍した武人であり、戦功を同僚たちに嫉まれ援軍を送られなかったため戦死しているが、その同僚のなかに安思順がいたことから、あるいは王忠嗣は派閥を抜きにしても彼を恨み、恩人である上司の怨敵を、哥舒翰も己の敵としてとらえていたのかもしれない。哥舒翰同様、王忠嗣の配下から立身し、のちに安思順旗下へ移った李光弼も安には心を許さず、目をかけられてその娘との縁組を提案されてもにべもなく断っており、王忠嗣閥の将領の安思順に対する反感は根強いものだった。

 さて、この対立を危惧した玄宗三者を和解させるため、天宝11載(752)、彼らが入朝した際に宴席を設けたが、ここで騒動が起きてしまう。

旧唐書』巻104 哥舒翰伝

  翰素與祿山・思順不協、上每和解之為兄弟。其冬、祿山・思順・翰並來朝、上使內侍高力士及中貴人於京城東駙馬崔惠童池亭宴會。翰母尉遲氏、于闐之族也。祿山以思順惡翰、嘗銜之、至是忽謂翰曰「我父是胡、母是突厥。公父是突厥、母是胡。與公族類同、何不相親乎?」翰應之曰「古人云、野狐向窟嘷、不祥。以其忘本也。敢不盡心焉!」祿山以為譏其胡也、大怒、罵翰曰「突厥敢如此耶!」翰欲應之、高力士目翰、翰遂止。

 

 哥舒翰と安禄山・安思順は不仲であり、玄宗はつねづね和解して義兄弟にしたいと望んでいた。その冬、禄山・思順・翰がともに来朝したので、玄宗は内侍の高力士ら宦官たちに、長安の東郊にある駙馬都尉・崔恵童の池亭で宴会をひらかせた。哥舒翰の母は尉遅氏であり、コータン人である。禄山は思順がつねに翰を憎んでいることから、仲をとりもとうと翰へ言った。「わしの父は『胡』であり、母はテュルクである。そなたの父はテュルクであり、母は『胡』である。わしらは似た者同士、どうして親しくできないものか」翰はこれに応えて「昔の人はよく言ったものだ。狐が穴ぐらに向かってほえるのは不祥だと。その本を忘れるからだ。わしにそなたの本質を見破れぬと思うたか」禄山は「胡」であることをそしられたと思い、激怒して翰を罵った。「テュルクとはこのようなものか!」翰は応酬しようとしたが、高力士に目配せされたので、ついに止めてしまった。

 この哥舒翰の返答は、『安禄山事迹』では「野狐向窟嘷拝、以其不忘本也」とあり、こちらの方が「狐が穴ぐらに向かってほえるのは、その本質を忘れないからだ」、つまり人間にまつろわぬ狐の野生を失わない、という批判として筋がとおっている。伝奇小説では狐が人間に化けたときに「胡」姓を称するように、「狐」と「胡」は同音である。安禄山の父方のソグドと哥舒翰の母方のコータンはともにイラン系と考えられるが、「胡」といっても別物で、唐代ではソグドを指して「胡」と称すことが通例だったことから、これにひっかけた哥舒翰のせりふは、ひとり安禄山への批判だけでなく、たしかに唐代社会に浸透し、その経済を牛耳るソグド人に対する不信感がにじみでているようだ。これは現代の欧米社会におけるユダヤ人に対する感情に似ているだろう。

 ちなみに安禄山の罵倒は「それがお前ら(テュルク)のやり方かー!」くらいのニュアンスである。安禄山、体型もゆいPと似てるし。

 さて、この騒動、『新唐書』の哥舒翰伝ではまた異なった描かれ方をしている。

新唐書』巻135 哥舒翰伝

 翰素與安祿山・安思順不平、帝每欲和解之。會三人俱來朝、帝使驃騎大將軍高力士宴城東、翰等皆集。詔尚食生擊鹿、取血瀹腸為熱洛何以賜之。

 

 哥舒翰はもともと安禄山・安思順と不和だったが、玄宗はつねづね和解させたいと思っていた。おりよく三人そろって来朝したので、帝は驃騎大将軍の高力士に東郊で宴会を設けさせ、翰たちをみな集めた。詔を下して尚食に生きたまま鹿を刺し、血を抜き腸を煮て「熱洛何」をつくらせて、これを賜った。

 鹿の血を抜いて腸を煮る、という鉄鍋のジャンに出てきそうなハードコアな料理だが、どうもこれは哥舒翰の好物だったらしい。

安禄山事迹』巻上 天宝十一歳三月の条

 使射生官供解鹿、取血煮其腸、謂之熱洛河以賜之。爲翰好之故也。

 

 射生官に鹿を解体させ、血を抜いてその腸を煮こみ、これを「熱洛河」といって、下賜した。哥舒翰がこれを好んでいたからである。

 ほかの史料にも同様の記述がある。

『太平廣記』所引『盧氏雑説』「熱洛河」

 玄宗命射生官射鮮鹿、取血煎鹿腸、食之。謂之熱洛河、賜安禄山及哥舒翰。

 

 玄宗は射生官に命じて生きている鹿を射て、血を抜いて鹿の腸を煮て、これを食べさせた。これを「熱洛河」といい、安禄山と哥舒翰に賜った。

 およそ聞きなれない「熱洛河(何)」だが、史料によって表記に異同があるため、テュルク語など非漢語からの音転写だろう。哥舒翰が好んだというから、トゥルギッシュではよく食べられた料理なのかもしれない。

 それではこの「熱洛河(何)」とはいったい、どのような料理だったのだろうか?

