管崇嗣の放埓~安史の乱点描(1)
遊牧世界と農耕世界にまたがる新王朝を樹立せんとする強大な北方のカリスマ安禄山と史思明の反乱により帝都長安は陥落、老いた玄宗は愛する楊貴妃を縊り殺して蜀へ落ちのび、父や楊氏一門と確執をかかえる皇太子・李亨は、長安回復の兵を集めるため父と袂を分かち、わずかな供回りをつれて朔風吹きすさぶオルドスの霊武をめざした。潼関の戦いで主力軍が壊滅した唐朝では、この北辺の地に駐屯する朔方軍がまとまった兵力としては最大のものであったからだ。
霊武で即位した皇太子(粛宗)のもとに馳せ参じるは、朔方軍をひきいる人格・戦歴ともにすぐれた名将・郭子儀、彼によって派閥をのりこえ抜擢された教養ゆたかな契丹族の驍将・李光弼、ウィグルと婚姻関係をむすび援兵を借りた功労者にして、のちに叛旗をひるがえすことになる反骨のテュルク系武人・僕固懐恩、粛宗の幼なじみで嵩山に隠遁していた天才軍師・李泌、と多士済々。これもうアルスラーン戦記だろってくらいに設定がアツい。
しかし現実の亡命政権はダリューンやナルサスのような少数精鋭で成り立つはずがなく、粛宗の行在にはどうしようもない人材もいたようだ。
『旧唐書』巻131 李勉伝
至德初、從至靈武、拜監察御史。屬朝廷右武、勳臣恃寵、多不知禮。大將管崇嗣於行在朝堂背闕而坐、言笑自若、勉劾之、拘於有司。肅宗特原之、歎曰「吾有李勉、始知朝廷尊也。」
至徳の初年(756)、李勉は粛宗に従って霊武に赴き、監察御史に任ぜられた。ときに朝廷は武事を尊んでいたので、功績ある将軍たちは君寵を頼んで無礼な者が多かった。大将の管崇嗣は行在の朝堂において宮闕に背中を向けて座り、のんびり談笑していたので、李勉はこれを弾劾し、有司に身柄を拘束させた。粛宗は特別にこれを赦して、嘆息した。「わたしは李勉がいることで、はじめて朝廷の尊厳を知ったぞ」
礼儀知らずの放埓な将軍である管崇嗣。オルドスのいなかに立てた朝廷では、ほんらい朝廷にあるべき厳粛さも綱紀もなく、力がものをいい、粛宗を護衛してきた彼のような土くさい武人たちが幅を利かせていたのだろう。
粛宗の亡命政権は当初、朔方軍のほかには、側近宦官の李輔国のように長安脱出時から彼に付き従う者や、玄宗と袂を分かったときにわけあたえられた兵、霊武におちつくまでに合流してきた潼関の戦いの敗残兵などから成る寄り合い所帯なので、当然人材も払底しており、粗野で無礼であろうとも実力のある武官は重宝されていたようだ。
管崇嗣は新旧唐書に立伝されていないため詳細な経歴は不明だが、潼関の戦いの際、哥舒翰の部将として名が見えるので、河西か隴右、または朔方いずれかの藩鎮のそれなりの地位にある軍将だったのだろう。また、火抜帰仁以下の「蕃将」と区別されているため、辺境で戦ってきた野人のような男ではあるが、漢人であることが確認できる。
『旧唐書』巻104 哥舒翰伝
及安祿山反、上以封常清・高仙芝喪敗、召翰入、拜為皇太子先鋒兵馬元帥、以田良丘為御史中丞、充行軍司馬、以王思禮・鉗耳大福・李承光・蘇法鼎・管崇嗣及蕃將火拔歸仁・李武定・渾萼・契苾寧等為裨將、河隴・朔方兵及蕃兵與高仙芝舊卒共二十萬、拒賊於潼關。
安禄山の反乱に際し、玄宗は封常清、高仙芝が敗れると、哥舒翰を召して、皇太子の先鋒兵馬元帥に任じ、田良丘を御史中丞として行軍司馬に充て、王思礼、鉗耳大福、李承光、蘇法鼎、管崇嗣および蕃將の火抜帰仁、李武定、渾萼、契苾寧らを部将として、河西・隴右節度使や朔方節度使の兵及び蕃兵、高仙芝の残兵あわせて二十万の大軍をひきいて、潼関で賊を防がせることにした。
潼関の戦いで敗れて逃げ帰ったのち、粛宗の行在へ合流したのだろう。管崇嗣の行在でのふるまいを見ると、彼が属していた蕃漢入り混じる荒々しい武弁だらけの辺境藩鎮では、節度使に対してかしこまった礼儀もなく、集まればみな自由に戦功を誇ったりゲラゲラ大笑いしていたのかもしれないし、そちらの方が礼儀に縛られた朝廷より人間らしい気もする。
しかし管崇嗣の粗相はこれだけでない。
兵力を蓄えた粛宗政権が行在を霊武から長安に近い鳳翔へ移し、いざ出兵というときに、またしても失敗してしまうのだ。
元帥廣平王領朔方蕃漢兵號二十萬來收長安、出辭之日、百僚致謁於朝堂。百僚拜、答拜、辭亦如之。王當闕不乘馬、步出木馬門而後乘。管崇嗣為王都虞候、先王上馬、真卿進狀彈之。肅宗曰「朕兒子每出、諄諄教誡之、故不敢失禮。 崇嗣老將、有足疾、姑欲優容之、卿勿復言。」乃以奏狀還真卿。
天下兵馬元帥である広平王俶が朔方軍の二十万と号する蕃漢の兵をひきいて長安を回復することになり、出陣の日、百官が朝堂で拝謁した。百官が拝礼し、王が返礼する。あいさつはこのように進んだ。宮闕を出るにあたり王は馬に乗らず、歩いて木馬門を出て、そののち乗馬した。管崇嗣は王の都虞候であったにもかかわらず、王より先に馬に乗ったため、顔真卿は上奏してこれを弾劾した。粛宗は「朕の子どもたちには、宮外に出ることがあるたびに諄々と教誨していたので、あえて礼を失わなかったのだろうが、崇嗣は老将で足も悪い。しばらく見逃してやってほしい。卿はもう言上しないでくれ」といって、弾劾文を顔真卿へ差し戻した。
粛宗の長男でのちに代宗となる広平王の出陣の儀の一場面。都虞候は藩鎮機構におけるMPのような軍職であり、当然、広平王ひきいる行営軍でも中枢に位置していたであろうから、立場上ありえない非礼である。しかし霊武から自分に付き従ってくれている、この粗野ではあるが、苦楽をともにした忠実な将軍に、粛宗はずっと目をかけていたのだろう。御史大夫として唐朝の権威に泥をぬるような人物に目を光らせる顔真卿の弾劾をかわす言辞にも、管崇嗣へのいたわりが感じられる。
『旧唐書』巻120 郭子儀伝
上元元年九月、以子儀為諸道兵馬都統、管崇嗣副之、令率英武・威遠等禁軍及河西・河東諸鎮之師、取邠寧・朔方・大同・橫野、徑抵范陽。詔下旬日、復為朝恩所間、事竟不行。
