壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

碧い瞳の項羽~安史の乱点描(2)

 河北では史思明が大燕皇帝を称して自立し、唐朝と安史軍が一進一退の攻防をくりひろげていた粛宗の乾元2年(759)8月、安史軍の勢力圏からは遠い洛陽南方の襄州でひとつの反乱が起こった。

旧唐書』巻10 粛宗紀 乾元二年条

 八月乙亥、襄州偏將康楚元逐刺史王政、據城自守。…九月甲午、襄州賊張嘉延襲破荊州、澧・朗・復・郢・硤・歸等州官吏皆棄城奔竄。

 八月乙亥の日、襄州の部将康楚元が刺史の王政を放逐し、州城を固めた。…九月甲午の日、襄州の賊の張嘉延が荊州を破り、澧・朗・復・郢・硤・帰などの諸州の官吏はみな城を捨てて遁鼠した。

 康楚元軍は襄州から荊州へと山南東道を南下し、荊南節度使として荊州に駐屯していた杜鴻漸が戦わずして出奔したことを受け、その管下諸州の官吏も相次いで逃げ出す事態となってしまった。

旧唐書』巻108 杜鴻漸伝

 襄州大將康楚元・張嘉延盜所管兵、據襄州城叛、刺史王政遁走。嘉延南襲荊州、鴻漸聞之、棄城而遁。澧・朗・硤・歸等州聞鴻漸出奔、皆惶駭、潛竄山谷。

 襄州の大将の康楚元、張嘉延は所管の兵をひきいて襄州城に拠って反し、刺史の王政は遁走した。嘉延は南進して荊州を襲わんとし、杜鴻漸はこれを聞くや、城を棄てて逃げ出した。澧・朗・硤・帰などの諸州は鴻漸の出奔を聞くや、みな驚きおそれ、山谷に遁鼠した。

 一時は山南東道全域を制圧するかに見えた康楚元軍だが、商州刺史であった韋倫の活躍により、11月にはあえなく鎮圧されている。

旧唐書』巻10 粛宗紀 乾元二年条

 十一月甲子朔、商州刺史韋倫破康楚元、荊襄平。

 十一月甲子の朔日、商州刺史の韋倫が康楚元を破り、荊州・襄州は平定された。

 この反乱を率いた康楚元とは何者か、また、この反乱はどのような性格を持つ事件であったのだろうのか。

 

 康楚元は自立の際に「南楚覇王」という西楚の覇王項羽を彷彿とさせる王号を称している。

資治通鑑』巻221 粛宗乾元二年条

 八月、乙巳、襄州將康楚元・張嘉延據州作亂、刺史王政奔荊州。楚元自稱南楚霸王。 

 八月乙巳の日、襄州の将である康楚元と張嘉延が当地で反乱を起こし、刺史の王政を荊州へ出奔させた。楚元はみずから「南楚の覇王」と称した。

新唐書』巻126 杜暹伝 杜鴻漸条

 乾元二年、襄州大將康楚元等反、刺史王政脫身走、楚元偽稱南楚霸王、因襲荊州

 乾元二年、襄州の大将康楚元らが反し、刺史の王政は単身脱走し、楚元は「南楚の覇王」を偽称し、すぐに荊州を襲った。

 康楚元が称した王号については、別系統の史料では「東楚義王」となっており、これはこれで項羽が弑逆した楚の義帝を彷彿とさせるが、東楚とは現在の安徽省方面であり、張嘉延が目指した荊州こそ南楚とよばれる地域であったことから、「南楚覇王」が正しいように見える。

 しかし「東楚義王」として記録しているのは、実際に康楚元の乱の鎮圧にあたった当時の商州刺史であり荊襄等道租庸使でもあった韋倫の新旧唐書の伝である。乱の経過について詳細な記述があり、おそらく本人の行状などに基づいているものと考えられるため、軽視できない。

 『旧唐書』巻138 韋倫伝

 會襄州裨將康楚元、張嘉延聚眾為叛、兇黨萬餘人、自稱東楚義王、襄州刺史王政棄城遁走。嘉延又南襲破江陵、漢・沔饋運阻絕、朝廷旰食。倫乃調發兵甲駐鄧州界、兇黨有來降者、必厚加接待。數日後、楚元眾頗怠、倫進軍擊之、生擒楚元以獻、餘眾悉走散、收租庸錢物僅二百萬貫、並不失墜。

 そのとき襄州の部将康楚元、張嘉延が兵を集めて謀反した。凶徒一万余人を擁し、自ら東楚の義王を称し、襄州刺史の王政は城を棄てて遁走した。嘉延はまた南進して江陵(荊州)を陥れたため、漢水・沔水経由の食糧輸送が断絶し、朝廷は食に事欠いていた。韋倫はそこで兵を集めて(襄州北隣の)鄧州の州境に駐屯し、賊軍が投降してくれば手厚くもてなした。数日にして康楚元の賊徒はだらけてしまい、倫は進軍してこれを打ち破り、楚元を生け捕りにして朝廷へ献上した。残党はみな潰走し、税銭二百万貫を収めた。

