壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

年頭狗肉

 戌年だから犬を食べよう。

 そんな短絡的な発想で僕が足を延ばしたのは、大阪のコリアンタウンとして名高い鶴橋のおとなり今里新地。鶴橋に比べると新興のコリアンタウンらしいが、近年はベトナム人も増えているらしい。そして飛田・松島・信太山・滝井と並ぶ「大阪5大新地」の一つ、つまり花街でもある。胡散臭いにおいがプンプンするぜ。

 夜に訪れた方が面白いのかもしれないが、数年前の生野区連続通り魔事件(韓国籍の男が、日本人であることを確認した相手を次々とめった刺しにしていった通り魔事件)の発生現場でもあるので治安面が不安ということと、単純に夜は予定があったので、午前中からランチがてら新地を散策することにした。

 今里駅から続く商店街を抜け、今里新地と思しき界隈を歩く。道行く人も韓国語を話していたり、東南アジア系の浅黒い顔立ちだったりと、国際色豊か。多く見かけるのは韓国料理屋、中華料理屋、カラオケスナック、一般の住宅か。そして、それらの合間にぽつりぽつりと点在する「料亭」。

 f:id:ano_hacienda:20180108170458j:image

 まだ午前中で営業時間前のためか、人はいない。飛田のように店が一角に固まっているわけではなく、営業形態も軒先に嬢とやり手婆が座っているスタイルではなさそうだ。この写真ではわかりづらいが「今里花街組合」の赤ちょうちんがなければ、ただの料亭のように見える(真正面から撮影する度胸はなかった)。

 f:id:ano_hacienda:20180108170656j:image

 ベトナム人も進出してきているとのことだが、僕が見かけたベトナム系の店は営業していないコーヒーショップのみ。

 f:id:ano_hacienda:20180108170741j:image

 謎の新興宗教も。神道系らしいが詳細はググっても不明(真正面から撮影する度胸はなかった)。

 このほかに中華料理屋が多く、地域の避難所(近所の学校)の案内看板に日本語、英語、中国語、ハングルの4種類の表記があったので、今里には中国人も相当数住んでいるのだろう。花街、韓国人コミュニティ、ベトナム人コミュニティ、中国人コミュニティ、新興宗教というラインナップに、目当ての店に行く前にだいぶお腹いっぱいになるマッドシティぶりだった。

 

 さて、お目当ての韓国料理屋「開城食堂」である。開城なので韓国ではなく朝鮮系かもしれない。

f:id:ano_hacienda:20180108171833j:plain

 ※外観の写真は撮り忘れたのでネット上の拾い画です。

 韓国料理で犬肉といえばポシンタン補身湯)である。人生初の犬肉。猫派の僕は犬に特別思い入れがないので、犬を食べるなんてかわいそうという情緒面での抵抗感はない。まあ猫が食べられる店があると聞けば躊躇せずに食べに行くけど。

 店に入ると一般の住宅のリビングのような部屋で老夫婦(?)が韓国のテレビを見ながら食事をしている。店員を探すと、夫婦のうちのオモニが韓国語と片言日本語のちゃんぽんで話しかけてきた。部屋の奥の電気をつけて別のテーブルに案内してくれる。あんたが店員かよ!?

 ポシンタンを注文すると老夫婦は2人とも厨房へ行くが、食べかけの食事はテーブル上に残したまま。食事中だっただろうに、なんかごめん…。

 テレビからは韓国のニュース、僕の隣のテーブルには食べかけのオモニたちの昼食。壁に牛カルビのメニュー写真がなければ一般の住宅のリビングと勘違いしそうな部屋に、韓国の実家に帰ってきたような錯覚すら覚える。

 そしてポシンタンが登場。

 オモニは終始笑顔で「カンコクジン?」「ポシンタン、ハジメテ?」と僕に話を振りながら卓上の荏胡麻、ヤンニョム、唐辛子を手際よくポシンタンに投入していく。愛想のよい人なんだけど「コレ、ダイジョブ?」と訊きながらノータイムでぽんぽん唐辛子を入れるのはやめてくれよ。入れる前に訊いてくれ…。

 そしてスプーンでよくかき混ぜてできあがり。

 f:id:ano_hacienda:20180108170132j:image

 犬肉は赤身肉と、たっぷりコラーゲンが含まれていそうなぷるぷるの脂身がきれいに分離している。後の具材は小松菜のような謎の葉野菜。熱々のスープからいただくが、犬肉のくさみが出ているのか独特のクセを感じる。そして犬肉。ああ、うん、これはくさいねえ…。

