壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

その男ヴァンダク

 中国に移住したソグド人の諱・字として「盤陀」「槃陁」という名を見かけることが多い。

 これはソグド人に多いと見られている「〇〇(神の名)ヴァンダク」という名の漢字音転写といわれており、概ね頭に神の名を冠している。

 たとえば「ナナイヴァンダク(Nanai-Vandak)」であれば、「ナナ女神のしもべ」という意味で、ゾロアスター教における豊穣の女神であるナナ女神にあやかった命名である。

 中国側の史料では「安盤陀」「安射勿盤陀」「安諾盤陀」「石槃陀」「翟槃陀」などと、神の名は省略され、安・康・史・石・何・曹・米・翟といった、いわゆるソグド姓を冠している場合が多いので、「ソグド姓+ヴァンダク」の姓名を持つものはソグド系であると一般的には認識されている。

 

 しかし史料をひもといていると、ソグド姓を冠しない「ヴァンダク」(らしき名の人)に出会うことがある。彼らは一体何者なのだろうか?

 

①劉盤陀(東魏山東

北斉書』巻21 高季式伝

  天平中、出為濟州刺史。山東舊賊劉盤陀・史明曜等攻劫道路、剽掠村邑、齊・兗・青・徐四州患之、歷政不能討。季式至、皆破滅之。

 

 天平年間に済州刺史となった。ときに山東の旧賊の劉盤陀と史明曜らは道路に跋扈し村々を略奪し、斉・兗・青・徐の四州は害を被っていたが、歴代の刺史は討伐できなかった。季式が赴任してこれらを皆滅ぼした。

 劉姓なので一見ソグド人には見えないが、仲間の史明曜は思いっきりソグド姓ですね…。また東魏という、一般社会にはソグド商人が、官界にもソグド人官僚が大量に進出していた北斉の前身王朝での事件というのが気になるところ。

 

②敬盤陀(隋・絳郡)

『隋書』巻4 煬帝紀下 大業十一年十二月の条

 庚辰、詔民部尚書樊子蓋發關中兵、討絳郡賊敬盤陀・柴保昌等、經年不能剋。

 

 庚辰の日、民部尚書の樊子蓋に詔して関中の兵を発して、絳郡の賊の敬盤陀・柴保昌らを討たせたが、年を越しても平定できなかった。

 敬姓であり、仲間にもソグド要素がないので、ソグド人の可能性は低そうだが、隋代の山西は各地にソグド人コロニーが存在し、武装勢力としてのソグド人郷団の存在も指摘されている。*1

 また、樊子蓋はこの反乱の平定戦中に汾水の北にある「村塢」を見境なく焼き払っており、当時のソグド人コロニーがどのような形態で存在していたのかは不明だが、敬盤陀がソグドと何らかの関係がある人物の場合、隋軍側がその出身あるいは支持母体として「村塢」として認識されていたソグド人コロニーを攻撃していた、という憶測も可能ではないだろうか。

 

 このように非ソグド姓のヴァンダクは、ソグド人との関連性がありそうななさそうなポジションの人物だらけである。

 なお、西域には于闐の西に「渴盤陁(陀)」(または「喝盤陁」、「訶盤陁」、「漢盤陁」などとも記される)という于闐と風俗の似た国があるそうで、あるいはこの「渴盤陁」人とも考えられなくはないが、そもそも史料上ではソグド諸国に比べて中国との交渉が少ないマイナーなオアシス国家なので、可能性は低いだろう。

 

 非ソグド姓のヴァンダクについては、養子などにより漢姓を冒したソグド人、ソグドとの関係性が深く(ゾロアスター教への改宗も含めて)文化的影響を受けた非ソグド人等といったケースが想定されるかな、と考えながら検索していたら、『新唐書』宗室世系表にすごいのが出てきました。

 漢王洪(高祖李淵の三兄)の後として「巴陵郡王盤陁」。

 宗室にもいるの!?

 管見の限り、『新唐書』宗室世系表以外で李盤陁は出てこないので、どのような人物だったのかは不明だが、さすがに生粋のソグド人ではないでしょうね…。母親(漢王の夫人)がソグド系という可能性はありそうだけど。

(と、書いていたが、『旧唐書』巻60宗室列伝では、李洪は鄭王に封ぜられており「無後」とのことなので、後裔がいなかったようだ。李盤陁については実在したのかも不明としか言いようがない)

 

 しかし、こうして見ると「ヴァンダク」を名乗っていた人々はそもそもソグド系でもなんでもなくて、ソグド人の社会進出が進み、西域風のファッションが盛行していた当時の流行の一環として命名されたのでは?とも思う。