 

 遊牧民とブラッドソーセージ

 熱洛河調理の過程は史料によって多少の異同はあるが、おおよそ次のようなものだろう。

 舞台は長安東郊にある駙馬都尉・崔恵童(玄宗の娘の晋国公主の夫)の荘園内の池亭。ここに生きた鹿を放し、禁軍の射生官がこれを射止め、血を抜いて腸を煮こむ。史料によって熱洛河の調理者が異なるが、後述するように『安禄山事迹』や『盧氏雑説』が記す射生官が担当したものと考えられる。

「取血煎鹿腸」というレシピの解釈だが、単純に鹿の体内から抜いた血でその腸を煮こんだとも読めるが、遊牧民が動物の血を摂取するときは腸に詰める、つまりソーセージにすることが多いことから、個人的には熱洛河も一種のブラッドソーセージだったのではないかと思う。

 梅棹忠夫が記録したモンゴルのブラッドソーセージのつくり方は次のとおりである。

「ヒツジを屠畜するときには、あおむけにしておいて腹をさいて手をつっこみ、大動脈を人さし指と中指と薬指の三本ではさんできる。血はすべて体腔内にたまり、地面にこぼれることはない。血を地面にこぼしてはいけないのである。小腸をとりだして、内容物をきれいにあらいだす。そのあとに、体腔内にたまった血をあらった小腸にいれて、ゆでる。」*7

 小長谷有紀氏によれば、この腹腔のたまった血をすくい出すことをモンゴル語で「ツォス・アバハ(血を取る)」とよぶとのことだが*8、史料上に見える「取血」とは、この作業を指していたのではないだろうか。ちなみにこのモンゴルにおける血液の腸詰は「ゲデス」*9とよばれており、言語はちがえど、熱洛河の正体は、このような遊牧民特有のブラッドソーセージだったのではないか。

 そして血を地面にこぼさずに抜くという特殊技術は、純然たる文官で構成されていたであろう尚食ではなく、やはり遊牧系武人を内包していた射生官だからこそ可能だったと考えられる。

旧唐書』巻142 李宝臣伝

 李寶臣、范陽城旁奚族也。故范陽將張鎖高之假子、故姓張、名忠志。幼善騎射、節度使安祿山選為射生官。天寶中、隨祿山入朝、玄宗留為射生子弟、出入禁中。

 

 李宝臣は范陽近郊の奚族である。范陽節度使の将であった張鎖高の仮子となったため、もとの姓を張、名を忠志といった。幼いころから騎射を得意としたため、節度使安禄山に射生官として抜擢された。天宝年間、禄山に従って入朝したところ、玄宗は彼を留めて射生子弟とし、禁中に出入りすることとなった。

 射生官には奚出身の李宝臣のような事例があり、この宴席で鹿を射て熱洛河を調理したのも、彼のような遊牧系武人だったのだろう。

 ともあれ、ともに遊牧系武人である哥舒翰・安禄山・安思順らを接待するために、彼らになじみのある狩猟をもよおし、獲った獲物をその場で調理してふるまうという、遊牧民的雰囲気の濃厚な宴の場であったからこそ、先に見たように、似通った文化を共有する哥舒翰と安禄山は自身の出自の話になったのではないか。

 なお、北魏で成立した『斉民要術』には「羊盤腸雌斛(ヒツジ大腸のくろあつもの)」という、羊の大腸に血や香辛料を詰めて煮こむ料理のレシピ*10があり、すでに当時の中国にはブラッドソーセージのレシピは伝わっていたようだ。

 乱の初期に激突した二大巨頭が一堂に会した宴席がこのような遊牧的気風にみちていたように、安史の乱ひいては玄宗の治世とは、いわゆる「蕃将」が軍事的イニシアティブをにぎり、多様性と差別が併存する、現代にも似て渾沌とした時代だったのである。

 

*1:章群氏は系譜上に明記されている哥舒翰の祖父・沮の代に帰順したのであれば、1世代30年と計算して、690年代頃の武后の時代に帰順したものと推測している(章『唐代蕃将研究』「第二章 蕃将総論」聯経出版事業公司、1986)。哥舒沮の帯びた「左清道率」は東宮十率府の一つとして府兵を率いる太子付きの親衛武官であり、あるいは哥舒部が帰順した際に、沮は質子として宿衛入朝し授官したのかもしれない。ただし、東宮十率府のうち左右衛率府以外はすべて外府(禁中ではなく地方に所在する折衝府)のみを管掌していたという張国剛氏の指摘(張『唐代官制』「第五章 事務機関-卿監百司与諸衛諸軍」三秦出版社、1987)、さらには同じ東宮十率府のひとつである左衛率府の外府がクチャに存在していたこと(劉統『唐代羈縻府州研究』上篇「第七章 羈縻府州与唐朝疆域的関係」西北大学出版社、1998)を鑑みれば、哥舒沮の左清道率府とは、クチャで府兵制体系に組み込まれ折衝府となった、自身の部落だった可能性も考えられないだろうか。

