壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

顔真卿と飲中八仙

 顔真卿が書いた墓誌が出土したそうで、例によってツイッター上でちょっとした話題になっている。

 

https://min.news/hot/7c11c3c57af2a3bad203ef9b3b67131b.html

 

 釈文が公表されてないので深入りはできないが、墓主は羅婉順という鮮卑系の婦人で、夫の元大謙との合葬墓とのこと。元大謙は北魏の常山王(どの常山王かは未詳)の七代の孫ということで、北魏宗室の後裔。羅婉順の羅氏ももとは叱羅氏らしいので、鮮卑のなかではまあそこそこの中流貴族のような家柄なのだろう。夫妻の第3子である元不器と、「侄(おい)」の元自覚の墓誌も同時に出土したそうで、夫妻と元自覚の墓誌については、撰文は汝陽郡王・李璡。玄宗の異母兄で音曲に通じた寧王・李憲(譲皇帝)の長子である。

 李璡も音曲や詩文に長けていたようで、文人として名高い賀知章と交友があったり、さらに羯鼓という(おそらく北族由来の)楽器や弓が得意で、ついでにイケメンという、漢人的な教養と北族的な雰囲気を兼ね備えた風流な貴公子で、玄宗からも可愛がられていた。

 この李璡の母で、李憲の王妃であった元氏という女性が、元自覚の姉妹だったことが墓誌から読み取れるそうで、つまり元大謙らの一族は、北魏宗室の後裔で唐の宗室とも通婚する第一級の鮮卑貴族だったのだろう。

 

 では、そんな鮮卑貴族たちと顔真卿にどんな繋がりがあったのか。*1

 羅婉順は天宝5載(746年)に亡くなり、翌年に夫と合葬されたようで、釈文が未公表なので、実際に墓誌がいつ書かれたのかは未詳だが、顔真卿の肩書が長安県尉となっているので、天宝5載、数えで38歳のときに書かれたものなのだろう(顔真卿は翌天宝6載の正月に監察御史へ異動している)。

 当時の顔真卿は、科挙の進士科に及第し、校書郎から畿内の県尉へ移るという、エリート官僚の出世コースを踏み出したばかりの時期。長安県尉となる前は、同じく畿内の県である醴泉県の県尉を務めており、そこを辞めた後に洛陽で、草書の達人である張旭に師事していたと伝わる。のちに書家として王義之と並び称されることになる顔真卿の修業時代でもあったのだ。

 酒豪の張旭は酔っぱらっては絶叫しながら走り回るが、ひとたび筆をとれば雲か煙が湧きおこるかのようにみごとな草書を書きあげるという異能の人。この張旭と李璡は、ともに賀知章と親交があり、『新唐書李白伝では、賀知章も含めて、長安で不遇をかこっていた李白飲みサー「酒八仙人」のメンバーに挙げられている(ほかの4人は李適之、崔宗之、蘇晉、焦遂)。李白伝の書きぶりだと、玄宗の宴会で粗相をし、高力士と楊貴妃の怒りを買って出世が望めなくなったことから、ふてくされた李白が飲みサーを結成したかのように読めるのだが、おそらくは秘書監など政府高官を歴任し、多くの官僚から愛されていたという、酒好きで顔の広い賀知章が中心人物だったのだろう。李璡と張旭の伝で友人として記されるのも賀知章であり、李白の才能を認めて彼をフックアップしたのも賀知章だった。つまり職場にひとりはいる、いろんな部署に顔が利き、飲み会大好きなおじさん。あれが賀知章です(ちがう)。

 

 そんな「酒八仙人」だが、世間一般ではむしろ杜甫の「飲中八仙歌」*2でうたわれた「飲中八仙」という名称の方が知られているだろう。

知章騎馬似乗船  知章の馬に騎るは船に乗るに似たり

眼花落井水底眠  眼花(くら)み井に落ちて水底に眠る

  賀知章が酔って馬に乗るようすは、ゆらゆら船に揺られているかのよう。そのうち眼がくらんで井戸に落ちても気にせず水中で眠ってしまう。

汝陽三斗始朝天  汝陽は三斗にして始めて天に朝し

道逢麹車口流涎  道に麹車に逢えば口より涎を流し

恨不移封向酒泉  封を移して酒泉に向かわざるを恨む

 汝陽郡王の李璡は三斗の朝酒を飲んでからやっと朝廷に参内し、その道すがら麹を積んだ車に出くわすと、そのにおいでたちまち口から涎をたれ流し、封地を酒泉に移して転任できないのを悔しがっている。野暮を承知で解説すると、唐代の宗室は実際に封地に赴任するわけではないので、「どうせなら酒泉郡王になりたかったわい」という程度の口ぐせがあったのだろう。

李白一斗詩百篇  李白は一斗にして詩は百篇

長安市上酒家眠  長安の市上酒家に眠る

天子呼来不上船  天子呼び来たるも船に上らず

自称臣是酒中仙  自ら称す臣は是れ酒中の仙と

 李白は一斗の酒を飲み干すうちに詩が百篇できる。長安の市中にある酒屋で眠りこけ、天子に召し出されても泥酔し、ひとりで舟に乗ることすらできず、「私めは酒びたりの仙人でございます」などと自分で名乗っている。完全に飲み会の最後の方にいる人です。杜甫の表現だと上品だけど、「いーのいーの、俺は酒びたりの仙人だからぁ!」とかろれつの回らない舌で管まいてそう。この句はもちろん賀知章に「謫仙人」と呼ばれたことを踏まえているのだが、李白自身もこのあだ名を気に入っていそうな描写なのが微笑ましい。

張旭三杯草聖傳  張旭は三杯にして草聖と伝えられ

脱帽露頂王公前  帽を脱ぎて頂を露す王公の前

揮毫落紙如雲煙  毫(ふで)を揮いて紙に落とせば雲煙の如し

 張旭は酒を三杯ひっかけて「草聖」といわれるような草書を書きあげ、王公貴人の前でも平気で帽子をとって頭のてっぺんをむき出しにする無作法っぷり。それでもひとたび毛筆をふるって紙におろせば、雲か煙のように字が湧きおこる。

 ちなみに、今回とりあげなかった焦遂は、酒を五斗飲むとシャキッとして談論風発したそうだ。どいつもこいつもアル中じゃねーか。

 

 ともあれ、そんな当代一流の呑兵衛文人たちこそが「飲中八仙」または「酒八仙人」だったわけで、顔真卿がそのなかのひとり張旭のもとに弟子入りしたとき、筆頭の賀知章はすでに亡くなっていたが、李璡は健在で、大おばの墓誌をつくるにあたって、書丹を任せるに足る人物として、友人のもとに出入りしていた若き顔真卿に目をとめたのではないだろうか。

 羅婉順墓誌の釈文も未公表だし、史料も乏しいので、以上記したことはあくまでも僕の想像である。同墓誌の内容については、続報を待ちたい。

 しかし、顔真卿という人は御史台にいたときに酒の席で粗相のあった者を弾劾するエピソードがあり、個人的には正義感の強いカタブツというイメージなのだが、よく飲中八仙も認めてくれたなあ。

 

顔真卿伝―時事はただ天のみぞ知る

顔真卿伝―時事はただ天のみぞ知る

  • 作者:吉川忠夫
  • 発売日: 2019/01/10
  • メディア: 単行本
 

 

 

*1:以下、顔真卿の経歴については、吉川忠夫『顔真卿伝―時事はただ天のみぞ知る―』(法蔵館、2019)参照。

*2:訓読は下定雅弘・松原朗編『杜甫全詩訳注 一』(講談社学術文庫、2016)参照。