 ディーン・フジオカとかファーストサマーウィカみたいに、それっぽい名前がカッコいい!という理由だったら、なんだかものすごく親近感が湧くんですけどね…。

 非ソグド姓ヴァンダクについては、もっと資料が出てきたら改めて考えてみよう。

*1:石見清裕『ソグド人墓誌研究』第五章「太原出土「虞弘墓誌」」(汲古書院、2016)

宋代の巫覡と疫病対策

 先日読んだ中村治兵衛『中国シャーマニズムの研究』(刀水書房、1992)は、唐宋時代の正史から小説、士大夫層による詩文に見える巫覡に係る記事を網羅して、彼らの存在形態と活動の実態を分析しており、面白いエピソードにも事欠かない好著だった。

 そのなかでも個人的に興味深かったのが、宋代では江南などの郷村には、医者や僧侶・道士がおらず、巫覡がそれらの機能を果たし、医療・信仰の中心となっている地があったという指摘。儒教的価値観を有する士大夫はそのような土地に赴任した際に、巫覡を禁圧して彼らを帰農させたり、医薬を任地に持ち込み広めたりと、公衆衛生の向上にも努めていたそうだ。

 医者のいない郷村にはそもそも医薬がなく、巫覡がまじないによって治病をしていたという、未開社会のような状態が、ルネッサンスにも比せられた中国文化の発展期たる宋代でも存在していたことが、個人的には衝撃的だった。

 以前読んだ鈴木継美『パプアニューギニアの食生活ー「塩なし文化」の変容』(中公新書、1991)では、パプアニューギニアのギデラ族が、著者が持ち込んだ医薬品を「マジック」と呼び、「お前のマジックは俺たちのマジックよりも強い」旨の発言をしており、彼らには「医薬」という概念がなく、治病は「マジック」の領分であり、近代社会から持ち込まれた医薬品も、彼らの世界におけるシャーマンのまじないと同類であるという認識に衝撃を受けたのだが、おそらくそれと近い世界観が、宋代の郷村社会にも広がっていたのだろう。

 現代日本に生きる僕たちの感覚では、まじない頼みの巫覡信仰より、地方官が持ち込んだ医薬の方が (それがどの程度のものであれ)治病に対して有効であろうと思うし、彼らが残した文献史料についても、基本的には同じ目線で読むことができるのだが、気になる点もある。

『西山真文忠公文集』巻44「葉安仁墓誌銘」から、墓主の葉安仁が泉州の恵安県丞だったときの事績を次のように訳している(原文は未載)。

番俗は呉楚の旧をまじえ、春・夏に疫がおこると、おおむねただ巫にこれ聴くのみであり、骨肉と雖も絶ってあい往来させなかった。葉は文をつくってこれを石に刻んでさとし、医をえらんで病人をみさせ、そのみたてに随って療治し、あるいは病を扶けた。来って告げるものがあると、自ら問うてこれに薬をあたえ、貧しくて自給できないものには、銭もしくは粟をおくったので、全活したものは甚だ多かった

 洪州の知事であった夏竦の上奏「洪州請妖巫奏」においても、巫覡の治病の一環として、病人を完全に隔離して家族にも会わせないという方法があげられている。

民病、則門施符咒、禁絶往還、斥遠至親、屏去便物。家人營藥、則曰神不許服。

巫は神への祈祷咒いによってのみ病気がなおるといい、家の入り口の門に符咒(日本でいうお札)をはったあと、人の出入りを一切禁じ、家人が病人に薬を吞ませようとしてもこれを許さない。

 完全に人との接触を断ち、薬も食事も与えないということなので、もちろん治るものも治らないのだが、医薬がなく、祈祷にたよるしかない未開社会では、病人を隔離して、他者への感染を防ぐというのは、これまで当地を襲った数々の疫病への対策で蓄積されてきた経験知による判断なのかもしれない。疾病に有効な医薬がないので、せめて患者を隔離してそれ以上の感染拡大を防ぐという、江戸の火消しが延焼を防ぐために家屋を壊すような消極的対処法だったのではないか。

 家族に新型コロナ感染者が出た場合の家庭内隔離に関わるニュースを見ながら、巫覡の治病にも相応の合理性があったのでは、とふと思ったので、メモとしてブログに記しておく。

  漢籍上にあらわれる儒仏道以外の民間信仰を淫祠邪教と見なして排斥する士大夫たちの価値観は、あくまでも当時の社会の一面でしかないことは、よく認識しなくてはならないだろう。

 

 

 

顔真卿と飲中八仙

 顔真卿が書いた墓誌が出土したそうで、例によってツイッター上でちょっとした話題になっている。

 

https://min.news/hot/7c11c3c57af2a3bad203ef9b3b67131b.html

 

