壁魚雑記

漢籍や東洋史関係の論著を読んで気づいたこと、考えたことの覚書きです。ときどき珍スポ。

顔真卿と飲中八仙

 顔真卿が書いた墓誌が出土したそうで、例によってツイッター上でちょっとした話題になっている。

 

https://min.news/hot/7c11c3c57af2a3bad203ef9b3b67131b.html

 

 釈文が公表されてないので深入りはできないが、墓主は羅婉順という鮮卑系の婦人で、夫の元大謙との合葬墓とのこと。元大謙は北魏の常山王(どの常山王かは未詳)の七代の孫ということで、北魏宗室の後裔。羅婉順の羅氏ももとは叱羅氏らしいので、鮮卑のなかではまあそこそこの中流貴族のような家柄なのだろう。夫妻の第3子である元不器と、「侄(おい)」の元自覚の墓誌も同時に出土したそうで、夫妻と元自覚の墓誌については、撰文は汝陽郡王・李璡。玄宗の異母兄で音曲に通じた寧王・李憲(譲皇帝)の長子である。

 李璡も音曲や詩文に長けていたようで、文人として名高い賀知章と交友があったり、さらに羯鼓という(おそらく北族由来の)楽器や弓が得意で、ついでにイケメンという、漢人的な教養と北族的な雰囲気を兼ね備えた風流な貴公子で、玄宗からも可愛がられていた。

 この李璡の母で、李憲の王妃であった元氏という女性が、元自覚の姉妹だったことが墓誌から読み取れるそうで、つまり元大謙らの一族は、北魏宗室の後裔で唐の宗室とも通婚する第一級の鮮卑貴族だったのだろう。

 

 では、そんな鮮卑貴族たちと顔真卿にどんな繋がりがあったのか。*1

 羅婉順は天宝5載(746年)に亡くなり、翌年に夫と合葬されたようで、釈文が未公表なので、実際に墓誌がいつ書かれたのかは未詳だが、顔真卿の肩書が長安県尉となっているので、天宝5載、数えで38歳のときに書かれたものなのだろう(顔真卿は翌天宝6載の正月に監察御史へ異動している)。

 当時の顔真卿は、科挙の進士科に及第し、校書郎から畿内の県尉へ移るという、エリート官僚の出世コースを踏み出したばかりの時期。長安県尉となる前は、同じく畿内の県である醴泉県の県尉を務めており、そこを辞めた後に洛陽で、草書の達人である張旭に師事していたと伝わる。のちに書家として王義之と並び称されることになる顔真卿の修業時代でもあったのだ。

 酒豪の張旭は酔っぱらっては絶叫しながら走り回るが、ひとたび筆をとれば雲か煙が湧きおこるかのようにみごとな草書を書きあげるという異能の人。この張旭と李璡は、ともに賀知章と親交があり、『新唐書李白伝では、賀知章も含めて、長安で不遇をかこっていた李白飲みサー「酒八仙人」のメンバーに挙げられている(ほかの4人は李適之、崔宗之、蘇晉、焦遂)。李白伝の書きぶりだと、玄宗の宴会で粗相をし、高力士と楊貴妃の怒りを買って出世が望めなくなったことから、ふてくされた李白が飲みサーを結成したかのように読めるのだが、おそらくは秘書監など政府高官を歴任し、多くの官僚から愛されていたという、酒好きで顔の広い賀知章が中心人物だったのだろう。李璡と張旭の伝で友人として記されるのも賀知章であり、李白の才能を認めて彼をフックアップしたのも賀知章だった。つまり職場にひとりはいる、いろんな部署に顔が利き、飲み会大好きなおじさん。あれが賀知章です(ちがう)。

 

 そんな「酒八仙人」だが、世間一般ではむしろ杜甫の「飲中八仙歌」*2でうたわれた「飲中八仙」という名称の方が知られているだろう。

知章騎馬似乗船  知章の馬に騎るは船に乗るに似たり

眼花落井水底眠  眼花(くら)み井に落ちて水底に眠る

  賀知章が酔って馬に乗るようすは、ゆらゆら船に揺られているかのよう。そのうち眼がくらんで井戸に落ちても気にせず水中で眠ってしまう。

汝陽三斗始朝天  汝陽は三斗にして始めて天に朝し

道逢麹車口流涎  道に麹車に逢えば口より涎を流し

恨不移封向酒泉  封を移して酒泉に向かわざるを恨む

 汝陽郡王の李璡は三斗の朝酒を飲んでからやっと朝廷に参内し、その道すがら麹を積んだ車に出くわすと、そのにおいでたちまち口から涎をたれ流し、封地を酒泉に移して転任できないのを悔しがっている。野暮を承知で解説すると、唐代の宗室は実際に封地に赴任するわけではないので、「どうせなら酒泉郡王になりたかったわい」という程度の口ぐせがあったのだろう。

