壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

トラとパンダと文帝と

 Twitterで話題になっているが、漢の文帝の陵墓・覇陵の西側にある動物殉葬坑からジャイアントパンダの骨が出土したとのこと。

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 僕も現時点での自分の考えをまとめるために、このブログにメモとして記録しておく(今後の進捗によって補訂する可能性あり)。

 

 

 管見のかぎり伝世文献上で文帝にパンダが献上された、またはパンダを狩猟した、という記事は見えないので、「このパンダって史記に出てきたあいつじゃね…?」という同定は不可能である。そもそも現代中国語では「大熊猫」と表記されるパンダの前近代中国における呼称すら未詳である。実は史書や詩文に出てきているが、別名なのでそれがパンダだと現代の我々には認知できていない可能性はあるが。

 現代のパンダ人気のルーツとして、家永真幸氏は、19世紀に四川省へ動物収集に訪れていたフランス人宣教師がパンダを「発見」したことを挙げており*1、四川や陝西等の棲息地において、パンダは当地の民衆には認知されていただろうが、現代のように広く世間一般に珍重されていたわけではなかった、というのが、家永書を読んだときの僕のパンダ理解だったのだが(僕が読んだのは底本となる『パンダ外交』(メディアファクトリー新書、2011)だが)、皇帝陵に陪葬されていたとなると、この理解を改めなければならない。

 パンダは前漢代においても、皇帝の陵墓に陪葬する価値のある珍獣として扱われていたのだろう。ちなみに、文帝の母の薄太后の陵墓からも、パンダの骨が出土しており、こちらはほかにもサイやキンシコウ、タンチョウヅル、カメなど、多彩な動物も一緒に埋められていたそうで、まさに「地下動物園」である。

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 さて、では文帝母子は、一緒にお墓に埋めてもらうほどの無類のパンダ好きだったのかといえば、個人的には、(少なくとも文帝は)パンダに限らず動物全般が好きだったのだろうと考えている。

 以下は、文帝が謁者僕射の張釈之をともない、みやこ長安の南方に広がる皇室の大庭園である上林苑へ行幸した際のエピソードである(『漢書』張釈之伝もほぼ同じ内容である)。

史記』巻102 張釋之馮唐列傳第42 張釋之の条 

 

 釋之從行、登虎圈。上問上林尉諸禽獸簿十餘問、尉左右視、盡不能對。虎圈嗇夫從旁代尉對上所問禽獸簿甚悉、欲以觀其能口對響應無窮者。文帝曰「吏不當若是邪。尉無賴!」乃詔釋之拜嗇夫為上林令。

 

 張釈之は行幸に従って、虎圏へ登った。文帝が上林尉へ禽獣簿について十あまりの質問をしたところ、尉は狼狽して左右を顧みるが、誰ひとり答えられなかった。するとかたわらにいた虎圏の下役人が尉に代わって下問に詳細に答えたが、自分の能力を示そうと響きに応じるように即答し返事に窮することがなかった。文帝は「役人はこのようでなければならない。尉は頼みにならぬ!」といい、釈之に詔してこの下役人を上林令に任じようとした。

 上林苑は広大な敷地内に複数の宮殿や山川・池沼・森林を擁し、皇帝が軍事訓練を兼ねた狩猟をするなど、幅広い用途をもつ大庭園だったが、苑内では皇帝に献上された珍獣なども飼育されていた。文帝が関心を抱いていた「禽獣簿」も、おそらくは苑内で飼われている禽獣のリストのようなものだろう。

 上林苑の機構については、のちの武帝の時代においては、トップの上林令の下に八丞と十二尉で構成されており、文帝の治世でも大きく変わらなければ、この12人の上林尉のうちの数名が、このとき文帝の応接をしたのだろう。

 禽獣簿を見ながらウキウキで矢継ぎ早に質問する文帝と、狼狽してまったく答えられない上林尉たちの構図は、はたから見ればどこか滑稽で微笑ましいが、彼らの立場になれば冷や汗ものである。このとき文帝の下問に対してよどみなく応答したのが、「虎圏」の下級吏員たる嗇夫である。では「虎圏」とは何か?

 「圏」とは、家畜を飼育するために柵などで囲った場所を指し、ブタを飼育する「猪圏」、ヒツジの「羊圏」などがポピュラーである。

晋代の墓から出土した明器の猪圏

トイレと融合した猪圏

ヒツジを飼育する「羊圏」

 猪圏は一般的に、多階層の建築物となっており、1階がブタ小屋、2階がトイレで構成されている。2階で用を足した人間の糞便を1階のブタが餌にする、という循環型のトイレ兼ブタ小屋である(詳しくは過去のブタトイレの記事を参照)。

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 上林苑内にあった「虎圏」が、ブタトイレならぬトラトイレだったとは考えがたいが(僕なら確実に緊張して出るものも出ないと思う)、猪圏や羊圏のように、柵で囲ったなかでトラを飼育していた施設だったのだろう。「登虎圏」という表記からも、多階層の建築物だったことが読みとれる。

 おそらく文帝は「虎圏」の2階に上り、1階の柵のなかをうろつくトラを見下ろしながら、上林苑の役人たちをあれこれ質問攻めにしていたのだろう。その質問に対して尉ではなく、実際にトラの飼育にたずさわっていただろう下っ端の嗇夫が回答していることから、質問内容はトラの具体的な生態に関することだったのかもしれない。上役では回答に窮するほど細かい質問をしてくる文帝の、動物に対する並々ならぬ関心の高さがうかがえる。

 嗇夫の打てば響くような回答と、しどろもどろでろくに答えられない上林尉を比較して、前者を上林苑のトップたる令へ抜擢しようとした文帝だが、随行していた張釈之に口が巧いものばかり取り立てるようになる弊害を説かれて諫められたため、この人事は断念している。

 諸方から献上された珍獣などは、このように上林苑内で無造作に放し飼いされていたのではなく、「圏」のなかで飼育されていたと考えられるので、おそらくトラ以外の禽獣についても同様の「犀圏」や「象圏」などが存在しており、文帝や薄太后の陵墓に陪葬されたパンダも、秦嶺山脈の北側にいた野良パンダを狩ってきたわけではなく、上林苑の「パンダ圏」にいた個体だったのではないだろうか。

 文帝の下問に対して上林尉が回答できなかったのも、おそらくは苑内には複数の動物の「圏」がもうけられており、ひとりの尉が数圏を統括していたので、一つひとつの動物の生態までは把握しきれていなかったためではないか。

 文帝は即位してからの23年間、宮室・苑🈶・車騎・服御を何も増さなかったと節倹を称えられた名君であり、自身の葬儀についても薄葬にするよう言い残しているが、動物に関しては「別腹」だったのかもしれない。そんなふうに想像すると、奔放な武帝などと比べて、生真面目で倹約家的なお堅いイメージの文帝にも人間臭さを感じられる。

 もっとも文帝や薄太后にパンダを陪葬させたのは、彼らの嗜好を慮った景帝のとりはからいかもしれないが…。

 

*1:家永真幸『中国パンダ外交史』(講談社選書メチエ、2022)