 釈文が公表されてないので深入りはできないが、墓主は羅婉順という鮮卑系の婦人で、夫の元大謙との合葬墓とのこと。元大謙は北魏の常山王(どの常山王かは未詳)の七代の孫ということで、北魏宗室の後裔。羅婉順の羅氏ももとは叱羅氏らしいので、鮮卑のなかではまあそこそこの中流貴族のような家柄なのだろう。夫妻の第3子である元不器と、「侄(おい)」の元自覚の墓誌も同時に出土したそうで、夫妻と元自覚の墓誌については、撰文は汝陽郡王・李璡。玄宗の異母兄で音曲に通じた寧王・李憲(譲皇帝)の長子である。

 李璡も音曲や詩文に長けていたようで、文人として名高い賀知章と交友があったり、さらに羯鼓という(おそらく北族由来の)楽器や弓が得意で、ついでにイケメンという、漢人的な教養と北族的な雰囲気を兼ね備えた風流な貴公子で、玄宗からも可愛がられていた。

 この李璡の母で、李憲の王妃であった元氏という女性が、元自覚の姉妹だったことが墓誌から読み取れるそうで、つまり元大謙らの一族は、北魏宗室の後裔で唐の宗室とも通婚する第一級の鮮卑貴族だったのだろう。

 

 では、そんな鮮卑貴族たちと顔真卿にどんな繋がりがあったのか。*1

 羅婉順は天宝5載(746年)に亡くなり、翌年に夫と合葬されたようで、釈文が未公表なので、実際に墓誌がいつ書かれたのかは未詳だが、顔真卿の肩書が長安県尉となっているので、天宝5載、数えで38歳のときに書かれたものなのだろう(顔真卿は翌天宝6載の正月に監察御史へ異動している)。

 当時の顔真卿は、科挙の進士科に及第し、校書郎から畿内の県尉へ移るという、エリート官僚の出世コースを踏み出したばかりの時期。長安県尉となる前は、同じく畿内の県である醴泉県の県尉を務めており、そこを辞めた後に洛陽で、草書の達人である張旭に師事していたと伝わる。のちに書家として王義之と並び称されることになる顔真卿の修業時代でもあったのだ。

 酒豪の張旭は酔っぱらっては絶叫しながら走り回るが、ひとたび筆をとれば雲か煙が湧きおこるかのようにみごとな草書を書きあげるという異能の人。この張旭と李璡は、ともに賀知章と親交があり、『新唐書李白伝では、賀知章も含めて、長安で不遇をかこっていた李白飲みサー「酒八仙人」のメンバーに挙げられている(ほかの4人は李適之、崔宗之、蘇晉、焦遂)。李白伝の書きぶりだと、玄宗の宴会で粗相をし、高力士と楊貴妃の怒りを買って出世が望めなくなったことから、ふてくされた李白が飲みサーを結成したかのように読めるのだが、おそらくは秘書監など政府高官を歴任し、多くの官僚から愛されていたという、酒好きで顔の広い賀知章が中心人物だったのだろう。李璡と張旭の伝で友人として記されるのも賀知章であり、李白の才能を認めて彼をフックアップしたのも賀知章だった。つまり職場にひとりはいる、いろんな部署に顔が利き、飲み会大好きなおじさん。あれが賀知章です(ちがう)。

 

 そんな「酒八仙人」だが、世間一般ではむしろ杜甫の「飲中八仙歌」*2でうたわれた「飲中八仙」という名称の方が知られているだろう。

知章騎馬似乗船  知章の馬に騎るは船に乗るに似たり

眼花落井水底眠  眼花(くら)み井に落ちて水底に眠る

  賀知章が酔って馬に乗るようすは、ゆらゆら船に揺られているかのよう。そのうち眼がくらんで井戸に落ちても気にせず水中で眠ってしまう。

汝陽三斗始朝天  汝陽は三斗にして始めて天に朝し

道逢麹車口流涎  道に麹車に逢えば口より涎を流し

恨不移封向酒泉  封を移して酒泉に向かわざるを恨む

 汝陽郡王の李璡は三斗の朝酒を飲んでからやっと朝廷に参内し、その道すがら麹を積んだ車に出くわすと、そのにおいでたちまち口から涎をたれ流し、封地を酒泉に移して転任できないのを悔しがっている。野暮を承知で解説すると、唐代の宗室は実際に封地に赴任するわけではないので、「どうせなら酒泉郡王になりたかったわい」という程度の口ぐせがあったのだろう。

李白一斗詩百篇  李白は一斗にして詩は百篇

長安市上酒家眠  長安の市上酒家に眠る

天子呼来不上船  天子呼び来たるも船に上らず

自称臣是酒中仙  自ら称す臣は是れ酒中の仙と

 李白は一斗の酒を飲み干すうちに詩が百篇できる。長安の市中にある酒屋で眠りこけ、天子に召し出されても泥酔し、ひとりで舟に乗ることすらできず、「私めは酒びたりの仙人でございます」などと自分で名乗っている。完全に飲み会の最後の方にいる人です。杜甫の表現だと上品だけど、「いーのいーの、俺は酒びたりの仙人だからぁ!」とかろれつの回らない舌で管まいてそう。この句はもちろん賀知章に「謫仙人」と呼ばれたことを踏まえているのだが、李白自身もこのあだ名を気に入っていそうな描写なのが微笑ましい。