 ネット上では「羊肉に似ている」「くさみが強い」という意見の多い犬肉だが、羊に似ているかどうかはともかく、たしかににおいが強烈だった。僕の乏しい人生経験ではちょっと他に例えようのない独特の獣臭で、なかなかスプーンが進まない。赤身肉はパサついた硬めの肉で、噛んでも特別旨みを感じられない。どういう犬種なんだろう。そして赤身肉ですら厳しいのに、もともと牛や豚でも得意ではない脂身は口に入れた瞬間戻しそうになったので、噛まずに呑み込む。よく噛まなかったせいかスープの味しかしなかった。

  日本人は唾液量が少ないからジューシーな肉を好むというが、同じモンゴロイドの中国人や韓国人は違うのだろうか。僕は朝鮮半島や中国の犬食文化について無知だが、個人的には、においばかり強くてパサつき、旨みの少ない犬肉は珍重されるような食材ではないだろうなと感じた(現代日本人並みの感想)。前近代の中国の犬食文化についても、「羊頭を懸けて狗肉を売る」というくらいだから、犬肉は羊肉の下位互換、大牢に数えられる牛・豚・羊よりは低級な食肉だったのではないか。犬の屠畜を生業としていた漢の樊噲もきっと古代中国のワーキング・クラス・ヒーローだったのだろう。

 そんなことを考えながらどうにかポシンタンを完食すると、オモニが残ったごはんをスープに入れて火にかけ、雑炊をつくりはじめた。「ゴハン、オカワリ?」と訊くので、「じゃあ、ちょっとだけ」というと、自分たちの茶碗から食べかけのご飯をスープに入れはじめた。え、なに、俺たち家族か何かだっけ?

 締めの雑炊である。

f:id:ano_hacienda:20180108170253j:image

 やはりまだ犬のくさみは残っているものの、圧倒的に食べやすい。別添えの甘味噌のようなものを投入するとさらにくさみが中和され、味噌のコクが加わり、まったりとした味わいになる。ああ、これならいける。

 雑炊も完食するとオモニが満面の笑みで「オイシカタ?」と訊く。「美味しかったです」と僕も笑顔をつくると、途中からやってきたオモニの娘さんと思しきおばちゃんに嬉しそうに「ニホンジン、ポシンタン、ハジメテ」と話しかけていた。やはりポシンタンを初体験で美味しく完食する日本人は少ないから嬉しかったのかな。僕は口のなかが犬臭いけど。

 食後のお茶を飲んでいると、2階からベトナム人と思しき父子が下りてきて、オモニと話をしていた。近所に住む常連客だろうか。店にいる日本人はどうやら僕一人らしい。なにここ租界?

 しかし韓国人街にベトナム人が進出していると聞くと、馳星周を読んで育った身としては「抗争とかあるのか」と心配してしまうが、オモニと父子は親し気に見えた。あのオモニの人柄のせいだろうか。

 マッドシティとばかり思っていた今里新地のあたたかな一面を見て頬がゆるんだ僕だったが、口のなかの犬臭さは結局この日の夜まで消えないのであった。

大東怪食記

 大阪は大東市に珍しい動物が食べられる居酒屋があると聞いて伺った。

 店の名は宝雪酒坊。ウーパールーパーが食べられる居酒屋として珍スポ界に名を馳せる(局地的)有名店である。

  ウーパーは入荷していないときもあるらしいので、事前に電話で確認をとっていたせいか、店に入って席につくなり「ウーパールーパーにします?」と笑顔のおねえさんに訊かれる。さすがに心の準備ができていないので、最初は軽くジャブからということで、無難なメニューでスタートを切った。

「いえ、それは後で…。じゃあまず、どてやきと、ダチョウの刺身お願いします」

 そう、 この店には一般的な居酒屋メニューの他に挑戦メニューなるものが存在するのだ。

f:id:ano_hacienda:20161021172520j:plain

 ※メニューの写真は撮り忘れたのでネット上の拾い画になります。

 このうちワニ、トド、カンガルー、シカ、カエル、トド、馬は食べたことがあるので未知の食材であるダチョウを注文。ラクダも食べたかったが、この日は入荷していなかった。後で常連さんと「どんな動物の肉を食べたことがあるか」という話をしていて気付いたが、自分がいままで食べてきたシカはエゾシカなので、この店のシカとは品種が違うのかもしれない。注文しておけばよかった。

 

 さて、ダチョウの刺身である。

 f:id:ano_hacienda:20180108133741j:image

 冷凍ものらしく貼り付いている生肉を箸ではがして口に運ぶ。クセはないので食べやすいが、冷凍のためか若干水っぽく、旨みもあまり感じられなかった。本場(どこだよ)で食べればもっと美味いのかもしれない。

 ちなみにどてやきはクリーミーで、このとき食べた料理のなかで一番美味かった。

 

 続いて今回のお目当てウーパールーパーとグソクムシを注文。料理方法は唐揚げだ。グソクムシはなぜか上掲の挑戦メニューではなく通常メニューに載っていたが、おそらくここでは日常的にグソクムシを食べているのだろう。

「ウーパールーパーとグソクムシは一緒に揚げるけど、揚げる前の写真撮らせてあげるよ」とおねえさん。

 是非にとお願いしたら出てきたのがこちら。f:id:ano_hacienda:20180108121324j:image

 ……自分で注文しといてなんだけど、いまからこれ食べるの?