上元元年(760)九月、郭子儀を諸道兵馬都統、管崇嗣をその副官とし、英武軍・威遠軍などの禁軍や河西・河東の諸藩鎮の兵をひきいて、邠寧節度使・朔方軍・大同軍・橫野軍を経て、ただちに范陽を衝かせようとした。詔が下ってすぐに、また魚朝恩に阻害され、さたやみとなってしまった。
史思明の勢力が盛り返してきた時期、官軍の実質的総大将の任を解かれていた郭子儀に再び天下の兵をひきいさせ、その副官には管崇嗣を添えて、史思明の本拠地である范陽を衝かせようと企図していたことからも、粛宗がいかに彼を重視していたかがわかる。
翌上元二年(761)、哥舒翰の旧将から粛宗の亡命政権へ合流し重用されるという管崇嗣とよく似た経歴の(しかしずっと出世している)王思礼が、史思明に対する北の抑えたる河東節度使として太原に鎮していたが、その死没にともない、後任として管崇嗣が抜擢される。
『旧唐書』巻111 鄧景山伝
太原尹・北京留守王思禮軍儲豐實、其外又別積米萬石、奏請割其半送京師。屬思禮薨、以管崇嗣代之、委任左右、失於寬緩、數月之間、費散殆盡、唯存陳爛萬餘石。上聞之、即日召景山代崇嗣。及至太原、以鎮撫紀綱為己任、檢覆軍吏隱沒者、眾懼。有一偏將抵罪當死、諸將各請贖其罪、景山不許、其弟請以身代其兄、又不許、弟請納馬一匹以贖兄罪、景山許其減死。眾咸怒、謂景山曰「我等人命輕如一馬乎?」軍眾憤怒、遂殺景山。
太原尹・北京留守の王思礼の軍資は豊富で、そのほかに別に一万石もの米穀をたくわえており、その半ばを割いて京師に送りたいと奏請していた。たまたま思礼が没し、管崇嗣がこれに代わってからは、側近にすべて任せ、軍政が寛容に過ぎたため、数ヶ月で軍資をほとんど浪費してしまい、ただ腐った米穀だけが一万余石残された。粛宗はこれを聞いて、すぐに鄧景山を召し出して崇嗣の後任とした。景山は太原に至るや、綱紀の粛清に奔走し、軍資を隠匿する軍吏を検断したため、みな懼れた。ある部将は死罪に値する罪をおかしていたが、諸将がみな彼の罪を贖うことを望んでも景山は許さず、その弟が兄の身代わりに処刑されることを求めてもまた許さなかったが、弟が兄の贖罪として馬一頭を納めたいと願うと、景山は死罪を減ずることを許した。みな怒り、景山にいった。「われらの人名は一頭の馬のように軽いのか!?」士卒は激怒し、ついに景山を殺してしまった。
何かにつけルーズな管崇嗣は、前任者が余剰分を京師へ仕送りしようとしていた軍需物資の扱いを側近に任せ、盛大に放出してしまう。藩鎮士卒に横流しされ、あっという間に底を尽いてしまったので、さすがの粛宗も彼を更迭し、廉直な節度使経験者である鄧景山をこれに代えた。礼儀に縛られない放埓な武弁である管崇嗣とは対極の四角四面で倹約家の文臣である。しかし厳酷で人を人とも思わないような景山の軍政は、軍士の支持を失い、兵変を招くことになってしまう。
管崇嗣に節度使としてすぐれた資質があったわけではないが、彼は長年辺境の藩鎮にいただけあって、その軍士たちの気質を知りぬいていた。否、彼の放埓、粗野、驕慢こそが藩鎮軍士たちの気質を体現していたために、巧みに彼らの意を迎え、軍政は弛緩すれども、その命だけはまっとうしたのだろう。
更迭後の管崇嗣については、粛宗を継いだ代宗が、安史勢力の最後の巨魁である史朝義の追討について禁軍幹部に諮った際に登場するのが最後である。
『新唐書』巻225上 逆臣伝上 史朝義条
代宗召南北軍諸將問所以討賊計、開府儀同三司管崇嗣曰「我得回紇、無不勝。」帝曰「未也。」右金吾大將軍薛景仙曰「我若不勝、請以勇士二萬椎鋒死賊。」帝曰「壯矣!」
代宗が南北の禁軍諸将を召して史朝義を討つ軍略を諮った。開府儀同三司の管崇嗣は「わしはウィグルの援兵さえ得れば、勝たぬことはありませんな」といい、帝は「ないのう」と応えた。右金吾衛大将軍の薛景仙は「わたしはもし勝てねば、勇士二万人をひきいて突撃し賊を殺してみせましょう」と豪語し、帝は「いさましいことよ!」といった。
管崇嗣の提案もいまさらだし、代宗の返答もほかに比べてぞんざいである。注目したいのは、これは禁軍の幹部への諮問であり、薛景仙の肩書は「右金吾(衛)大将軍」という禁軍の職事官だが(なお、この後におなじ「右金吾大將軍」の「長孫全緒」も返答しており、どちらかは「左」金吾衛大将軍の誤りではないかと思う)、管崇嗣の肩書が従一品の文散官である開府儀同三司である点だ。禁軍で実際に軍職に就いていなかったのか。散官もなぜ武散官ではないのか。
苦難の時代を支えたことから粛宗には寵愛されたが、たいした実績もなく、人柄も厳粛な朝廷には相応しくない管崇嗣は、代宗の御代には軍事の実権はあたえられず、位階だけ進めて形ばかりの元老として、腫れ物のように扱われていたのではないか。
これは僕の妄想でしかないが、伝世史料中に残るわずかな管崇嗣の記事を追っていくと、かつてオルドスの朔風吹き抜ける行在で笑声に揺らした背中を丸め、悄然と宮中を歩く老人の姿を見るような思いがするのである。
釣りキチと龍と魚たち
例によって久々に『北夢瑣言』を読んでいたら変な記事を見つけたので、以下に紹介する。
『北夢瑣言』逸文巻第四 釣魚見龍
李宣宰陽縣、縣左有潭、傳有龍居、而鱗物尤美。李之子惰學、愛釣術、日住潭上。一旦龍見、滿潭火發、如舒錦被。李子褫魄、委竿而走。蓋釣術多以煎燕為餌、果發龍之嗜慾也。
李宣が陽県の県令であったとき、県の東側の淵には龍が棲み、鱗ある物のなかでも最たる美しさだと言い伝えられていた。李の子は学問をおこたり釣りを好んで、日々その淵へ通っていたが、ある日、龍があらわれ、淵に錦のふとんをひろげるようにぎらぎらとした炎をまきおこした。李の子は魂消て、釣竿を放って逃げだした。一般に釣りでは焼いたツバメの肉を餌とすることが多いが、案の定、龍の食欲を刺激してしまったのだろう。
李宣の子が釣り餌としていたと思しき「煎燕」は、字のごとくツバメを焼いたり煮たりしたものらしいが、いやいやいや、おかしくない?