*2:旧唐書』哥舒翰伝は「安西副都護」、『新唐書』哥舒翰伝では「安西都護将軍、赤水軍使」とする。赤水軍は河西節度使治所の涼州城内にある軍鎮であり、ウイグルをはじめ雑多な遊牧部落を統率していた(王永興『唐代前期西北軍事研究』「論唐代前期河西節度」中国社会科学出版社、1994)。安西節度使管下の安西都護府で活動しながら哥舒道元がこの軍使をつとめていたとは考えがたく、安西都護府管内にも同名の赤水軍という軍鎮が存在していたのか、または安西都護での活動時期とは別の時期に河西節度使に仕えていたのかもしれない。

*3:コータンは安西四鎮のひとつで安西都護府の統制下にあったので、唐朝にとってこれと婚姻関係を結ぶ哥舒氏は西域経営に有用だったと考えられる。実際に、景雲元年(710)、華厳経の訳経者として知られるシクシャーナンダ(実叉難陀)が入滅した際、哥舒道元は勅使として門人の悲智とともに、その遺灰と焼け残った舌を故国のコータンへ送っており、唐朝とコータンのパイプとして哥舒氏が機能していたことがわかる。また、後述するように哥舒氏が裕福だったことについて、森部豊氏はコータンが東西交易で栄えたことに関連づけて、哥舒氏がクチャで商業活動に従事していた可能性を指摘している(森部「蕃将たちの活躍-高仙芝・哥舒翰・安禄山・安思順・李光弼」松原朗編『杜甫玄宗皇帝の時代』(勉誠出版、2018)所収)。

*4:効轂府の所在は不明だが、『新唐書』地理志によれば、沙州には「効穀」府という折衝府が存在したとのこと。両者の関係は未詳。

*5:中田美絵「不空の長安仏教界台頭とソグド人」『東洋学報』89、2007

*6:章群『唐代蕃将研究』「第六章 安禄山之叛」

*7:梅棹『回想のモンゴル』「モンゴル遊牧図譜」中公文庫、1991

*8:小長谷有紀『モンゴル草原の生活世界』朝日選書、1996

*9:野沢延行『モンゴルの馬と遊牧民 大草原の生活誌』「第二章-遊牧民の食事」原書房、1991

*10:田中静一ほか編『斉民要術-現存する最古の料理書-』(雄山閣、2017)によるレシピの訳は次のとおり。「ヒツジの血五升を取り、中脈麻跡を取り去って、これを裂く。細切りしたヒツジ脇腹の脂肪二升、切ったショウガ一斤、「ちんぴ」三枚、サンショウの粉末一合、たまり醤油一升、豆鼓汁五合、コムギ粉一升五合、コメ一升をまぜて、あじめしをつくる。これら全部を混ぜて、さらに水三升をこれにそそぐ。ヒツジの大腸をほぐしてもみあらいをし、濁酒で腸の中を洗う。折り曲げて、よくなじませてから、材料を腸詰めにする。これを長さ五寸に切りつめ、煮る。血がにじみださなくなったところで、寸切りにし、食酢とたまり醤油をつけて食べる。」

その男ヴァンダク

 中国に移住したソグド人の諱・字として「盤陀」「槃陁」という名を見かけることが多い。

 これはソグド人に多いと見られている「〇〇(神の名)ヴァンダク」という名の漢字音転写といわれており、概ね頭に神の名を冠している。

 たとえば「ナナイヴァンダク(Nanai-Vandak)」であれば、「ナナ女神のしもべ」という意味で、ゾロアスター教における豊穣の女神であるナナ女神にあやかった命名である。

 中国側の史料では「安盤陀」「安射勿盤陀」「安諾盤陀」「石槃陀」「翟槃陀」などと、神の名は省略され、安・康・史・石・何・曹・米・翟といった、いわゆるソグド姓を冠している場合が多いので、「ソグド姓+ヴァンダク」の姓名を持つものはソグド系であると一般的には認識されている。

 

 しかし史料をひもといていると、ソグド姓を冠しない「ヴァンダク」(らしき名の人)に出会うことがある。彼らは一体何者なのだろうか?

 

①劉盤陀(東魏山東

北斉書』巻21 高季式伝

  天平中、出為濟州刺史。山東舊賊劉盤陀・史明曜等攻劫道路、剽掠村邑、齊・兗・青・徐四州患之、歷政不能討。季式至、皆破滅之。

 

 天平年間に済州刺史となった。ときに山東の旧賊の劉盤陀と史明曜らは道路に跋扈し村々を略奪し、斉・兗・青・徐の四州は害を被っていたが、歴代の刺史は討伐できなかった。季式が赴任してこれらを皆滅ぼした。

 劉姓なので一見ソグド人には見えないが、仲間の史明曜は思いっきりソグド姓ですね…。また東魏という、一般社会にはソグド商人が、官界にもソグド人官僚が大量に進出していた北斉の前身王朝での事件というのが気になるところ。

 

②敬盤陀(隋・絳郡)

『隋書』巻4 煬帝紀下 大業十一年十二月の条

 庚辰、詔民部尚書樊子蓋發關中兵、討絳郡賊敬盤陀・柴保昌等、經年不能剋。

 

 庚辰の日、民部尚書の樊子蓋に詔して関中の兵を発して、絳郡の賊の敬盤陀・柴保昌らを討たせたが、年を越しても平定できなかった。

 敬姓であり、仲間にもソグド要素がないので、ソグド人の可能性は低そうだが、隋代の山西は各地にソグド人コロニーが存在し、武装勢力としてのソグド人郷団の存在も指摘されている。*1