李白一斗詩百篇  李白は一斗にして詩は百篇

長安市上酒家眠  長安の市上酒家に眠る

天子呼来不上船  天子呼び来たるも船に上らず

自称臣是酒中仙  自ら称す臣は是れ酒中の仙と

 李白は一斗の酒を飲み干すうちに詩が百篇できる。長安の市中にある酒屋で眠りこけ、天子に召し出されても泥酔し、ひとりで舟に乗ることすらできず、「私めは酒びたりの仙人でございます」などと自分で名乗っている。完全に飲み会の最後の方にいる人です。杜甫の表現だと上品だけど、「いーのいーの、俺は酒びたりの仙人だからぁ!」とかろれつの回らない舌で管まいてそう。この句はもちろん賀知章に「謫仙人」と呼ばれたことを踏まえているのだが、李白自身もこのあだ名を気に入っていそうな描写なのが微笑ましい。

張旭三杯草聖傳  張旭は三杯にして草聖と伝えられ

脱帽露頂王公前  帽を脱ぎて頂を露す王公の前

揮毫落紙如雲煙  毫(ふで)を揮いて紙に落とせば雲煙の如し

 張旭は酒を三杯ひっかけて「草聖」といわれるような草書を書きあげ、王公貴人の前でも平気で帽子をとって頭のてっぺんをむき出しにする無作法っぷり。それでもひとたび毛筆をふるって紙におろせば、雲か煙のように字が湧きおこる。

 ちなみに、今回とりあげなかった焦遂は、酒を五斗飲むとシャキッとして談論風発したそうだ。どいつもこいつもアル中じゃねーか。

 

 ともあれ、そんな当代一流の呑兵衛文人たちこそが「飲中八仙」または「酒八仙人」だったわけで、顔真卿がそのなかのひとり張旭のもとに弟子入りしたとき、筆頭の賀知章はすでに亡くなっていたが、李璡は健在で、大おばの墓誌をつくるにあたって、書丹を任せるに足る人物として、友人のもとに出入りしていた若き顔真卿に目をとめたのではないだろうか。

 羅婉順墓誌の釈文も未公表だし、史料も乏しいので、以上記したことはあくまでも僕の想像である。同墓誌の内容については、続報を待ちたい。

 しかし、顔真卿という人は御史台にいたときに酒の席で粗相のあった者を弾劾するエピソードがあり、個人的には正義感の強いカタブツというイメージなのだが、よく飲中八仙も認めてくれたなあ。

 

顔真卿伝―時事はただ天のみぞ知る

顔真卿伝―時事はただ天のみぞ知る

  • 作者:吉川忠夫
  • 発売日: 2019/01/10
  • メディア: 単行本
 

 

 

*1:以下、顔真卿の経歴については、吉川忠夫『顔真卿伝―時事はただ天のみぞ知る―』(法蔵館、2019)参照。

*2:訓読は下定雅弘・松原朗編『杜甫全詩訳注 一』(講談社学術文庫、2016)参照。

昭和レトロだけでは片付けられないレトロ喫茶「ランプ城」

 室蘭の街外れに「ランプ城」というレトロな喫茶店がある。

 珍スポ界隈ではそれなりに名の通った店らしく、僕はレトロ喫茶も好きなので、前々から気になっていたのだ。函館への小旅行の帰路、室蘭に寄って、件のランプ城を捜してみた。

 Google マップに案内され、たどり着いたのは街外れの、海に面した高台。

f:id:ano_hacienda:20200922122353j:image

 いや、建物がないんですが…。

 右手の取り壊された瓦礫じゃないよね?まだ営業してるよね?

 不安になりながらも、獣道のような細い道が高台の奥へと続いているので、そちらをたどってみる。

f:id:ano_hacienda:20200922123119j:image

 やがて現れる階段。

f:id:ano_hacienda:20200922123227j:image

 登りきったところに、

f:id:ano_hacienda:20200922123444j:image

 あった!ランプ城だ!!