 

f:id:ano_hacienda:20180108121402j:image

 もう慣れてるのだろう、客がインスタ映え写真を撮れるようにグソクムシを持ち上げていろんな角度から見せてくれるおねえさん。

 

f:id:ano_hacienda:20180108121439j:image

  あ、腹はちょっと、見たくなかったかも…。

 

f:id:ano_hacienda:20180108121551j:image

 ご尊顔。

 「サングラスかけてイケメンやろ」との仰せだが、これはもうあれだ、完全にプレデター

 そしてカラッと揚がったのがこちら。f:id:ano_hacienda:20180108121622j:image

 「頭からいきな」というので意を決してかぶりつく。バリバリと甲殻を噛み破るが、味は完全にえびせん。エビやカニのようなプリッとした身肉は感じられなかったが、味噌のようなクリーミーな食感はあった。味噌らしいクセを感じられなかったので身肉だろうか。量が少ないうえに、僕もこの時点で酔っていたのでわからず仕舞いだった。

 

 そしてウーパーさんはこちら。

f:id:ano_hacienda:20180108121656j:image

  こちらも頭からバリバリ食べる。骨の主張が強いが、身肉は白身魚に近くて淡白。内臓の食感はわからなかったけど、やはり抜いているのかな。

 ちなみにグソクムシもウーパーもスパイスの効いた唐揚げに仕上がっていて、味付け自体はけっこう好みだったので、鶏の唐揚げは普通に美味いのだろう(じゃあそっち頼めよ)。

 

 隣の席に座っていた常連さんが僕の注文したウーパーとグソクムシの写真を撮っていたので、「やっぱりこういうのたまにしか出ないんですか?」と店のおねえさんに訊くと、「いや、毎日出るよ」とのこと。毎日出るんだ…。

 昔からのなじみの業者が優先的に挑戦メニューにあるような動物の肉を流してくれるらしく、「関西でウーパールーパーを食べられるのはうちだけ」と誇らしげなおねえさん。そもそもウーパールーパーを食肉として流通させている業者って何なんですかねえ…。

 そして挑戦メニューだけでなく、店の常連さんたちもキャラが濃くて面白いうえに、店のおねえさんたちも含めて皆さん異様にカラオケが上手い。常連さんだらけでいちげんが入りづらい飲食店は本来苦手なのだけど、ここはついつい長居してしまった。関西珍スポ界の有名店は、大衆的な雰囲気のわりには居酒屋としてのコスパは低い(ビールが600円くらい)が、居心地の良い優良店だった。

バッタを倒しに山東へ

 森福都に「黄飛蝗」という小説がある。唐の開元7年(719)、洛陽近郊の芒山で発生した大規模な蝗害に治蝗将軍・魏有裕が立ち向かうさまを描いた短編だが、魏有裕は治蝗軍と呼ばれる軍隊を率い、飼育していた病毒持ちの蝗「黄蝗」を飛蝗の大群に放つことで疫病を感染させ、殲滅をはかるという、いわば生物兵器を駆使して蝗害を鎮めようとする異色の歴史小説である。

 この魏有裕という人物も治蝗将軍という官職もすべて創作なのだが、おそらく森福がモデルにしたと思しき官職は実在していた。

 

 『新唐書』巻一百二十四 姚崇伝

 開元四年、山東大蝗、民祭且拜、坐視食苗不敢捕。崇奏「詩云『秉彼蟊賊、付畀炎火。』漢光武詔曰『勉順時政、勸督農桑。去彼螟蜮、以及蟊賊。』此除蝗誼也。且蝗畏人易驅、又田皆有主、使自救其地、必不憚勤。請夜設火、坎其旁、且焚且瘞、蝗乃可盡。古有討除不勝者、特人不用命耳。」乃出御史為捕蝗使、分道殺蝗。