焼いたツバメの肉が釣り餌として一般的だったと、孫光憲はあたりまえのように記すが、これを素直に受け取るのは現代日本人には抵抗がある。虫に比べて採取に手間がかかりすぎるし、コスパも悪いだろう。
しかし唐五代に一般的に普及していた釣り餌というニッチな事物を当時の史料から探し出すのは困難を極めるが、孫光憲と同時代の五代に成立した『玉堂閑話』には、渭水の釣り人が焼いたツバメの肉で釣りをする説話が見える(テキストは『太平広記』から拾っています)。
『太平廣記』巻第一百一 釋證三 渭濱釣者
清渭之濱、民家之子、有好垂釣者。不農不商、以香餌為業、自壯及中年、所取不知其紀極。仍得任公子之術、多以油煎燕肉置於纖鉤。其取鮮鱗如寄之於潭瀨。其家數口衣食、綸竿是賴。…(後略)
渭水の岸辺の家の子で、釣りを好む者がいた。野良仕事も商いもせずに、かぐわしい餌での魚釣りを生業としていた。壮年から中年にかけては、釣りに出れば魚をとること終わりが見えぬほどであった。そこで伝説上の釣り人である任公子のわざを会得し、ツバメの肉の油焼きを餌として細い釣り針にしかけるようになった。鮮魚を釣りあげることは、水際に魚を集めるかのようであり、その家族数人の衣食は彼の釣り竿でまかなわれていた。…(後略)
任公子は『荘子』外物編に見える釣り人で、五十頭の牛を餌に巨大な釣り竿で大魚を釣ったといわれる伝説の釣りキチである。「任公子之術」というのは五十頭の牛で大魚を釣るような奇天烈な技術、一種の方術のようなものとも聞こえるが、孫光憲が生き、『玉堂閑話』が成立した五代には、釣りキチの間では「焼いたツバメの肉で爆釣するらしいぜ」という迷信が流れていたのではないか。孫光憲が釣りキチだったかはわからないが、通ぶって「蓋し釣術は多く煎燕を以て餌と為す」などと調子のいいことを書いたに違いない。
唐代の釣り餌については、中村治兵衛氏が上掲の説話や詩から「香餌」「芳餌」と称される餌を釣り針につけていたことを論じているが、具体的な餌の事例は上掲の焼いたツバメ肉のみである。*1「香餌」「芳餌」というのは単なる餌の美称の可能性もあるが、当時の釣りキチたちの観念上では、上等な釣り餌はかぐわしい匂いで魚をひきつけることが期待されていたのだろう。それは単なる虫ではありえない。油でこんがり焼かれた香ばしいツバメ肉。それこそ当時の釣りキチたちが考えていた至高の釣り餌であり、任公子の爆釣伝説と結びついて、「任公子之術」などと称する方術どころか与太話じみた釣りの秘訣が生まれたのではないだろうか。現代風にいえば「加藤鷹直伝のスローセックス術」みたいなものか。
「鱗物」という語が魚や龍などウロコをもつ生き物の総称であることからわかるように、伝統中国では龍は魚に近い生き物と見られていたようだ。『北夢瑣言』には数多くの龍にまつわる説話が収録されているが、その舞台はだいたい川や淵、はては井戸など水辺である。鯉が滝を登って龍になる「登龍門」の伝説や、龍が世を忍ぶ仮の姿として魚に化ける説話もあるし、李宣の説話もそういった意識のうえで成り立ったのだろう。
しかし、いくら上等な「香餌」であったとしても、魚の餌ごときに釣られてしまう龍は可愛らしくも情けない。それでいいのか、龍。もっと龍としてのプライドを持て、プライドを。
*1:中村治兵衛『中国漁業史の研究』刀水書房、1995
3日間でゴールデンカムイスタンプラリーを駆け抜けてみる~3日目
~3日目~
さて、いよいよ最終日となる3日目である。
本日は旭川市博物館からスタートし、網走監獄、釧路市立博物館を経て、阿寒湖温泉にあるアイヌコタンのアイヌシアターイコロまで、道北・道東をぐるっと巡ることになる。
予定ルートは次のとおり。
延べ431kmということで、今回の旅で最長距離を走ることになる。
アイヌシアターイコロは夜間も営業しているためゴール地点に設定。問題は最終入場が16時半の釧路市立博物館である。ここまででも旭川からの距離は350kmを超える。チェックインスポットの見学や食事に時間をとりすぎると樺戸博物館の二の舞になるだろう。もちろん寝坊は許されない。
幸か不幸か緊張のせいで眠りが浅かった僕は、今回だけは寝過ごすことなく、開館間もない朝9時に第8チェックインスポット旭川市博物館に到着した。やればできるじゃないか。
ARは鶴見中尉。
旭川博物館は小樽市総合博物館や北海道博物館同様、旭川の歴史と自然、アイヌ文化に関わる展示で構成されており、特色としては、旭川の「軍都」としての性格を垣間見れることか。
鶴見中尉たちも闊歩したであろう、師団通りの街並み。
おなじみマキリ。
多彩なトゥキパスイ(捧酒箸)。
原作ではアシリパのフチが穀物を刈り取るシーンに登場した貝包丁。内陸の上川でも使われていたらしい。
昭和レトロな横丁には旭川ラーメンの人気店蜂屋もあるが、さすがに朝は営業していないので別の店へ。
旭川のご当地グルメ、ゲソ丼発祥の店といわれる立ち食いそば屋天勇にて、月見そばとゲソ丼のセット。
飾り気のない質実剛健な朝食に「軍都」の面影を見るようだ、というのは言いすぎか。
10時頃に旭川を発ち、東のかた網走へ向かう。最終日で気合いが入っているのか、かなりいいペースだ。
第9チェックインスポット網走監獄に到着したのは13時頃のこと。
ARはやはりこの人、脱獄王・白石だ。
庁舎にはAR取得ポスターやお土産屋のほかにもこんなものもあった。
ッピュウ☆
野田サトル先生のサイン色紙とは、やっぱり網走監獄は優遇されてるんだな…!
網走監獄では膨大な量のマネキンで監獄として機能していた当時の様子を再現しており、今回のチェックインスポットのなかでは一、二を争う充実っぷり。
水門。
道路開削に駆り出された囚徒たちの休泊所。
いまにも脱獄しそうな連行場面。
食堂。
トイレ。
風呂場。
炊事場。
独房。
白石、ジャマ!!!
並んでると、どっちがどっちだか…。
五翼放射状平屋舎房。
全体像はとてもじゃないがiPhoneでは撮れなかった。
そして内部。
こうして凶悪犯たちが収監されていたわけだ。
白石も脱獄中。
網走監獄に来るのは今回で3度目だが、ARでの写真撮影をとおして、いままでとは違った楽しみ方ができた。インスタ蝿などと呼ばれて批判されがちだが、SNS映え写真を撮ることを目的とした旅というのも、目的意識を持って景色を見つめることになるので、漫然と見ていては気づかなかった土地の魅力の再発見に繋がるような気がする。
昼食は監獄食堂で臭い飯。
プラスチック皿の見た目も味も給食みたいだが、栄養バランスに配慮されているし、サンマは旬なので普通に美味い。あれ、もしかして僕より健康的な食生活では…?