 

f:id:ano_hacienda:20200922123539j:image

 城というより完全に民家だが、営業しているのだろうか?ごめんくださ〜い。

 無人の店内に入って何度か呼ぶと、城主と思しきおばあさんと、その娘さんらしき女性が奥から出てきた。

 ニコニコと愛想の良い娘さんが注文を取りにきてくれ、話好きなのだろう、おばあさんは何くれとなく話しかけてくれる。

 先客がいなかったので落としていた灯りを点けてもらう。

f:id:ano_hacienda:20200922124120j:image

f:id:ano_hacienda:20200922123735j:image

 不思議な形の照明(自作したらしい)をはじめ、調度といい装飾といい、店内は昭和レトロとも違う、独特の古さびた雰囲気。

f:id:ano_hacienda:20200922125524j:image

 窓の外、繁った木々の隙間からは海も見える。

 おばあさんと話していると、「せっかくだから書いていってください」と、アイスコーヒーと一緒に訪問者ノートを渡される。

f:id:ano_hacienda:20200922132944j:image

 大阪、茨城、福岡…。道外からも珍しがって客が来るとは言っていたけど、ほんとうに珍スポ界隈では知る人ぞ知る穴場なのだろう。

「すごい、色んなところからお客さん来てますね〜」

「トリヤマさんも来たことあるんですよ」と、おばあさんが無造作に壁に飾られたノートの切れ端を見せてくれる。

f:id:ano_hacienda:20200922134021j:image

 鳥 山 明 だ!!!(動揺のあまり写真が手ブレしてます)

 え、本物!?というか色紙じゃないの!?悟空雑じゃない?でも即興で描いたらこんなものか…。

「アニメはよくわからないんだけどねえ」と、のほほんとしたおばあさん。

 鳥山明がどこでランプ城を知ったのかわからないが、第三者がここで鳥山明を騙る理由はさらに不明なので、やはり本物なのだろうか…。

f:id:ano_hacienda:20200922140848j:image

 ちなみにアイスコーヒーは苦味と酸味が控えめな飲みやすい味だった。

 

f:id:ano_hacienda:20200922125624j:image

 店内をながめていると、奥に洞窟のようなフロアがあったので気になっていたら、おばあさんが案内してくれた。

f:id:ano_hacienda:20200922125803j:image

f:id:ano_hacienda:20200922125823j:image

 手作り感のある石垣。おばあさんの話では、昔ご主人が中国にいた頃、西湖のほとりの料理屋が同じようなつくりだったらしく、そこに感銘を受けて、中国から人を呼んで同じものをつくらせたとか。戦前戦中の話なのだろうか。室蘭の景気が良かった時代は中央町でスナックを経営していたそうだし、だいぶ羽振りが良かったのだろう。

f:id:ano_hacienda:20200922130239j:image

f:id:ano_hacienda:20200922130254j:image

 東郷青児の絵が無造作に飾られている。

「最近テレビに出るようになったでしょう。東郷さんの絵、本物ですよ」とおばあさん。僕もうんうんと頷いていたけど、東郷青児が亡くなったの、1978年なんですよね…。僕は生まれてすらいない。

 たしかに、ここは俗世と時間の進み方が違うのでは、と思わせる雰囲気が、店にもおばあさんにもあった。

「変なものばかりでしょう」と笑うおばあさんに、「うん、僕こういうの好きなんですよ。もっと見たいなあ」とおねだりすると、石垣フロアの奥の一室に案内してくれた。

f:id:ano_hacienda:20200922131710j:image

 昔は宴会用に貸していたという個室には、中国のものだという水墨画の屏風が。

f:id:ano_hacienda:20200922131901j:image

 桂林の季節の移り変わりを描いたものらしく、落款もあるが、誰のものかは不明。おばあさんもわからないそうだ。

 この屏風も含め、店内の骨董などはご主人が趣味で集めていたものらしく、「変なものを集めるのが好きだったんですよ」と懐かしそうに語るおばあさん。

f:id:ano_hacienda:20200922132434j:image

 こちらは油絵だが、ジャンクと江南の水郷を描いたものだろうか。味のある作品だ。おそらくご主人は江南の風物を愛していたのだろう。話してみたかったな。

 元々は住居にするつもりで建て、この石垣フロアもつくったランプ城だが、人に勧められてこちらを店舗にしたとのこと。ロケーションの良さといい、中国風の石垣など建物自体の面白さといい、全国の珍スポ者から愛されている現在が、その判断の正しさを証明しているだろう。前情報ではレトロ喫茶だとしか聞いていなかったが、個人的には予想外の中国趣味になんだか親近感を抱いてしまった。