 「黄飛蝗」の舞台とは異なり、ときは開元4年(716)、場所も河南や河北と幅広い(ここでいう「山東」は山東半島ではなく太行山脈より東の地)。ここに大蝗害が発生したが、当時、蝗害は天が人々を譴責するために下した災異の一種と認識されており、民衆は蝗を捕らえるのではなく、具体的に何を祭っていたかは不明だが、祭祀によってこの災害を解決しようとしていた。

 ときの宰相は「開元の治」を支えた名相として名高い姚崇。彼は具体的な対策として、農地に穴を掘り、夜間その近くで火を熾して蝗を集め、穴に追い落として埋めてしまおうと考えた。「黄蝗」よりずっと地味で現実的な方法である。そこで「捕蝗使」という使職(いわゆる令外の官)を設け、各地を巡る監察官である御史を臨時的にこれに任じて被災地へ派遣したという。

  汴州刺史倪若水上言「除天災者當以德、昔劉聰除蝗不克而害愈甚。」拒御史不應命。崇移書誚之曰「聰偽主、德不勝祅、今祅不勝德。古者良守、蝗避其境、謂脩德可免、彼將無德致然乎。今坐視食苗、忍而不救、因以無年、刺史其謂何?」若水懼、乃縱捕、得蝗十四萬石。

 しかし、捕蝗使による蝗の駆除には、中央・地方を問わず官僚からも反対意見が多く、被災地の一つである汴州の刺史・倪若水は捕蝗使の受け入れを拒み、前趙の劉聰も蝗の駆除をはかったが失敗し、かえって被害が拡大したことをあげて、蝗害は天災なので君主が徳を修めるしか対処方法はないと反対した。これに対して姚崇は「劉聰は正統な天子じゃないから災異に勝てるほど徳がなかったけど、いまは正統な天子の御代だろ? それに徳を修めりゃ蝗が来ないなら、お前んとこに蝗が来るのは何でなんですかねぇ…?」と、あくまでも当時の天人相関説的価値観の文脈に沿いつつ、強烈なブーメランで相手を黙らせる。倪若水もやむなく従うことになり、結果14万石(約1万t)もの蝗を捕らえることができたという。

 

 『旧唐書』巻三十七 五行志 蝗旱の条

 開元四年五月、山東螟蝗害稼、分遣御史捕而埋之。汴州刺史倪若水拒御史、執奏曰「蝗是天災、自宜修德。劉聰時、除既不得、為害滋深。」宰相姚崇牒報之曰「劉聰偽主、德不勝妖。今日聖朝、妖不勝德。古之良守、蝗蟲避境、若言修德可免、彼豈無德致然。今坐看食苗、忍而不救、因此饑饉、將何以安?」卒行埋瘞之法、獲蝗一十四萬、乃投之汴河、流者不可勝數。朝議喧然、上復以問崇、崇對曰「凡事有違經而合道、反道而適權者、彼庸儒不足以知之。縱除之不盡、猶勝養之以成災。」帝曰「殺蟲太多、有傷和氣、公其思之。」崇曰「若救人殺蟲致禍、臣所甘心。」

 また、『旧唐書』五行志によれば、このときの蝗の死骸はただ農地に埋めて終わりではなく、汴河に流して処理したという。「流者不可勝數」という表現からその惨状が察せられる。

 姚崇の剛腕は現代人の目から見れば多少乱暴ながらも合理的だが、当時は中央でも問題視されたらしく、朝議では非難続出、玄宗(『新唐書』姚崇伝では黄門監の虞懐慎)からも「虫を殺しすぎると陰陽の気の調和が乱れるだろ!」と、陰陽の気の調和が乱れることでさらなる災害の発生が危惧されるという、あくまでも天人相関説的文脈の上で叱られるが、これによって禍が下るなら自分が甘受しようと豪胆な返答。当時の人としては相当開明的だったのではないか。

 さて、魏有裕は架空の人物だが、彼のモデルともいうべき、実際に捕蝗使を拝命したのはどのような人物だったのだろうか。

  八月四日、敕河南・河北檢校捕蝗使狄光嗣・康瓘・敬昭道・高昌・賈彥璿等、宜令待蟲盡而刈禾將畢、即入京奏事。

旧唐書』五行志に記されているのは、狄光嗣、康瓘、敬昭道、高昌、賈彥璿ら。彼らの他の活動は管見の限り史料上には見えないが、おそらく当時は御史として捕蝗使を兼任していたのだろう。康瓘はその姓からも判るようにソグド系である。ソグド人の多い河北を巡察するにはソグド系の御史もいた方が都合が良かったのだろうか。