昼食を済ませ、14時半頃に網走を後にして、釧路へ南下。
しかし2時間強で釧路までというのはさすがに無理があり、第10チェックインスポット釧路市立博物館到着は閉館後の17時であった。
ARは谷垣ニシパ。
入口付近の掲示板にARポスターが貼ってあったので閉館後でも取得できた。もしかしたらすべての施設でこういった救済措置が取られているのかもしれない。
しかし樺戸の轍を踏んでしまったのは悔しい。網走で長居しすぎたかな…。
せっかく釧路まで来たので、中途半端な時間ではあるが、気を取りなおして釧路グルメを食べに行く。釧路といえば魚介。店はこの港町を代表するグルメ回転寿司まつりやだ。
谷垣ニシパの好きな勃起……じゃない、ホッキ。瑞々しくてコリコリ歯応えがある。こいつぁヒンナだぜ。
道東産のサンマをチタタプしてオソマをのせた軍艦。これもとぉってもヒンナ。
個人的にまつりやは函館の函太郎と並んで、北海道のグルメ回転寿司の双璧だと思う。東京に進出したトリトンや花まるばかり注目されがちだが、博多ラーメン同様、本当に美味いものは現地にあるものだ。
寿司を軽くつまんでから、ゴールの阿寒湖アイヌコタンを目指し、北上する。
阿寒湖温泉街のアイヌコタンに到着したのは日も暮れた19時のこと。第11チェックインスポットのアイヌシアターイコロである。
最後のARはお食事アシリパさん。
やった、ついにコンプリートだ!
見学できなかった施設もあるけど、なんとか完走できた…!
イコロはアイヌ古式舞踊やイオマンテの火祭りを見ることができる劇場だ。20時開演の部まで時間があるため、観光に特化した現代のアイヌ集落であるアイヌコタンを散策する。
飲食店や土産屋が軒を連ねる夜のアイヌコタン。
実はここに、今回の旅で一番行きたかった店がある。
アイヌ料理が食べられる民芸喫茶ポロンノだ。
店内は木彫りなどアイヌ風の調度が並ぶカフェといった雰囲気。ゴールデンカムイ読者ならば一度はアイヌ料理を食べてみたいと思うだろうが、ポロンノへ行けばそれが叶うのである。
ユク(鹿)のオハウの定食を注文。チタタプはなかったが、やはりオハウはアイヌ料理の基本なのだろう。定食のメインを張っている。
セットのドリンクはシケレベ茶。身体に良さそう。
サイドメニューとしてポッチェイモも注文する。
こちらがユクセット。
オハウは鹿肉のほかにギョウジャニンニク、人参、ワラビ、キノコなど、山の幸がどっさり。シンプルな塩味のスープに鹿と野菜の旨味が溶け込み、滋味深い味わい。バターにも似た鹿肉や、独特なギョウジャニンニクの香りは苦手な人もいるかもしれないが、自然を直に味わっているような野趣を感じる。しかし複雑で濃厚な出汁文化にどっぷり浸かった濃い味好みな僕の舌には、出汁が薄いせいもあるのか、味に奥行きがないというか、どこか物足りなさも感じた。率直な感想が「これ、味噌を入れたらもっと美味くなるんじゃない?」ということ。
野田サトル先生も実際に食べて同じことを感じ、ああいうキャラ造形になったのかはわからないが、味噌の濃厚で複雑、刺激的な味を知った若いアシリパさんがオソマ狂いになるのも納得した。いまなら彼女の気持ちが舌で理解できる。
定食のご飯はアマムという素朴な豆入り炊き込みご飯。これに鮭の血合いの塩辛であるメフンをのせて食べる。以前食べたメフンは生臭くて苦手だったが、この店のものは塩辛さが突き抜けていて臭みを感じず、アマムが進む。ヒンナヒンナ。
シケレベ茶。シケレベがどんな木の実なのかまったくわからないが、ほのかに柑橘系の香りがして飲みやすい。胃もたれに良いということなので、今回の旅でだいぶ酷使した胃を休ませてあげよう。
ポッチェイモ。作り方はメニュー写真参照。表面がカリカリで香ばしく、じゃがいもを発酵させているせいか、わずかに酸味も感じるいも団子(いももち)という印象。素朴だが、バターをのせて食べるとなかなかヒンナ。
このほかにもアマムのカレーやポッチェイモのピザなど、伝統的なアイヌ料理だけでなく、現代的にアップデートしたメニューもあるようで面白い。全メニューを食べてみたいし、また来よう。
さて、20時からはイコロでアイヌの古式舞踊を見学する(イコロでは上演中の写真や動画の撮影を禁じられているので画像はなし)。
十数種類ある演目のなかからランダムでいくつか上演するらしく、僕が今回見たのは踊り手の女性たちがシントコを囲んで歌う座り歌、お爺さんがトゥキパスイを指揮棒のように振って酒を神に捧げるカムイノミと剣舞、ムックリ(口琴)とトンコリ(竪琴)の演奏、ゴールデンカムイでも登場した鶴の舞、女性二人がお盆を奪い合う踊りへクリサラリ(どんな踊りだ)など。
個人的に一番印象に残ったのが、6人の女性が長い黒髪を振り乱しながらヘドバンする黒髪の踊りフッタレチュイである。長い髪が上下し乱れる様子には、僕らの心を高ぶらせる効果があるようで、ヘドバンが激しくなるほどに見ているこちらも昂揚していく。メタラーがロン毛なのも理に適っているのだろう。まさかアイヌコタンでメタルの神髄に触れることになるとは。ヘヴィメタル・イン・ザ・コタンである。
演目が進むにつれフロアも温まっていき、最終的にエッサーホーホーという大勢が輪になって回る踊りではオーディエンスも巻き込んで盛り上がった。
続いて21時からはイオマンテの火祭りである。梟のカムイを送るという設定が加わっているが、演目は先ほどの古式舞踊とほぼ一緒。ただし、ステージで火を熾し、BGMも流れるせいか、あるいは古式舞踊でフロアが温まっていたせいか、常に拍手喝采、かなりの盛況である。ラストのエッサーホーホーの輪もステージからフロアにかけて広がり、盛り上がりは最高潮だ。
正直にいえば、僕のアイヌ文化への関心は飲食や衣装に集中しており、歌や踊りにはあまり興味がなかったのだが、実際に生で見ると想像以上に楽しかった。帰りの車中でOki dub Ainu Bandを流すくらいハマってしまった。
Oki dub Ainu Band - Live @ Trans Musicales 2017
アイヌコタンはいままでお土産屋しかのぞいたことがなかったのだが、アイヌ料理もアイヌ舞踊も充実していて、この旅のゴールに相応しい感動と発見があった。本当に良い場所だ。また来たい。
こうして3日間に及ぶスタンプラリーの旅は慌ただしくも終わりを迎えた。
走行距離は1285.2km!お疲れ様でした!
見学できなかったスポットもあるが、ARはコンプリート。スケジュール管理さえできれば、3日間でスタンプラリーを完走するのは充分可能である。
今回の旅をとおして僕なりに北海道の魅力を再発見できたが(このブログを読んでいる人に伝えられるかどうかはわからないけど)、率直な感想は「北海道をたった3日で回ろうとするな」ということである。あたりまえだが。
距離の問題以上に、広大な大地に魅力的な場所やグルメが数多くあるのだ。駆け足で回るのはもったいない。じっくり腰を据えて、寝過ごしても笑って済ませられるくらい余裕のある旅を心がけたい。
~番外編~
ちなみに網走監獄ではこんなお土産を買った。
ずるいなあ、こんなの絶対買うだろ…!