 どうかこれからも元気で末長く営業を続けてほしい。

 

日本最北の関帝廟があると聞いて

 行ってきました、函館中華会館に。

f:id:ano_hacienda:20200920113833j:image

 といっても、現在、一般公開はしていないので、中の関帝廟には参拝できない。

f:id:ano_hacienda:20200920114024j:image

f:id:ano_hacienda:20200920114035j:image

f:id:ano_hacienda:20200920114050j:image

 それでも西暦1910年ということは、清朝の宣統2年に建てられたわけで、日本で唯一の清代建築らしい。

 幕末から開港した函館には俵物や昆布の取引のために華僑が移住してきており、彼らの集会所として機能していたとのこと。

 横浜の現在の関帝廟が戦後に再建されたものであることを鑑みると、日本最北かつ最古の関帝廟になるのではないか。

 

 中には入れないので外観だけ。

f:id:ano_hacienda:20200920115337j:image

 赤茶けた煉瓦造りの外壁は、和洋折衷の函館の街並みにもしっくりなじむ。横浜中華街にあるような満艦飾のギラギラした派手さはなく、むしろ質実剛健といった印象。

f:id:ano_hacienda:20200920113849j:image

f:id:ano_hacienda:20200920113914j:image

 いまにも緑に呑み込まれそう。

 

 近くにはイギリス領事館もあるし、函館といえば西洋風の建築というイメージが強いが、ラッキーピエロ創業者の王一郎会長も華僑だし、横浜や神戸、長崎ほどでなくとも「華僑のまち」という側面もある。王会長は陳舜臣と同じ神戸華僑(王会長は福建系、陳舜臣は台湾系だが)なので、函館華僑の末裔ではないのだけど、故郷と似ている函館に惹かれて移住したそうなので、開港地特有の雰囲気は共通しており、そのまちづくりの一端には華僑も関わっていたということなのだろう。

 僕はソグド人のように、日本全国に張り巡らされた華僑ネットワークに乗っかって函館に移住してきたのでは?と妄想したけれど。

 関帝廟は期間限定で公開したこともあるそうなので、次回に期待したい。そのときはまた参拝しに来よう。

f:id:ano_hacienda:20200920121254j:image

 

博浪沙のはなし

 黄河の流域には沙地や沙丘が形成されることが多いという。

 黄河が運ぶ土砂は、氾濫のたびに沖積平原に堆積されていき、乾燥した土砂に強風が吹きつけると、細かい粒子だけが吹き上げられ、沙地や沙丘が形成される。この沙地について、大川裕子氏は、古代中国では「神秘的な霊力の存在を認め」られていたと指摘する。*1 

 春秋時代の会盟地として、丘・山・水辺などの土地が選定されることが多いが、これは会盟を監する神として、山川の鬼神の存在が関係していたためであり、沙地についても同様に会盟地に選択されることや、殷の紂王、趙の武霊王、秦の始皇帝らが崩じた沙丘平台が「権力者たちの滅びの場として語り継がれていた」と思しきこと、沙麓が崩れるという自然現象が災異として記録されたことなどを挙げ、沙地が「非日常的な要素を備えた自然」として認識されていたと論じている。

 

 この大川氏の指摘の当否は門外漢の僕にはわからないが、この視座に立って『史記』を読み返したとき、沙丘のほかにもうひとつ、有名な沙地が登場することに思いあたる。始皇帝暗殺未遂劇の舞台となった博浪沙である。

史記』巻55 留侯世家

 良嘗學禮淮陽、東見倉海君、得力士。為鐵椎重百二十斤。秦皇帝東游、良與客狙擊秦皇帝博浪沙中、誤中副車。秦皇帝大怒、大索天下、求賊甚急、為張良故也。

 

 張良は淮陽へ行って礼を学び、東行して倉海君に会い、大力の士を得た。鉄槌をつくり、その重さは百二十斤あった。秦の皇帝が東方に遊幸した際、良は客とともに博浪沙で秦の皇帝を狙い撃ったが、鉄槌は誤って副車にあたった。秦の皇帝は激怒し、大いに天下に犯人を捜索させ、追及は甚だ急だったが、それは張良のせいであった。

 秦に滅ぼされた韓の宰相の家系であった張良は、刺客を養い、巡幸途中の始皇帝の暗殺をはかる。舞台となった博浪沙は、河南の陽武県の南に位置する。同じく陽武県の南には、始皇帝が開いた鴻溝という運河が流れ、黄河と淮水とを繋いでおり、博浪沙もこの流域に形成された沙地であったのだろう。