張旭三杯草聖傳  張旭は三杯にして草聖と伝えられ

脱帽露頂王公前  帽を脱ぎて頂を露す王公の前

揮毫落紙如雲煙  毫(ふで)を揮いて紙に落とせば雲煙の如し

 張旭は酒を三杯ひっかけて「草聖」といわれるような草書を書きあげ、王公貴人の前でも平気で帽子をとって頭のてっぺんをむき出しにする無作法っぷり。それでもひとたび毛筆をふるって紙におろせば、雲か煙のように字が湧きおこる。

 ちなみに、今回とりあげなかった焦遂は、酒を五斗飲むとシャキッとして談論風発したそうだ。どいつもこいつもアル中じゃねーか。

 

 ともあれ、そんな当代一流の呑兵衛文人たちこそが「飲中八仙」または「酒八仙人」だったわけで、顔真卿がそのなかのひとり張旭のもとに弟子入りしたとき、筆頭の賀知章はすでに亡くなっていたが、李璡は健在で、大おばの墓誌をつくるにあたって、書丹を任せるに足る人物として、友人のもとに出入りしていた若き顔真卿に目をとめたのではないだろうか。

 羅婉順墓誌の釈文も未公表だし、史料も乏しいので、以上記したことはあくまでも僕の想像である。同墓誌の内容については、続報を待ちたい。

 しかし、顔真卿という人は御史台にいたときに酒の席で粗相のあった者を弾劾するエピソードがあり、個人的には正義感の強いカタブツというイメージなのだが、よく飲中八仙も認めてくれたなあ。

 

顔真卿伝―時事はただ天のみぞ知る

顔真卿伝―時事はただ天のみぞ知る

  • 作者:吉川忠夫
  • 発売日: 2019/01/10
  • メディア: 単行本
 

 

 

*1:以下、顔真卿の経歴については、吉川忠夫『顔真卿伝―時事はただ天のみぞ知る―』(法蔵館、2019)参照。

*2:訓読は下定雅弘・松原朗編『杜甫全詩訳注 一』(講談社学術文庫、2016)参照。

昭和レトロだけでは片付けられないレトロ喫茶「ランプ城」

 室蘭の街外れに「ランプ城」というレトロな喫茶店がある。

 珍スポ界隈ではそれなりに名の通った店らしく、僕はレトロ喫茶も好きなので、前々から気になっていたのだ。函館への小旅行の帰路、室蘭に寄って、件のランプ城を捜してみた。

 Google マップに案内され、たどり着いたのは街外れの、海に面した高台。

f:id:ano_hacienda:20200922122353j:image

 いや、建物がないんですが…。

 右手の取り壊された瓦礫じゃないよね?まだ営業してるよね?

 不安になりながらも、獣道のような細い道が高台の奥へと続いているので、そちらをたどってみる。

f:id:ano_hacienda:20200922123119j:image

 やがて現れる階段。

f:id:ano_hacienda:20200922123227j:image

 登りきったところに、

f:id:ano_hacienda:20200922123444j:image

 あった!ランプ城だ!!

 

f:id:ano_hacienda:20200922123539j:image

 城というより完全に民家だが、営業しているのだろうか?ごめんくださ〜い。

 無人の店内に入って何度か呼ぶと、城主と思しきおばあさんと、その娘さんらしき女性が奥から出てきた。

 ニコニコと愛想の良い娘さんが注文を取りにきてくれ、話好きなのだろう、おばあさんは何くれとなく話しかけてくれる。

 先客がいなかったので落としていた灯りを点けてもらう。

f:id:ano_hacienda:20200922124120j:image

f:id:ano_hacienda:20200922123735j:image

 不思議な形の照明(自作したらしい)をはじめ、調度といい装飾といい、店内は昭和レトロとも違う、独特の古さびた雰囲気。

f:id:ano_hacienda:20200922125524j:image

 窓の外、繁った木々の隙間からは海も見える。

 おばあさんと話していると、「せっかくだから書いていってください」と、アイスコーヒーと一緒に訪問者ノートを渡される。

f:id:ano_hacienda:20200922132944j:image

 大阪、茨城、福岡…。道外からも珍しがって客が来るとは言っていたけど、ほんとうに珍スポ界隈では知る人ぞ知る穴場なのだろう。

「すごい、色んなところからお客さん来てますね〜」

「トリヤマさんも来たことあるんですよ」と、おばあさんが無造作に壁に飾られたノートの切れ端を見せてくれる。

f:id:ano_hacienda:20200922134021j:image

 鳥 山 明 だ!!!(動揺のあまり写真が手ブレしてます)