 また、樊子蓋はこの反乱の平定戦中に汾水の北にある「村塢」を見境なく焼き払っており、当時のソグド人コロニーがどのような形態で存在していたのかは不明だが、敬盤陀がソグドと何らかの関係がある人物の場合、隋軍側がその出身あるいは支持母体として「村塢」として認識されていたソグド人コロニーを攻撃していた、という憶測も可能ではないだろうか。

 

 このように非ソグド姓のヴァンダクは、ソグド人との関連性がありそうななさそうなポジションの人物だらけである。

 なお、西域には于闐の西に「渴盤陁(陀)」(または「喝盤陁」、「訶盤陁」、「漢盤陁」などとも記される)という于闐と風俗の似た国があるそうで、あるいはこの「渴盤陁」人とも考えられなくはないが、そもそも史料上ではソグド諸国に比べて中国との交渉が少ないマイナーなオアシス国家なので、可能性は低いだろう。

 

 非ソグド姓のヴァンダクについては、養子などにより漢姓を冒したソグド人、ソグドとの関係性が深く(ゾロアスター教への改宗も含めて)文化的影響を受けた非ソグド人等といったケースが想定されるかな、と考えながら検索していたら、『新唐書』宗室世系表にすごいのが出てきました。

 漢王洪(高祖李淵の三兄)の後として「巴陵郡王盤陁」。

 宗室にもいるの!?

 管見の限り、『新唐書』宗室世系表以外で李盤陁は出てこないので、どのような人物だったのかは不明だが、さすがに生粋のソグド人ではないでしょうね…。母親(漢王の夫人)がソグド系という可能性はありそうだけど。

(と、書いていたが、『旧唐書』巻60宗室列伝では、李洪は鄭王に封ぜられており「無後」とのことなので、後裔がいなかったようだ。李盤陁については実在したのかも不明としか言いようがない)

 

 しかし、こうして見ると「ヴァンダク」を名乗っていた人々はそもそもソグド系でもなんでもなくて、ソグド人の社会進出が進み、西域風のファッションが盛行していた当時の流行の一環として命名されたのでは?とも思う。

 ディーン・フジオカとかファーストサマーウィカみたいに、それっぽい名前がカッコいい!という理由だったら、なんだかものすごく親近感が湧くんですけどね…。

 非ソグド姓ヴァンダクについては、もっと資料が出てきたら改めて考えてみよう。

*1:石見清裕『ソグド人墓誌研究』第五章「太原出土「虞弘墓誌」」(汲古書院、2016)

宋代の巫覡と疫病対策

 先日読んだ中村治兵衛『中国シャーマニズムの研究』(刀水書房、1992)は、唐宋時代の正史から小説、士大夫層による詩文に見える巫覡に係る記事を網羅して、彼らの存在形態と活動の実態を分析しており、面白いエピソードにも事欠かない好著だった。

 そのなかでも個人的に興味深かったのが、宋代では江南などの郷村には、医者や僧侶・道士がおらず、巫覡がそれらの機能を果たし、医療・信仰の中心となっている地があったという指摘。儒教的価値観を有する士大夫はそのような土地に赴任した際に、巫覡を禁圧して彼らを帰農させたり、医薬を任地に持ち込み広めたりと、公衆衛生の向上にも努めていたそうだ。

 医者のいない郷村にはそもそも医薬がなく、巫覡がまじないによって治病をしていたという、未開社会のような状態が、ルネッサンスにも比せられた中国文化の発展期たる宋代でも存在していたことが、個人的には衝撃的だった。

 以前読んだ鈴木継美『パプアニューギニアの食生活ー「塩なし文化」の変容』(中公新書、1991)では、パプアニューギニアのギデラ族が、著者が持ち込んだ医薬品を「マジック」と呼び、「お前のマジックは俺たちのマジックよりも強い」旨の発言をしており、彼らには「医薬」という概念がなく、治病は「マジック」の領分であり、近代社会から持ち込まれた医薬品も、彼らの世界におけるシャーマンのまじないと同類であるという認識に衝撃を受けたのだが、おそらくそれと近い世界観が、宋代の郷村社会にも広がっていたのだろう。

 現代日本に生きる僕たちの感覚では、まじない頼みの巫覡信仰より、地方官が持ち込んだ医薬の方が (それがどの程度のものであれ)治病に対して有効であろうと思うし、彼らが残した文献史料についても、基本的には同じ目線で読むことができるのだが、気になる点もある。

『西山真文忠公文集』巻44「葉安仁墓誌銘」から、墓主の葉安仁が泉州の恵安県丞だったときの事績を次のように訳している(原文は未載)。

番俗は呉楚の旧をまじえ、春・夏に疫がおこると、おおむねただ巫にこれ聴くのみであり、骨肉と雖も絶ってあい往来させなかった。葉は文をつくってこれを石に刻んでさとし、医をえらんで病人をみさせ、そのみたてに随って療治し、あるいは病を扶けた。来って告げるものがあると、自ら問うてこれに薬をあたえ、貧しくて自給できないものには、銭もしくは粟をおくったので、全活したものは甚だ多かった

 洪州の知事であった夏竦の上奏「洪州請妖巫奏」においても、巫覡の治病の一環として、病人を完全に隔離して家族にも会わせないという方法があげられている。

民病、則門施符咒、禁絶往還、斥遠至親、屏去便物。家人營藥、則曰神不許服。

巫は神への祈祷咒いによってのみ病気がなおるといい、家の入り口の門に符咒(日本でいうお札)をはったあと、人の出入りを一切禁じ、家人が病人に薬を吞ませようとしてもこれを許さない。