 博浪沙という沙地で一命をとりとめた始皇帝だったが、のちに沙丘という、これは黄河の旧河道付近に形成された別の沙地で崩御する。彼の死は沙地とよくよく因縁があるようだ。

 しかし、これだけでは博浪沙ひいては沙地そのものに、当時の人びとが霊威を認識していたのかは判然としない。そこで秦漢代における他の沙地の事例を探してみると、武帝が巡幸しようとしていた万里沙という沙地が確認できる。

史記』巻12 孝武本紀

 是歲旱、於是天子既出毋名、乃禱萬里沙、過祠泰山。

 

 この年は旱魃であった。天子は出遊の名目がないので万里沙に祈ることとして、泰山に立ち寄ってこれを祠った。

 万里沙については、『史記集解』が引く応劭の注によれば「萬里沙、神祠也、在東萊曲城。」とあり、山東半島にある東萊郡曲成県(「城」は「成」の誤り)に存在する「神祠」のようだが、孟康の注によれば「沙徑三百餘里。」とのことなので、実際に沙地が存在したようだ。「三百里」は、広大さを表すレトリックであって実測値ではないのかもしれないが、仮に孟康が生きた魏の度量衡で換算すると、その直径はおよそ130㎞以上になり、東西16㎞ほどの我が鳥取砂丘とは比較にならない広さである。

漢書』巻28上 地理志8上 東萊郡

 曲成、有參山萬里沙祠。

 

 曲成(県)、参山の万里沙祠あり。

 『漢書』地理志によれば、万里沙祠は参山にあったとのことなので、山岳の鬼神を祀ったものとも考えられるが、その名称からすれば、やはり祭祀の対象は沙地の鬼神であったのではないか。渤海湾に臨む参山の麓に広がる広大な砂地。方術が盛んであった斉の人びとは、その大自然に霊威を認識していたのではないだろうか。

漢書』巻25下 郊祀志5下

又祠參山八神於曲城、…(後略)…。

 

また参山の八神を曲城(成)に祠り、…(後略)…。

 なお、のちに漢の宣帝も参山の「八神」を祭祀対象としているが、この「八神」とは、斉の地に伝わっていた天主、地主などの八つの神格で、山東半島北方の渤海湾に面した名山や、天斉、蚩尤などの鬼神を指すようで、始皇帝も東方巡幸の際に祀っている。このうちの第四を「陰主」といい、『史記』封禅書では「三山」としているが、「三」は「参」に通じることから、参山と考えられる。もともと斉のローカルな山川の鬼神が、秦の統一により中央の祭祀対象として回収され、その滅亡後は祭祀体系ごと漢に引き継がれているのである。

 万里沙祠が陰主たる参山を祀った祠なのか、あるいは漢代には参山からその麓に広がる万里沙まで祭祀対象を拡大していたものなのかは不明だが、漢代中期に至っても、沙地に霊威を認識していた人びとの記憶が連綿と受け継がれていたことがわかる。

 

 そうなると、博浪沙故事についても、鬼神の霊威が発揚される場である沙地という舞台設定が、どうにも出来すぎているように思える。同じ始皇帝暗殺の物語である荊軻の故事についても、第三者が知りえない秘密裡の会話や、出発の舞台が易水という鬼神が関与すると認識されていた水辺であったりと、創作的な雰囲気が濃厚である。

 『史記』が文献史料だけでなく、司馬遷が各地で採取した口碑も取り入れた、いわゆるオーラル・ヒストリー的手法に則っていることは周知の事実である。宮崎市定も刺客列伝をはじめいくつかの故事について、民間での語り物に依拠していると推測していたが、僕も留侯世家のうち博浪沙故事については、当時の人びと(特に旧六国地域の人びと)に共有されていた沙地認識を背景とした民間伝承がソースなのではないかと想像している。暗殺に失敗した張良が逃亡先の下邳で黄石公から太公望の兵書を授けられたり、最後は神仙になろうとしていたりと、漢代に流行した神仙思想の影響なのか、留侯世家は博浪沙故事以外の箇所についても神怪な雰囲気が漂っており、虚構性が強い。

 ともあれ『史記』に描かれる数々の物語たちは、沙塵の彼方に隠れるように茫として、容易には実像をつかませてくれないようだ。

 