 え、本物!?というか色紙じゃないの!?悟空雑じゃない?でも即興で描いたらこんなものか…。

「アニメはよくわからないんだけどねえ」と、のほほんとしたおばあさん。

 鳥山明がどこでランプ城を知ったのかわからないが、第三者がここで鳥山明を騙る理由はさらに不明なので、やはり本物なのだろうか…。

f:id:ano_hacienda:20200922140848j:image

 ちなみにアイスコーヒーは苦味と酸味が控えめな飲みやすい味だった。

 

f:id:ano_hacienda:20200922125624j:image

 店内をながめていると、奥に洞窟のようなフロアがあったので気になっていたら、おばあさんが案内してくれた。

f:id:ano_hacienda:20200922125803j:image

f:id:ano_hacienda:20200922125823j:image

 手作り感のある石垣。おばあさんの話では、昔ご主人が中国にいた頃、西湖のほとりの料理屋が同じようなつくりだったらしく、そこに感銘を受けて、中国から人を呼んで同じものをつくらせたとか。戦前戦中の話なのだろうか。室蘭の景気が良かった時代は中央町でスナックを経営していたそうだし、だいぶ羽振りが良かったのだろう。

f:id:ano_hacienda:20200922130239j:image

f:id:ano_hacienda:20200922130254j:image

 東郷青児の絵が無造作に飾られている。

「最近テレビに出るようになったでしょう。東郷さんの絵、本物ですよ」とおばあさん。僕もうんうんと頷いていたけど、東郷青児が亡くなったの、1978年なんですよね…。僕は生まれてすらいない。

 たしかに、ここは俗世と時間の進み方が違うのでは、と思わせる雰囲気が、店にもおばあさんにもあった。

「変なものばかりでしょう」と笑うおばあさんに、「うん、僕こういうの好きなんですよ。もっと見たいなあ」とおねだりすると、石垣フロアの奥の一室に案内してくれた。

f:id:ano_hacienda:20200922131710j:image

 昔は宴会用に貸していたという個室には、中国のものだという水墨画の屏風が。

f:id:ano_hacienda:20200922131901j:image

 桂林の季節の移り変わりを描いたものらしく、落款もあるが、誰のものかは不明。おばあさんもわからないそうだ。

 この屏風も含め、店内の骨董などはご主人が趣味で集めていたものらしく、「変なものを集めるのが好きだったんですよ」と懐かしそうに語るおばあさん。

f:id:ano_hacienda:20200922132434j:image

 こちらは油絵だが、ジャンクと江南の水郷を描いたものだろうか。味のある作品だ。おそらくご主人は江南の風物を愛していたのだろう。話してみたかったな。

 元々は住居にするつもりで建て、この石垣フロアもつくったランプ城だが、人に勧められてこちらを店舗にしたとのこと。ロケーションの良さといい、中国風の石垣など建物自体の面白さといい、全国の珍スポ者から愛されている現在が、その判断の正しさを証明しているだろう。前情報ではレトロ喫茶だとしか聞いていなかったが、個人的には予想外の中国趣味になんだか親近感を抱いてしまった。

 どうかこれからも元気で末長く営業を続けてほしい。

 

日本最北の関帝廟があると聞いて

 行ってきました、函館中華会館に。

f:id:ano_hacienda:20200920113833j:image

 といっても、現在、一般公開はしていないので、中の関帝廟には参拝できない。

f:id:ano_hacienda:20200920114024j:image

f:id:ano_hacienda:20200920114035j:image

f:id:ano_hacienda:20200920114050j:image

 それでも西暦1910年ということは、清朝の宣統2年に建てられたわけで、日本で唯一の清代建築らしい。

 幕末から開港した函館には俵物や昆布の取引のために華僑が移住してきており、彼らの集会所として機能していたとのこと。

 横浜の現在の関帝廟が戦後に再建されたものであることを鑑みると、日本最北かつ最古の関帝廟になるのではないか。

 

 中には入れないので外観だけ。

f:id:ano_hacienda:20200920115337j:image

 赤茶けた煉瓦造りの外壁は、和洋折衷の函館の街並みにもしっくりなじむ。横浜中華街にあるような満艦飾のギラギラした派手さはなく、むしろ質実剛健といった印象。

f:id:ano_hacienda:20200920113849j:image

f:id:ano_hacienda:20200920113914j:image

 いまにも緑に呑み込まれそう。

 