 完全に人との接触を断ち、薬も食事も与えないということなので、もちろん治るものも治らないのだが、医薬がなく、祈祷にたよるしかない未開社会では、病人を隔離して、他者への感染を防ぐというのは、これまで当地を襲った数々の疫病への対策で蓄積されてきた経験知による判断なのかもしれない。疾病に有効な医薬がないので、せめて患者を隔離してそれ以上の感染拡大を防ぐという、江戸の火消しが延焼を防ぐために家屋を壊すような消極的対処法だったのではないか。

 家族に新型コロナ感染者が出た場合の家庭内隔離に関わるニュースを見ながら、巫覡の治病にも相応の合理性があったのでは、とふと思ったので、メモとしてブログに記しておく。

  漢籍上にあらわれる儒仏道以外の民間信仰を淫祠邪教と見なして排斥する士大夫たちの価値観は、あくまでも当時の社会の一面でしかないことは、よく認識しなくてはならないだろう。

 

 

 

顔真卿と飲中八仙

 顔真卿が書いた墓誌が出土したそうで、例によってツイッター上でちょっとした話題になっている。

 

https://min.news/hot/7c11c3c57af2a3bad203ef9b3b67131b.html

 

 釈文が公表されてないので深入りはできないが、墓主は羅婉順という鮮卑系の婦人で、夫の元大謙との合葬墓とのこと。元大謙は北魏の常山王(どの常山王かは未詳)の七代の孫ということで、北魏宗室の後裔。羅婉順の羅氏ももとは叱羅氏らしいので、鮮卑のなかではまあそこそこの中流貴族のような家柄なのだろう。夫妻の第3子である元不器と、「侄(おい)」の元自覚の墓誌も同時に出土したそうで、夫妻と元自覚の墓誌については、撰文は汝陽郡王・李璡。玄宗の異母兄で音曲に通じた寧王・李憲(譲皇帝)の長子である。

 李璡も音曲や詩文に長けていたようで、文人として名高い賀知章と交友があったり、さらに羯鼓という(おそらく北族由来の)楽器や弓が得意で、ついでにイケメンという、漢人的な教養と北族的な雰囲気を兼ね備えた風流な貴公子で、玄宗からも可愛がられていた。

 この李璡の母で、李憲の王妃であった元氏という女性が、元自覚の姉妹だったことが墓誌から読み取れるそうで、つまり元大謙らの一族は、北魏宗室の後裔で唐の宗室とも通婚する第一級の鮮卑貴族だったのだろう。

 

 では、そんな鮮卑貴族たちと顔真卿にどんな繋がりがあったのか。*1

 羅婉順は天宝5載(746年)に亡くなり、翌年に夫と合葬されたようで、釈文が未公表なので、実際に墓誌がいつ書かれたのかは未詳だが、顔真卿の肩書が長安県尉となっているので、天宝5載、数えで38歳のときに書かれたものなのだろう(顔真卿は翌天宝6載の正月に監察御史へ異動している)。

 当時の顔真卿は、科挙の進士科に及第し、校書郎から畿内の県尉へ移るという、エリート官僚の出世コースを踏み出したばかりの時期。長安県尉となる前は、同じく畿内の県である醴泉県の県尉を務めており、そこを辞めた後に洛陽で、草書の達人である張旭に師事していたと伝わる。のちに書家として王義之と並び称されることになる顔真卿の修業時代でもあったのだ。

 酒豪の張旭は酔っぱらっては絶叫しながら走り回るが、ひとたび筆をとれば雲か煙が湧きおこるかのようにみごとな草書を書きあげるという異能の人。この張旭と李璡は、ともに賀知章と親交があり、『新唐書李白伝では、賀知章も含めて、長安で不遇をかこっていた李白飲みサー「酒八仙人」のメンバーに挙げられている(ほかの4人は李適之、崔宗之、蘇晉、焦遂)。李白伝の書きぶりだと、玄宗の宴会で粗相をし、高力士と楊貴妃の怒りを買って出世が望めなくなったことから、ふてくされた李白が飲みサーを結成したかのように読めるのだが、おそらくは秘書監など政府高官を歴任し、多くの官僚から愛されていたという、酒好きで顔の広い賀知章が中心人物だったのだろう。李璡と張旭の伝で友人として記されるのも賀知章であり、李白の才能を認めて彼をフックアップしたのも賀知章だった。つまり職場にひとりはいる、いろんな部署に顔が利き、飲み会大好きなおじさん。あれが賀知章です(ちがう)。

 

 そんな「酒八仙人」だが、世間一般ではむしろ杜甫の「飲中八仙歌」*2でうたわれた「飲中八仙」という名称の方が知られているだろう。

知章騎馬似乗船  知章の馬に騎るは船に乗るに似たり

眼花落井水底眠  眼花(くら)み井に落ちて水底に眠る

  賀知章が酔って馬に乗るようすは、ゆらゆら船に揺られているかのよう。そのうち眼がくらんで井戸に落ちても気にせず水中で眠ってしまう。

汝陽三斗始朝天  汝陽は三斗にして始めて天に朝し

道逢麹車口流涎  道に麹車に逢えば口より涎を流し

恨不移封向酒泉  封を移して酒泉に向かわざるを恨む

 汝陽郡王の李璡は三斗の朝酒を飲んでからやっと朝廷に参内し、その道すがら麹を積んだ車に出くわすと、そのにおいでたちまち口から涎をたれ流し、封地を酒泉に移して転任できないのを悔しがっている。野暮を承知で解説すると、唐代の宗室は実際に封地に赴任するわけではないので、「どうせなら酒泉郡王になりたかったわい」という程度の口ぐせがあったのだろう。