*1:大川「黄河下流域における沙地利用の歴史的変遷」(鶴間和幸編『黄河下流域の歴史と環境』東方書店、2007

トゥルギッシュのなかのソグド人

 西突厥の一派であるテュルク系遊牧民のトゥルギッシュ(突騎施)は、烏質勒が君長となったときに、その主君であった西突厥可汗の阿史那斛瑟羅の部衆を併呑し、西突厥の覇権を握るほどに勢力を伸張した。神龍2年(706)、その子の娑葛は父の後を襲って唐の羈縻支配下に入り、嗢鹿州都督・左驍衛大将軍を拝命し、懐徳郡王に封じられている。

新唐書』巻215下 突厥伝下 

 是歲、烏質勒死、其子嗢鹿州都督娑葛為左驍衞大將軍、襲封爵。

 

 この歳、烏質勒が没し、その子の嗢鹿州都督の娑葛を左驍衛大将軍とし、封爵を継がせた。

 嗢鹿州は烏質勒から継承した(唐朝に継承を認められた)トゥルギッシュの羈縻州であり、娑葛はその都督として部落を率いていたのである。

 しかし彼らの旧主の突厥がそうであったように、遊牧勢力は単一の部族で構成されるわけではなく、複数の部族の連合体であることが常である。トゥルギッシュも例に漏れず複数の部族が存在していたわけだが、その部族名はおなじ『新唐書突厥伝の前段に記されている。

 賀魯已滅、裂其地為州縣、以處諸部。木昆部為匐延都督府、突騎施索葛莫賀部為嗢鹿都督府、突騎施阿利施部為絜山都督府…(後略)…。

 

 阿史那賀魯はすでに滅び、その支配地を裂いて羈縻州県を設置し、(西突厥の)諸部を安置した。木昆部を匐延都督府とし、トゥルギッシュ(突騎施)の索葛莫賀部を嗢鹿都督府とし、トゥルギッシュの阿利施部を絜山都督府とし、…(後略)…。

 西突厥の阿史那賀魯が滅んだ顕慶2年(657)、唐はその旗下にあった西突厥の諸部族を羈縻州に編成したが、嗢鹿州(都督府)もそのなかに含まれていた。ここから烏質勒たちの部族は「索葛莫賀部」という名であったことが確認されるが、「莫賀」はおそらくテュルク語やモンゴル語で勇者を意味する「バガテュル(莫賀咄)」のことと考えられる。

 それでは「索葛」は何か、という問題になるが、従来、漢籍史料中にあらわれる「索葛」についてはソグドの漢字音転写であると考えられてきており、唐末の代北において沙陀集団を構成した部族のなかには、「薩葛」「索葛」と記されるソグド系突厥部落の存在が指摘されている*1

 そうすると「索葛莫賀」とは「ソグドの勇者」とでもいうべき名称になるが、これはソグド人が東突厥の内部に形成したコロニー「胡部」と同様に、トゥルギッシュ内部にソグド人が形成したコロニーだったのかとも勘繰ってしまう。しかし烏質勒や娑葛は、安や康といったソグド姓を冠して漢籍史料中に登場するわけではないので、やはりテュルク系で、しかしソグドとは関係の深い部族だったのではないか。

旧唐書』巻194下 突厥伝下

 突騎施烏質勒者、西突厥之別種也。初隸在斛瑟羅下、號為莫賀達干。後以斛瑟羅用刑嚴酷、眾皆畏之、尤能撫恤其部落、由是為遠近諸胡所歸附。

 

 トゥルギッシュ(突騎施)の烏質勒は西突厥の別種である。初めは斛瑟羅の旗下にあって、バガ・タルカン(莫賀達干)と号していた。後に斛瑟羅が刑罰を用いること厳酷であったため、部衆は皆これを畏れ、(烏質勒は)もっともその部落をいつくしんでいたため、これより遠近の諸胡が帰服するところとなった。

 烏質勒の恤民政策が「遠近の諸胡」の心をとらえて帰服させたとあるが、唐代において「胡」とはソグドを示す例が多いこと*2に鑑みれば、これらの「諸胡」とは、北庭に進出していた(あるいは西突厥に属していた)ソグド人たちを指すのではないだろうか。

 トゥルギッシュ内部のソグド人の具体例としては、次の記事があげられる。

『冊府元亀』巻975 外臣部 褒異二 開元二十二年条

 乙卯、突騎施遣其大首領何羯逹來朝、授鎭副、賜緋袍銀帯及帛四十疋、留宿衛。

 