 近くにはイギリス領事館もあるし、函館といえば西洋風の建築というイメージが強いが、ラッキーピエロ創業者の王一郎会長も華僑だし、横浜や神戸、長崎ほどでなくとも「華僑のまち」という側面もある。王会長は陳舜臣と同じ神戸華僑(王会長は福建系、陳舜臣は台湾系だが)なので、函館華僑の末裔ではないのだけど、故郷と似ている函館に惹かれて移住したそうなので、開港地特有の雰囲気は共通しており、そのまちづくりの一端には華僑も関わっていたということなのだろう。

 僕はソグド人のように、日本全国に張り巡らされた華僑ネットワークに乗っかって函館に移住してきたのでは?と妄想したけれど。

 関帝廟は期間限定で公開したこともあるそうなので、次回に期待したい。そのときはまた参拝しに来よう。

f:id:ano_hacienda:20200920121254j:image

 

博浪沙のはなし

 黄河の流域には沙地や沙丘が形成されることが多いという。

 黄河が運ぶ土砂は、氾濫のたびに沖積平原に堆積されていき、乾燥した土砂に強風が吹きつけると、細かい粒子だけが吹き上げられ、沙地や沙丘が形成される。この沙地について、大川裕子氏は、古代中国では「神秘的な霊力の存在を認め」られていたと指摘する。*1 

 春秋時代の会盟地として、丘・山・水辺などの土地が選定されることが多いが、これは会盟を監する神として、山川の鬼神の存在が関係していたためであり、沙地についても同様に会盟地に選択されることや、殷の紂王、趙の武霊王、秦の始皇帝らが崩じた沙丘平台が「権力者たちの滅びの場として語り継がれていた」と思しきこと、沙麓が崩れるという自然現象が災異として記録されたことなどを挙げ、沙地が「非日常的な要素を備えた自然」として認識されていたと論じている。

 

 この大川氏の指摘の当否は門外漢の僕にはわからないが、この視座に立って『史記』を読み返したとき、沙丘のほかにもうひとつ、有名な沙地が登場することに思いあたる。始皇帝暗殺未遂劇の舞台となった博浪沙である。

史記』巻55 留侯世家

 良嘗學禮淮陽、東見倉海君、得力士。為鐵椎重百二十斤。秦皇帝東游、良與客狙擊秦皇帝博浪沙中、誤中副車。秦皇帝大怒、大索天下、求賊甚急、為張良故也。

 

 張良は淮陽へ行って礼を学び、東行して倉海君に会い、大力の士を得た。鉄槌をつくり、その重さは百二十斤あった。秦の皇帝が東方に遊幸した際、良は客とともに博浪沙で秦の皇帝を狙い撃ったが、鉄槌は誤って副車にあたった。秦の皇帝は激怒し、大いに天下に犯人を捜索させ、追及は甚だ急だったが、それは張良のせいであった。

 秦に滅ぼされた韓の宰相の家系であった張良は、刺客を養い、巡幸途中の始皇帝の暗殺をはかる。舞台となった博浪沙は、河南の陽武県の南に位置する。同じく陽武県の南には、始皇帝が開いた鴻溝という運河が流れ、黄河と淮水とを繋いでおり、博浪沙もこの流域に形成された沙地であったのだろう。

 博浪沙という沙地で一命をとりとめた始皇帝だったが、のちに沙丘という、これは黄河の旧河道付近に形成された別の沙地で崩御する。彼の死は沙地とよくよく因縁があるようだ。

 しかし、これだけでは博浪沙ひいては沙地そのものに、当時の人びとが霊威を認識していたのかは判然としない。そこで秦漢代における他の沙地の事例を探してみると、武帝が巡幸しようとしていた万里沙という沙地が確認できる。

史記』巻12 孝武本紀

 是歲旱、於是天子既出毋名、乃禱萬里沙、過祠泰山。

 

 この年は旱魃であった。天子は出遊の名目がないので万里沙に祈ることとして、泰山に立ち寄ってこれを祠った。

 万里沙については、『史記集解』が引く応劭の注によれば「萬里沙、神祠也、在東萊曲城。」とあり、山東半島にある東萊郡曲成県(「城」は「成」の誤り)に存在する「神祠」のようだが、孟康の注によれば「沙徑三百餘里。」とのことなので、実際に沙地が存在したようだ。「三百里」は、広大さを表すレトリックであって実測値ではないのかもしれないが、仮に孟康が生きた魏の度量衡で換算すると、その直径はおよそ130㎞以上になり、東西16㎞ほどの我が鳥取砂丘とは比較にならない広さである。

漢書』巻28上 地理志8上 東萊郡

 曲成、有參山萬里沙祠。

 

 曲成(県)、参山の万里沙祠あり。

 『漢書』地理志によれば、万里沙祠は参山にあったとのことなので、山岳の鬼神を祀ったものとも考えられるが、その名称からすれば、やはり祭祀の対象は沙地の鬼神であったのではないか。渤海湾に臨む参山の麓に広がる広大な砂地。方術が盛んであった斉の人びとは、その大自然に霊威を認識していたのではないだろうか。