 彼らは蝗の駆除と穀物の刈り入れが終われば長安に戻って報告するよう命じられており、この職掌からも臨時的な任命であることがうかがえる。

 捕蝗使による駆除にどれだけの効果があったかについては、『旧唐書』韓思復伝に詳しい。

 『旧唐書』巻一百一 韓思復伝

 開元初、為諫議大夫。時山東蝗蟲大起、姚崇為中書令、奏遣使分往河南・河北諸道殺蝗蟲而埋之。思復以為蝗蟲是天災、當修德以禳之、恐非人力所能翦滅。上疏曰「臣聞河南・河北蝗蟲、頃日更益繁熾、經歷之處、苗稼都損。今漸翾飛向西、游食至洛、使命來往、不敢昌言、山東數州、甚為惶懼。且天災流行、埋瘞難盡。望陛下悔過責躬、發使宣慰、損不急之務、召至公之人、上下同心,君臣一德、持此誠實、以答休咎。前後驅蝗使等、伏望總停。書云『皇天無親、惟德是輔。人心無親、惟惠是懷。』不可不收攬人心也。」上深然之、出思復疏以付崇。崇乃請遣思復往山東檢蝗蟲所損之處、及還、具以實奏。崇又請令監察御史劉沼重加詳覆、沼希崇旨意、遂箠撻百姓、迴改舊狀以奏之。由是河南數州、竟不得免。思復遂為崇所擠、出為德州刺史、轉絳州刺史。

 捕蝗使を派遣しても河北・河南における被害は一向減らず、穴埋め方法でも駆除しきれなかったようだ。韓思復の上奏も当時の常識人らしく、被災地を見舞い、不要不急の政務をやめて公正な人事を行い、君臣心を一つにして徳を修め、捕蝗使(ここでは「駆蝗使」とされている)をすべて廃止することで民心を安定させようと提案している。捕蝗使の廃止については、穴埋め方法を続ける限り農地を掘り返すことになるので、作物に影響が出ることを民衆は嫌ったのだろう。先の倪若水が彼らの受け入れ拒否をしていたのも、単純に天人相関説に基づいた対策をすべきと考えていただけでなく、汴州の農民を思ってのことと考えるべきだろうか。

 韓思復の献言は容れられ、望みどおり彼自身が被災地に赴き、被災状況を朝廷に報告するが、この後に姚崇の意向を受け、捕蝗使を兼任した御史たちの上司である監察御史の劉沼が重ねて巡察することになる。巡察先ではおそらく穴埋め方法の成果を得られなかったのだろう、姚崇に都合の悪い現状を握りつぶすべく、民衆を鞭打ってまでして成果があったかのような偽りの上奏をしている。このため、河南の数州では蝗害を受けたうえに農地を掘り返され、しかも朝廷に被害が甚大ではないと誤認されて租税の減免対象からも外されるという散々な目に遭っている。この件で姚崇ににらまれた韓思復も徳州刺史へ左遷されており、これらの捕蝗使にまつわる一連のエピソードは、名宰相・姚崇と開元の治という輝かしい光の陰を浮き彫りにしているようだ。

 

「黄飛蝗」の登場人物たちはあくまでも僕たちにも受け入れやすい現代的・科学的な価値観で描かれている。しかし、史実は小説ほど表面的な「奇」はないが、現代人の目からは小説よりよほど「奇」な価値観にあふれていて面白い。魏有裕にとっての蝗害との戦いは、姚崇にとっては旧弊との戦いだったと評したくなるのは、きっと僕が現代的な価値観に縛られているからだろう。

奥さん、アリジゴクですよ。

『北夢瑣言』逸文巻第四「砂俘」

 陳藏器本草云「砂俘、又云倒行拘子、蜀人號曰俘鬱。旋乾土為孔、常睡不動。取致枕中、令夫妻相悦。」愚有親表曽曽得此物、未嘗試験。愚始游成都、止於逆旅、與賣草藥李山人相熟、見蜀城少年往往欣然而訪李生、仍以善價酬。因詰之、曰「媚薬。」徴其所用、乃砂俘。與陳氏所説、信不虚語。李生亦祕其所傳之法、人不可得也。

 陳藏器の『本草』がいうところには「砂俘(アリジゴク)は又の名を倒行拘子といい、蜀の人は俘鬱と呼ぶ。乾いた土に潜って巣穴をつくり、常に眠って動かない。これを取って枕に入れれば、夫婦の悦びいや増すばかり」という。孫光憲の親戚にもこれを手に入れた者がいたが、試したことはないという。孫光憲がはじめて成都へ遊んだとき、宿屋で薬草売りの李山人という者と親しくなったが、いつもまちの若者たちがうきうきと彼を訪っては高値で何かを買っていく。何を売っているのか尋ねてみれば「媚薬」とのこと。どんな媚薬かといえばアリジゴクを用いているそうだ。陳藏器の説くところもまんざら嘘ではないらしく、李山人も媚薬の製法を秘密にしているため、余人はうかがい知れぬのだ。

