壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

釣りキチと龍と魚たち

 例によって久々に『北夢瑣言』を読んでいたら変な記事を見つけたので、以下に紹介する。

 

『北夢瑣言』逸文巻第四 釣魚見龍

 李宣宰陽縣、縣左有潭、傳有龍居、而鱗物尤美。李之子惰學、愛釣術、日住潭上。一旦龍見、滿潭火發、如舒錦被。李子褫魄、委竿而走。蓋釣術多以煎燕為餌、果發龍之嗜慾也。

 李宣が陽県の県令であったとき、県の東側の淵には龍が棲み、鱗ある物のなかでも最たる美しさだと言い伝えられていた。李の子は学問をおこたり釣りを好んで、日々その淵へ通っていたが、ある日、龍があらわれ、淵に錦のふとんをひろげるようにぎらぎらとした炎をまきおこした。李の子は魂消て、釣竿を放って逃げだした。一般に釣りでは焼いたツバメの肉を餌とすることが多いが、案の定、龍の食欲を刺激してしまったのだろう。

 

 李宣の子が釣り餌としていたと思しき「煎燕」は、字のごとくツバメを焼いたり煮たりしたものらしいが、いやいやいや、おかしくない?

 焼いたツバメの肉が釣り餌として一般的だったと、孫光憲はあたりまえのように記すが、これを素直に受け取るのは現代日本人には抵抗がある。虫に比べて採取に手間がかかりすぎるし、コスパも悪いだろう。

 しかし唐五代に一般的に普及していた釣り餌というニッチな事物を当時の史料から探し出すのは困難を極めるが、孫光憲と同時代の五代に成立した『玉堂閑話』には、渭水の釣り人が焼いたツバメの肉で釣りをする説話が見える(テキストは『太平広記』から拾っています)。

 

『太平廣記』巻第一百一 釋證三 渭濱釣者

 清渭之濱、民家之子、有好垂釣者。不農不商、以香餌為業、自壯及中年、所取不知其紀極。仍得任公子之術、多以油煎燕肉置於纖鉤。其取鮮鱗如寄之於潭瀨。其家數口衣食、綸竿是賴。…(後略)

 渭水の岸辺の家の子で、釣りを好む者がいた。野良仕事も商いもせずに、かぐわしい餌での魚釣りを生業としていた。壮年から中年にかけては、釣りに出れば魚をとること終わりが見えぬほどであった。そこで伝説上の釣り人である任公子のわざを会得し、ツバメの肉の油焼きを餌として細い釣り針にしかけるようになった。鮮魚を釣りあげることは、水際に魚を集めるかのようであり、その家族数人の衣食は彼の釣り竿でまかなわれていた。…(後略)

 

 任公子は『荘子』外物編に見える釣り人で、五十頭の牛を餌に巨大な釣り竿で大魚を釣ったといわれる伝説の釣りキチである。「任公子之術」というのは五十頭の牛で大魚を釣るような奇天烈な技術、一種の方術のようなものとも聞こえるが、孫光憲が生き、『玉堂閑話』が成立した五代には、釣りキチの間では「焼いたツバメの肉で爆釣するらしいぜ」という迷信が流れていたのではないか。孫光憲が釣りキチだったかはわからないが、通ぶって「蓋し釣術は多く煎燕を以て餌と為す」などと調子のいいことを書いたに違いない。

 唐代の釣り餌については、中村治兵衛氏が上掲の説話や詩から「香餌」「芳餌」と称される餌を釣り針につけていたことを論じているが、具体的な餌の事例は上掲の焼いたツバメ肉のみである。*1「香餌」「芳餌」というのは単なる餌の美称の可能性もあるが、当時の釣りキチたちの観念上では、上等な釣り餌はかぐわしい匂いで魚をひきつけることが期待されていたのだろう。それは単なる虫ではありえない。油でこんがり焼かれた香ばしいツバメ肉。それこそ当時の釣りキチたちが考えていた至高の釣り餌であり、任公子の爆釣伝説と結びついて、「任公子之術」などと称する方術どころか与太話じみた釣りの秘訣が生まれたのではないだろうか。現代風にいえば加藤鷹直伝のスローセックス術」みたいなものか。

「鱗物」という語が魚や龍などウロコをもつ生き物の総称であることからわかるように、伝統中国では龍は魚に近い生き物と見られていたようだ。『北夢瑣言』には数多くの龍にまつわる説話が収録されているが、その舞台はだいたい川や淵、はては井戸など水辺である。鯉が滝を登って龍になる「登龍門」の伝説や、龍が世を忍ぶ仮の姿として魚に化ける説話もあるし、李宣の説話もそういった意識のうえで成り立ったのだろう。

 しかし、いくら上等な「香餌」であったとしても、魚の餌ごときに釣られてしまう龍は可愛らしくも情けない。それでいいのか、龍。もっと龍としてのプライドを持て、プライドを。

 

*1:中村治兵衛『中国漁業史の研究』刀水書房、1995