漢書』巻25下 郊祀志5下

又祠參山八神於曲城、…(後略)…。

 

また参山の八神を曲城(成)に祠り、…(後略)…。

 なお、のちに漢の宣帝も参山の「八神」を祭祀対象としているが、この「八神」とは、斉の地に伝わっていた天主、地主などの八つの神格で、山東半島北方の渤海湾に面した名山や、天斉、蚩尤などの鬼神を指すようで、始皇帝も東方巡幸の際に祀っている。このうちの第四を「陰主」といい、『史記』封禅書では「三山」としているが、「三」は「参」に通じることから、参山と考えられる。もともと斉のローカルな山川の鬼神が、秦の統一により中央の祭祀対象として回収され、その滅亡後は祭祀体系ごと漢に引き継がれているのである。

 万里沙祠が陰主たる参山を祀った祠なのか、あるいは漢代には参山からその麓に広がる万里沙まで祭祀対象を拡大していたものなのかは不明だが、漢代中期に至っても、沙地に霊威を認識していた人びとの記憶が連綿と受け継がれていたことがわかる。

 

 そうなると、博浪沙故事についても、鬼神の霊威が発揚される場である沙地という舞台設定が、どうにも出来すぎているように思える。同じ始皇帝暗殺の物語である荊軻の故事についても、第三者が知りえない秘密裡の会話や、出発の舞台が易水という鬼神が関与すると認識されていた水辺であったりと、創作的な雰囲気が濃厚である。

 『史記』が文献史料だけでなく、司馬遷が各地で採取した口碑も取り入れた、いわゆるオーラル・ヒストリー的手法に則っていることは周知の事実である。宮崎市定も刺客列伝をはじめいくつかの故事について、民間での語り物に依拠していると推測していたが、僕も留侯世家のうち博浪沙故事については、当時の人びと(特に旧六国地域の人びと)に共有されていた沙地認識を背景とした民間伝承がソースなのではないかと想像している。暗殺に失敗した張良が逃亡先の下邳で黄石公から太公望の兵書を授けられたり、最後は神仙になろうとしていたりと、漢代に流行した神仙思想の影響なのか、留侯世家は博浪沙故事以外の箇所についても神怪な雰囲気が漂っており、虚構性が強い。

 ともあれ『史記』に描かれる数々の物語たちは、沙塵の彼方に隠れるように茫として、容易には実像をつかませてくれないようだ。

 

*1:大川「黄河下流域における沙地利用の歴史的変遷」(鶴間和幸編『黄河下流域の歴史と環境』東方書店、2007

トゥルギッシュのなかのソグド人

 西突厥の一派であるテュルク系遊牧民のトゥルギッシュ(突騎施)は、烏質勒が君長となったときに、その主君であった西突厥可汗の阿史那斛瑟羅の部衆を併呑し、西突厥の覇権を握るほどに勢力を伸張した。神龍2年(706)、その子の娑葛は父の後を襲って唐の羈縻支配下に入り、嗢鹿州都督・左驍衛大将軍を拝命し、懐徳郡王に封じられている。

新唐書』巻215下 突厥伝下 

 是歲、烏質勒死、其子嗢鹿州都督娑葛為左驍衞大將軍、襲封爵。

 

 この歳、烏質勒が没し、その子の嗢鹿州都督の娑葛を左驍衛大将軍とし、封爵を継がせた。

 嗢鹿州は烏質勒から継承した(唐朝に継承を認められた)トゥルギッシュの羈縻州であり、娑葛はその都督として部落を率いていたのである。

 しかし彼らの旧主の突厥がそうであったように、遊牧勢力は単一の部族で構成されるわけではなく、複数の部族の連合体であることが常である。トゥルギッシュも例に漏れず複数の部族が存在していたわけだが、その部族名はおなじ『新唐書突厥伝の前段に記されている。

 賀魯已滅、裂其地為州縣、以處諸部。木昆部為匐延都督府、突騎施索葛莫賀部為嗢鹿都督府、突騎施阿利施部為絜山都督府…(後略)…。

 

 阿史那賀魯はすでに滅び、その支配地を裂いて羈縻州県を設置し、(西突厥の)諸部を安置した。木昆部を匐延都督府とし、トゥルギッシュ(突騎施)の索葛莫賀部を嗢鹿都督府とし、トゥルギッシュの阿利施部を絜山都督府とし、…(後略)…。

 西突厥の阿史那賀魯が滅んだ顕慶2年(657)、唐はその旗下にあった西突厥の諸部族を羈縻州に編成したが、嗢鹿州(都督府)もそのなかに含まれていた。ここから烏質勒たちの部族は「索葛莫賀部」という名であったことが確認されるが、「莫賀」はおそらくテュルク語やモンゴル語で勇者を意味する「バガテュル(莫賀咄)」のことと考えられる。