 しかしこのほかに「〇〇(地域名)義王」という用例は管見の限りみつからず、「〇〇(地域名)覇王」には、「西楚覇王」項羽のほかに隋末唐初の群雄西秦覇王」薛挙がいる。

『隋書』巻4 煬帝紀下 大業十三年条

 夏四月癸未、金城校尉薛舉率眾反、自稱西秦霸王、建元秦興、攻陷隴右諸郡。

 夏四月癸未の日、金城校尉の薛挙は兵を率いて謀反し、みずから「西秦覇王」を称し、「秦興」の元号を建て、隴右の諸郡を攻め落とした。

 薛挙はこの後、皇帝として即位するが、国名については未詳である。「秦興」という象徴的な元号を建てたことからも、「秦」または「西秦」かと思われるが、そもそも挙兵時の自称が異例である。後世の史家が他の同名の王朝と区別するために「西秦」「前燕」などといった東西南北や前後を国名に冠するケースは多いが、当事者たちの意識としては「秦」または「大秦」であるのが普通である。あえて「西秦覇王」を称した薛挙は、やはり「西楚覇王」項羽を意識していたのではないか。

 項羽については南北朝時代にすでに江東では神格化しており*1、軍士のあいだでは英雄または軍神として人気があったのだろう。薛挙も自立する際に軍士の支持を得ようと、隋末の西北辺まで広がっていた項羽人気にあやかったのではないか。

 そうなると康楚元の自称についても、当時の襄州の軍士のあいだで人気のあった項羽にあやかってのものと考えられ、やはり「南楚覇王」こそが正しい自称だったのではないだろうか。西北辺の金城にさえ項羽人気が浸透していたのならば、戦国時代には楚の領域であり、項羽信仰の中心地でもある江東にもより近い襄州で、項羽を英雄視または神格化して信仰する層が幅広く存在していたとしてもふしぎではない。ちなみに康楚元と同時代の人である顔真卿は、湖州刺史時代に項羽碑を復旧しており、当時、項羽信仰が江東に存続していたことがうかがえる。

 

 項羽の再来を称して挙兵した康楚元だが、それでは彼自身はいったい何者なのか。

「康」というサマルカンド出身のソグド人が称していた、いわゆるソグド姓を冠していることからも、彼がソグドの血を引く武人であることがわかる。

 また、彼が活動していた襄州は、漢水の水運の要衝に位置しており、南の荊州と併せて、長江から送られてきた物資の長安や漢中への運送ルートの結節点にあたる。両州を抑えられたことによって長安への食糧供給が滞ったのは韋倫伝に見えるとおり。

 中国に往来したソグド人はみやこの長安や洛陽のほか、霊州、幽州から果ては揚州まで、交通の要衝に集住してコロニーを形成し、各コロニー間のネットワークを介して交易・情報伝達をする傾向がつとに指摘されているが、襄州についてはまだ報告がないものの、当地の交通上の重要性に鑑みれば、ソグド人が進出していてもふしぎではない。

 康楚元は襄州に集住したソグドの家系から身を起こし、当地の軍将として仕官した武人ではないだろうか。ソグドの血を引き、深目高鼻に碧眼というコーカソイド的形質をそなえていたかもしれない康楚元が項羽の再来を称するというのは、どう見てもモンゴロイドルパン三世のようで、どこかおかしみがある。

 薛挙が挙兵した金城郡も西域と長安をつなぐ河西回廊の要衝で、ソグド系住人の多い土地である。あるいは項羽というやたらめっぽう戦が強く、儒教的な堅苦しさ、小難しさのない英雄は、漢化が浅い非漢族にも受け入れられやすいアイコンだったのかもしれない。

 さて、康楚元がソグド系であるということで、またひとつの推測が生まれる。おなじくソグド系の史思明との連携である。

 史思明は突厥第二可汗国崩壊後に唐朝に内附したソグド系突厥突厥内部に「胡部」とよばれるコロニーを形成して生活し、遊牧文化や騎射技術などを習得して突厥化したソグド)と見られるが、森部豊氏らが示唆する安史軍がソグドネットワークを利用して軍資金を調達していたという説*2に従えば、河北で活動していた史思明とソグドネットワークを介して連携したうえで挙兵した可能性もすてきれない(ソグドネットワークという概念自体が理念が先行しすぎており、安史の乱によって混乱していた当時の唐朝本土でどれほど実態があったのかは不明だが)。

新唐書』巻6 粛宗紀 乾元二年条

 九月甲子、張嘉延陷荊州。丁亥、太子少保崔光遠為荊襄招討・山南東道處置兵馬使。庚寅、史思明陷東京及齊・汝・鄭・滑四州。

 九月甲子の日、張嘉延は荊州を陥れた。丁亥の日、太子少保の崔光遠を荊襄招討・山南東道處置兵馬使とした。庚寅の日、史思明が東京および斉・汝・鄭・滑の四州を陥れた。

 康楚元軍が荊州を落とし、唐朝がその対応に追われているあいだに、安史軍は洛陽ほか河南の諸州を攻め落としており、有機的に連携がとれているように見えるのだ。

 康楚元があくまでも南楚の「覇王」として地域権力に終始しようとし、帝号を称さなかったのも、項羽にあやかっただけでなく、史思明ひきいる大燕王朝への配慮もあったのではないだろうか。

 以上見てきたように、康楚元の乱はソグドネットワークという汎ユーラシア規模のネットワークと中国土着の項羽信仰が結合した事件としてとらえることが可能である。ソグドネットワークによる安史軍との連携についても、項羽信仰に基づく軍士の統率についても、史料に乏しく、あくまでも推測にすぎないが、従来説かれてきたような唐朝側・安史軍側だけでなく、第三勢力にもソグド系武人が存在していたことだけはたしかだろう。

 

*1:宮川尚志「項羽神の研究」同『六朝史研究 宗教篇』(平楽寺書店、1964)所収

*2:森部豊『世界史リブレット人18 安禄山』(山川出版社、2013)