李白一斗詩百篇  李白は一斗にして詩は百篇

長安市上酒家眠  長安の市上酒家に眠る

天子呼来不上船  天子呼び来たるも船に上らず

自称臣是酒中仙  自ら称す臣は是れ酒中の仙と

 李白は一斗の酒を飲み干すうちに詩が百篇できる。長安の市中にある酒屋で眠りこけ、天子に召し出されても泥酔し、ひとりで舟に乗ることすらできず、「私めは酒びたりの仙人でございます」などと自分で名乗っている。完全に飲み会の最後の方にいる人です。杜甫の表現だと上品だけど、「いーのいーの、俺は酒びたりの仙人だからぁ!」とかろれつの回らない舌で管まいてそう。この句はもちろん賀知章に「謫仙人」と呼ばれたことを踏まえているのだが、李白自身もこのあだ名を気に入っていそうな描写なのが微笑ましい。

張旭三杯草聖傳  張旭は三杯にして草聖と伝えられ

脱帽露頂王公前  帽を脱ぎて頂を露す王公の前

揮毫落紙如雲煙  毫(ふで)を揮いて紙に落とせば雲煙の如し

 張旭は酒を三杯ひっかけて「草聖」といわれるような草書を書きあげ、王公貴人の前でも平気で帽子をとって頭のてっぺんをむき出しにする無作法っぷり。それでもひとたび毛筆をふるって紙におろせば、雲か煙のように字が湧きおこる。

 ちなみに、今回とりあげなかった焦遂は、酒を五斗飲むとシャキッとして談論風発したそうだ。どいつもこいつもアル中じゃねーか。

 

 ともあれ、そんな当代一流の呑兵衛文人たちこそが「飲中八仙」または「酒八仙人」だったわけで、顔真卿がそのなかのひとり張旭のもとに弟子入りしたとき、筆頭の賀知章はすでに亡くなっていたが、李璡は健在で、大おばの墓誌をつくるにあたって、書丹を任せるに足る人物として、友人のもとに出入りしていた若き顔真卿に目をとめたのではないだろうか。

 羅婉順墓誌の釈文も未公表だし、史料も乏しいので、以上記したことはあくまでも僕の想像である。同墓誌の内容については、続報を待ちたい。

 しかし、顔真卿という人は御史台にいたときに酒の席で粗相のあった者を弾劾するエピソードがあり、個人的には正義感の強いカタブツというイメージなのだが、よく飲中八仙も認めてくれたなあ。

 

顔真卿伝―時事はただ天のみぞ知る

顔真卿伝―時事はただ天のみぞ知る

  • 作者:吉川忠夫
  • 発売日: 2019/01/10
  • メディア: 単行本
 

 

 

*1:以下、顔真卿の経歴については、吉川忠夫『顔真卿伝―時事はただ天のみぞ知る―』(法蔵館、2019)参照。

*2:訓読は下定雅弘・松原朗編『杜甫全詩訳注 一』(講談社学術文庫、2016)参照。

昭和レトロだけでは片付けられないレトロ喫茶「ランプ城」

 室蘭の街外れに「ランプ城」というレトロな喫茶店がある。

 珍スポ界隈ではそれなりに名の通った店らしく、僕はレトロ喫茶も好きなので、前々から気になっていたのだ。函館への小旅行の帰路、室蘭に寄って、件のランプ城を捜してみた。

 Google マップに案内され、たどり着いたのは街外れの、海に面した高台。

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 いや、建物がないんですが…。

 右手の取り壊された瓦礫じゃないよね?まだ営業してるよね?

 不安になりながらも、獣道のような細い道が高台の奥へと続いているので、そちらをたどってみる。

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 やがて現れる階段。

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 登りきったところに、

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 あった!ランプ城だ!!

 

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 城というより完全に民家だが、営業しているのだろうか?ごめんくださ〜い。

 無人の店内に入って何度か呼ぶと、城主と思しきおばあさんと、その娘さんらしき女性が奥から出てきた。

 ニコニコと愛想の良い娘さんが注文を取りにきてくれ、話好きなのだろう、おばあさんは何くれとなく話しかけてくれる。

 先客がいなかったので落としていた灯りを点けてもらう。

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 不思議な形の照明(自作したらしい)をはじめ、調度といい装飾といい、店内は昭和レトロとも違う、独特の古さびた雰囲気。

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 窓の外、繁った木々の隙間からは海も見える。

 おばあさんと話していると、「せっかくだから書いていってください」と、アイスコーヒーと一緒に訪問者ノートを渡される。

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 大阪、茨城、福岡…。道外からも珍しがって客が来るとは言っていたけど、ほんとうに珍スポ界隈では知る人ぞ知る穴場なのだろう。

「すごい、色んなところからお客さん来てますね〜」

「トリヤマさんも来たことあるんですよ」と、おばあさんが無造作に壁に飾られたノートの切れ端を見せてくれる。

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 鳥 山 明 だ!!!(動揺のあまり写真が手ブレしてます)

 え、本物!?というか色紙じゃないの!?悟空雑じゃない?でも即興で描いたらこんなものか…。

「アニメはよくわからないんだけどねえ」と、のほほんとしたおばあさん。

 鳥山明がどこでランプ城を知ったのかわからないが、第三者がここで鳥山明を騙る理由はさらに不明なので、やはり本物なのだろうか…。

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 ちなみにアイスコーヒーは苦味と酸味が控えめな飲みやすい味だった。