ピリ辛山椒味噌で、ご飯に合うし酒肴にもなる。
3日間でゴールデンカムイスタンプラリーを駆け抜けてみる~2日目
~2日目~
2日目は札幌すすきのからスタート。
まずは小樽市総合博物館運河館へ向かった後、札幌へ戻り、残された北海道博物館と開拓の村を回り、月形町の樺戸博物館を経て旭川へ北上、可能であれば旭川市博物館まで消化したいところ。
予定ルートは次のとおり。
距離的には1日目より短いが、本日のチェックインスポットはすべて公営博物館のため、16時半までに回る必要がある。旭川市博物館まで消化するなら厳しいタイムアタックを強いられるだろう。
…にも関わらず、わたくし、また寝過ごしましてね。
小樽市総合博物館運河館の開館時間9時半に到着できるよう動くべきところ、すすきののホテルを出たのが9時過ぎ。結果、到着時刻は10時半過ぎと、1時間以上のオーバー。昨日に引き続き自分で自分の首を絞める体たらく。もういい加減にしろよ俺。
ともあれ第4チェックインスポットの小樽市総合博物館運河館である。
ARはついに出ました、不死身の杉元!
杉元のARは小樽市総合博物館の本館と運河館のどちらでも取得可能だが、せっかくなので小樽市らしい景色を見るため運河館を選択。
館内は小樽の歴史と自然にまつわる展示が盛りだくさんで、この街の歩みを総合的に知ることができる。
辺見和雄が潜伏してそうな鰊番屋の盛況。
商業都市・小樽の商家の様子。
アシリパさんに食べられたのか、骨だけになったトド。
キャラメルが好物だという消防犬「文公」。しかしジンギスカンキャラメルがお供えされてない時点でモグリだとわかる。
運河館は目の前に小樽運河が流れており、ロケーション抜群。
こんなイカした横丁もある。半身揚げの人気店なるとも入っているが、ブランチは別の店でとることにする。
本日の一食目となる小樽グルメは、秘密のケンミンショーの小樽あんかけ焼きそば回にも登場した有名店龍鳳。
…て、こんなにあんかけ焼きそばの種類多かったっけ?大将、ロック好きなんだろうな。
今回注文したのはMAVERICK焼きそば。
黒ごま餡にマヨネーズが絡むこってこてのビジュアルだ。
ちなみにこの量でハーフサイズ(麺一玉)である。レギュラーサイズは麺二玉だそうで、つくづく頭がおかしい。
見た目ほどしょっぱくないのでするする食べられるが、やはり朝からこれはヘヴィーだった。
さて、小樽を堪能したので札幌へとって返し、第5チェックインスポット北海道博物館に向かう。
ARはアシリパさん(Ver.1)だ。
博物館のコンセプトは北海道の自然と歴史、アイヌ文化関連の展示に集約されており、小樽市総合博物館と同じ系統である。
アイヌ以前の続縄文文化のクマが彫刻された鹿角製スプーン。何だこれ、かわいい!
オットセイのナニ。徳川家斉ご愛飲の強壮剤も、こうして蝦夷地で作られて江戸へ送られたのか。
はじめて見るタイプのアイヌの鎧。
アシリパさんといえば弓矢!
オハゥやチタタプなど、原作でおなじみのアイヌ料理の情報も。いつかは食べてみたい。
北海道博物館を堪能し、すぐ隣(といっても広大だが)の敷地にある第6チェックインスポット北海道開拓の村へ。
ARは鬼の副長・土方歳三!
開拓の村は、広大な敷地に再現された開拓時の街並みが見応え充分!
もちろん建物のなかにも入れる。
村内では馬車にも乗れる。
土方が顔剃りをしてもらっていた茨戸の山本理髪店のモデルはここだろうか。佇まいが一致している。
和風ウェスタンな開拓時の街並みは、原作で描かれた茨戸に迷い込んだかのよう。
ゴールデンカムイファンにはたまらない聖地じゃないだろうか。
開拓の村を発ったのは15時頃。少し堪能しすぎたかもしれないが、月形を目指して北上する前に、最後の札幌グルメとしてラーメンを食べることに。
札幌らしい二郎系味噌ラーメンの名店ブタキングである。
杉元…この二郎系ラーメンにまた…オソマ入れなきゃいいけど…。
オソマおいしかった!
さて、オソマで英気を養ったところで月形へ向かう。
が、第7チェックインスポットの樺戸博物館に着いたときは17時をまわっており、今回の旅ではじめて見学ができなかった。
ARは同じ敷地内の農業研修館の入り口のポスターから取得できたが、樺戸博物館本館はかつての樺戸集治監である。つまり、史実でも永倉新八が剣術師範として赴任した監獄である。ゴールデンカムイ云々の前に、一介の歴史好きとして、ここを見れなかったのが、ただただ残念。
かつての樺戸集治監と、永倉のジイさん。いつかまた来よう。
しかし、せっかく月形まで来たのでご当地グルメは買っておく。
溝口菓子舗という、和菓子屋というよりは昭和の雑貨屋のような佇まいの菓子店でお土産を購入。
看板商品と思しき月形まんじゅうは、こし餡を薄皮で包んだ、見た目どおりの味の饅頭。
しかしそれ以上に衝撃的だったのが、名産品にちなんだ月形メロン羊羹。
包装を破いた瞬間から漂う強烈なメロン臭。毒々しい緑色のフォルム。そしてこのワザとらしいメロン味!僕のなかの井之頭五郎もニンマリだ。
しかし冷蔵庫で冷やして食べるとチープなメロン風味が爽快感に変わり、若干食が進むようになるので、好奇心旺盛な諸兄諸姉はぜひ試してみてほしい。
月形を後にして高速で旭川へ向かう。19時過ぎに旭川市内のホテルにチェックインするが、ブタキングがまだ胃に居座っているため、夕食はとらずに月形の菓子をつまむだけと、わびしい夜になった。
最終日は旭川から網走、釧路、阿寒湖と、道北から道東を一気にまわるので、今回の旅で最長の移動距離となる。これ以上寝過ごすことは許されない。
完走できる気がしないなあ、と不安を抱えて2日目は終了となった。
3日間でゴールデンカムイスタンプラリーを駆け抜けてみる~1日目
連日、胆振東部地震の影響で北海道を訪れる観光客が激減、観光収入も低迷していると報道が続く。厚真など震源地周辺を除けば概ね避難は解除され、インフラも復旧し、店舗も通常営業しているところが多いようだが、それでも客足は遠のいているそうだ。
じゃあもう道外からの観光客に頼らず、道民自ら道内でお金を回すしかないんじゃない?
道内各地にお金を落としに行けばいいんじゃない?
…ということで、行ってまいりました。
ゴールデンカムイスタンプラリー
北海道はゴールデンカムイを応援しています?
バカ野郎、今度はこっちが北海道を応援する番なんだよ!!!