 

 この説話を読んではじめて知ったけど、アリジゴクのことを孫光憲が生きた五代(「愚始游成都」は孫光憲の仕官前のことと考えられるので、おそらく唐末の話だろう)の人々は「砂俘」、すなわちスナのトリコと呼んでいたんですね。すごく的確なネーミング。

 唐末の成都にはアリジゴクの媚薬を売るうさんくさい行商がおり、それを喜んで買う若者も大勢いたという一幕ですね。

 しかしアリジゴクを枕のなかに入れるだけで催淫効果があるって、どんなメカニズムなんだ…。

五人の伍子胥

 呉王夫差から死を賜り、亡骸を馬の革袋に入れて長江に流されるという無念の最期をとげた伍子胥は、死後、胥山に祀られたが、長江のたたり神として後年も恐れられていたらしい。

 

後漢書』巻44 鄧張徐張胡列伝第34 張禹の条

 建初中、拜楊州刺史。當過江行部、中土人皆以江有伍子胥之神、難於濟涉。禹將度、吏固請不聽。禹厲言曰「子胥如有靈、知吾志在理察枉訟、豈危我哉?」遂鼓楫而過。

 後漢の張禹は揚州刺史として赴任する際、中原の人びとに伍子胥の神がいるから長江は渡れないと止められ、

 

『隋書』巻55 高勱伝

 後拜楚州刺史、民安之。先是、城北有伍子胥廟、其俗敬鬼、祈禱者必以牛酒、至破產業。勱歎曰「子胥賢者,豈宜損百姓乎?」乃告諭所部、自此遂止、百姓賴之。

 隋の高勱は任地の楚州で、牛酒をもって鬼神を祀る伍子胥廟の祭祀をやめさせている。

 

旧唐書』巻89 狄仁傑伝

 吳・楚之俗多淫祠、仁傑奏毀一千七百所、唯留夏禹・吳太伯・季札・伍員四祠。

旧唐書』巻156 于頔伝

 吳俗事鬼、頔疾其淫祀廢生業、神宇皆撤去、唯吳太伯・伍員等三數廟存焉。

 しかし唐代に至っても伍子胥信仰の熱は冷めやらず、中原から見ると淫祀邪教の巣窟のように見られていた江南では、狄仁傑や于頔による弾圧を免れ、呉太伯信仰などと並んで存続を許される部類ではあったようだ。

 

『宋史』巻298 馬亮伝

 歷知虔洪二州・江陵府、再遷尚書工部侍郎、復知昇州、徙杭州、加集賢院學士。先是、江濤大溢、調兵築堤而工未就、詔問所以捍江之策。亮褏詔禱伍員祠下、明日、潮為之却、出橫沙數里、隄遂成。

 伍子胥信仰は宋代にも続いており、杭州での築堤工事の際に、知杭州の馬亮は伍員祠に祈ることで銭塘江の氾濫を鎮めている。

 

 そんな中原にも広く知られる長江の(さらに宋代には銭塘江にも波及していた)たたり神として、長きにわたり影響力をふるっていた伍子胥だが、唐五代時期の江陵のとある村では、信仰の形態が変容していたらしい。

 

『北夢瑣言』逸文補遺「五髭鬚」

 江陵有村民事伍子胥神、誤呼「五髭鬚」。乃畫五丈夫、皆鬍腮、祝呼之祭云「一髭鬚」、「二髭鬚」、「五髭鬚」。

 伍子胥神を誤って「五髭鬚」と呼び、5人のアゴヒゲ男を描いて祀り、「一ヒゲ」「二ヒゲ」「五ヒゲ」などとカウントしていたとのこと。

 当時の発音は解らないが、現代中国語では伍子胥(wu zi xu)と五髭鬚(wu zi xu)であり、おそらく「伍子胥」の名が「五髭鬚(五人のヒゲおやじ)」として訛伝したものだろう。いかにも田舎らしい素朴な信仰だが、怒んないんですかね伍子胥…。

 

 


髭 - ロックンロールと5人の囚人【MUSIC VIDEO(Short Ver)】

 

龍の敗者

『北夢瑣言逸文』巻4「闘龍」

 石晋時、常山帥安重栄将謀干紀、其管界与刑台連接、闘殺一龍。郷豪有曹寛者見之、取其双角、前有一物如簾、文如乱錦、人莫知之。曹寛経年為寇所殺。壬寅年、討鎮州、誅安重栄也。葆光子読北史、見陸法和在梁時、将兵拒侯景将任約於江上、曰「彼龍睡不動、吾軍之龍甚自踴躍。」遂撃之大敗、而擒任約。是則軍陣之上、龍必先闘。常山龍死、得非王師大捷、重栄授首乎。黄巣敗於陳州、李克用脱梁王之難、皆大雨震雷之助。