 

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 店内をながめていると、奥に洞窟のようなフロアがあったので気になっていたら、おばあさんが案内してくれた。

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 手作り感のある石垣。おばあさんの話では、昔ご主人が中国にいた頃、西湖のほとりの料理屋が同じようなつくりだったらしく、そこに感銘を受けて、中国から人を呼んで同じものをつくらせたとか。戦前戦中の話なのだろうか。室蘭の景気が良かった時代は中央町でスナックを経営していたそうだし、だいぶ羽振りが良かったのだろう。

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 東郷青児の絵が無造作に飾られている。

「最近テレビに出るようになったでしょう。東郷さんの絵、本物ですよ」とおばあさん。僕もうんうんと頷いていたけど、東郷青児が亡くなったの、1978年なんですよね…。僕は生まれてすらいない。

 たしかに、ここは俗世と時間の進み方が違うのでは、と思わせる雰囲気が、店にもおばあさんにもあった。

「変なものばかりでしょう」と笑うおばあさんに、「うん、僕こういうの好きなんですよ。もっと見たいなあ」とおねだりすると、石垣フロアの奥の一室に案内してくれた。

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 昔は宴会用に貸していたという個室には、中国のものだという水墨画の屏風が。

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 桂林の季節の移り変わりを描いたものらしく、落款もあるが、誰のものかは不明。おばあさんもわからないそうだ。

 この屏風も含め、店内の骨董などはご主人が趣味で集めていたものらしく、「変なものを集めるのが好きだったんですよ」と懐かしそうに語るおばあさん。

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 こちらは油絵だが、ジャンクと江南の水郷を描いたものだろうか。味のある作品だ。おそらくご主人は江南の風物を愛していたのだろう。話してみたかったな。

 元々は住居にするつもりで建て、この石垣フロアもつくったランプ城だが、人に勧められてこちらを店舗にしたとのこと。ロケーションの良さといい、中国風の石垣など建物自体の面白さといい、全国の珍スポ者から愛されている現在が、その判断の正しさを証明しているだろう。前情報ではレトロ喫茶だとしか聞いていなかったが、個人的には予想外の中国趣味になんだか親近感を抱いてしまった。

 どうかこれからも元気で末長く営業を続けてほしい。

 

日本最北の関帝廟があると聞いて

 行ってきました、函館中華会館に。

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 といっても、現在、一般公開はしていないので、中の関帝廟には参拝できない。

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 それでも西暦1910年ということは、清朝の宣統2年に建てられたわけで、日本で唯一の清代建築らしい。

 幕末から開港した函館には俵物や昆布の取引のために華僑が移住してきており、彼らの集会所として機能していたとのこと。

 横浜の現在の関帝廟が戦後に再建されたものであることを鑑みると、日本最北かつ最古の関帝廟になるのではないか。

 

 中には入れないので外観だけ。

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 赤茶けた煉瓦造りの外壁は、和洋折衷の函館の街並みにもしっくりなじむ。横浜中華街にあるような満艦飾のギラギラした派手さはなく、むしろ質実剛健といった印象。

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 いまにも緑に呑み込まれそう。

 

 近くにはイギリス領事館もあるし、函館といえば西洋風の建築というイメージが強いが、ラッキーピエロ創業者の王一郎会長も華僑だし、横浜や神戸、長崎ほどでなくとも「華僑のまち」という側面もある。王会長は陳舜臣と同じ神戸華僑(王会長は福建系、陳舜臣は台湾系だが)なので、函館華僑の末裔ではないのだけど、故郷と似ている函館に惹かれて移住したそうなので、開港地特有の雰囲気は共通しており、そのまちづくりの一端には華僑も関わっていたということなのだろう。

 僕はソグド人のように、日本全国に張り巡らされた華僑ネットワークに乗っかって函館に移住してきたのでは?と妄想したけれど。

 関帝廟は期間限定で公開したこともあるそうなので、次回に期待したい。そのときはまた参拝しに来よう。

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博浪沙のはなし

 黄河の流域には沙地や沙丘が形成されることが多いという。

 黄河が運ぶ土砂は、氾濫のたびに沖積平原に堆積されていき、乾燥した土砂に強風が吹きつけると、細かい粒子だけが吹き上げられ、沙地や沙丘が形成される。この沙地について、大川裕子氏は、古代中国では「神秘的な霊力の存在を認め」られていたと指摘する。*1 

 春秋時代の会盟地として、丘・山・水辺などの土地が選定されることが多いが、これは会盟を監する神として、山川の鬼神の存在が関係していたためであり、沙地についても同様に会盟地に選択されることや、殷の紂王、趙の武霊王、秦の始皇帝らが崩じた沙丘平台が「権力者たちの滅びの場として語り継がれていた」と思しきこと、沙麓が崩れるという自然現象が災異として記録されたことなどを挙げ、沙地が「非日常的な要素を備えた自然」として認識されていたと論じている。

 

 この大川氏の指摘の当否は門外漢の僕にはわからないが、この視座に立って『史記』を読み返したとき、沙丘のほかにもうひとつ、有名な沙地が登場することに思いあたる。始皇帝暗殺未遂劇の舞台となった博浪沙である。