スタンプラリーの詳細については、北海道観光振興機構のHPを見ていただくとして、
ざっくり説明すると、道内11ヶ所の博物館等のチェックインスポットを巡り、舞台めぐりアプリで現地のポスターに掲示されているQRコードを読み取り、キャラクターのARを取得するというスタンプラリー。ARをコンプリートすると壁紙がもらえるらしい。
各スポットとそこで取得できるキャラは次のとおり。網走監獄以外ははじめて行くので新鮮な気持ちでまわれそうだ。
アシリパさんだけ優遇されて2パターンあり。インカラマッとか入れないんですかね…。アニメ見てないからわからないけど、登場しないのかな。
しかし原作では名前しか出てこない十勝在住の僕としては、近くにチェックインスポットがないのが厳しい。一番近い谷垣ニシパのいる釧路市立博物館でも100kmくらい離れてるし。
そこで今回の旅は帯広から出発し、平取の二風谷アイヌ文化博物館から時計回りに11ヶ所のスポットを攻めていくことにする。タイムリミットは3日間。
グーグルマップでルートを検索すると次のようになる。
…まあ、北海道一周とまではいかないけど、なかなかのものじゃないですかね。
ちなみに高速使って815kmらしいけど、実際にはスタート地点の帯広からの移動も含み、途中、飲食店やホテルに寄ったり、下道を通ったりもするので、1,000kmを超える目算。
3日あれば1,000kmくらい余裕じゃない?と思うなかれ。ほとんどのチェックインスポットは公営の博物館なので17時閉館、最終入場16時半という縛りがあるため、いかに日中に効率よく移動するかが鍵となるのだ。
さて、1日目の行程は次のとおり。
スタート地点の帯広から第1チェックインスポットの二風谷アイヌ文化博物館まで2時間以上かかるはずなので、初日も朝7時には出発し、開館の9時には現地入りする必要がある。そこから夕張の石炭博物館へ北上し、高速を使って16時半までに小樽市総合博物館運河館へ入り、夜は札幌へ取って返してホテルを取り、サッポロビール博物館で搾りたてのビールを試飲するという予定である。
ゴールデンカムイといえば、アイヌ料理をはじめとする北海道の美味を紹介するグルメ漫画的性格を併せ持っている。今回の旅もただチェックインスポットを巡るだけでなく、ビールをはじめ、その土地のグルメも積極的に堪能していきたい。
~1日目~
で、1日目なんですが…
早速寝過ごして朝9時に出発しました。
前夜に気持ちを高めるため、原作を読み返していたせいだな…。
まあ、旅にトラブルは付き物だからね。仕方ないね。
そんなわけで帯広から下道を2時間半ほどかけて到着したのが、
平取町の第1チェックインポイント、二風谷アイヌ文化博物館(建物の写真は撮り忘れた)。
はじめてのマイARはキロランケさんでした!
アイヌの家にたたずむキロランケ。
キロランケといえば煙草。
二風谷アイヌ文化博物館はその名のとおり、さまざまなアイヌの文物が展示されていて見応えたっぷり。
アイヌの衣装も省スペースで大量に格納。
ゔぇろろろろごうろろろあああああッッ!!
マキリより豪華な宝刀らしく、拵えが立派。
トゥキパスイ(捧酒箸)という、祭りの際に酒をつけて神に捧げる箸。原作でも祭りのシーンでチラッと出てくるけど、今回の旅で一番気になったアイヌの文物。デザインが多彩で見ていて面白いし、アイヌの飲酒文化にも興味が湧いてきた。
アイヌのチセに、谷垣ニシパが幽閉されていた子グマの檻。自販機までアイヌ仕様。博物館の外もアイヌ風で楽しい。
さて、すっかりお昼どきなので、ブランチに平取のグルメを堪能したい。
平取といえば和牛。ステーキである。
平取和牛のステーキとハンバーグの名店くろべこにて、和牛くろべこスペシャルステーキ。柔らかくて旨みたっぷりでヒンナヒンナ。
しかしステーキも美味いけど、それ以上に感動したのがトマト。平取では「ニシパの恋人」というブランドで桃太郎トマトを売り出していて、僕の地元を含め道内のスーパーでも買えるのだが、くろべこで食べたニシパの恋人は、サラダもステーキの付け合わせの焼きトマトも香り豊かで異常に甘い!
え、こんなに美味かったっけ? 産直だから? しかも旬も過ぎてるはずだよね?
釈然としないくらい美味かったのだが、夏場はもっと美味いんだろうなあ。
トマトアイス。これもニシパの恋人を使っているのか、トマトの風味がしっかりしていてヒンナ。
トマトジュースも青臭さが抑えられていて飲みやすい。キロランケニシパには恋人どころか奥さんがいたよな…。
道中にあった巨大な藁人形のような像。アイヌの呪物か何かと聞いたことがあるが、ウィッカーマンみたいだ。
腹ごしらえを済ませてから、日高自動車道を北上する。厚真のあたりは高速でも余震を警戒してか、50km/hに制限されていた。路面も起伏が多い印象。
今回の地震の最大の被災地のひとつである安平町で高速を降りる。街中では重機で取り壊されている建物が散見し、飲食店も再開していない店が多く、想像していたより街は平静とはいえ、やはり他の地域と比べて深く爪痕が残っているようだ。
そんな中でも店頭に行列ができていたのが、夢民舎という地元のチーズ工房直営のレストランみやもと。名物のカマンベールソフト一本にメニューを絞って営業を再開しており、部活の遠征帰りと思しき中学生の集団や地元の方など、客足が途切れない。被災地に落とすお金としては微々たるものだが、僕もカマンベールソフトを注文する。
濃すぎない、さっぱりとしたカマンベールチーズの風味がヒンナ。北海道で評判の良いソフトクリームはミルク感が濃厚なものが多いけれど、これはやりすぎない、控えめで上品な佇まいのソフトだった。
被災していても、こうして美味いグルメを提供し、活気づいた店があることは救いになるんじゃないかと思いながら、安平町を後にする。
第2チェックインポイントのある夕張に着いたときは、すでに15時半だった。
うん、これはもう16時半までに小樽は無理だな…。敗因は寝坊。
当初の計画が頓挫したことを悟り、小樽は明日にまわし、1日目のゴールをサッポロビール博物館に切り替えることにした。
さて、第2チェックインスポット石炭博物館である(また外観を撮り忘れた)。
ARは尾形百之助だ。
博物館本館は夕張と炭鉱の歴史をパネルや炭鉱関連文物の展示で解説しているが、ここの目玉は地下の炭鉱跡である。
地下にはエレベーターで降りる。
1分程度で坑道に到着。埃っぽいにおいと、実際に炭鉱で使われていた機械や、マネキンによる当時の再現シーンが臨場感たっぷり。ちなみに地下ではネットに接続できないので、基本的にアプリを使ったAR撮影はできないようだ。
マネキンがみんなリアル。これみんな江渡貝くんが作ったのかい?江渡貝くぅん!
神社もあった。
坑道内はバイオハザードに出てきそうで、雰囲気たっぷり。
石炭採掘現場では、男子のハートをくすぐるメカの数々が!
出口は本館とは別にある坑道の出入口。いやあ、楽しかった!
夕張グルメは道の駅で買った「たんどら」という石炭モチーフの真っ黒などら焼き。
生地に竹炭を練りこんでいるらしく、夕張らしいオレンジ色のメロン餡とのコントラストがあざやか。メロンもかぼちゃもしっかり素材の風味が出ていてヒンナ。
夕張は駆け足だったけど、街並みを見てもかなり面白そうだったので、また今度腰を据えてじっくり周りたい。
さて、夕張を後にして高速で一路、札幌へ。サッポロビール博物館は20時まで開いているが、テイスティングは18時半ラストオーダーとのことなので、急がねばならない。
…が、夕張を発ったときにすでに17時をまわっていたため、到着は18時半過ぎ。あと一歩のところで試飲はできず。きちんと早起きしてれば搾りたてのビールを飲めたのに…。
第3チェックインスポット、サッポロビール博物館。ARはチンポ先生こと牛山辰馬。
博物館はサッポロビールの歴史を醸造器具やパネル、歴代のラベルやポスターなど、豊富な展示で解説している。
やっぱり昔の方がデザインがお洒落。
チンポ先生はどの娘が一番好みなんですかね…?
