壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

唐土における非漢人の姓名について

 吉備真備が書いたと思われる墓誌が公開されたとのことで、僕のツイッターのTLもにぎわっている。

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 真備は「朝臣備」と称していた(あるいは呼ばれていた)ようで、ウジではなくカバネを唐土における姓としていたらしい。これは阿倍仲麻呂も同様で、両唐書に記される彼の姓名は「朝臣仲満」である。

旧唐書』巻199上 東夷伝 日本国の条

 其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名為朝衡、仕歷左補闕・儀王友。

 その副使である朝臣仲満(阿部朝臣仲麻呂)は、中国の風を慕い、よって留まって帰国せず、姓名を改めて朝衡とし、左補闕・儀王友を歴任した。

 真備と異なり日本への帰国がかなわなかった仲麻呂は、「朝臣」という夷臭のする複姓を中国風に「朝」の一字姓に改めている。彼の姓について、詩文によっては「晁衡」と記され、「晁」は「朝」と音通であり、字義としてもともに「あさ」を意味するが、おそらく朝という姓自体が漢人にはないため、漢人の姓として通行していた「晁」に仮借したものであろう。あるいは唐人に劣らぬ仲麻呂文人としての資質能力を称賛するニュアンスがあったのかもしれない。突厥の阿史那氏出身の史大奈は、李淵長安攻略に貢献した功績から、中国風の「史」姓を賜っているが、夷臭のする姓より中国風の姓を上等とみなす同じ中華思想に根差したものだろう。

 このほかに平群朝臣広成は「朝臣広成」、多治比真人県守は「真人莫問」と記されており、遣唐使はカバネを唐における姓としていたようにうかがえる。カバネが示す家格ヒエラルキーなど日本国内でしか通用しないうえに、当時はすでに形骸化していたのではと、日本史に無知な僕には思えるのだが、文書を含めて公的な場面ではカバネを称する機会が多いことから、自然と日本人の姓として認識されるようになったのだろうか。

 

 唐土における非漢人の姓名は、日本人(遣唐使)については上述したようにカバネを姓とする傾向が見られるが、ほかの民族では、康阿義屈達干や米薩宝のように、突厥やソグド人コロニー内での役職がそのまま名になってしまうくらいいい加減な部分があったようだ。

 森部豊氏は、奚である李詩とともに唐へ帰順した瑣高、史思明が捕らえた奚の部将の瑣高、奚出身の李宝臣の仮父である張鎖高らをあげて、奚には「瑣高(または鎖高)」という名が多いことを指摘しているが*1、そもそも「瑣高」とは奚における酋長の呼称という説もあり、自身の部落をひきいて唐に帰順してきた奚の酋長が、瑣高または鎖高と漢語表記されるような呼称で呼ばれていたのを、唐側がその者の名と認識したものではないだろうか。

資治通鑑』巻214 唐紀30 玄宗開元二十四年(736)の条 「瑣高」所引胡注

 瑣高者、蓋奚中酋豪之號、非人名也。

 瑣高とは、おそらく奚における酋長の号であり、人名ではなかろう。

 胡三省がいかなる史料に基づきこのような注を記したかはわからないが、僕も状況証拠的に「瑣高」でひとつづきのタームとして理解すべきだと考えている。

 范陽節度使に仕えていた史思明は、奚中で勇名をとどろかせていた「瑣高」という部将を生け捕りにする功績をたてたが、これも奚王の旗下で自身の部落をひきいる有力酋長だったものであろう。『新唐書』ではこの瑣高について、瑣を姓、高を名とみなして表記しているが、「瑣高=一般名詞」説が妥当ならば、このあたりも非漢人の姓名に対する漢人の認識のずれを表しているようで興味深い。

「薩宝」や「瑣高」のように、その民族にとっての一般名詞だったものが、唐土においては、その立場にある者の固有名詞となるパターンが散見される。一般名詞がいかに固有名詞化されるかについては、われらが「校長」を思い浮かべれば了解されよう。

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 ともあれ、唐土における非漢人の姓名については、ずいぶんとルーズに運用されていたようである。唐にわたった彼らは、唐朝からは漢語表記の姓名で呼ばれる一方、自分たちの言語世界ーー日本語世界、テュルク語世界、ソグド語世界、奚語世界などでは、本来の名で互いを呼び合っていたものと想像される。

*1:森部「安禄山女婿李献誠考」(『関西大学東西学術研究所創立六十周年記念論文集』関西大学出版部、2011)257頁