(六月)乙卯の日、突騎施がその大首領何羯逹を遣わして來朝したので、鎮副を授け、緋袍と銀帯及び帛四十疋を賜い、宿衛に留めた。

 何姓はクシャーニャ出身のソグド人が中国において冠するソグド姓であり、何羯逹は彼らの得意とする外交に従事していたことがわかる。

 この記事は開元22年(734)のことなので、すでに東突厥のカプガン可汗に娑葛が殺され、その旗下にいた蘇禄が余衆を糾合し西域に覇を唱えていた時期であり、構成部族も烏質勒の代から変化しているおそれはあるが、ともあれトゥルギッシュの内部でソグド人が活動していたことは認められよう。

 このように旗下に多数のソグド人を抱えていたであろう烏質勒の後継ぎの名が「娑葛(Suōgĕ)」というのは、ソグドの漢字音転写と思しき「索葛(Suǒgĕ)」との近似を思うとき、あるいは彼は東突厥における阿史那思摩のように、ソグド人を母に持つ混血の可汗ではなかったかと想像してしまう。

 トゥルギッシュではなく、おなじテュルク系遊牧民の沙陀の話になるが、実子のほかに多数の仮子をもうけたことで知られる李克用は、墓誌中にその子の名と外号(呼び名、あるいはニックネーム)を併記される珍しいケースであった。そこには「存貴(外号は黠戞)」と「存順(外号は索葛)」という、中国風の輩行字を含む名のほかに、キルギスとソグドの音転写と思しき外号を有する子が列記され、それぞれキルギス系とソグド系の仮子である可能性が指摘されている*3。李克用といえば多数の仮子をもうけたイメージが強いので、彼らも仮子であると推定されたのだろうが、キルギスやソグドの母を持つ実子である可能性も捨てきれないだろう。

 民族的なルーツを名にする習慣がテュルク系諸族に存在したのかは不明であるし、索葛莫賀という部族名が「ソグドの勇者」を意味するというのもあくまでも仮説に過ぎない。しかし、索葛莫賀部の娑葛という字面を見ると、僕はどうしてもソグドとのつながりを考えずにはいられないのである。

 

*1:森部豊「河東における沙陀の興起とソグド系突厥」(『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史展開』関西大学出版部、2010)

*2:森安孝夫「唐代における胡と佛教的世界地理」『東洋史研究』66(3)、2007

*3:石見清裕・森部豊「唐末沙陀『李克用墓誌』訳注・考察」『内陸アジア言語の研究』18、2003

靺鞨のなかのソグド人

『冊府元亀』外臣部の以下の記事が、文献上に見えるソグド人が他民族へ進出した最北端の事例ではないかと思ったので、メモを残しておく。

 『冊府元亀』巻975 外臣部 褒異二 開元十五年条

 二月辛亥、鐡利靺鞨米象來朝、授郎將、放還蕃。

 二月辛亥の日、鉄利靺鞨の米象が来朝したので、郎将に任じ、帰国させた。

 開元15年(727)には靺鞨諸族のうち鉄利部の入朝があったが、その使者はマーイムルグ(米国)出身のソグド人が中国において称する米姓の者であった。つまり鉄利に進出していたソグド人が朝貢の使者として唐に派遣されてきたのだろう。

 日本に派遣された渤海の使者に安や史といったソグド姓を冠する者がいたことから、渤海にもソグド人が進出していたことが夙に指摘されているが*1、ソグドネットワークはさらにその北方、現在の黒竜江省からロシア沿海地方にかけて散在していた北部靺鞨諸族にまで延伸していたのだろう。エルンスト・V・シャフクノフが唱える「黒貂の道」論*2については眉唾な部分もあるが、ソグド人が北東アジアに足跡を残していたことだけは、この記事で例証されよう。

*1:福島恵「東アジアの海を渡る唐代のソグド人」(『東部ユーラシアのソグド人』汲古書院、2017)

*2:エルンスト・V・シャフクノフ「北東アジア民族の歴史におけるソグド人の黒貂の道」(『東アジアの古代文化』96、1998)

鳳凰がくる

 今年の大河ドラマ麒麟がくる』がスタートした。タイトルはもちろん孔子の「獲麟」の故事に基づいているのだろう。太平の世に出現する瑞獣麒麟。しかし戦乱絶え間ない時代に、孔子は本来あらわれるはずのない麒麟の亡骸を見つけてしまい、慨嘆する。世を正すことなく没した孔子と、天下を獲ることなく散った光秀を重ねるという、なかなか意味深長なタイトルである。

 孔子のもとには思いもよらず麒麟(の亡骸)がきてしまったのだが、史書にはおなじ瑞獣である鳳凰がきた人物の逸話がある。

 