 後晋の鎮州節度使であった安重栄が謀叛をたくらんでいたとき、領内で一匹の龍を殺した。曹寛という土地の有力者がその角を拾ったところ、簾のようなものが垂れ下がり、錦のような文様があったが誰もこれが何か知らなかったという。曹寛は翌年、賊に殺され、安重栄も壬寅の年(天福7〔西暦942〕年)に後晋軍に討たれてしまった。『北史』の陸法和伝には、陸法和が梁に仕えていたとき、侯景の部将任約と長江で対峙し、「かの龍は眠って動かず、わが軍の龍は自ずから勇躍す」と語り、ついに敵を大いに破り、任約を捕らえたとある。つまり軍陣の上では、龍同士が先に闘い、決着がつくということで、鎮州の龍が死んだいま、王師が大勝し、安重栄の首がもたらされるのは当然のことであろう。黄巣が陳州で敗れたときや、李克用が上源駅で朱全忠の暗殺から逃れたときも、豪雨と落雷の助け―つまり龍の助けがあったのだ。

 

 孫光憲(葆光子)が引くところの『北史』陸法和伝の該当箇所は次のとおり。

『北史』巻89「芸術伝上・陸法和条」

 至赤沙湖、与約相対、法和乗軽船、不介冑、沿流而下、去約軍一里乃還。謂将士曰「聊観彼龍睡不動、吾軍之龍、甚自踊躍、即攻之。若得待明日、当不損客主一人而破賊、然有悪処。」遂縱火船、而逆風不便、法和執白羽扇麾風、風即返。約衆皆見梁兵步於水上、於是大潰、皆投水。

 陸法和とは梁から北斉に仕えた人物で、「諸蛮弟子八百人」を率いる宗教的軍事集団の長であったようだ。自らを「居士」「求仏之人」と称し、沙門の体裁だったというから仏僧のようだが、死後は尸解し、予知能力や風向きを変えるなど「奇術」を得意とする、道仏混合の妖人である。僕はこの「闘龍」の記事ではじめて知ったのだけれど、かなり面白そうな人物なので、改めて彼の伝も読んでみたい。

 さて、そんな妖人陸法和は彼我の龍を観ることで勝敗を読んだようだが、これが彼の「奇術」なのか、自らの弟子たる将士への叱咤激励なのかは解らない。ただ、劉邦の蛇退治の説話もあるように、龍は個人や集団の興廃を象徴するシンボルとして、少なくとも孫光憲の生きた五代宋初までは認識されていたらしい。自ら龍を手にかけた安重栄は自滅の道を進んだということか。

『北夢瑣言』では安重栄のような豪傑から子どもまで、色々な人の龍殺しエピソードがあるが、武将にはみな龍の相棒がおり、その強弱や生死によって武将本人の勝敗も左右されるという、少年マンガのような「闘龍」の世界観が個人的には一番面白い。

唐五代のラクダ部隊とソグド系武人

f:id:ano_hacienda:20160929002006j:image

f:id:ano_hacienda:20160929002201j:image

f:id:ano_hacienda:20160929002246j:image

高校時代、中国へ旅行に行ったとき、万里の長城で観光客向けの記念撮影用のラクダを見かけて度肝を抜かれた憶えがある。動物園のような柵のなかではなく、飼い主と思しき人間の傍らにしれっとたたずんでいたこともさりながら、当時の僕は、ラクダという生き物は砂漠に住んでいるものだとばかり思っていたのだ。

しかし史書を繙いていると、「駱駝」「駞」「槖陀」などと表記されるラクダは、漠北や西域のみならず、いわゆる中原と呼ばれるような中華世界の中心部まで幅広く顔をのぞかせていることに気づく。

とくに漠北西域へ勢力を伸長し、シルクロード交易も隆盛を極めた唐代では、遊牧民や西域諸国からの朝貢品、あるいは戦争による鹵獲物としてのラクダが史料上に散見するだけでなく、宮中で乗馬等を管理する閑廄使には馬のほかにラクダや象までいたというし、オルドスに設置された監牧でもラクダを飼養していたことがうかがえる。

