壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

宋代の巫覡と疫病対策

 先日読んだ中村治兵衛『中国シャーマニズムの研究』(刀水書房、1992)は、唐宋時代の正史から小説、士大夫層による詩文に見える巫覡に係る記事を網羅して、彼らの存在形態と活動の実態を分析しており、面白いエピソードにも事欠かない好著だった。

 そのなかでも個人的に興味深かったのが、宋代では江南などの郷村には、医者や僧侶・道士がおらず、巫覡がそれらの機能を果たし、医療・信仰の中心となっている地があったという指摘。儒教的価値観を有する士大夫はそのような土地に赴任した際に、巫覡を禁圧して彼らを帰農させたり、医薬を任地に持ち込み広めたりと、公衆衛生の向上にも努めていたそうだ。

 医者のいない郷村にはそもそも医薬がなく、巫覡がまじないによって治病をしていたという、未開社会のような状態が、ルネッサンスにも比せられた中国文化の発展期たる宋代でも存在していたことが、個人的には衝撃的だった。

 以前読んだ鈴木継美『パプアニューギニアの食生活ー「塩なし文化」の変容』(中公新書、1991)では、パプアニューギニアのギデラ族が、著者が持ち込んだ医薬品を「マジック」と呼び、「お前のマジックは俺たちのマジックよりも強い」旨の発言をしており、彼らには「医薬」という概念がなく、治病は「マジック」の領分であり、近代社会から持ち込まれた医薬品も、彼らの世界におけるシャーマンのまじないと同類であるという認識に衝撃を受けたのだが、おそらくそれと近い世界観が、宋代の郷村社会にも広がっていたのだろう。

 現代日本に生きる僕たちの感覚では、まじない頼みの巫覡信仰より、地方官が持ち込んだ医薬の方が (それがどの程度のものであれ)治病に対して有効であろうと思うし、彼らが残した文献史料についても、基本的には同じ目線で読むことができるのだが、気になる点もある。

『西山真文忠公文集』巻44「葉安仁墓誌銘」から、墓主の葉安仁が泉州の恵安県丞だったときの事績を次のように訳している(原文は未載)。

番俗は呉楚の旧をまじえ、春・夏に疫がおこると、おおむねただ巫にこれ聴くのみであり、骨肉と雖も絶ってあい往来させなかった。葉は文をつくってこれを石に刻んでさとし、医をえらんで病人をみさせ、そのみたてに随って療治し、あるいは病を扶けた。来って告げるものがあると、自ら問うてこれに薬をあたえ、貧しくて自給できないものには、銭もしくは粟をおくったので、全活したものは甚だ多かった

 洪州の知事であった夏竦の上奏「洪州請妖巫奏」においても、巫覡の治病の一環として、病人を完全に隔離して家族にも会わせないという方法があげられている。

民病、則門施符咒、禁絶往還、斥遠至親、屏去便物。家人營藥、則曰神不許服。

巫は神への祈祷咒いによってのみ病気がなおるといい、家の入り口の門に符咒(日本でいうお札)をはったあと、人の出入りを一切禁じ、家人が病人に薬を吞ませようとしてもこれを許さない。

 完全に人との接触を断ち、薬も食事も与えないということなので、もちろん治るものも治らないのだが、医薬がなく、祈祷にたよるしかない未開社会では、病人を隔離して、他者への感染を防ぐというのは、これまで当地を襲った数々の疫病への対策で蓄積されてきた経験知による判断なのかもしれない。疾病に有効な医薬がないので、せめて患者を隔離してそれ以上の感染拡大を防ぐという、江戸の火消しが延焼を防ぐために家屋を壊すような消極的対処法だったのではないか。

 家族に新型コロナ感染者が出た場合の家庭内隔離に関わるニュースを見ながら、巫覡の治病にも相応の合理性があったのでは、とふと思ったので、メモとしてブログに記しておく。

  漢籍上にあらわれる儒仏道以外の民間信仰を淫祠邪教と見なして排斥する士大夫たちの価値観は、あくまでも当時の社会の一面でしかないことは、よく認識しなくてはならないだろう。