昔はリボンシトロンやナポリンだけでなくラズベリーもあったのか! 飲みたい…。
全然世代じゃないけど、やっぱこれですよね! 男は黙ってサッポロビール!
ビールのテイスティングはできなかったが、お土産用に買った開拓使ビールはヒンナ。
ビールゼリーチョコもたしかにビールの風味があって、笑ってしまった。
夜はすすきので札幌グルメに舌鼓を打つ。
ザンギ専門店のゆず塩ザンギに、
麺にがごめ昆布が練りこまれているがごめ昆布ラーメン(塩)。別皿の追いがごめ昆布でさらにとろとろになる珍品!
すすきのへ来たのにジンギスカンや味噌ラーメンじゃないのかよ!?という声が聞こえてきそうだが、こっちはそんなの地元でもしょっちゅう食ってんだよ!あと昼にステーキ食べたから重たい肉料理は年齢的にキツいんだよ!
…ということで、スタンプラリー1日目は札幌はすすきのにて終了。取得したARは11人中3人だが、はたしてこのペースで完走できるのか…?
ソグド系ウィグル武人の肖像―五代人物伝(1)何重建
唐末五代の代北に勢力を伸長し、のちに後唐を建国した李克用父子率いる沙陀集団には多数のソグド系武人が存在したことが夙に指摘されているが、森部豊氏の一連の論著で取り上げられるように、彼らの淵源としては唐代にオルドスに設置された突厥遺民の羈縻州である六胡州の突厥化したソグド人(いわゆる六州胡)が有力視されている。
沙陀集団に六州胡由来のソグド系武人が多数存在したことは確かであろうが、後晋高祖石敬瑭の祖先である石璟のように、沙陀が代北へ東遷する以前から従っていたソグド人も存在しており(沙陀系王朝が華北を支配していた五代では、『旧五代史』康福伝に見えるように、古くから沙陀と関わりがあるほど門族が高いとみられていた形跡があり、石敬瑭の太原石氏についても家門に箔をつけるために古くから沙陀に従属していたと詐称していた可能性もある)、実際には彼らソグド系武人の出自は多様である。
その一例として、何重建(彼が仕えた後晋の少帝石重貴の諱を避け、のちに何建と改名)を取り上げよう。
『旧五代史』巻九十四・晋書二十・何建伝
何建、其先迴鶻人也。代居雲・朔間。祖慶、父懷福、俱事後唐武皇為小校。建少以謹厚隸於高祖帳下、以掌廐為役、及即位、累典禁軍。遙領驩・睦二郡。天福中、自曹州刺史遷延州兵馬留後、尋正授旄鉞。數年之間、歷涇・鄧・貝・澶・孟五鎮節度使、累官至檢校太傅。開運三年、移鎮秦州。是冬、契丹入汴、戎王遣人齎詔以賜建、建憤然謂將吏曰「吾事石氏二主、累擁戎旃、人臣之榮、亦已極矣。今日不能率兵赴難、豈可受制於契丹乎!」即遣使齎表與其地送款於蜀、孟昶待之甚厚、偽加同平章事、依前秦州節度使。歲餘、移閬州保寧軍節度使、加偽官至中書令、後卒於蜀。
何姓はクシャーニャ(何国)出身のソグド人が中国において称した姓(ソグド姓)であり、ウィグル人(迴鶻人)でありながらソグド姓を冠する何重建の家系についてもソグド系であると考えられる。先祖はウィグル人で代々雲州・朔州に居住していたとあるが、おそらくこれはウィグル内部にコロニーを形成していたソグド人が唐朝の北辺に内附したものであろう。
突厥、ウィグル、吐谷渾など、当時の遊牧勢力にはブレーンとしてソグド人が存在しており、ソグド語が国際共通語として機能していた東ユーラシアでは外交官としても活躍していた。彼らはソグド人特有のネットワークや折衝能力から外交・交易に従事するだけでなく、遊牧民のなかで生活することで騎射技術を習得し、遊牧武人化する傾向があった。森部氏が六州胡のように突厥内部にコロニーを形成して遊牧武人化したソグド人を「ソグド系突厥」と称したように、当時の遊牧勢力にはソグド系ウィグル、ソグド系吐谷渾ともいうべき遊牧武人化したソグド人が多数存在したと考えられる。
何重建の祖先もおそらくはそういった遊牧武人化したソグド系ウィグルであったのだろう。祖父の何慶、父の何清福がともに武人(「小校」)として李克用に仕えており、何重建自身も石敬瑭の旗下で厩の管理をしていることから、彼の代まで遊牧武人的性格を維持し、馬の扱いに習熟していたと考えられる。『九国志』には「重建初事晉祖為奉德馬軍都指揮使。」とあり、後晋の禁軍のひとつである奉徳軍で馬軍を率いていたようだ。
その後、何重建は禁軍軍将として中央にありながら驩州・睦州の刺史を遥領し(驩州は南漢、睦州は呉越の版図のため名目的なものであった。五代の禁軍軍将や藩鎮牙将には、彼らの地位が州長に相当することを示す名誉職として州刺史を遥領する事例が多い)、曹州防御使として地方へ転任したのち、天福7年(942)、彰武軍留後となるが、その経緯は以下のとおりである。
彰武節度使丁審琪、養部曲千人、縱之為暴於境內、軍校賀行政與諸胡相結為亂、攻延州、帝遣曹州防禦使何重建將兵救之、同・鄜援兵繼至、乃得免。二月、癸巳、以重建為彰武留後、召審琪歸朝。重建、雲・朔間胡人也。
当時の彰武軍節度使の丁審琪の横暴から、部将の賀行政が彰武軍管内の「諸胡」と結託して叛旗を翻すが、曹州防御使であった何重建がこれを鎮圧し、丁審琪更迭後に留後として彰武軍を預かることになる。何重建は「謹厚」と評されたその性格のせいもあろうが、善政を敷いて民衆を安んじたため(『九国志』には「下車諭以威福、邊民安堵、就加彰武軍節度使。」とある)、のちに正式に彰武軍節度使を拝命するのだが、オルドスに設置された延州の反乱鎮圧と丁審琪の後任に、遠く河南の曹州にいた彼がわざわざ選ばれた理由として、ソグド系ウィグルの血を引くことが挙げられないだろうか。
唐代では「胡」はソグドを意味する用例が多く、彰武軍管内の「諸胡」とはソグド人を指す可能性がある。また、彰武軍の治所である延州には唐朝に内附したウィグルの白霫部などが安置されており、「諸胡」にウィグルを含む場合、何重建のソグド系ウィグルという血統が、彼らの統治に資すると期待されたのではないだろうか。
『新唐書』巻二百一十七上・回鶻伝上
帝更詔時健俟斤它部為祁連州、隸靈州都督、 白霫它部為居延州。
また、唐代の延州には種族は不明ながら「安塞軍」という軍鎮に組織された非漢族部落があり、「諸胡」がこの末裔である可能性も考えられよう。無論、この「蕃落」がウィグルであった可能性も否定できない。
『旧唐書』巻十三・徳宗本紀下・貞元十年三月の条