何よりラクダは唐三彩など陶器のモチーフとして代表的であり、博物館では彼らを牽くソグド人とのセットで、現代日本人にもおなじみだ。ソグド人は唐代にはシルクロードや国際都市・長安から、揚州など江淮までネットワークを広げていたと考えられており、おそらく「ラクダを牽くソグド商人」の姿は、唐代では日常にすっかり溶け込んでいたのではないだろうか。

 

さて、運搬力に優れるラクダは、軍事の場面では輜重隊としての利用が見込まれる。

ソグド商人にとってラクダが良き相棒だったように、唐五代に活躍したソグド系武人にも、ラクダと密接な関わりを持つ者が存在する。

旧唐書』巻200上 史思明伝

自祿山陷兩京、常以駱駝運兩京御府珍寶於范陽、不知紀極。

洛陽・長安を陥した安禄山は宮中の財宝をラクダに載せて、本拠地である范陽まで運んだという。ソグド系突厥である安禄山はソグドネットワークを利用していたことがつとに指摘されているが、彼のロジスティクスを支えていたのも、こうしたネットワークとキャラバン隊だったのだろう。

 

また、ラクダが輜重隊以外の活躍を見せた例として、後周世宗による南唐攻略があげられる。 

『旧五代史』巻117 周書8 世宗本紀4 顕徳4年11月条

丙戌、車駕至濠州城下。戊子、親破十八里灘。砦在濠州東北淮水之中、四面阻水、上令甲士數百人跨以濟。今上以騎軍浮水而渡、遂破其砦、擄其戰艦而迴。

濠州城攻略の際、後周軍は重装兵をラクダに載せて淮水を渡らせていたが、そのラクダ部隊を率いていたのが「康保裔」という世宗の側近の武人である。

資治通鑑』巻293 後周紀4 顕徳4年11月条 

戊子、帝自攻之、命內殿直康保裔帥甲士數百、乘橐駝涉水、太祖皇帝帥騎兵繼之、遂拔之。

「康」というソグド姓を冠していることから、彼がソグド系であることは間違いなく、やはりラクダの扱いに長けていたのだろうか。康保裔率いる重装ラクダ騎兵は趙匡胤率いる騎兵部隊の前衛として先陣を切っている。主力騎兵の渡河をサポートするために重装備の兵士を先行させたものと考えられるが、彼らを渡河させるには馬より運搬力に優れるラクダが望ましく、ラクダの扱いに長けていたソグド系の康保裔が指揮官として抜擢されたのだろう。

 

上記のほかにラクダと関わりを持っていたソグド系武人としては、唐代の魏博節度使に仕えていた米文辯もあげられる。

『唐・魏博節度歩軍左廂都知兵馬使米文辯墓誌銘』*1

署左親事・馬歩廂虞候・兼節度押衙、又管在府西坊征馬及駞坊騾坊事。

「米」というソグド姓を冠する米文辯は、安史軍残党が創設し、複数のソグド系節度使が君臨した魏博に仕えており、一時期魏博の中核に存在したと思しきソグド系武人集団の一員と考えられる。おそらく「馬歩廂虞候」の職責かと思われるが、会府である魏州の西坊において馬軍の戦馬と、駞坊のラクダ、騾坊のラバを管理していたのだろう。

米文辯が管理していたラクダが戦闘用として利用されたのか、または輜重隊として利用されたのかは不明だが、唐末の魏博節度使は河南の後梁と山西の沙陀集団の間に挟まれ、当初、後梁に従属していた。

資治通鑑』巻265 唐紀81 天祐3年条

全忠留魏半歲、羅紹威供億、所殺牛羊豕近七十萬、資糧稱是、所賂遣又近百萬、此去、蓄積為之一空。

九月、辛亥朔、朱全忠自白馬渡河、丁卯、至滄州、軍於長蘆、滄人不出。羅紹威饋運、自魏至長蘆五百里、不絕於路。又建元帥府舍於魏、所過驛亭供酒饌・幄幕・什器、上下數十萬人、無一不備。

当時の節度使羅紹威は河朔に展開していた後梁軍の輜重を担っており、数十万の将兵に不足を感じさせなかったといわれるほど大量の食料物資を供給している。

この羅紹威の驚異的なロジスティクスを支えていたのが、「駞坊」のラクダであり、米文辯のようなラクダの扱いに長けたソグド系武人だったのではないだろうか。

後年、魏博節度使は沙陀集団に寝返り、その精鋭部隊である銀槍効節都を取り込んだことが後梁打倒に大きく資したといわれているが、河朔における沙陀の活動を輜重面から支えたことも、勝因のひとつとなったのかもしれない。

ラクダとソグドが歴史を転回させたのではと想像すると、月の沙漠を闊歩するのとはまた別のロマンが感じられる。

*1:釈文は森部豊『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史的展開』資料5より引用。