 それでは「索葛」は何か、という問題になるが、従来、漢籍史料中にあらわれる「索葛」についてはソグドの漢字音転写であると考えられてきており、唐末の代北において沙陀集団を構成した部族のなかには、「薩葛」「索葛」と記されるソグド系突厥部落の存在が指摘されている*1

 そうすると「索葛莫賀」とは「ソグドの勇者」とでもいうべき名称になるが、これはソグド人が東突厥の内部に形成したコロニー「胡部」と同様に、トゥルギッシュ内部にソグド人が形成したコロニーだったのかとも勘繰ってしまう。しかし烏質勒や娑葛は、安や康といったソグド姓を冠して漢籍史料中に登場するわけではないので、やはりテュルク系で、しかしソグドとは関係の深い部族だったのではないか。

旧唐書』巻194下 突厥伝下

 突騎施烏質勒者、西突厥之別種也。初隸在斛瑟羅下、號為莫賀達干。後以斛瑟羅用刑嚴酷、眾皆畏之、尤能撫恤其部落、由是為遠近諸胡所歸附。

 

 トゥルギッシュ(突騎施)の烏質勒は西突厥の別種である。初めは斛瑟羅の旗下にあって、バガ・タルカン(莫賀達干)と号していた。後に斛瑟羅が刑罰を用いること厳酷であったため、部衆は皆これを畏れ、(烏質勒は)もっともその部落をいつくしんでいたため、これより遠近の諸胡が帰服するところとなった。

 烏質勒の恤民政策が「遠近の諸胡」の心をとらえて帰服させたとあるが、唐代において「胡」とはソグドを示す例が多いこと*2に鑑みれば、これらの「諸胡」とは、北庭に進出していた(あるいは西突厥に属していた)ソグド人たちを指すのではないだろうか。

 トゥルギッシュ内部のソグド人の具体例としては、次の記事があげられる。

『冊府元亀』巻975 外臣部 褒異二 開元二十二年条

 乙卯、突騎施遣其大首領何羯逹來朝、授鎭副、賜緋袍銀帯及帛四十疋、留宿衛。

 

(六月)乙卯の日、突騎施がその大首領何羯逹を遣わして來朝したので、鎮副を授け、緋袍と銀帯及び帛四十疋を賜い、宿衛に留めた。

 何姓はクシャーニャ出身のソグド人が中国において冠するソグド姓であり、何羯逹は彼らの得意とする外交に従事していたことがわかる。

 この記事は開元22年(734)のことなので、すでに東突厥のカプガン可汗に娑葛が殺され、その旗下にいた蘇禄が余衆を糾合し西域に覇を唱えていた時期であり、構成部族も烏質勒の代から変化しているおそれはあるが、ともあれトゥルギッシュの内部でソグド人が活動していたことは認められよう。

 このように旗下に多数のソグド人を抱えていたであろう烏質勒の後継ぎの名が「娑葛(Suōgĕ)」というのは、ソグドの漢字音転写と思しき「索葛(Suǒgĕ)」との近似を思うとき、あるいは彼は東突厥における阿史那思摩のように、ソグド人を母に持つ混血の可汗ではなかったかと想像してしまう。

 トゥルギッシュではなく、おなじテュルク系遊牧民の沙陀の話になるが、実子のほかに多数の仮子をもうけたことで知られる李克用は、墓誌中にその子の名と外号(呼び名、あるいはニックネーム)を併記される珍しいケースであった。そこには「存貴(外号は黠戞)」と「存順(外号は索葛)」という、中国風の輩行字を含む名のほかに、キルギスとソグドの音転写と思しき外号を有する子が列記され、それぞれキルギス系とソグド系の仮子である可能性が指摘されている*3。李克用といえば多数の仮子をもうけたイメージが強いので、彼らも仮子であると推定されたのだろうが、キルギスやソグドの母を持つ実子である可能性も捨てきれないだろう。

 民族的なルーツを名にする習慣がテュルク系諸族に存在したのかは不明であるし、索葛莫賀という部族名が「ソグドの勇者」を意味するというのもあくまでも仮説に過ぎない。しかし、索葛莫賀部の娑葛という字面を見ると、僕はどうしてもソグドとのつながりを考えずにはいられないのである。

 

*1:森部豊「河東における沙陀の興起とソグド系突厥」(『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史展開』関西大学出版部、2010)

*2:森安孝夫「唐代における胡と佛教的世界地理」『東洋史研究』66(3)、2007

*3:石見清裕・森部豊「唐末沙陀『李克用墓誌』訳注・考察」『内陸アジア言語の研究』18、2003