史記』巻55 留侯世家

 良嘗學禮淮陽、東見倉海君、得力士。為鐵椎重百二十斤。秦皇帝東游、良與客狙擊秦皇帝博浪沙中、誤中副車。秦皇帝大怒、大索天下、求賊甚急、為張良故也。

 

 張良は淮陽へ行って礼を学び、東行して倉海君に会い、大力の士を得た。鉄槌をつくり、その重さは百二十斤あった。秦の皇帝が東方に遊幸した際、良は客とともに博浪沙で秦の皇帝を狙い撃ったが、鉄槌は誤って副車にあたった。秦の皇帝は激怒し、大いに天下に犯人を捜索させ、追及は甚だ急だったが、それは張良のせいであった。

 秦に滅ぼされた韓の宰相の家系であった張良は、刺客を養い、巡幸途中の始皇帝の暗殺をはかる。舞台となった博浪沙は、河南の陽武県の南に位置する。同じく陽武県の南には、始皇帝が開いた鴻溝という運河が流れ、黄河と淮水とを繋いでおり、博浪沙もこの流域に形成された沙地であったのだろう。

 博浪沙という沙地で一命をとりとめた始皇帝だったが、のちに沙丘という、これは黄河の旧河道付近に形成された別の沙地で崩御する。彼の死は沙地とよくよく因縁があるようだ。

 しかし、これだけでは博浪沙ひいては沙地そのものに、当時の人びとが霊威を認識していたのかは判然としない。そこで秦漢代における他の沙地の事例を探してみると、武帝が巡幸しようとしていた万里沙という沙地が確認できる。

史記』巻12 孝武本紀

 是歲旱、於是天子既出毋名、乃禱萬里沙、過祠泰山。

 

 この年は旱魃であった。天子は出遊の名目がないので万里沙に祈ることとして、泰山に立ち寄ってこれを祠った。

 万里沙については、『史記集解』が引く応劭の注によれば「萬里沙、神祠也、在東萊曲城。」とあり、山東半島にある東萊郡曲成県(「城」は「成」の誤り)に存在する「神祠」のようだが、孟康の注によれば「沙徑三百餘里。」とのことなので、実際に沙地が存在したようだ。「三百里」は、広大さを表すレトリックであって実測値ではないのかもしれないが、仮に孟康が生きた魏の度量衡で換算すると、その直径はおよそ130㎞以上になり、東西16㎞ほどの我が鳥取砂丘とは比較にならない広さである。

漢書』巻28上 地理志8上 東萊郡

 曲成、有參山萬里沙祠。

 

 曲成(県)、参山の万里沙祠あり。

 『漢書』地理志によれば、万里沙祠は参山にあったとのことなので、山岳の鬼神を祀ったものとも考えられるが、その名称からすれば、やはり祭祀の対象は沙地の鬼神であったのではないか。渤海湾に臨む参山の麓に広がる広大な砂地。方術が盛んであった斉の人びとは、その大自然に霊威を認識していたのではないだろうか。

漢書』巻25下 郊祀志5下

又祠參山八神於曲城、…(後略)…。

 

また参山の八神を曲城(成)に祠り、…(後略)…。

 なお、のちに漢の宣帝も参山の「八神」を祭祀対象としているが、この「八神」とは、斉の地に伝わっていた天主、地主などの八つの神格で、山東半島北方の渤海湾に面した名山や、天斉、蚩尤などの鬼神を指すようで、始皇帝も東方巡幸の際に祀っている。このうちの第四を「陰主」といい、『史記』封禅書では「三山」としているが、「三」は「参」に通じることから、参山と考えられる。もともと斉のローカルな山川の鬼神が、秦の統一により中央の祭祀対象として回収され、その滅亡後は祭祀体系ごと漢に引き継がれているのである。

 万里沙祠が陰主たる参山を祀った祠なのか、あるいは漢代には参山からその麓に広がる万里沙まで祭祀対象を拡大していたものなのかは不明だが、漢代中期に至っても、沙地に霊威を認識していた人びとの記憶が連綿と受け継がれていたことがわかる。

 

 そうなると、博浪沙故事についても、鬼神の霊威が発揚される場である沙地という舞台設定が、どうにも出来すぎているように思える。同じ始皇帝暗殺の物語である荊軻の故事についても、第三者が知りえない秘密裡の会話や、出発の舞台が易水という鬼神が関与すると認識されていた水辺であったりと、創作的な雰囲気が濃厚である。

 『史記』が文献史料だけでなく、司馬遷が各地で採取した口碑も取り入れた、いわゆるオーラル・ヒストリー的手法に則っていることは周知の事実である。宮崎市定も刺客列伝をはじめいくつかの故事について、民間での語り物に依拠していると推測していたが、僕も留侯世家のうち博浪沙故事については、当時の人びと(特に旧六国地域の人びと)に共有されていた沙地認識を背景とした民間伝承がソースなのではないかと想像している。暗殺に失敗した張良が逃亡先の下邳で黄石公から太公望の兵書を授けられたり、最後は神仙になろうとしていたりと、漢代に流行した神仙思想の影響なのか、留侯世家は博浪沙故事以外の箇所についても神怪な雰囲気が漂っており、虚構性が強い。

 ともあれ『史記』に描かれる数々の物語たちは、沙塵の彼方に隠れるように茫として、容易には実像をつかませてくれないようだ。

 

*1:大川「黄河下流域における沙地利用の歴史的変遷」(鶴間和幸編『黄河下流域の歴史と環境』東方書店、2007