辛丑、以延州刺史李如暹所部蕃落賜名曰安塞軍、以如暹為軍使。
以上のように何重建の半生から遊牧武人的・ウィグル的特質を垣間見てきたが、彼ら何氏を輩出した雲州・朔州のウィグルは、そもそもどういった経緯でこの地へ移住してきたのだろうか。
『旧五代史』巻五十三・唐書二十九・李存信伝
李存信、本姓張、父君政、迴鶻部人也。大中初、隨懷化郡王李思忠內附、因家雲中之合羅川。存信通黠多數、會四夷語、別六蕃書、善戰、識兵勢。
李克用の有力仮子のひとりである李存信(もとの姓名は張汚落)の父・張君政もウィグル部の人であり、大中年間(847~859)の初めに懐化郡王李思忠に従って唐に帰順、雲中郡(雲州)の合羅川に居住したという。李思忠はもとの名を嗢沒斯といい、ウィグルのテギン(王子)であったが、ウィグル可汗国の崩壊により開成5年(840)に唐へ帰順し、その一族を雲州・朔州の間に安置されており、張君政や何氏のルーツはこのウィグル遺民と考えられよう。
『新唐書』巻二百一十七下・回鶻伝下
嗢沒斯請留族太原、率昆弟為天子扞邊、帝命劉沔為列舍雲・朔間處其家。
沙陀集団はこのように嗢沒斯率いるウィグル遺民にルーツを持つウィグル系遊牧武人も内包しており、多様な種族から構成されていたことがわかる。李存信が「四夷語」を理解し、「六蕃書」を使い分けられたというマルチリンガルだったことからも、彼の育った代北が多種族混淆の地であったことがうかがい知れるが、想像をたくましくすれば、出自を同じくする上にソグドの血を引く何重建にも同様の能力が期待され、「諸胡」が跋扈する延州の反乱鎮圧と統帥を任されたのではないだろうか。
さて、後晋は少帝(出帝)が即位し、対契丹強硬路線を貫いたため、度重なる契丹の侵攻を招くこととなった。何重建は彰武軍節度使から涇州・鄧州・貝州・澶州・孟州の節度使を歴任しつつ、対契丹の防衛戦にも従事していたが、開運3年(946)には対契丹前線からは遠い陝西の秦州節度使に転任する。この年の冬にみやこ開封は契丹により陥落、少帝も北方へ連れ去られ、後晋は滅亡するのだが、各地の節度使が契丹の招撫に続々と応じるなか、「私は石氏二主に仕え、節度使として人臣の位を極めた。今日の難を救えず、どうして契丹の制を受けられようか」と憤り、秦州をあげて後蜀に帰順してしまう。石敬瑭の子飼いとして立身したためか、裏切りの横行する五代では珍しく忠節を貫いた何重建だったが、亡命先の後蜀で重用されつつも当地で没しており、ソグド系ウィグル武人というその個性をつくりあげた故地へ帰ることは二度となかったのである。
【虫注意】あの娘ぼくがゴキブリ食べたらどんな顔するだろう
先日、学生時代の後輩の結婚式に招かれ、横浜へ行ってきた。
十数年の付き合いになる後輩とは、学生時代はよく一緒にバカをして遊んだものだが、そんな彼女も明日は花嫁。彼女の幸せを祝う気持ちの裏に、娘を送り出す父親のような一抹の寂しさも覚える。僕がもう少し若ければ、式の前夜にバチェラー・パーティーのようにバカ騒ぎをして、この寂しさを紛らわしたのかもしれない。
しかし、僕もすでに三十を超えたいい大人だ。昔のようにバカはできない。落ち着いた雰囲気の店で学生時代の思い出を肴にしっぽりと飲み、彼女の未来を祝福しよう。挙式前夜、僕は式に参列する他の後輩を引き連れ、野毛にある一軒のバー居酒屋の扉を叩いた。
店の名は、
珍 獣 屋
コンセプトは、店名とメニューからだいたい察しがつくだろう。
そう、大人がしっぽり飲むのにふさわしい、落ち着いた雰囲気のお洒落バー居酒屋だ。
一緒に来た後輩にも「好きなもの頼みな」とメニューを渡す。
後輩「いや、ほとんど食べたことないものなんですが…」
遠慮しなくていいのに、と思いながら、僕は適当に見繕って注文する。
まず一品目はピラニアの刺身。
旨味の濃い白身魚で、普通に美味しい。もっと生臭いものかと思っていたが、臭みはほとんど感じられず、食べやすい。言われなければヒラメと勘違いしそうだ。
続いて蛾の幼虫の唐揚げ。
白っぽいミルワームのようなビジュアルを想像していたが、カラッと真っ黒に揚げられた姿はどんぐりのようで愛らしい。これなら虫が苦手な僕でも食べられそうだ。
カリカリの外皮(殻?)を歯で破ると、ブチュンとクリーミーな身肉が弾け、口腔にまったりとした淡白な味が広がる。
外はカリカリ、中はとろふわ。食感は美味しいたこ焼きと一緒である。味については後輩が「白和えみたい」と冷静に評していたが、たしかにそのとおりだと思った。
そして想像以上に大きいワニの一本揚げ。
僕がいままで食べてきたワニ肉はカットされたステーキだったので、皮付きの肢一本丸ごとははじめて。とにかくデカい。そして歯ごたえのある鶏肉のような味わいで、なかなか美味い。店員さんによればイリエワニらしいが、どこから輸入されたものかは教えてくれなかった。
ウサギの肉焼き。
こちらも鶏肉に似ており、まったく抵抗を覚えずに食べられるお味。逆にいえばこれまで食べてきたメニューに比べるとパンチが弱い。
こちらは猪のキ〇タマ炙り焼き。
もう名前だけで男子はタマヒュンな戦慄メニュー。4等分に切って炙られてるんだぜ。
しかしビジュアルも味もレバーに近く、その部位から想像するような生臭みもない。ビールによく合う、非常に食べやすい一品だった。
そしてラストはこちら、ゴキブリの唐揚げ。
ゴキブリといってもチャバネなどの日本の品種ではなく、デュビアという南米産ゴキブリとのこと(和名はアルゼンチンモリゴキブリ)。ゴキブリの唐揚げですらハイカラとは、まったく横浜には恐れ入る。
頭からバリバリかじりつくが、香ばしくて意外と食べやすい。カブトムシのような腐葉土臭もなく、何より中身を感じさせない煎餅のようなクリスピー食感に救われた。うん、これはイケる。
僕らはゴキブリをかじりながら、ワニ肉に舌鼓を打ちながら、学生時代の思い出話や明日花嫁となる後輩の話に打ち興じた。
僕らはもういい大人だ。学生時代のようにバカばかりはできない。それでも、こうして思い出話に花を咲かせている束の間、あの頃に戻ったかのように錯覚する。いまより金はなくとも、ずっと自由で、輝いていた日々。おなじ時代を呼吸した大切な仲間たち。明日花嫁となる後輩の顔を脳裏に思い描く。
――幸せになれよ。
前歯にはさまったゴキブリの肢をせせりながら、僕は彼女の幸せを祈った。