『清異録』巻上 禽名門 黑鳳凰

 

 禮部郎康凝畏妻甚有聲。妻嘗病、求烏鴉為藥、而積雪未消、難以網捕。妻大怒、欲加捶楚。凝畏懼、涉泥出郊、用粒食引致之、僅獲一枚。同省劉尚賢戯之曰「聖人以鳳凰來儀為瑞、君獲此免禍、可謂黑鳳凰矣。」

 

 礼部郎(中?)の康凝は恐妻家として有名だった。妻が病をわずらったとき、カラスを薬にしたいと求められたが、外は雪がとけのこっており、網で捕らえるのは難しかった。妻は大いに怒り、彼を鞭打とうとした。凝は恐懼し、ぬかるみのなか郊外へまろび出て、穀物の粒でカラスをおびきよせ、ようやく一羽をとらえることができた。同僚の劉尚賢がからかっていった。「聖人は鳳凰が来ると瑞祥としたが、君はカラスをつかまえて災難を免れた。君のとってのカラスはさしずめ『黒鳳凰』といったところだな」

 

 ごめん、鳳凰じゃなくてカラスだったわ。

 しかし「黒鳳凰」ってネーミング、厨二っぽくてカッコいいな。

 康凝と劉尚賢については、管見の限りこの記事以外には名が見えず、彼らの経歴や、いずれの王朝の礼部郎中だったのかも不明である。『清異録』に収録されているからには唐から五代のいずれかの王朝であろう。

 康凝の家庭は完全なる「かかあ天下」で、彼の妻は北方遊牧民的一夫一妻制の名残をのこし、社会における礼教的規範がゆるんだ唐代に多く見られた、「妬婦」「悍妻」などといわれる鬼嫁である。*1

 時代を象徴するかのような夫婦像も然りながら、この逸話で僕が気になったのは、康凝夫妻がカラスを薬喰いしようとしている点である。寡聞にして僕はカラスを使った漢方薬や中華料理というものを知らない。ググれば「カラスの黒焼きは癲癇に効くとされていた」という話は拾えるのだが、たしかなソースは見つからない。むしろカラス肉と聞くと、北関東や信州、東北の一部で食べられていたというカラスつくね「ろうそく焼き」を想起してしまう。

 康凝夫妻がいかなる調理法でカラスを薬喰いしたのかは不明だが、カラス肉は高タンパクで低脂肪、低コレステロール、そしてタウリンと鉄分が豊富という大変ヘルシーでエネルギッシュな肉らしい(むね肉に含まれる鉄分は牛レバーの2倍以上!)*2。貧血気味の女性にはうれしい滋味だったのかもしれない。

 僕も犬やら虫やらを食べた記事を書くくらいなので、いかもの食いが好きなのだが、いつかカラス肉も食べてみたいし、そのときはブログに記事を書きたいと思う。 

ano-hacienda.hatenablog.com

ano-hacienda.hatenablog.com

ano-hacienda.hatenablog.com

 

 さて、康凝夫妻について、もう一点気になったのは、康凝はその姓が示すようにサマルカンドにルーツを持つソグド人(あるいはその後裔)であるということだ。一般的に中国へ移住してきたソグド人はコロニーを形成し、同族間で通婚してアイデンティティーを維持するが、代を重ねるごとに漢人とも通婚し、「漢化」していく傾向を指摘されている。彼の礼部郎(礼部郎中のことか)が実職であれば、祭祀・教学等を管掌していたはずであり、中国へ移住してからある程度代を重ねて「漢化」したソグド人の後裔と考えられるが、彼の妻がおなじソグド系であった可能性も捨てきれない。僕は寡聞にして漢人がカラスを食べるという話を聞かないが、あるいはソグド人のあいだでは「病気になったらカラスを食え!」という習慣があったのかもしれない(妄想です)。

 しかし、どうでもいいけど康凝の嫁さん、旦那が「いや、カラス獲るにはコンディション悪いから…。雪残って地面ぐちゃぐちゃだから…」とか言い訳してたら鞭打とうとしてるし、実はめちゃくちゃ元気なんじゃないですかね。

 

 

*1:「妬婦」については、大澤正昭『唐宋時代の家族・婚姻・女性 婦は強く』「二章 嫉妬する妻たち—―夫婦関係の変容」(明石書店、2005)に詳しい。

*2:塚原直樹『本当に美味しいカラス料理の本』「コラム1 カラス肉の栄養成分」(SPP出版、2017)